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幽州の雄 鮮于輔

作者: 田子 泰

鮮于輔センウホ、字は不明。

KOEI三国志でも14で初登場する存在感のなさと北の重鎮ぶりを考察していければと。

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【参考資料:KOEI 三国志14】

初登場:三国志14

統率74 武力69 知力65 政治70 魅力72

161~229の69歳没

相性:96(蜀[75]と呉[125]の間、劉虞[96]と同じ相性・袁紹[101]、後漢に近い。田疇[42]・田豫[31=司馬懿]・閻柔[40]ら近場の後の魏[25]を生きた人物とは大きく異なる)

所属軍歴

劉虞→在野→袁紹→曹操

親愛武将:閻柔、田豫、劉虞 険悪武将:公孫瓚

北にいる無駄がない量産型万能武将。武将数が少ない代わりに能力を万能化させた、設定面倒くさい言われるタイプ。

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【鮮于輔の簡単な歴史】

幽州漁陽郡出身。

初出は劉虞配下の【従事】。

劉虞死後、公孫瓚に反発。

同僚だった鮮于銀、斉周と手を組み、【劉虞の息子】劉和と麹義を援軍に迎え入れ、そして異民族の王になった漢人閻柔の協力を取り付けて公孫瓚攻めを敢行する。

漁陽太守鄒丹を破り、鮑丘の戦いで公孫瓚を破るも、公孫瓚の易京籠城の前に敗れる。


その後は故郷漁陽の太守代行となり、閻柔の【護烏丸校尉】奪取に協力した。


地盤を固め、盟友に助力し、大敵公孫瓚も袁紹の手で滅亡と盤面は整いつつある鮮于輔であったが、二択の選択を迫られた。

曹操か、袁紹か。建安五年(200年)官渡の戦いである。


鮮于輔は判断に迷い、元公孫瓚軍の田豫を長史として抜擢して助言を求めた。田豫は曹操に帰順すべきと進言して、曹操に帰順した。

鮮于輔は曹操から【建忠将軍】【都亭侯】に任命された。

(※対異民族将軍位である度遼将軍にも任命されていた資料もあるが、任命されていた時期が不明。徐邈伝にも書かれているあたり、兼任していたかも)


建安十年(205年)、曹操は袁譚を攻略し、曹操の支配域が幽州に繋がると正式に曹操へ臣従するが烏丸から攻撃を受けて包囲された。

4か月ほど耐えると曹操軍の援軍が来たため、烏丸は撤退した。


その後は魏の北を支える将軍として、異民族である烏丸・鮮卑を懐柔して、北部の安定に貢献した。


劉備死後、曹丕の命令で劉禅の蜀に内密の詔を送って投降を薦めていたとされる。【後主伝】



ここからは筆者の考察だらけ。

資料を乱雑に読み漁って組み合わせいるだけ。

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【鮮于輔を考える1-鮮于氏から考える】

鮮于輔は幽州漁陽郡出身。


家族構成は史書に何も残っていないが歴史上に残っている鮮于氏はそこそこいる。


・鮮于褒【京兆尹|新/後漢】[出展:後漢書第五倫伝] 

・鮮于璜[伯謙]【後漢/雁門太守】(44-125)[出展:鮮于璜碑]漁陽郡雍奴県出身。

・鮮于寛[顔公]【後漢/太尉掾】(鮮于璜長男)

鮮于黼(センウホ)[景公]【後漢/州別駕従事】(鮮于璜次男)

・鮮于晏[魯公]【後漢/雁門長史】(鮮于璜三男)

・鮮于魴(鮮于璜孫)

・鮮于倉(鮮于璜孫)

・鮮于九(鮮于璜孫)

・鮮于銀【後漢/騎都尉】鮮于輔の従兄弟?鮮于璜孫が三人は存在するから再従兄弟もありうる。

・鮮于嗣【魏 楽浪/涿郡太守】[晋書:毌丘倹伝、張華伝など] 子供?孫?

・鮮于嬰【晋 寧州/平州刺史】[晋書:慕容廆伝など] 孫?曾孫?

