坂本綜一 絵
二十歳になると、それまで、未成年なので、と言って断っていた付き合いから、遂に逃げ出せなくなった。
女を奢ってやる、などと言われて、本当に奢られてしまった周は、床から半身だけ起こすと、横で寝ている女の人の二の腕のブツブツを眺めた。
違うんだよなぁ、と思った。
―こういう事がしたくて、あの日、あんな思いをして焼け野原の中を上京してきたわけじゃなかったのに。絵が描きたいのに、如何してこうなったのかなぁ。
周は、大欠伸をしながら、メモ帳を一枚破ると、鉛筆で、隣で寝ている人の絵を描いた。
虚脱感と倦怠感が有る。
綺麗に御化粧しているな、と周は思った。
手の甲は皺っぽく痩せて荒れているが、手の指は長く、形が良かった。
光沢が有るが、安っぽくて、ぺらぺらした、けばけばしい色の下着を着ている。
肩甲骨の辺りに、長い髪が見えた。
相手が、のそっと起き上がってきて、あら、と言った。
「自分と寝た女の絵を描くなんて趣味の客は初めてだわ」
「そうですか?」
そういう言い方をされると、其れは気持ち悪いな、と思って、可笑しくなった周は、ケラケラ笑った。
「嫌でした?ごめんなさい」
「別に。見せて?」
「どうぞ」
周の紙を受け取った女性は、紙を見て、驚いた顔をして、上手いのね、と言って、何故か涙ぐんだ。
「…やっぱり、嫌でした?」
「ううん。貰っていい?」
「どうぞ」
相手に泣かれると、気不味くなったので、周は服を着た。
「多分、あんたみたいなのは、もう来ないのよね」
去り際に、そう言われて、周は何も言えなかった。
「おう、綜一」
「あ、どうも、竹田さん」
部屋を出ると、竹田さんは、店の隅で、他の工員数名と煙草を吸っていた。
竹田さんは、五歳年上の工員で、よく構ってくれる。
しょっちゅう、酒や女を奢ってくれると言う。
今日は本当に奢られてしまった。
今夜は竹田さんの家に泊めてもらう事になっていたので、他の工員と別れて、女の人の居た店を一緒に出た。
酒は兎も角、女の人を奢ってもらうのは有難迷惑だとは思ったが、費用は全て竹田さんの給金から捻出されているのである。
此れは親切なのだろうな、と周は思った。
そうなのだ。親切にされているのだ。如何して親切にしてもらえるのかは、周にも分からないが。ただ、親切の方法が周と合わないだけなのだ。
竹田さんの家は、自動球遊機店の上だった。
ジャラジャラという音が断続的に聞こえる。
客は疎らだが、未だ五、六人居る。
上に上がる階段に一番近い、端の台に、咥え煙草で、立った儘ずっと玉を打っている女の人が居た。
エプロンをしていて化粧っ気は無く、服装は主婦に見えたが、流行りの洋髪で、年は先刻の女の人くらいかな、と周は思った。
「如何だった」
「ああ、照明が凄かったです」
周が正直に言うと、竹田さんは、しょ、照明?と言った。
「紫でしたね」
「…紫だったなぁ」
竹田さんは、目を瞬かせながら、急に優しい声になって、そう言った。
「まぁ、ゆっくりしていけ。座れ」
竹田さんの奥さんは自動球遊機店を経営していて、竹田さんは、昼は工場に出て来て、休みの日は奥さんの代わりに自動球遊機店の店番をしているのだという。
自動球遊機店の二階は、先刻奥さんに挨拶した居間を入れると二部屋あって、外観から周が想像したよりは広かった。
―そう言えば竹田さんって、女の人の居る所に行った帰りに奥さんの居る家に帰って来たわけだ。
自分も一緒に行ったので、何も言えないが、奥さんにバレないと良いけど、などと思い、周は少し怖くなった。
竹田さんは、綜一ぃ、と言った。
「タバコは吸わないって?」
「…ああ、何か、苦手になっちゃって」
「工場でも、マスクしている時があるよな。気管支でも弱いのか」
「そうかもしれません。…戦後、急に苦手になっちゃったみたいで」
由里は、あれ以降、小児喘息の発作が出たという話を聞かない。
やっぱりそうなのかな、と周は思った。
「戦後かぁ、そうかも知れんな、体質くらい変わらぁ。あんな、なぁ」
竹田さんは、そう言って、居間から湯呑二つと一升瓶を持ってきた。
どうも、と周が言うと、竹田さんは、周の顔をジッと見た。
「…何か、綜一って、頼りないっつぅか、なぁ」
「…どうも。あの、竹田さん、如何して何時も、親切にしてくれるのですか?」
竹田さんは、あぁん?と言って、少し照れた顔をした。
やっぱり、親切にしてくれている心算なのか、と周は思った。
「俺の弟が、御前くらいでよ。綜一、昭和二年生まれだろ」
竹田さんは、周の正面に、どっかりと胡坐をかいた。
「あ、そうです。昭和二年です。弟さん、今は?」
「知らねぇ」
竹田さんは、一升瓶から、湯呑に酒を注ぐと、周に渡してきた。
「去年復員してきたらよ、何も残ってねぇの。家が何処だったかも分かりゃしねぇ。御近所に聞こうにも、御近所ごと無ぇの。本当に、何も無ぇんだよ。だから、弟が如何したかなんて、分かりゃしねぇの。馬鹿馬鹿しいよなぁ。馬鹿馬鹿しいから、こっちに出て来て、女見付けて一緒に住んで、今よ」
「あの奥さんですか?」
「そう。籍は入れてねぇがな。自動球遊機店は、あいつの親父さんの持ち物さ」
「親父さんは?」
