誰も私のことを信じてくれなかったけど、それでも私は、誰かを信じていたかった
「きみ、その祠壊しちゃったの?」
そう声をかけてきたのは、およそ王宮には似つかわしくない、ひどく薄汚れた格好の男だった。
「いいえ――――はい」
「え?なにそれ?どっち?」
年齢はよくわからない。
態度も口調も軽薄だが、声は低くしわがれている。
日に焼けた肌は若々しいが、目は老人のように落ちくぼんでいる。
服もぜんぶ薄汚れている。
擦り切れたシャツとズボンに、牛皮のブーツとグローブ。
ベルトには大きなポーチが下げられている。
ポーチは大きく膨らんでいて、中から剪定鋏や誘引紐がはみ出している。
それを見て私はようやく、男が庭師であることに気がついた。
しかし、いかに庭師といえども、こんな夜会の真っ最中に、庭園をうろつくことがあるだろうか。
ましてや、どこからどう見てもその出席者である貴族の令嬢に対して、こんなあけすけない態度で接するだろうか。
怪しい。
私は警戒して、男を睨み付けた。
「どっちなの?」
けれど男は、私の威嚇などまるで意に介さず、飄々とした口調で続けた。
「君が壊したの?これ」
「……」
「え、なに、無視?」
私は男の動きを注視したまま、一歩後退さる。
「まあ、どっちでもいいんだけどさ。本当に君が壊したんだったら、はやくここから離れた方がいいよ?」
「……え?」
「君、もうすぐ死ぬから」
突然の宣告に、私は硬直する。
「それもただ死ぬだけじゃない。周りにいる多くの人間を巻き添えにして死ぬんだ」
私はまた一歩後退さり、視線を男の足元に落とす。
そこには、壊れた祠があった。
小さな祠だ。石の台座の上に、薄いレンガを重ねて作った正方形の箱が置かれているだけの、簡素で、古びた、およそ王宮庭園にふさわしくない代物だった。
箱はちょうど人の頭がひとつおさまるくらいの大きさだったが、もちろん本当に人の頭が納められているわけではなない。
箱の中は空だった。
崩れたレンガの隙間から覗く中身は、暗闇で満たされた空洞だけだった。
「これは、そんなに、大切なものだったのですか」
私は震える声で訊ねた。
「死刑を受けるほど、王家にとって重要なものだったのですか?」
一介の男爵令嬢が、王宮内の建造物を壊したとあれば、処罰は免れようがないだろう。
けれどまさかそれが極刑だとは、思いもよらなかった。
私は狼狽し、みっともなく、我が身を抱き寄せた。
「そんな……だって壊したのは私じゃないのに……」
「ええ?」
男は面倒くさそうに、困ったように笑った。
「どっちなのよ。君が壊したんじゃないの?」
「それは――――」
『どうせ誰も信じないわよ』
頭の中で、声がした。
『あんたのことを信じる人間なんて、この世に一人もいないんだから』
……そうだ。
『なにを言っても無駄よ』
私は諦めるしかないんだ。
私はもう諦めたんだ。
なにもかも、全部。
「――――本当です」
私は認めた。
犯していない罪を。
「動揺して、おかしなことを言いました。すみません。この祠は、たしかに私が、この手で壊しました」
私はついた。
彼女を庇うための嘘を。
「不注意でした。わざとではありません。ですが取り返しのつかないことをしてしまった自覚はあります。私は罪を認めます。どうか兵をお呼びください。どのような罰も、甘んじてお受けします」
死刑になれば、もう嘘をつく必要はない。
傷つくことも、絶望することもない。
なによりもう彼女を庇わなくていい。
そう思うと、心が少し、軽くなった。
***
彼女、イライザ・ゴールデン侯爵令嬢と、私、ケイト・クロックはいわゆる幼馴染だった。
齢は同じで付き合いも長いが、対等な友人関係にあるわけではない。
私は彼女の太鼓持ちだった。
取り巻きの一人で、賑やかしで、彼女の失態をかばい、拭うための雑巾だった。
大げさでも、自虐でもない。
彼女と初めてあったのは五歳のとき、侯爵夫人主催の茶会でのことだった。
緊張していたのか、体調が悪かったのか、彼女はそこで茶を口から吐き戻してしまった。
それに最初に気づいたのは、隣に座っていた私だった。
私と目が合うと、彼女は口を拭い、私を指差して言った。
「吐いた!この子、吐いたわ!私の服に!」
私は呆気に取られて、固まってしまった。
彼女はそれをいいことにわめき立て、泣き出した。
周囲の大人たちはすっかり彼女を信じ込み、固まる私を叱責し、泣きじゃくる彼女をあやした。
たぶんあれで、味をしめたのだと思う。
彼女はそれから、どこかに行くときは、私を伴うようになった。
そして粗相をするたびに、私になすりつけた。
貴重な陶器を割ってしまったとき。希少な書物を破いてしまったとき。魚には毒である餌を池にばらまき、全滅させたとき。
私の母が大切に育てていた花壇の花を、すべて摘んでしまったとき。
彼女は決まって、この子がやったと、私を指差した。
私は否定した。
やってないと、必死に弁明した。
けれど信じてもらえなかった。
現場にいた他のとりまきや侍女たちは、彼女の肩を持った。
彼女の言うことが正しいと、私は嘘をついていると言った。
仕方のないことだったと思う。
なぜなら私は男爵令嬢で、彼女は侯爵令嬢。
おまけに我が家は没落寸前で、侯爵家の援助でどうにか延命している状態にあった。
両親も、私も、侯爵家には頭をあげられなかったのだ。
言いなりになるしかなかったのだ。
幼い私は、なかなか無実の罪を認めることはできなかった。
彼女に粗相をなすりつけられる度、私はやっていないと言い張った。
私を庇ってくれる人はいなかった。
私は誰にも信じてもらえなかった。
私は嘘つきと、へそ曲がりの卑怯者と言われるようになった。
両親でさえ、私を白い目で見た。
どうして黙っていられないんだ。なぜ過ちを認めることができないんだ、と、父は私にため息ばかり吐きかけた。
イライザ様のように正直で心の広い子にならなくちゃね、と、母は私を諭した。
両親でさえ、私ではなく彼女を信じていた。
あるいは、気づいていたのかもしれない。
私が彼女に失態をなすりつけられることは、彼女が嘘をついていることは、承知していたのかもしれない。
けれどそれを認めて娘を庇えば、我が家は侯爵家からの援助を打ち切られてしまう。
生きるために、家を守るために、両親は私を犠牲にしたのかもしれない。
そう考えると、両親を憎むことはできなかった。
やがて私は受け入れた。
家のために、彼女の雑巾になることを。
彼女を庇い続けた結果、私の社交界での評判は地の底に落ちた。
私はそそっかしく、頭の弱い、不出来な令嬢とされた。
最悪の評判といっていい。
貴族の令嬢ともなれば、十六歳ごろから見合いの申し込みが後を絶たなくなるものだが、おかげで私のもとには、十八歳になるまで一度もそんな話はやってこなかった。
焦った両親は、こちらから探すしかないと、方々に手を回した。
そして見つけてきたのが、ダート子爵の三男、サミュエル・ダートだった。
齢は三十で、二度の離婚歴があった。
離婚の原因は、どちらも彼の浮気にあった。
彼は女たらしとして有名で、貴族の令嬢に手を出すことはもちろん、市井に幾人も女を囲っていた。
社交会での評判は私以上に悪く、再婚相手を見つけるのに苦労していたようだった。
そのため、彼は私との結婚を快諾した。
背に腹は代えられない。
我慢しなさい。
貴方が彼に誠実であれば、彼もきっと心を入れ替えてくれるから。
両親はそう言った。
貴方を幸せにします。
決して裏切りません。
サミュエルはそう誓った。
いずれにしても私に拒否権はなかったけれど、私はすこしの希望を抱いた。
この結婚は、それほど悪いものにはならない。