・鮮于亮【前燕 揚威将軍/斉郡太守】子孫?だけど出身は范陽郡(涿郡|隣郡の人)

この人たちについては出身地や時代の前後関係から同族であると考察可能。それ以外の鮮于氏については赤の他人の可能性が高そう。


・鮮于丹【呉】は情報が無さ過ぎて考えようがない。

・鮮于乞【趙王|五胡十六国】丁零出身。

・鮮于修礼【北魏】丁零出身。

・鮮于世栄【北魏】漁陽出身。多分鮮卑からの帰化。

・鮮于枢【元】漁陽出身。世代が離れすぎてて考察不可能。

・鮮于(セヌ|선우)現代の韓国の姓。起源は明の時代。并州【太原】が本貫。2015年で3,329人。


後世の鮮于でこんなにいるけど、考察が難しいので却下。



上記を把握した上で鮮于氏を見ていく。

鮮于の姓は箕子朝鮮(紀元前12世紀~前194)の末裔。殷滅亡で国外追放された殷王族の末裔である。某国から存在を抹消される朝鮮王朝だが、出身は中華内部。

この出自に関しては韓国の鮮于セヌ氏の自称とも言われたが、1973年5月出土の鮮于璜碑の発掘によって真実と判明した。

[鮮于璜碑一行目【其先祖出于殷箕子之苗裔】]


そして、鮮于輔は鮮于璜と同郷(同郡出身。同県かは不明)かつ、平和である後漢の100年では全くの別族になることはないと推測できる。時折中央へ向かう人物もいるが鮮于輔は中央に興味無し。

【京兆尹】鮮于褒、【寧州刺史】鮮于嬰と大きく離れる人物もいる。


また、石碑を作る程度には財力が少しだけあった。

(ただし、死後40年で作成した事から、辺境の豪族にすぎず、資金力や中央への影響力は乏しかった)

そして五胡十六国時代になると後趙に粉砕されて臣従。鮮于亮は前燕慕容恪に重用されるもそこまで。その後は時代の流れに埋もれたと思われる。


鮮于輔は【箕子朝鮮の末裔】で漢化した王族の末裔の【地方豪族】。土豪化していたと思われる。

まぁ、筆者の考察なので修正することは十分にありうる。


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【鮮于輔を考える2-劉虞臣下の中での格】

大司馬劉虞の臣下を見ていく。名前がわかる限り羅列する。

・公孫瓚【奮武将軍】

--無双・大戦の壁--

・魏攸【東曹掾|七品官相当】※劉虞臣下。公孫瓚処分を諫めるも病死、劉虞のストッパーが外れる。

・田疇【掾】※豪族。劉虞の書を持って長安に行く。後に隠居。魏の議郎。

・鮮于輔【従事】

--KOEIの壁--

・温恕【涿郡太守|五品官】※魏揚州刺史温恢の父。臣下ではないが支配下にいる。

・鮮于銀【従事→騎都尉|七品官相当】※田疇と共に長安へ行き、鮮于輔と共に公孫瓚に立ち向かった

・斉周【従事】※鮮于輔と共に公孫瓚に立ち向かった。

・程緒【従事】※公孫瓚攻めを諫めて処刑された人

・公孫紀【従事】※公孫瓚攻めを反対して寝返った人

・趙該【別駕従事】※名前と役職しかわからない。妹が仙人。【巵林】【霊飛経[上清瓊宮霊飛六甲左右上符]】、【歴世真仙体道通鑑/后集巻三 趙愛児】

・尾敦【故史】※劉虞の首を奪還して埋葬した人

・孫瑾【常山相】※公孫瓚支配に反発して処刑された人

・張逸【常山掾】※公孫瓚支配に反発して処刑された人

・張瓚【常山掾】※公孫瓚支配に反発して処刑された人


日本で出ているゲーム類でまともに出てる奴が誰もいない。


お前らどうしていたのか武将編

・盧植(190~192、董卓から出奔後、袁紹の軍師として赴くまでの間。末子盧毓が幽州にいる事から、故郷涿郡にいたと見る。劉虞支配下にいた大物儒者)

・程普/韓当 呉の武将。幽州出身。二人とも孫堅時代からの古参なのだが、いつ従軍したのやら。

程普は右北平郡土垠県。韓当は遼西郡令支県、公孫瓚と同郷。

・鄒靖(幽州の将軍、劉備を雇った人物で、張温に助言出来る程度の実力者。張純以降名前が見えなくなる。病死??)


