8.別れ ◇
グラッドは結局、騎士団長の部屋を借りて悶々と夜を明かし、朝になると急いでストラン男爵家に行き、エリーサの部屋の窓の隅に手紙を貼り付けた。
いつもそれで待ち合わせの時間を教えていたのだ。
待ち合わせ場所はいつも、人が滅多に来ない小さな森の水辺の畔にしている。
グラッドは結婚しているから、離縁するまではと、人目の無いここで逢瀬をしていた。
逢瀬と言っても、エリーサにねだられた物を渡し、数分間当たり障りのないことを話して解散する、本当に短いものだったが。
大体、彼女の方から「帰ります」と告げられるのだが、グラッドには引き止める気持ちは全く無かった。
『彼女と一緒にいたい』という気持ちが湧かなかったのだ。彼はそれを『『初恋の人』だから緊張が続いている』からだと思っていた。
『一緒にいたい相手』は、寧ろ――
「グラッド様!」
待ち合わせ時間になり、エリーサが水辺の畔に姿を現した。
「エリーサ! 昨日、何で逃げたんだ!? 僕は何回も呼んだのに――」
グラッドは我慢出来ず、早速本題を切り出した。
「え、昨日……?」
「夕方、『エルバの森』にいただろう!? でも君は逃げて――」
「夕方? 『エルバの森』? 何のことですか? その時、アタシは家にいましたけど……」
「…………え?」
エリーサの本気の戸惑いから、嘘は言っていないことが分かる。
「高笑いを……していて……」
「高笑いっ!? アタシ、そんな下品なことしませんよ! 何言ってるんですか、もう!」
「…………」
昨日見た彼女は、確かに『初恋の人』だった。
燃えるような美しく紅い髪を靡かせ、口元に不敵な笑みを浮かばせて。
凛とした佇まいで。
何者にも負けないような、強い意志を持って――
間違いは無い。彼女は僕の『初恋の人』だ――
カタカタと小刻みに震える身体で、エリーサの髪を改めて見た。
血のような、まるで塗料で塗り潰されたような赤い色。
“彼女”の美しい髪の色と、全然違う――
――あぁ……。
僕は、勘違いをしていたのか。とんだ勘違いを。
僕の心は、確かに『違う』と訴えていた。違和感をずっと感じていた。
けれど、『初恋の人』がどれだけ捜しても全く見つからず焦っていた気持ちと、諦めたのに『初恋の人』が見つかったという歓喜な気持ちで、僕の心の声に無理矢理蓋をしてしまった。
よく見たら、すぐに気付くことなのに。
こんなに……こんなに何もかもが違うのに――
「ねぇグラッド様? アタシがお願いしていた物、買ってきてくれました?」
「……あぁ……」
グラッドはポケットから綺麗に装飾のされた箱を取り出し、エリーサに渡す。
「やった! このネックレス欲しかったんです! 絶対アタシによく似合いますよ! 今度付けてきますね? ――ねぇグラッド様、アタシ他に欲しい物が――」
「……これで終わりだよ」
「…………え?」
ポツリと言ったグラッドの呟きに、箱を嬉しそうに眺めていたエリーサは顔を上げた。
髭と前髪で殆ど隠れたグラッドの顔は、どんな表情をしているのか分からなかった。
「もう終わりだと言ったんだ。別れよう、エリーサ。僕はもう二度と君には会わない。君も僕のことは全部忘れて幸せになってくれ」
「は……? 何ですかそれ……? アタシはグラッド様の『初恋の人』ですよ。それなのに――」
「違うよ。君は僕の『初恋の人』じゃない」
ハッキリとそう言われ、エリーサの表情がピシリと固まる。
「よく見れば分かる。その髪の赤い色は塗料だ。洗えば落ちるだろう。僕が紅い髪の『初恋の人』を捜しているという噂を聞いて、君は金品欲しさに僕を騙して近付いたんだな。それに気付けなかった僕も本当に大馬鹿者だ……。本当に……本当に救えない……」
知らずに、乾いた笑いがグラッドの口から漏れる。
表には出していないが、リファレラは『初夜』の出来事でとても傷付いただろう。
大好きな実家を出て、僕のところで骨を埋める覚悟で来たのに、僕は初日でそれを“台無し”にしてしまった――
どれだけ謝っても、リファレラの傷付いた心を無かったことには出来ない――
「今までありがとう。さっき渡したのは餞別だ。もう人を騙すことはしないで、真っ当に生きて欲しい」
「…………ふん、何よっ!! アンタなんかこっちから願い下げよ、この髭面男っ! 最初からキモかったのよ!! 金を持ってる以外で誰がアンタなんかを好きになるもんですかっ!!」
エリーサはグラッドに罵倒を浴びせると、クルリと背を向け走って行ってしまった。貰ったネックレス入りの箱をしっかりと手に握って。
「……リファレラ……。ごめん……ごめんよ……」
グラッドは一粒の涙を零すと、トボトボと皇城に向かって歩き出したのだった。