そう信じて、私は彼との婚約を受け入れた。
*
婚約者となった私たちは、王宮主催の夜会に連れ立って参加した。
若い貴族向けの、華やかな舞踏会だった。
婚約が決まった直後だったので、私と彼は挨拶周りに忙しかった。
すでに私たちの婚約は知れ渡っており、参加者たちは驚きもせず祝福の言葉をかけてくれた。
彼らの視線は一様に好奇に光っていた。笑みには嘲りが含まれていた。
悪評を持つ者同士の結婚を、彼らはおもしろがっているようだった。
すれ違いざまの忍び笑いも、陰口も、しかし私は聞き流すことができた。
同じように悪評を受け止めてくれる人が隣にいたからだ。
慣れているのだろう。皮肉をぶつけられようとも、あからさまに見下されようとも、サミュエルはどこ吹く風といったふうで、平然としていた。
私はそれに勇気づけられた。
だから胸を張っていられた。
イライザを前にしても、怖気づくことはなかった。
イライザは一年前に、同じ爵位の男性と結婚していた。
まだ子どもはいないが、夫婦仲は順調なようで、夜会にも夫婦で参加していた。
イライザに会うのは久しぶりのことだった。
彼女が嫁いだ侯爵家と我が男爵家には距離があったので、彼女は近場で別の、新しいとりまきを作って、私の代わりとしていた。
しかしその新しいとりまきは、私のように、身代わりの雑巾として扱われることはなかった。
彼女の夫は裁判官を務める、真面目な人物で、不正や虚偽をひどく嫌う性質だった。
イライザは夫に合わせ、貞淑で厳格な妻を演じなければならなかった。
自らの失態をとりまきに押し付けることができなくなっていたのだ。
そのストレスからか、久々に会った彼女は肌つやが悪く、太ってしまっていた。
私たちは簡単な挨拶を交わし、儀礼的に、それぞれパートナーを交換して一曲踊った。
踊っている最中、イライザとサミュエルがなにか囁きあっているのが目についた。
嫌な予感がした。
それは的中し、ダンスが終わって二人と別れた後、サミュエルは落ち着かない様子で時計ばかり見るようになった。
どうしたの、と私が訊ねても、ああ、と心無い返事をするばかりだった。
しばらくすると、サミュエルはすこし休憩しようといって私を会場の隅に連れて行った。
そして飲み物をとってくるからと言い、私を残してどこかに行ってしまった。
彼はなかなか戻ってこなかった。
私は壁の花として、ぼんやりと夜会を眺めながら、彼を待った。
途中、人混みの隙間から、イライザの夫の姿を見かけた。
彼は一人で、誰かを探しているようだった。
私は声をかけるべきか悩んだが、結局やめた。
私はただ待っていた。
きっとなにもないはず、と祈りながら。
一時間ほどして、サミュエルは戻ってきた。
私は彼になにも聞かなかった。
まるで彼と別れたのがほんの数分前であるかのように、微笑みかけた。
けれど彼は顔を真っ青にして、私に謝罪した。
本当に申し訳ない、と。
それから私を会場の外、王宮の庭園へと連れ出した。
庭園はライトアップされていたが、人気はほとんどなかった。
サミュエルは早足で、私とは決して視線を合わせずに、庭園の奥へと進んでいった。
私は黙ってついて言った。
彼がイライザとなんらかの関係を持ったことは、察しがついていた。
けれど私はそれを咎めなかった。
夜会の最中、一時間も待ちぼうけさせられたことについてさえ、言及しなかった。
彼の女癖の悪さは知っていた。
それに、イライザの火遊び好きについても。
まさか夜会の最中に、それも王宮内で逢引きするとは思わなかったけれど、この二人なら十分考えられることだと思った。
だから、自分でも驚くほど傷つかなかった。
思えば私は、これまでイライザの失態を数多く被ってきた。彼女の火遊びが噂になると、それはすぐ私がやったことに訂正された。
それだけでなく、彼女にはさまざまなものを奪われてきた。
うまくできた刺繍や、カリグラフィー、珍しい工芸品、運よく手に入れた人気の芝居のチケット。
彼女が欲しいと言えば、私は泣く泣く、それらを手離すしかなかった。
今回も、同じことだ。
物が人に代わっただけ。
それに、今回は奪われたわけじゃない。
不貞はあっても、彼が私の婚約者でなくなるわけではない。
私はなにも失っていない。
そう考えると、すこしだけ気が楽になった。
惨めさも、悔しさも、怒りも、ちゃんとある。あるけど、私は私の心を麻痺させているから、それらに振り回されることはない。
だから私は、サミュエルを哀れんだ。
私は平気なのに、と。
なんとも思っていないのに、と。
私はサミュエルの謝罪と青ざめた顔は、イライザとの不貞を後悔しているためだと思いこんでいた。
けれど実際は違った。
彼の謝罪には、別の意味が含まれていた。
庭園は夜会の参加者のために解放されていた。
灯りが置かれている範囲であれば、自由に散策することが許されていた。
けれどサミュエルが私を連れてきたのは、明かりの置かれていない、庭園の外れだった。
今夜が明るい満月出なければ、そこに祠があることにも気づくことはできなかっただろう。
「これは……?」
私は目の前に現れた、半壊した祠を見て、息を飲んだ。
祠は古びていたが、よく手入れされていた。
周囲の芝生はきれいに刈り込まれ、レンガの継ぎ目から石の台座にいたるまで、苔のひとつ生えていない。
一目で、それが壊されたばかりであることがわかった。
無理に揺さぶったのか、継ぎ目が割れ、レンガがずれていた。
ずれたレンガはそのまま落下し、四方に散乱している。原形を留めているものもあるが、粉々に砕けてしまっているものがほとんどだった。
私は祠に空いた穴をじっと見つめた。
中にはなにもないようだった。
深い暗闇があるだけに見えた。
「まさか、貴方が壊したんですか?」
サミュエルは俯いて首を振った。
「私ではない」
「では、誰が……?」
サミュエルは俯いたまま、私を指差した。
「君だ」
「……え?」
「これは君が壊したんだ」
頭が真っ白になった。
彼がなにを言ってるのか、すぐには飲み込むことができなかった。
「私、やっていませんよ……?」
「いいや、これは君がやったんだ」
「ち、ちがいます。だって私、いまここにきたばかりで――――」
「相変わらず頭が悪いわねえ」
ふいに、背後から声をかけられた。
「ようやく見つけた婚約者なんだから、その罪を庇うくらいのことはしたらどうなの?」
私は凍りついた。
現れたのは、イライザだった。
彼女はにやにやと笑いながら、私の肩に手を置いた。
「わざと壊したわけじゃないのよ。ちょっと体重をかけただけなのよ。王宮の庭園にこんな脆いものが置かれてるなんて、ふつう思わないじゃない?」
ひどい耳鳴りがした。
立ち尽くしているだけなのに、息があがった。
「さっき会ったからわかるでしょ?私の夫、ひどい堅物なのよ。王宮のものを壊したなんて知れたら、私きっとひどく折檻されてしまうわ」
異常をきたす身体に反して、頭はみるみる冷えていった。
「悪気がなかったって言っても無駄なの。本当のことなのに」
そこでようやく理解が追いついた。
これはいつものあれなのだ、と。
「私、かわいそうでしょ?だからこれ、貴方のせいにするわね」
私は一縷の望みを持って、サミュエルに視線を送った。
けれど彼は、怯えたように私から顔を背けるだけだった。
「彼は私の旦那と違って優しいから、貴方を折檻したりしないわ」
ねえそうでしょ、とイライザが言うと、サミュエルは頷いた。
「あ、ああ。例え君が不注意で王家の所有物を壊したとしても、私は、君を責めたりしないよ。決して……」
ひどい茶番だ、と思った。
責める気も、抵抗する気も、もはや起きなかった。