劉虞の臣下は魏攸を除いて【従事】だらけで役の高い人物が見当たらない。一応副州長官と言える別駕従事として趙該がいるが、彼の記載は道教書籍で唐代で書かれた事、劉虞の役職が【幽州刺史】であるため、劉虞が群雄化した反董卓期でなく、黄巾の乱前の可能性もある。

また、常山が支配下にあるあたり、常山は劉虞の影響下にあった事、そこの出身である趙雲は袁紹支配下では無いため、袁紹に従う理由もない。

劉虞自身は太尉、大司馬であるため、開府を許される立場であり、専用の臣下を用意出来るが、その役職についているのは魏攸、田疇だけである。他は誰だったのか、誰も置かなかったのかは不明。


また、盧植や一桁年齢の盧毓はともかく、盧植の他の息子たち、結婚して嫁と子供がいた人がいるため、幽州の役人であった可能性がある=劉虞の文官だったとも考察できる。

温恢の父、温恕は後の考察に影響するため挙げているだけで劉虞配下とは限らない。


ここから見る限り、鮮于輔の劉虞軍での立場はあくまで州で雇われた役人に過ぎず、豪族の長が役人になった地方議員的な在り方に見える。


劉虞の治世で故郷は安定したが、昇進出来たかと言うと割と微妙。

大恩だったかと言われると微妙。まぁ、それでも雇ってもらえるだけマシ。

この後の公孫瓚の事を考えると。

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【鮮于輔を考える3-劉虞死後~公孫瓚滅亡】

鮮于輔は公孫瓚に立ち向かった。理由は簡単。

公孫瓚の政治方針。


役人や豪族を活用せず、商人や占い師などの当時評価されない人々。よく税を取り立てる酷史を積極的に採用した。ただ、籠城で五年ほど単独で受けているあたり、ガチで稼いで兵糧を貯めこんでいた公孫瓚は評価されるべき。


鮮于輔は豪族。公孫瓚から採用されるはずもなく、解雇される。

上が変わった事による方針180度変更での解雇。まぁ、ブチ切れます。

我らを使わないなら消えろ、わかりやすい戦争理由です。


初登場の仕方的に劉虞に対する忠義のために動く人と書かれているが、鮮于輔は正直そうは見えない気。鮮于氏考察から鮮于輔は土豪タイプ。故郷からは動かない。故郷から動かないけど力は欲しい。故郷から動きたくないから、中央志向は微妙。辺境の偏屈者。


【劉虞の弔い】と言う大義名分を支持したのは外野である袁紹である。

193年、袁紹は公孫瓚と李傕政権から派遣された【太僕】趙岐によって停戦しており、劉虞死亡時には袁紹は公孫瓚攻めが実行出来なかった。


※この停戦も割と謎。ただ、停戦の効力は三年程度効いていて、鮮于輔・麹義敗戦後=曹操が献帝擁立するあたりまで効いている。

公孫瓚の盟友である【徐州牧】劉備が袁紹の息子である袁譚を茂才に推挙したあたり、裏では殴り合いながらも表では仲良くしていたのだろうか。


鮮于輔・閻柔連合軍は上記の理由により、袁紹の直接援護を受ける事が出来なかった。援護に来れたのは袁紹軍じゃない戦力。中央のボンボン【侍中/劉虞の息子】劉和と【涼州の傭兵】麹義だけであった。麹義は元々韓馥配下ではあるが、正式な支配下ではなく、あくまで傭兵扱いだったのだろう。