「入院だ。でもま、長くぁねぇな」
竹田さんは、湯呑に入った酒を飲み干した。
周も一口飲んだ。
「…焼酎?ですかね」
「…原料は同じなんじゃねぇの?」
密造酒かも、と思ったので、周は、深くは聞かない事にした。
竹田さんの酔いはドンドン回ってきているらしい。
「いや、綜一、今日は、本当に。ゆっくりしていけ」
あ、良くないな、と周は思った。
綜一、という別の人間が居る様な気がするのである。
女の人の居る所で、ああいう事をしたのも、密造酒を飲んでいるのも、周ではなく、綜一という人物、という気がしてくるのである。
此れは良くないね、と周は思った。
そういう事をしたのは自分だ。
周は、女の人と一緒に居た部屋の、照明の事を思い出した。
照明には、色の付いた藁半紙の様な物が貼ってあって、電球が光ると、卑猥な、赤や青、紫の、ボンヤリとした光が部屋を暗く満たす。
光なのに仄暗く、安っぽい部屋の装飾や、粗雑なシーツが、其の暗さで、艶めかしい光を反射させる。
工夫の賜物、という気がして、周は、其の光を興味深く思ったのだった。
そして、店にあった蛸のオブジェ。
何故か、蛸の足に、裸身の女性が絡み付いていたが、蛸の像の出来が凄く良かったのである。
如何いう人が、如何いう事を考えて作ったのかな、と周は思ったのだった。
そう、あの場に居たのは周だった。
紛れもなく自分だった。他の誰でも無かった。
―そうだ、あの女の人、如何して泣いていたのかな。
確かに周は、あの店に二度と行く気は無かったが、何だか、何と答えれば良かったのだろうか、と思った。
何だか、自分が傷付けた様な気持ちになったのだ。
周が働くのと同じように、あの店で働いている、ただ其れだけの人を、何かで傷付けてしまった気がした。ただ、また行く、と言うと、嘘になる。嘘は余計傷付けそうだった。
竹田さんが、ボンヤリしている周に絡んできた。
「如何した綜一ぃ」
「ああ、あの、御店の女の人、如何して泣いたのかなって」
「んあぁ?」
粗悪な酒のせいか、酔いの周りが相当早いらしい。竹田さんは、段々呂律が回らなくなってきている。
周は掻い摘んで説明した。
「ブスに描いただろ」
「…そんな心算は無かったですけど」
事実、化粧のせいなのか、美人の部類だとは思ったのだった。
竹田さんは、へへッ、と笑って、酒臭い息で続ける。
「綜一からしたら、大体の女はブスだろ。此の色男」
「…そういうの、分かんなくて。絵に描く分には、どんな顔も面白いですもん」
そう、分からない。
綺麗な顔は分かるが、良い顔、悪い顔、というのは、周には無いのだ。
苦手だった伯父の顔ですら、不細工だとは思うが、絵に描く分には面白そうだと思うのである。
絵に描く、という事で、事象は、周の中で平均化されてしまう。
俯瞰してしまう。
美しいから描く、醜いから描く、という、良い、悪いに分けられる事では無いのだ。
其れは、ただ其処に在る、というだけのもので、其れを写し取る分には、周の中で、其れは、ただ其れだけのものなのだ。
「ほんなら、俺を描いて見ろぃ」
「え?良いですけど」
周が、そう言うと、竹田さんは、紙屑の重ねてある場所から、ゴソゴソとチラシを取り出してきた。
ほれ、と言われて、周は、はい、と言って、着ている作業着の胸ポケットから、鉛筆を取り出した。
竹田さんは、ゲジゲジの眉毛をしている。
団子鼻だが、痩せているせいか、頬は少し痩けていて、全体的にシュッとした印象がある。
目は落ち窪んでいるが、小さくはない。
出来ました、と言って、周が竹田さんに手渡すと、早いな、と言った。
そして紙を見るなり、いきなり、アツシ、と言った。
「…アツシじゃねぇか。これは、アツシだよ、アツシ」
「え?」
「弟だよ、これは、アツシだ、アツシ」
そう言いながら、竹田さんは泣き出した。
「竹田さんの絵ですよ?」
「俺が、こんな、優しい顔、しているわけがないじゃないか、これは、アツシだ」
アツシ、と言って、竹田さんは号泣し始めた。
竹田さんは優しいけどな、と周は思ったが、あんまり竹田さんが泣くので、何も言えなかった。
泣き声を聞き付けて、奥さんが来てしまった。
周は気不味くなった。
奥さんが既に髪を解いていて、寝間着の浴衣姿だったので、余計に気不味い。
奥さんが、髪を掻き揚げながら、大きな溜め息をついた。
「ごめんなさいね、この人、寂しいのよ」
そうなのかも、と周は思った。
奥さんが竹田さんを布団に寝かせてしまったので、帰ります、と言って、周は自動球遊機店を後にした。
何時の間にか階下の自動球遊機店は営業が終わっていて、真っ暗だった。
近くの飲み屋ばかりが賑やかで、蓄音機が壊れているのか、調子外れのレコードの音に合わせて、数人が歌っている様な声がした。
何故か、竹田さんは工場を辞めてしまったので、周は、それきり、武田さんに会う事は無かった。
女性と蛸、という発想は、江戸時代から有るようですが、周二は、まだ絵の勉強をしていないので、それを知りません。
例)葛飾北斎(鉄棒ぬらぬら) 文化11(1814)年の艶本(春画) 『喜能会之故真通』(全三巻)の一場面。
『蛸と海女』という通称で知られる無題の絵。