「よかったわね、ケイト!」
イライザは私の肩をつかみ、激しく前後に揺さぶった。
「心配いらないわ。見るからに古ぼけた祠だもの。きった大して重要なものではないはずよ」
イライザは私の肩ごしに、サミュエルを見た。
「サミュエル、貴方、先に戻っていいわよ。あとは私とケイトでなんとかしておくから」
「そ、そうか」
サミュエルはそそくさと会場に戻って行った。
「安心して。貴方一人に背負わせたりしないから」
イライザは私の肩から手を離すと、落ちたレンガの一片を踏みつぶした。
「言い訳を考えてあげたの。優しいでしょ?私」
とびきり甘い声で、しなを作って、イライザは言った。
「あんたは嫉妬でこれをやったのよ」
「……嫉妬?」
「そうよ。筋書きはこう――――私のことが気に入ったサミュエルは、私をここに連れ出して、無理やり手籠めにしようとした。私が悲鳴をあげると、サミュエルを探していたあんたがそれを聞きつけてここにやってくる。婚約者の裏切りを目撃して、あんたは怒り狂う。そしてたまたま手近にあったこの祠にあたってしまった――――」
どう?と、イライザは自慢げに言った。
「これなら情状酌量の余地があるはずよ。だってあんたは、婚約者に裏切られたかわいそうな女になるんだもの。嫉妬で我を失った故の過失なら、かわいげもあるし、あんたの評判はむしろ上がるかもしれないわ」
私はなにも言わなかった。
イライザは乱れた髪とドレスを軽く整えてから、にっこりと、私に笑顔を向けた。
「それじゃあ、いま人を呼んでくるから。ちゃんとここで待っていなさいよ」
耳鳴りは収まっていた。
呼吸も落ち着いていた。
身体は死んだように冷たくなっていた。
「逃げたら余計に罪が重くなるだけだからね。それと、ちゃんと私が言った通りの自白をしなさいよ?そしたら私もあんたの肩を持ってあげるから。まあそもそもあんたが否定したところで、みんな私を信じるに決まってるんだけど」
今まで何度も言われてきたことだった。
「どうせ誰も信じないわよ。あんたのことを信じる人間なんて、この世に一人もいないんだから」
でも、何度言われても、慣れることはなかった。
「なにを言っても無駄よ。だから大人しく罪を認めなさいね」
私はなにも言わなかった。
それが私にできる最大限の抵抗だった。
あるいは、屈服だった。
どちらでも同じことだった。
私は彼女の命令に背かなかった。
祠を壊した犯人として、その場で捕らえられるのを待っていた。
「うわっ」
そこで、あの怪しげな庭師に出会ったのだ。
「きみ、その祠壊しちゃったの?」
***
「なんか勘違いしてるみたいだけど、これを壊したからって別に、死刑にはならないと思うよ」
庭師はへらへらとして、私の杞憂を退けた。
「むしろ感謝されるんじゃない?王家の連中は、ずっとこれを疎ましく思っていたから」
「疎ましく……?」
「これは呪いを閉じ込めた祠だったんだよ。君は死刑になって死ぬんじゃない。呪われて死ぬんだ」
まるで明日の天気の話でもするかのような軽い調子で、庭師は語った。
「ほら先々代の王って、継承順位の高かった兄とその子どもを謀殺してその地位についたじゃない?兄の妻とか宰相とか、兄派の人間はことごとく粛清した暴君じゃない?相当恨みを買ってたわけだけど、そんなのいちいち受け止めてられないから、ここに祠を立てて恨み憎しみを閉じ込めたんだ。以来これは不可侵の祠、呪いの祠としてここにあり続けている。開けば最後、先々代国王が閉じ込めたすべての恨みを引き受けることになる、呪いの祠としてね」
庭師は笑っていた。
試すような眼差しを投げかけられ、私は、彼を疑った。
嘘かもしれない。
私をからかっているだけかもしれない、と。
「呪われると、死ぬのですか?」
「まず間違いなくね。それも病気みたいに広がって、近くにいた人間をたくさん巻き込むことになるだろうね」
だから早くここを離れた方がいい、と彼は繰り返した。
「修道院かなにかに入るのがいいよ。ああいうところで真面目に修道を歩んでいる人間にこの呪いはきかないから。直接呪いを受けた君は確実に死ぬけど、少なくとも誰かを巻き添えにすることはないはずだろう」
「どうして貴方は、そんなことを知っているんですか?」
「僕の家は代々王宮庭園の管理を任されているんだ。だからこの祠についても詳しいんだよ」
「そうですか……」
彼の口調は軽く、話の内容はすべて荒唐無稽だった
到底信じられるものではなかった。
「信じられない?」
そんな私の心中を察したように、彼は言った。
「まあ、いいけどさ。信じてもらえるとは最初から思ってないし。ただ君が少し気の毒に思えたから、つい――――」
「信じます」
考えるより先に、口が動いた。
「貴方の言うことを、私は信じます」
彼は目を見開いた。
ぐらりと揺れた瞳に背を向け、私は言った。
「ご忠告、感謝します。このご恩は、いつか必ずお返しします」
私は駆けだした。
ドレスをたくしあげ、踵の高い靴を脱ぎ捨て、きつく編んだ髪型が崩れるのも気にせず、一目散に会場へ向かった。
会場では、イライザを中心に人だかりができていた。
彼女は涙ながらに訴えている最中だった。
「――――あの人があまりにもしつこく誘うので、はっきり断ろうと思って庭園に出たんです。そしたら、勘違いしたケイトが追いかけてきて、私を殴りつけようとして、それで、祠を壊したんです」
涙を流し語る姿は真に迫っていて、誰もが彼女に同情を示していた。
そんな中に私が駆けこんできたものだから、会場は静まり返った。
人が波のように引き、私とイライザの間に道を作る。
サミュエルの姿はどこにもない。
イライザの傍には、彼女の夫が、献身的に付き添っている。
「ケイト……!」
イライザは驚愕に見開いた目を、すぐに怒りで歪めた。
待っていろと言ったじゃない。
彼女が心中でそう毒づいていることは、間違いなかったが、私は構わずに彼女の手を
とった。
「イライザ様、一緒にきてください」
私は彼女にだけ聞こえるよう、声をひそめた。
「親切な庭師が教えてくれました。あれは呪いの祠です。祠を壊したものは呪われて、死んでしまうそうなのです」
「の、呪い……!?」
「一緒に彼のもとに行きましょう。彼は訳知りのようでしたから、呪いを解く方法も知っているかもしれません」
時は一刻を争う。
見たところまだイライザにはなんの異常もないようだったが、こうしている間にも呪いは彼女の身を蝕んでいるかもしれない。
それどころか周囲の人びとへの感染もすでに始まっているかもしれない。
「ケイト、貴方――――」
イライザは震える声を出した。
彼女と一緒にいれば、私にも呪いは降りかかるだろう。
けれどここで大勢の人を巻き込むよりずっとましだ。
呪いがとけなかったとしても、最悪死ぬのは私と彼女だけで済む。
「どういうつもり?」
しかしイライザは、苛立ちに顔を歪め、私の手を振り払った。
「本当につかえないわね。せっかくこっちが一芝居打ってやったっていうのに、台無しじゃない」
イライザは小声で舌打ちをすると、また泣き顔に戻って叫んだ。
「ごめんなさい、ケイト。私、貴方を傷つけるつもりなんてなかったの」
「イライザ様……」
「みなさん、どうかケイトを許してやってください。彼女は別に悪気があってやったわけではないんです」
「イライザ様!」
私はイライザの肩をつかみ、前後に激しく揺さぶる。
「時は一刻を争います!どうか私と一緒に――――」
「いたいっ!!」
イライザは私の話に耳を傾けようとしない。
「やめて!離して!」
イライザは乱暴に私を突き飛ばし、駆け寄ってきた夫に縋りつく。
「ひどいわ、ケイト。私はなにもしていないのに……!」