だから、不要になったら適当な理由をつけて殺される。


鮮于輔は言う事をあまり聞かない異民族以外は劉和と麹義しか使えず、公孫瓚に籠城されたが最後、兵站も維持出来ずに敗れた。鮑丘の戦いでは野戦、故郷と言うのもあって、公孫瓚相手だろうと撃破したけど、攻城戦に異民族兵は向かなかった。


公孫瓚に敗れたが漁陽に加えて、代・広陽・上谷郡・右北平の合計五郡を公孫瓚体制から切り離し、幽州西部の支配を脱却させることに成功している。

その五郡の統括者として鮮于輔が居座る事になる。これは後に曹操側に着いた時の役職である【督幽州六郡】が支配体制を示している。

ここで寝返らない幽州西部唯一の郡である【涿郡太守/温恕】の存在感。残るは遼西一帯と涿郡ぐらい。遼東以東は公孫度が支配しているから。


※温恕/涿郡太守 温恢伝より死亡時に太守であったと考えられる(温恢が故郷に戻った話)。そのため、温恢の年齢(温恕死亡時15歳、45歳没)と張既の死亡年(黄初4年223年)、その後任の話から温恢の死亡年は224~226あたりと考えられるため、温恕死亡は194~196年。死後も支配体制が残ったとも考えられる。その支配者は公孫瓚の最後の助言役となった関靖(温恢と同郷)と想像する。あくまで推測だが。


鮮于輔は公孫瓚に敗れた後、故郷の太守代行になったとしかない。故郷の太守以上の役職には就けない不文律が存在した後漢の時代であるため、太守を自称する事は出来ず、代行でしかない。

中央から離れ、記録者もいない辺境。何をしていたか、どのように安定化させていたかはわからない。


わかっている事は【護烏丸校尉】邢挙を殺して閻柔に与えたことだけ。その結果、邢顒が田疇の下へ逃げ込む。199年から200年の出来事。


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【鮮于輔を考える4-鮮于輔と袁紹】

鮮于輔と袁紹。公孫瓚攻めで間接的に協力関係にあるが、直接的な協力関係はない。


だが、官渡の戦い以後の鮮于輔は袁紹ではなく、曹操に従って【建忠将軍】【督幽州六郡】【都亭侯】に任命されている。だが、袁紹から鮮于輔への役職は何もわかっていない。残していないと思われるが、そこまで高い位の役職に就けなったのではないのか。

【護烏丸校尉】も奪い取っているし。邢挙がどこから派遣されたのかわからないが。


※邢挙自身は名前と役職しか残っていないが近場で同じ姓の人物はいる。魏【太僕→太常・関内侯】邢顒・魏【太常・高平侯】邢貞。共に冀州河間郡鄚県出身。邢顒は孝廉に推挙された中央の役人であったが、洛陽・長安動乱に愛想を尽かして逃げるように邢挙に着いて行って逃げた?邢挙死亡の結果、三族皆殺しを避けるためにも名前を変えてまで逃げる必要があったと思えば納得がいく。

邢挙は冀州出身だが董卓や李傕時代に派遣された役人だとしたら、鮮于輔としても曹操・袁紹に喧嘩売らなくて済むので都合が良かった面もありそう。(護烏丸校尉は187年張純の乱で戦死した公綦稠以後は邢挙・閻柔・牽招ぐらいしかわからない)


言える事は鮮于輔は袁紹陣営に取り入らなかった事だけ。

公孫瓚滅亡時には既に袁紹陣営では派閥化が進んでおり、新しく取り入る隙間が無かった。

袁紹軍は袁紹派(許攸、淳于瓊など)、潁川名士派(辛兄弟、郭図など)、冀州豪族派(沮授、田豊など)、この三つで形成されている。この中で袁紹派は袁紹死亡前後で壊滅し、袁譚派(潁川名士派)と袁尚派(冀州豪族派)に分かれる。

それに対して幽州に派遣された袁煕は後継者争いから既に外されていて、昇進の道はない。

袁煕に対しては幽州の豪族のみならず、焦触らも見限ったあたり、軽んじられていたのは想像できる。袁煕が従えられたのは蹋頓烏丸たちぐらい。


丘力居と劉虞は協調していたがその実質後継者たる蹋頓と鮮于輔と対立するのはなんでだろうね。ここら辺からはもう混乱が混乱を呼ぶ言葉陳列である。


鮮于輔は袁紹を見限って曹操についたわけだが、上記五郡に近場の涿郡を加えた幽州六郡は支配していても袁紹、烏丸からは挟まれている。曹操の支援を受けられずに孤立する事については何を考えていたのだろうか?