彼女はまるで私に取りあわず、周囲に自分が被害者であることを印象付けることに必死だった。
泣きじゃくる彼女に、周囲はすっかり絆されてしまっていた。
私は彼女の夫に、親の仇であるかのように睨みつけられた。
人垣が私に送る視線は、侮蔑と嘲笑、そして嫌悪が入り混じったものだけだ。
夫の腕の中でなく彼女と、だらしなく乱れた格好で膝をつく私。
まるで芝居の一幕だった。
私は成敗される悪役で、彼女は悲劇のヒロインだった。
「――――なんの騒ぎだ」
人垣をかき分けて、衛兵を伴った国王が現れた。
イライザは勝ち誇ったように目を輝かせ、深く頭を垂れた。
彼女に代わって、彼女の夫が陛下に状況を説明した。
はじめ陛下は下位貴族の痴情のもつれかと、白けた表情を浮かべていたが、祠が壊されたと聞くと、目の色を変えた。
「本当に、お前が壊したのか?」
「それは――――」
わたしは躊躇った。
反応を見るに、陛下も呪いのことは承知しているのだろう。
ここで私が本当のことを言えば、イライザには厳罰が下されるだろう。
呪いを振りまく存在として、この場で粛清されてしまうかもしれない。
けれど言わなければ、殺されるのは私だ。
そして呪いはふりまかれ、イライザを含め多くの人びとに不幸が降りかかるだろう。
「どうした、答えぬか!」
王は腰の長剣を引き抜き、私の首もとにつきつけた。
その瞳はひどく怯え切っていた。
人垣の中から悲鳴が上がる。
「へ、陛下!落ち着いてください!」
宰相と思しき男が、慌てて国王を引き留める。
「このような場で……いけません。最下級とはいえ貴族の娘を公衆の面前で手にかけたとあっては、非難を免れませんよ」
陛下は即位したばかりで、その地位は盤石とは言い難かった。
継承争いに敗れた親族や有力貴族に、国王の座を常に狙われていた。
よりにもよって自身が主催する夜会で、失態を演じるおつもりかと、宰相は陛下を窘めた。
「だが、こやつ、祠を――――」
「あんな迷信がなんだというのです!」
宰相は声をひそめた。
「呪いなどありはしません。あんな祠、先々代の遺言がなければとうに打ち壊していました。
ありもしないものを怖れて凶行に走るなど、末代までの笑い者になりたいんですか?」
年かさの宰相に言い含められ、陛下は剣を下ろした。
「……怖れてなどおらぬ」
陛下はまだ怯えの残る瞳で、私を睨み付ける。
「だがここにあるものは全て我のものだ。貴様らの主君の持ち物だ。それをつまらん痴情のもつれで壊したとあっては、相応の罰を受けて然るべきだろう」
して娘、と陛下は私を睥睨した。
「貴様、本当に祠を壊したのか?」
「……いいえ」
こうなっては仕方ない。
被害を最小限に抑えるため。そしてなにより、私自身の命を守るために、私は真実を明かす。
「祠を壊したのは、彼女です」
驚愕するイライザを、私はまっすぐに指差した。
「祠を壊したのは、イライザ様です」
「嘘よ!」
間髪入れずに、イライザは否定する。
「この期に及んで、どうしてそんな嘘をつくの!?」
「嘘じゃありません」
無駄なことはわかってた。
それでも私は、最後の機会を、彼女に与えた。
「イライザ様、どうか信じてください。貴方は祠を壊し、そして呪われました。このままでは貴方自身の命だけでなく、周囲にいる人たちまで巻き込んでしまいます」
「いい加減にしなさいよ!」
けれど、やはり、彼女は私を信じなかった。
「呪いなんてあるわけないじゃない!そんな見え透いた嘘で、私を脅そうっていうの!?」
彼女は王の御前であることも忘れ、私をなじった。
私は応じなかった。
最後の機会を、彼女は自ら捨てたのだ。
私はそれ以上彼女の身を案じることをやめ、陛下に向き直った。
「どうか彼女を、どこか遠くの修道院へ幽閉してください」
陛下はしかし、イライザではなく、私に剣を向けた。
一度降ろされた切っ先が、再び私の眼前に突きつけられる。
「貴様、なぜ、呪いのことを知っている」
「親切な庭師に教えてもらいました。イライザ様は私に祠を壊した罪をなすりつけようとされましたが、下手にかばえばより大きな不幸を呼ぶだけだ、と」
「庭師――――ああ、あの不気味な男か」
陛下は宰相に一瞥をくれた。
「こやつはたしか、クロック男爵家の一人娘だったな?」
「はい。――――非常に評判の悪い娘です。品位がなく、無礼が多く、おまけに虚言癖まであるとか。社交界の鼻つまみ者です」
「おっしゃる通りです!」
イライザはここぞとばかりに声をあげた。
「私は彼女と長い付き合いになりますが、見栄っ張りで、嘘つきで、平気で人を裏切ることができる冷酷な人間なんです。ねえ?みなさんもよくご存じでしょう?彼女がどんな人間なのか!」
イライザは人垣に声をかける。
すっかり観衆と化していた人びとは、口々に所見を述べる。
言っていることはばらばらだったが、結論は同じだった。
ケイト・クロックは無礼で無作法で見栄っ張りな人間である。
祠を壊したのはケイト・クロックに違いない。
それが、答えだった。
私を信じてくれる人はどこにもいなかった。
「陛下、皆さま、神に誓って、私は祠を壊していません」
私は最後に嘆願する。
「どうか賢明なご判断を」
陛下は私の首元に剣を這わせた。
不思議と、恐怖はなかった。
怒りも絶望もなかった。
凪いだ私の心には、ただ諦観だけがあった。
「ケイト・クロック。修道院へ入るのは貴様だ」
王は剣を振った。
腰まであった長い髪が、うなじから切り落とされた。
その瞬間、私は不思議なくらい身軽になった。
呪われたイライザを残して行く罪悪感も、髪と共に抜け落ちた。
このあとこの人たちになにがあろうとも、私には関係が無い。
私を信じなかった、この人たちが悪いんだから。
***
「うわっ、それ、きみが作ったの?」
夜会から一年が経ったある日のこと。
修道院の裏口で昼食をとっていた私の前に、彼は現れた。
「いいえ」
私は齧っていた黒焦げのパンを、慌てて飲み込んだ。
見た目だけでなく、味も最低なパンだった。
パンというよりは、炭の塊だった。
「……嘘です」
パンをどうにか茶で流し込み、私は訂正した。
「本当は、私が作りました」
悔しいが、つまらない嘘をついてもしょうがないという思いが勝った。
修道女になって一年が経つが、料理だけは、いつまでも上達しなかった。
大抵の家事には馴染んだが、なぜか料理だけは身につかなかった。
パンを焼けば炭になり、スープを作れば異臭が漂った。
なにを作っても、不味くなった。
まるで呪われているかのように。
「安心しなよ。君のはただの料理音痴だから」
しかしそんな私の言い訳を、彼は軽く一蹴した。
「本当の呪いはそんなもんじゃないさ」
彼はにやにやと、一年前と何ら変わらない軽薄な態度で言った。
「久しぶりだけど、僕のこと、覚えてる?」
「忘れるわけがありません。あなたは私の命の恩人ですから」
庭師さん、と私が呼びかけると、彼は照れくさそうに頭を搔いた。
「僕はなにもしてないよ。それともう庭師でもないから、ただグレッグと呼んでくれ」
「庭師を辞めたのですか?」
驚く私に、そりゃね、とグレッグは肩をすくめてみせた。
「僕みたいなやつが王宮務めをしていられたのは、あの祠があったからだもの」
先々代の国王のもとに集まった恨みと憎しみ、呪いのもとを、あの祠へと封じたのは自分の曾祖父だったと、グレッグは語った。
以来、祠の見張り番としての役目も兼ねて、グレッグの家は宮廷庭師を務めてきたのだ。
けれどその祠が破壊され、中に封じられていた呪いも移ったため、グレッグはお役御免となった。
ずいぶん一方的な話だ。
彼自身に過失があるわけではないのに、三代に渡って仕えてきたというのに、薄情が過ぎるのではないだろうか。
私がそう苦言を漏らすと、まあ仕方ない、と彼は私に言った。
「陛下の気性は君だって知っているだろう?その身をもって」
グレッグは肩にかかる私の髪を、軽くつまみあげた。
一年たっていくらか伸びたが、私の髪はまだ修道女でしかありえない長さだった。
この国の女性は貴族であろうとも平民であろうとも長髪が基本で、腰より髪を短くするのは修道女だけだった。
その慣例から、罰として断髪を受けるということは、修道女になるということを意味する。
修道院送りは女性にとって死刑に次ぐ重い罰だった。
一度修道院に入れば、よほどの理由が無い限り、俗世に戻ることはできない。
生涯を祈りと社会奉仕に費やさなければならないのだ。
貧しく、窮屈な生活だ。
没落寸前であったとはいえ、仮にも男爵家であった実家の暮らしとは、雲泥の差だった。
それでも私は、冤罪を受け入れたことを、後悔してはいなかった。
王宮であれだけの騒ぎを起こしたあとでは、例え奇跡的に冤罪を晴らすことができたとしても、もう貴族社会で真っ当に生きていくことはできなかっただろう。
私が国王と対峙している間にとっくに夜会を抜け出していたサミュエルからは、翌日書面で婚約破棄を告げられた。
両親は自分たちまで罰を受けてはかなわないと、横領を働いた使用人を解雇するかのような冷徹さで、私を家から追い出した。
これには私も腹を立てた。
けれどすぐにどうでもよくなった。
せいせいして、晴れやかな気分にさえなった。
どうしてこんな人たちのために我慢を続けていたのだろうと、つい昨日まで自分をまるで別人のように感じた。
いずれにしても、私は修道女になるしか道がなかったわけだけれど、命じられたのではなく、自分で選んだ結果だと、誇らしい思いさえあった。
それに、修道院に入れば、彼女が撒き散らす呪いの被害を受けずに済むと思うと、安心することもできた。
彼女、イライザのその後は、風の噂で聞いていた。
なんでも、ひどく体調を崩し、屋敷にこもりがちになったそうな。
彼女だけでなく、その周りでも体調を崩すものが続出し、流行り病が疑われていると。
私がそれを聞いたのは数か月前のことだったので、近況は知る由もなかった。
なにしろ修道院は俗世と隔絶している。
修道士たちはみな無口で、外の世界の噂話にうつつを抜かすことはない。訪れてくる参拝客たちも、あえてこんなところで都のゴシップを口にすることはない。
私個人を訊ねて来る客もいない。
知人はおろか、両親さえも、修道女となった私にわざわざ会いにきたりはしなかった。
つい先日ようやくひとつの書簡が送られてきたが、それまで便りのひとつもよこさなかった。
その書簡にも、イライザの現状が正確に記されているわけではなかったが、なんとなく察することはできていた。
おそらく、彼女はもう長くはないのだろう。
「いやあ、それにしてもしぶとい女だったね」
しかし、私の予想は外れていた。
グレッグの明かした事実は、私の想像をはるかに超えたものだった。
「さっさと死ねば、周りへの影響も最小限ですんだのにさ。なまじ呪いとの相性がよかったためか、ずるずると生き延びて、呪いを振りまき続けて……一周まわって感服したよ。意地汚いとはまさにああいう人間のためにある言葉だね」
*
夜会からしばらくは、何事もなかったらしい。
けれど呪いは徐々に彼女を蝕んでいった。
最初は悪夢からはじまった。
彼女は夢の中で毎晩誰かに殺された。
戦場で胸を突かれることもあれば、毒殺されることも、ギロチンに首を落とされることもあった。
悪夢は次第に現実を侵食していった。
寝台の下や、衣装棚の暗がり、カーテンの隙間から、彼女を見張る目が現れた。
とても人が入れるとは思えない隙間であっても、そこが暗がりで、かつ細ければ、目は必ず現れた。
ふとした拍子に足や手をつかまれるようになった。
茶会で談笑しているとき、急に足首をつかまれた。慌てて机の下をのぞいたが、そこには当然誰もいなかった。ただ足首には黒ずんだ手形がくっきりと残されていた。
着替えている途中、誰もいない背後から首をつかまれた。振り返ったらやはり誰もおらず、首には黒い手形が残されていた。
彼女が近づくと、犬は激しく吠えたて、馬はひどく怯え騎手を振り落すほどの勢いで逃げ出した。
笑い声とも泣き声ともつかないさざめきが、耳から離れなくなった。
スープを口にすると、中から干乾びた人の指のようなものがでてきた。
後ろに従えていた侍女をふと振り返ったら、二人だけだったはずなのに十数人に増えていて、その増えていた者たちには頭がなかった。イライザが悲鳴をあげると頭のあった二人の侍女は白目を剥いて倒れ、十数人の頭のない侍女は両手を高くあげて叫んだ。
「首―!」
「首―!」
「首―!」
イライザは恐怖のあまり失神した。
悲鳴を聞いた使用人が駆けつけると、そこにもう首のない侍女の姿はなかった。
ただ人を焼いたあとのような強烈な悪臭と、なにかよくわからない腐敗した生き物の頭部のようなものが散乱していた。
はじめそれらが見えていたのは彼女だけだった。
けれどそれは次第に、彼女の傍にいた人間にも見えるようになっていった。
彼女の傍で、彼女と共にその呪いを一度でも見ると、彼女がいない場所でもその人は呪いを見るようになってしまうのだ。
彼女は呪いを必死に隠そうとしていた。
これは幻覚だと自分に言い聞かせ、鎮静剤と酒で誤魔化し、さまざまな社交の場に足を運び続けた。
結果、多くの貴人が呪いに感染してしまった。
イライザの侍女は耐えきれず多くが屋敷を出て行ってしまった。とりまきの令嬢たちは全員が伏せってしまい、ほとんど発狂状態に陥った者さえあった。懇意にしていた貴婦人たちも次々に屋敷に閉じこもるようになった。
彼女の夫や家族は、ほとんど廃人のようになってしまった。
聡明だった侯爵は、自身の耳と目を引き裂いたシャツで塞ぎ、食堂の火のついていない暖炉の中から出なくなってしまった。
その他の家族も、自室の内側から鍵をかけ、強引に板張りし、少しの光も入らない暗闇をつくって閉じこもってしまった。
それでもイライザは社交を続けた。
すべてを隠して、夫は体調を崩しているだけだと言い張って、旅商人が持ち込んだ地方の伝染病が流行っているのだと嘘をついて、茶会や舞踏会に通い続けた。
痩せ細り、ほとんど骨と皮になっただけの身体で。
抜け落ちてすっかり薄くなった頭髪を帽子で誤魔化して、抜け落ちてすき間だらけになった歯を扇子で隠して、異様に飛び出た目玉を不気味にぎらつかせながら、彼女は呪いを振りまき続けた。
呪いがまさかここまでの効力をもっていようとは、思いもよらなかったのだろう。
彼女の言を真に受け、国王ははじめ伝染病の原因を突きとめるよう家臣たちに命を出した。
しかし医者では貴人たちの異常に説明をつけることができなかった。
まるで呪われているようだ。
ある一人の医者がそう漏らしたことで、ようやく国王は気がついた。
私の言ったことが正しかったということに。
祠を壊し、呪われたのは、イライザであったのだということに。
国王は慌ててイライザを捕えるよう命じた。
侯爵家に兵が差し向けられたが、イライザはからくも逃げ出し、クロック男爵家へと向かった。
彼女はこの期に及んで私に罪を着せようとしたのだ。
「いるんでしょ!ケイト!今すぐ出てきなさい!」
庭先で、彼女は子どものような癇癪を起したらしい。
呪いに深くその身を蝕まれた、老婆のように衰えた姿で、喚き散らしたという。
「全部あんたのせいよ!呪われているのはあんたでしょ!もう一度そう証言しなさいよ!そうすればみんな私の無実を信じてくれるはずなんだから!」