実際、205年に烏丸から攻撃を受けた時、鮮于輔は自力では打開できず、曹操の援軍によって打破した。曹操が来ていたから助かったが、何故?となる。劉放もそうだけど、どうするつもりだったのだろうか。実際は205年降伏なところを200年と語ったか。役職を受けた時期も含めて訝しむ。


閻柔が奪った【護烏丸校尉】も牽招が任命されたぐらいなので、曹操と鮮于輔閻柔が連携出来ていたのか?となるよね。後に再任されているけど。

(牽招が護烏丸校尉に任命されたのは白狼山の戦い後なので207年。その前は司空軍謀掾。孫礼の就任により追い出されたのだろうか?就任タイミングである柳城到着は白狼山の戦い後に占領した拠点。閻柔も追従しているだろうが・・・)

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【鮮于輔を考える4-白狼山の戦い前後】

鮮于輔と同時期に降伏したとされるのは王松。彼は曹叡の重臣である劉放の進言によって降伏しているが、ガチ中央の人間。史書におけるその進言の審議は非常に疑わしい。

205年に下った幽州人を見ていくと多少は見えてくるか。

焦触ら袁煕配下は結局情報がなくてわからないが、魏の時代に活躍した人物も何人かいる。

孫礼と田疇+邢顒である。


孫礼は【司空軍謀掾】、田疇は【司空戸曹掾】、邢顒は【司空掾】。曹操が丞相になったのが208年であり、それ以前に従軍している証拠でもある。(劉放も【参司空軍事】で早い)

それに対して、鮮于輔と関係を持っていた徐邈・田豫【ともに丞相軍謀掾】と比べて時期に差がある事を役職が示している。

(将軍についている鮮于輔から部下を引き抜きにくかったのかもしれない)

田疇の降伏自体は207年になるが、田疇の部下であった邢顒は205年に田疇の隠居村を分断して降伏しているため、事実上の降伏は205年と言える。

幽州の人物でそれより早く降伏しているのは国淵がいるが、国淵は遼東から逃げているので、幽州よりも早く支配下に入っているとみられるため、参考にならない。

あくまで205年に正式に臣従した、それ以前はわからないとしか言えません。田豫と劉放、二人して同じ事言っているけど。

それでも将軍職を受け取っているので、他幽州降伏者と比べてかなり高い位置にある。田疇ら七品官程度の掾に対して、四品官相当の将軍位である。


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【鮮于輔を考える5-北伐以後の行動、整理】

鮮于輔は幽州にあり続ける。

将軍位は建忠将軍→213年~220年の間に虎牙将軍→224年以降に輔国将軍。

三品官相当の将軍位を持って、魏の北部を支えた人物となる。

中央に召集された話もないし、官職も受けていないので、閻柔同様ずっと辺境なのだろう。


ただし、魏において重臣の一角に名前を連ねた証拠は存在する。

一つは魏公勧進。

建安18年(213年)5月、曹操の魏公勧進の際の連名で荀攸、鍾繇から始まる臣下一覧に名前を連ねている。(順番としては30人明確にわかっている中の10番目。後ろが程昱、賈詡、董昭と言う曹操を支えた文官に加えて、曹洪・曹仁ら親族、王朗・王粲・韓浩のような文官たちも名前がある。前にあるのは上記荀攸ら以外には夏侯惇と人食いの話を持つ王忠、毛玠や凉茂などがいる。詳しくは魏公勧進でググれば百度あたりで勧進魏公の項目が出てくるため、そこで一覧が見れる。見づらいけど)