男爵家は固く扉を閉ざし、イライザを屋敷の中には入れなかった。
そのときにはすでに、王宮から知らせが届いていたのだ。
巷に広がる伝染病の元凶がイライザであり、なんびとたりとも、彼女に近づいてはならない、と。
呪い、と言ったところで真に受けられないだろうと思った国王は、イライザがついた伝染病という嘘を、そのまま借用したのだ。
幸いにも、両親はまだ呪いに罹っていなかった。
私が出家してからというもの、両親はほとんど社交の場に足を運ぶことがなくなっていたので、二人は呪いを免れていたのだ。
「ケイト!ケイト!?いないの!?はやく出てこないとどうなるかわかっているでしょうね!?……ちょっと誰か……誰でもいいからでてきなさいよ!ほ、本当にケイトがいないのなら、今すぐ居場所を教えなさいよ!!」
未知の病に怯える二人は、決してイライザに応じなかった。
ほとんど錯乱したイライザの頭からは、私が修道院に入ったことなど、すっかり抜け落ちてしまっていたらしい。
「嘘つき!」
イライザは薄くなった髪をかきむしった。
「ケイト、あ、あ、あ、あんた、いいって言ったじゃない!祠を壊したの、自分のせいにしていいって言ったじゃない!嘘つき!嘘つき!引き受けたんなら、ちゃんと罰を受けなさいよ!の、の、呪いだって、嘘でもあんたが祠を壊したことを認めたんだから、あんたが引き受けるべきじゃない!!」
イライザの頭から、ボロボロと髪が抜け落ちていく。
気付けばイライザは、兵に囲まれていた。
「し、し、信じてよ。私じゃないのよ。私はなにもしていないのよ」
口から、鼻から、目から、黒い血が流れ落ちる。
兵の一人が剣を抜き、イライザの首に這わせる。
「なにか言い残すことはあるか?」
兵が問うと、イライザは首を傾けた。
人間にはありえない角度だった。
九十度以上首を傾け、イライザは口を大きく開いた。
歯がぼろぼろと抜け落ちた。
まるく開かれた口の中には、舌が無かった。
「あいつが壊したのよ。あいつがやったのよ。あいつは嘘つきなのよ」
口を一切動かさずに、イライザは言った。
「首―!」
「首―!」
「首―!」
目から眼球がこぼれ落ちる。
兵はたまらず剣を振るった。
ぼとっ
イライザの首は落とされた。
地に落ちた首は、転がることもなく、地面に落ちて潰れた。
まるで熟しすぎた果実のように、とっくに腐乱していたかのように、その頭は柔らかく地面に沈みこんだ。
「首―!」
頭のなくなった彼女は立ち上がり、両手をあげた。
そしてそのまま駆け出した。
兵たちは悲鳴をあげ、散り散りになって逃げた。
イライザの身体は潰れた頭部を残し、どこかへと消えてしまった。
国王は戦慄し、国中の兵を総動員して、消えた身体の捜索にあたらせようとした。
けれど宰相や家臣たちは反対した。
彼らとて呪いは恐れていたが、国王のように当事者であるわけではない。
彼らは呪いよりも、この機会に乗じて周辺諸国から攻め込まれることや、王位簒奪を狙う対抗派閥に反乱を起こされることのほうがよほど恐ろしかったのだ。
「国境の警備隊だけは動かすことは出来ません」
「宮殿内の衛兵もです。そもそも、もしそんなことをして、兵の大半が病に罹り、動けなくなったらどうするおつもりですか」
「落ち着いてください、陛下。そもそも首のない人間が動けるわけないでしょう。きっと兵たちは幻覚を見たのです。小心者たちの戯言など、信じてどうするのですか」
腹心たちの必死の説得を受けても、王は態度を改めなかった。
それどころか逆上して、剣を抜き振り回す始末だった。
「黙って命令に従え!従えぬというのなら、謀反者としてこの場で首を落としてやる!」
そのときだった。
王の背後に、突然首のない女が現れた。
「首」
女は両手を高く掲げて言った。
「首―」
家臣たちは悲鳴をあげて逃げ出した。
王は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「く、く、くび……?」
どこからともなく、泣き声が響いてきた。
怒鳴り声や、悲鳴や、叫び声が響いてきた。
老若男女さまざまなものが入り混じっている。
やがてそれらは、ひとつの単語を合唱していく。
「首」
「首」
「首」
それまで高く掲げていた両手を、イライザはふいに王に向けて突き出した。
「あった」
イライザは王に向けて駆けだした。
王は絶叫し、手にしていた剣をやみくもに振り回した。
鋭利な剣はイライザの両手を切り落とした。
黒い血が飛び散った。
おぞましい悪臭が広がった。
王の剣はさらにイライザの片足を切った。
イライザはバランスを崩し、王に倒れかかった。
「ああああ!」
王は目を閉じ、自身の耳すらつんざくような叫び声をあげながら、剣を前に突き出した。
剣はイライザの身体の中心を刺し貫いた。
沈黙が降りた。
一瞬前までの喧騒は嘘のように静まり返り、イライザはぴくりとも動かなくなった。
王は自身にかぶさるイライザの身体を蹴飛ばし、周囲を見回した。
誰もいなかった。
なにも聞こえなかった。
室内には腐乱したイライザの骸と、悪臭だけが残されていた。
*
「呪いはそれでひとまず収まったよ」
壮絶な内容を語りながらも、グレッグの態度は変わらなかった。
「消えてなくなったわけじゃない。呪いは女の身体に依然として残ってるけど、無暗に周囲に当たり散らすことはやめたんだ。別の容器に移ればまた元気に呪いをふりまくこともできるだろうに、よほどあの女と相性がよかったらしい。完全に壊れて、容器としては使いものにならなくなったあの女に、呪いはしがみついているんだ。ははは。呪いにそこまで愛されるなんて、あの女、いったいどんな性根をしていたんだい?」
グレッグは私に意味ありげな視線を送ってくる。
私は黙って首を振る。
彼女の末路に対して、私が言うべきことはなにもなかった。
胸がすくこともなければ、悲しみもなかった。
ただ、後味は悪かった。
「よほど腹の内が腐っていなきゃ、あそこまで呪いに執着されないよ」
グレッグは皮肉たっぷりに言った。
「あの女の中はよほど心地が良かったんだろう。じゃなきゃ一年も生かしておかないはずだ。たぶんあの女、恨みや憎しみをそこら中で買っていたんだと思うよ。呪いはそれと混ざって、融合しつつあった。そう考えれば、あの女から離れないことにも納得がいく」
彼女が買ったという恨みや憎しみの中には、私が売ったものも含まれているだろうか。
あるいは大半が、その全てが、私からのものだったかもしれない。
私はため息をついた。
いまさら考えてもどうしようもないことだ。
それに、彼女は私を信じなかった。
助けを拒んだのは、彼女自身だ。
私の心は、やはり動かなかった。
イライザのためにはもう、罪悪感ひとつ抱くことはないのだろう。
「とにかく、呪いは収まった。容器が不完全だからだろう。呪いは依然としてそこにあるけど、いたずらに周囲の人間を蝕むことはなくなったよ」
イライザの呪いを浴びた人びとも、徐々に回復しているらしい。
しかし中には重篤な後遺症が残った者もいる。
彼女の夫であった侯爵や屋敷の使用人たちは、彼女に関する記憶をほとんど失ってしまった。
まるで長い悪夢から覚めたように、呪われていたことも含め、彼らは日に日に忘れていった。
それはむしろ喜ぶべきことであっただろう。
彼らはなんの罪も犯していないのだから、理不尽な呪いのことなど、不貞の果てに身を滅ぼした妻のことなど、覚えている必要はないのだ。
一方で私のもと婚約者、サミュエルの後遺症は悲惨なものだった。
彼はほとんど自我を失い、廃人と化してしまった。
彼はイライザとあの夜会でたった一度情を交わしただけだった。
その後関係が続くことはなかった、と聞いている。
けれど祠を壊した現場にいたためか、彼はイライザ同様の幻覚、幻聴に苛まれ、精神を病んでしまった。
ほとんど喋ることもなくなり、いまは療養所で、老衰間近の老人のように暮らしているらしい。
彼に対しては、ほんの少しだけ同情した。
けれど少しだけだ。
私に罪を押し付けるだけ押し付け、感謝の一言もなく捨てた男になど、それ以上なにを思うこともなかった。
私はグレッグを見つめた。
サミュエルと違い、彼は、私とはなんの関係もない。
それなのに、助言を与えてくれた。
こんな辺境の修道院まで訪ねてきてくれた。
彼は私が修道院に入ってからはじめての客人だった。
けれど彼がなにをしにやってきたのか、私は未だ知らなかった。
「あとは女の骸を祠に収めれば万事解決するんだけど――――でも肝心の祠が壊されちゃったじゃない?だから王は僕に祠の修繕と、骸の安置を命じたんだ」
彼が、なぜここにきたのか。
なぜ庭師をやめたのか。
長い話の終わりに、彼はようやく、その疑問の答えを教えてくれた。
「僕はそれを断ったんだ。大工じゃないからあんな古びた祠を元通り直すことなんてできないし、呪いを沈める方法だって知らない、ってね」
「できないんですか?あの祠を作って呪いを沈めたのは、貴方の祖先なのでしょう?」
「曽祖父はそうだったよ。でもその息子、僕の祖父にはなんの力もなかった。父さんもそうだ。僕も、いちおうそういうものは知覚できるけど、それだけ。それを扱う方法なんて知らないんだ。僕が知ってるのは草木の手入れの方法だけなんだ。当然だろう?僕はただの庭師なんだから」
グレッグは呆れたように肩をすくめた。
彼が庭師を辞めた理由に、察しがついた。
「陛下はさぞお怒りだったでしょう」
「烈火のごとく、さ」
先祖が収めた呪いであるのだから、その子孫も当然収めることができるはずだと、国王は思い込んでいた。
そのために王宮に似つかわしくない風貌の男を雇い続けてきたのだ。
しかしあては外れ、にべもなく断られてしまう。
国王は激怒し、グレッグは即座に王宮を追い出された。
「まったくひどい話だよね」
グレッグはあっけらかんと笑った。
「首を切られなかっただけマシだと思いますが……」
能天気なのか無謀なのかわからない。
呆れる私に、グレッグは真剣な眼差しを向けた。
「でもまあちょうどよかったよ。王宮務めはもともと性にあっていなかったから。――――食うには困らないけど、窮屈だし、規則が多くて、気軽に外出することもできない。だから放たれた呪いの行く末を見届けたら、いずれにしても辞めるつもりでいたんだ」
「それで、どうして私のもとへ?」
「訊きたいことがあったんだ」
彼は一瞬だけ足元に視線を落とし、それからまた私の目を見つめて、言った。
「君はあのとき、どうして僕を信じてくれたんだ?」
「それは――――」
本気で呪いを信じていたわけではなかった。
会ったばかりの庭師の言うことを真に受けたわけでもない。
けれど彼はあのとき、言った。
信じてもらえるとは思ってない、と。
へらへらと、全部諦めたような顔で笑いながら言ったのだ。
だから信じようと思った。
呪いではなく、彼を。
「誰にも信じてもらえなかったからです」
私はあのたった一言で、彼に自分を重ねたのだ。
誰にも信じてもらえず、嘘つきとして扱われる自分を。
「私は、誰にも信じてもらえませんでした。周囲の誰も……両親でさえ、私を嘘つきだと言いました。なにを言っても信じてもらえなくて、濡れ衣ばかり着せられて、それでもう、すっかり諦めてしまいました。誰かに信じてもらうことを」
「よくわからないけど、誰にも信じてもらえないのに、なぜ君は僕を信じたんだ?」
心底不思議そうに、グレッグは訊ねた。
「誰にも信じてもらえないから、誰も信じない。ふつうそういうもんじゃない?」
逆です、と私は答えた。
「誰か一人にでも信じてもらえたら、誰かを信じることができると思いました」
「……きれいごとだよ」
「そうでしょうか。……そうかもしれませんね」
私は白状した。
「私、貴方に自分を重ねました。『信じてもらえないと思うけど』って、貴方はずいぶん慣れた口調で、諦めきった顔で言っていましたから。ああこの人も、人に信じてもらえていないんじゃないかなって思ったんです」
「たった一言で?初対面の僕に同情したって言うのかい?」
「同情ではありません。自分を重ねたんです。勝手に貴方を鏡にしただけです」
「鏡?」
「はい。私は、誰にも信じてもらえなかったけど、貴方は――――いえ、私は、誰かを信じられる人間でいたかったんです。私を信じなかった人たちと同じになりたくなかったんです」
イライザに対して、私はそれほど怒りを抱いていなかった。
彼女と過ごした日々は屈辱的で耐えがたかったが、諦めが勝っていた。
イライザは子どもだったから。乳母になったつもりでいれば、彼女になにをされても、そこまで傷つくことはなかった。
貴族に生まれた以上、身分は絶対だ。
生まれもった宿命として、イライザという理不尽は受け入れることができていた。
私を本当に傷つけたのは、私を信じてくれなかった人たちだ。
両親や親せき、使用人、同じとりまきの令嬢たち、社交界の人たちだ。
彼らはイライザの中身が見栄っ張りの小さな子どもだということに気づかず、舌先に乗せられ、私を貶めた。
私とろくに話もしないうちに、私がどういう人間であるか決めつけ、糾弾した。
私はなにも悪くなかった。
私は嘘をついていなかった。
けれどなにを叫んでも、彼らは聞き入れようとはしてくれなかった。
悲しかった。
辛かった。
苦しかった。
虚しかった。
あんなふうにはなりたくない、と思った。
だから私はグレッグを信じた。
彼らと同じになりたくなかったから。
誰かを信じられる人間でいたかったから。
「――――はは」
グレッグは乾いた笑い声をもらした。
「よく知りもしない人間のことを、そんなたった一言で自分と重ねて、信じたのか」
口元の笑みは、ひきつっていた。
それまであった余裕はなかった。
彼はどこか泣きそうな表情で、天を仰いだ。
「貴族のご令嬢とは思えない単純さだね」
「なんとでも仰って下さい」
私は彼と同じように、空を仰いだ。
気持ちのよい、秋晴れの空だった。
「それで貴方は、そんなこと聞くためだけに、わざわざここへいらしたのですか?」
「そんなことってねえ、君……」
グレッグは空を見上げたまま、呆れた口調で言った。
「僕にとってあれがどれだけ大きな意味を持っていたと思っているんだい」
「え?」
「僕がここに来た理由はふたつある。ひとつはあの日君が僕の言葉をなぜ信じたのか聞くため。もうひとつは、お礼を言うためだよ」
「お礼を言われるようなことはなにも――――むしろ、先にも申し上げました通り、お礼を言うのはこちらのほうです」
「いいや。僕の方さ」
グレッグは視線を足元に落とした。
彼の影は、薄いがくっきりとした輪郭を持っていた。
「僕は小さい頃から、人には見えないものが見えた」
グレッグは静かな声で語り出した。
「僕は昔から人には見えないものが見えた。もう生きてない人とか、呪いとか、そういうよくないものが見えたんだ。でも僕の周りに僕と同じような人間はいなかった。祖父も父も、ふつうの目をしていたから……彼らにとってよくないものは存在しないも同然だった。彼らは曽祖父が、口八丁で当時の国王を騙して庭師の座についたと思い込んでさえいたんだ」
だから当然僕のことも信じなかった。
そう言って、グレッグは寂しそうに自嘲した。