そして、魏国建国時の魏上尊号碑では六番目に名前がある。

華歆、賈詡、王朗、曹仁、劉若の次に名前がある。

謎な人物もいるが、辺境を司る上位の位にいたことは間違いない。


最終の輔国将軍は三品官相当。州の従事から始まって、紆余曲折あったとは言え、魏の重臣として辺境の核と担った。

周辺異民族との折衝を得意としており、鮮卑軻比能も鮮于輔健在時にはあまり動きが見られない。閻柔・鮮于輔の二人がいなくなって、田豫・牽招らの時代になると軻比能は制御できずに暴れまわる事になる。


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【鮮于輔を考える6-あざな

鮮于輔の字が史書にない理由。

同格クラスで字が無い人物を調べると上記に書いている人名が一人上がる。

魏公連名文で鮮于輔よりも上で曹丕即位時の連名は鮮于輔の次な人物。


人肉喰らいで曹丕に馬鹿にされて、呉質と一緒に曹真の体形をあおった男(呉質別伝より。王粲伝だと曹洪と一緒に諫めているが、この話は黄初5年(224年)とある事、曹丕から冷遇されている曹洪が同席している事も謎)。

【軽車将軍】【都亭侯】王忠である。

司隷扶風郡と言う中央出身でありながら、徐州時代の劉備に負け、曹丕にいじられると言う雑魚属性がついたためか、今の評価もあまり高くないが、将軍位を持っているので高位ではある、はず。無駄に長生き(正始三年(242年)死亡が記録されている)だし。


王忠の場合は中央にいた記録もあるのに項目を除外されているあたり、評価は芳しくなかったのだろう。鮮于輔は中央にいなかったため、評価を落とされた可能性はある。


【魏略】で伝を建てられている中では王忠は張繍、張燕らと同じ巻に書かれているのに対して、鮮于輔・閻柔は公孫瓚附属伝として書かれているあたり、辺境の野蛮人扱いをされていた可能性もある。

劉虞の雨乞いと季節感が合わないのもどうなんでしょう。


また、魏略で幽州人を探した時、見つけられたのは田豫・徐邈の辺境総大将組、田疇の隠居伝、公孫瓚伝・公孫淵伝、そして何故か存在する張特伝である。

鮮于輔伝が部下で事実上の後継者である田豫伝ではなく、公孫瓚伝につけられた事も割と謎で、中央から嫌われて、書物に残されなかった説があるのかな。かなり偏見的な見方だけど。



もう一説は本当に中央では誰も知らなかった説。

鮮于輔は基本辺境にいて、中央では将軍位を名乗るため、字ではなく、諱での宣言が多かった。上記の魏公勧進などは字ではなく、諱で記されている。

曹操と部下であった徐邈助命の話が残っているが、それをしたのが中央であったかは定かではない。210年以降の幽州は小規模の反乱と異民族懐柔がメインで、曹彰や裴潛など一部の治世者の名前しか残っていないあたり、中央から密に記録が取られていない事もわかる。

そこからそもそも連絡が取れておらず、後年書物にまとめる際に誰も知らなかったと言う状況になった説。1800年前の情報網を信じてはいけない。


ただの暴論である。


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【筆者の鮮于輔評価】

統率70程度 武力65程度 知力65程度 政治80程度 魅力85程度

ちょっと政治魅力高めにしたい。軍事力は判断出来る事があんまりない。後年公孫瓚は籠城達者でしかないのでその公孫瓚に異民族引き連れて野戦で勝ったところで・・・。

人の見る目はかなりある。田豫・徐邈を見出し、劉放も支配下にいる。曹叡代以降の臣下を輩出している。

年齢は幽州の筆頭になっているあたり、他の幽州の豪族の中では年長者であるが、年齢がわかるのは田疇や田豫の170年前後組ぐらい。165年前後だろうか。死亡は曹丕死亡前後??


相性:27,8ぐらいかな。田豫に近め。田豫よりも曹操寄り。

親愛武将:閻柔、軻比能、徐邈、田豫、田疇 険悪武将:袁煕、袁尚、公孫瓚、蹋頓

あたりかな。劉虞親愛削除。あってもいいけど。

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