「父さんたちはとても現実的な人だったからね。自分の目に見えないものは、世間で常識とされていないものは、信じるに値しないんだ。例え自分の父親や息子がその存在を主張しても、彼らは決して受け入れなかった。僕が生まれたときにはもう曽祖父は死んでいたから――――僕はずっと、孤独だったんだ」
彼には彼にしか見えない世界があるのだろう。
それを誰とも分かち合えず、彼は一人で生きてきたのだ。
私は自分を恥じた。
彼と私は重なるどころか、大きくかけ離れている。
彼の孤独は、ただ周囲に信じてもらえなかっただけの私とは、比べ物にならない。
「僕には曽祖父ほどの力はなかった。ただそこになにがあるのかわかるだけなんだ。それがどういう影響を及ぼすものなのか、どう対処したらいいのかは、なんとなくしかわからない。ましてや封じる力なんて一切ない。僕は中途半端な人間だ。それを御する力があれば、曽祖父のように周囲の人びとから尊敬されて、国王に重宝されるようなこともあっただろう。けれど僕は、ただ見えるだけの、不気味な奴でしかなかった」
彼は思ったよりも若いのかもしれない。
ふと私はそう思った。
見た目では年齢を読み取れなかったが、貴族相手に臆することなく軽口をきくその豪胆ぶりから、私はなんとなく、彼が私より二回りも年上であるような気がしていた。
けれど自身の過去を話す彼は、小さな子供のように不安げで、それほど年上のようには見えなかった。
実年齢は私とさほど変わりが無いのかもしれない。
けれどそれがすっかり隠れされてしまうくらい、これまで多くの苦労をしてきたのだろう。
その特別な力のために。
私を救ってくれた、頼もしい力のために。
「王宮庭園にあったものは別格だけど、呪いはとても身近なものなんだ。人は憎んだり恨んだりが日常茶飯事だろう?街の暗がりや、家の地下室や、そういった閉鎖的な空間にそれらは溜まって、呪いとなる。そういう呪いに触れても、少し体調が悪くなったり、不運に見舞われたりするだけだけど、避けられるなら避けた方がいいだろう?だから僕は小さいころ、家族や友達がそういう場所に近づきそうになったら止めていたんだ。そこには呪いがあるから行かない方がいい、って。でも耳を貸してくれる人はいなかったよ。気味の悪いことを言うなって親からは殴られたし、友だちからは仲間外れにされた。それで実際に悪いことが起こると、それは僕のせいになった。呪いだなんだといって、お前がなにかしたんだろう、って。たちの悪いいたずらだって」
あんたがやったんでしょ?
どうして嘘をつくの?
どうして自分の非を認められないの?
これまでぶつけられてきた心無い言葉が、私を信じてくれなかった人たちの言葉が、脳裡をよぎる。
胸が痛い。
でも彼はきっと、この何倍もの痛みを負ってきたんだろう。
「誰にも信じてもらえなかったんだ」
私は一歩前に踏み出した。
彼の影と、私の影が、重なった。
「私は、信じます」
彼は顔をあげ、私を見て、笑った。
「嬉しかったよ。誰かに信じてもらえたのははじめてだった。見えるだけのこの力が、誰かの役にたったのも―――――」
いや、とかぶりを振って彼は訂正した。
「役にたった、とは言えないかな。君はお屋敷を追い出されて、こんなところにいるわけだし」
「いいところですよ、ここは」
私はエプロンについていた黒焦げのパン屑をはらった。
「一通りの家事を覚えることができましたし、自分で言うのもなんですが、前よりたくましくなった気がしますから」
「ふうん?君は前からたくましかったように思うけどね?」
「そんなことありませんよ」
「だって国王相手に盛大に啖呵切っていたじゃない」
「啖呵は切っていませんが……。というか、あれ、見ていたんですか?」
「気になって後をついていってみたんだよ。そしたら君が大勢の人間を前に大立ち回りしていて――――感心したよ。こんなに肝の据わった令嬢がいるんだなって」
「あのときはほとんどやけくそでしたから……本来の私はもっと慎ましいですよ」
グレッグは吹き出した。
「本当に慎ましい人間は自分のことを慎ましいなんて言わないと思うけど」
私は憮然として腕を組んだ。
「私のことよく知りもしないくせに、勝手なこと言わないでください」
「……君、その返しはずるくない?」
仕方ないじゃないか、とグレッグは苦笑する。
「あれこれ語ったあとで言うのもなんだけど、僕たち会うのこれで二度目だよ?互いの人となりなんて、知らなくて当然じゃないか」
「ではこれから知って下さい」
私はエプロンのポケットから、一通の封筒を取り出した。
「先日、父から文が送られてきました。家に戻ってきてほしい、と」
「ふうん?そりゃめでたいんじゃない」
「イライザ様が死んだことで、私の身の潔白が証明されたそうです。私は一人娘ですから、父母としては大金を払って他所から養子をとるより、私を家に戻した方が安くすむと思ったんでしょう」
「身も蓋もないな」
「貴族ですからね。しかしあれだけ簡単に私のことを切り捨てておいて、いまさら虫がよすぎるのも確かです」
私は手紙をくるくると弄んだ。
「ですからちょうどこのあとごみを燃やす予定があったので、ついでに燃やしてしまおうと思っていました」
「貴族に戻らないの?」
「そのつもりだったんですが――――ところで、グレッグさん。貴方はこれからどうするんですか?」
突然の話題転換に、驚きつつもグレッグは応じる。
「さあてね。どこかの屋敷に庭師として拾ってもらえたらいいけど、それがダメなら、修道院にでも入るよ」
片目を閉じて言う彼に、私は皮肉を返す。
「修道士は王宮庭師以上に制約が多いですよ。貴方に務まるんですか?」
「ひどい言いようだな。君こそ、僕が実はとても真面目で信仰心の高い人間だということを知った方がいいよ」
「ではこれから教えてください」
私は父からの手紙を懐にしまった。
失くさないように、大切に。
「グレッグ。貴方、私の屋敷で働きませんか?」
「え?」
「うちは貧しくて、ろくな庭師を雇えず、庭がひどい有様なんです」
「いや、でも――――」
「それに、イライザ様の首が落とされたのはうちの庭先なんでしょう?悪いものが残っていないか、貴方に見極めてもらいたいですし」
「それはもう見たよ。大丈夫。君の屋敷にはなにも残っていないよ」
「これから出るかもわからないじゃないですか」
「それは――――」
「見張っていてください。大丈夫。うちの庭は一周するのに五分とかからないほど小さいですから。祠の管理をするよりずっと楽なはずですよ」
「そんなに小さいなら常駐庭師なんていらないんじゃないかい?」
「それでしたら使用人として他の仕事もしてもらいます」
「……君ねえ」
グレッグは腰に手をあてて、偉そうに言った。
「僕は高いよ?」
「賃金は保証しますよ。寝床と三食昼寝付きです」
「破格の条件だな。とても信じられない。――――相手が君じゃなかったら、僕は絶対にその話に乗らなかっただろうね」
私は笑って、彼に手を差し伸べた。
「私だから、信じてくれるんですね」
彼は迷わず、私の手をとった。
「ああ。他ならぬ君の言うことだから、僕は信じるんだ」
*****
屋敷に戻った私は、紆余曲折あり、結局平民になった。
父は爵位を放棄し、母と共に隠居した。
屋敷はある侯爵家に別荘として買い取られた。
私は別荘の管理人として、一人の庭師と共に屋敷に残ることを許された。
ところが屋敷はなぜか別荘になったとたん、さまざまな怪奇現象が起こる曰く付き物件となってしまう。
管理人である私は使用人兼庭師の男と共に、おかしな屋敷と、それを好んで訪れてくる風変りな客に振り回されることになるわけだが――――それはまた、別のお話。