坂本綜一 誕生
十一月二十三日になった。
今日は彰二の誕生日なのだが、偶然、綜一の誕生日でもあると告げると、彰二は、居間の卓袱台で白湯を飲みながら、偶然でしたね、と言った。
「双子でも周さんは二十四日生まれでしたっけ」
「うん、難産だったらしくて、日付跨いじゃったの」
周の言葉に、彰二は、気不味そうに、そうですか、と言った。
あ、ごめん、と周は言った。
「戸籍じゃ、もう坂本綜一で、誕生日も、彰ちゃんと同じ日なんだから。慣れなきゃね」
じゃ、と言って、湿っぽくなる前に、周は、居間を後にした。
兄と、友人の他界を知ってから、気分の浮き沈みが激しいのだ。
縁故で入社させてもらえた会社にも上手く慣れて来たが、此の世に、最愛の兄が居ないという事だけが、如何しても受け入れられない。
由里が、周兄様、と言って、後からついて来た。
「御誕生日なんだったら、御祝いしてあげるわ」
周は、気にしないで、と言った。
「そんな習慣無かったから。其れに、誕生日は嫌いなの。俺の御母さんが死んじゃった日だから」
周が、そう言うと、由里は、そうなのね、と言った。
「ね、こっちに来て」
「え?」
戸惑う周の腕を引きながら、由里は自室に駆けていく。
周は、由里の部屋に初めて入った。
最近は静吉が此処で由里と寝て、周は、仏間を使わせてもらっているのである。
だから、何と無く悪い気がして、同居しているとは居え、由里の自室と静吉の書斎には、足を踏み入れた事も、中を覗き見た事も無かったのだった。
由里の部屋の中は、スッキリと物が少なかった。
六畳くらいの畳の部屋の一部が板張りになっており、古風な鏡台と赤い文机、アップライトのピアノ、大きな桐箪笥が入っている。
何時も聞こえてくるのは、此のピアノの音か、と周は思った。
「ピアノ、初めて見た」
「そうなの?」
「学校にオルガンは在ったけどね」
教員だった、親友の辰顕の叔父、顕彦が時折弾いてくれたものだ。其れが恐らく、周の知る、唯一の洋楽器である。
由里は、特別よ、と言って、ピアノの蓋を開け、ピアノの前の椅子に腰掛けた。
「さ、好きな鍵盤を押して」
「け、けんばん?」
周は、戸惑いながらも、此れかな、と言って、黒い鍵盤を一つ押した。
ポーン、と、良い音がした。
すると、其の音を受けて、由里が両手を動かした。冴えた音が鳴る。
「さ、押して。押して」
言われる儘に、好きに鍵盤をポーンと鳴らすと、由里が、其の音に続いて鍵盤を鳴らして曲の様にして奏でてくれる。
―楽しい。
一頻り、そうやって楽しむと、弾くのを止めた由里が、少し頬を紅潮させて、周に笑顔を向けてきた。
―ああ、そうか。
由里なりの慰め方なのだろう、と思い、周は素直に感謝した。
以前、周の母が百合の花を愛していた事や、双子の兄の存在を看破された時には不思議に思ったが、母が愛した花、『ゆり』という音の名前も含めて、慕わしく感じている、此の、小さな存在に、周は心から礼を言った。
「由里ちゃん有難う。面白いね」
「そう。あ、そうだ。一緒に絵を描くのは?其れなら一緒に遊べるかしら」
「え?良いよ」
周が、また、戸惑っていると、由里が自室の押し入れを開けた。
上の段には布団、下の段には楽譜や本が入っている。
其の上に、黒い革の、箱型の鞄があった。
「あ、ランドセル?」
此れが噂の、と、周は思った。
やんごとない方々が通う小学校では明治の頃から使用されていた通学用の鞄で、次第に庶民にも普及し、今では、都市部の子供達は、此れを使って通学しているのだと聞く。
未だ見た事が無かったが、此れがそうなのか、と、周は感心した。
田舎では風呂敷登校が当たり前で、其れでなくとも物が無かったのである。
道中焼け野原を見続けてきた周は、やっと、如何やら自分は都会に来たらしい、と思った。あと十年もすれば、此れを全国の小学生が背負うようになり、色も男女で黒と赤に分かれるのが主流になるなど、此の頃の周は知らない。
「そう、ランドセル。ほら。学校も、行けなくなって随分になるけど」
校舎が空襲で焼けたのだそうだ。
そんな光景も、もう見慣れたものだなと周は思った。
由里は、ランドセルの中から帳面を出した。
そして、其れを周に手渡すと、また押し入れの中を漁った。
「あった、クレヨン。絵具も要る?」
「え、いいよ、今時分、貴重でしょう?」
此の物資不足、食糧不足の最中である。
紘と周の共通の親友である辰顕の従弟、貴顕は、空腹のあまり、甘いといって画材を食べてしまっていたくらいだった。
しかし、由里は、屈託無く笑っている。
「良いじゃない、こんな時でもないと、最近は絵も描かないのだもの」
ああ、此れもやはり、由里の思い付く限りの慰め方なのだ、と、周は思った。
絵が好きだという周に、子供ながらに何か考えてくれているのである。
周は、素直に有難うと言って、由里が渡してくれたクレヨンの箱を受け取った。
「海ぃ行ぅかばぁ、水漬ぅく屍ぇ、山ぁ行ぅかばぁ」
「如何したの、由里ちゃん、急に、そんな歌、歌って」
突然由里が、そんな軍歌を歌いだしたので、周は笑った。
「あ、あのね。此れを歌っていたでしょ?三味線?ちょっと違うわね。凄く歌の上手い人」
周は、まさか、辰顕の叔父、顕彦の事であろうか、と、ギクリとした。
オルガンの件から、暫く、周の頭の片隅に、其の人が思い出されていたのだった。
戦時下、軍歌だろうと何だろうと、割と御構い無しに歌っていた。
周の尊敬する教員でもあった顕彦は、箱三味線という郷土楽器を、殊に得意としていたのである。
「え?由里ちゃん?誰の事言っているの?」
「会えるかな?描いてみて?」
「え?」
「何でもいいから、描いてみて?」
周は、戸惑いながらも、言われるまま、適当に、青いクレヨンを握って畳の上に胡坐をかいて、帳面を畳の上に置き、スッと線を引いた。
『海ぃ行ぅかばぁ』
突然また、何処からか歌が聞こえてくるような気がした。
何故か周は、其れを顕彦の声だと思った。
『水漬ぅく屍ぇぇ』
歌詞のわりに曲調が明るいよね、此の歌、と周は思った。
そして、此れはやはり顕彦の声だ、と思った。
周は彼を先生と呼んで慕っていた。
―先生に会いたいなぁ。
『山ぁ行ぅかばぁ』
周は、顕彦の歌が好きだった。
喋っている時よりも、歌っている時の声の方が好きなくらいだった。
話している時は、そう低くも感じないのだが、歌うと低く、伸びのある声になるのだった。
―ああ、故郷に帰ったみたい。
何だか、ドンドン水の中に潜っていく様な感覚を周は覚えた。
辺りが水色の透明な膜を通して見た景色に思える。
周は海になど潜ったことは無いが、川の中に潜ると、深い場所では、こんな感覚があったものだ。
周の握っているものは、クレヨンではなく、由里の手になっていた。
周は目を閉じる。
コポポ、コポポ、ボー、という音が断続的に聞こえる。
音は次第に太鼓の音に似てきた。
心音だ、と、周は何故か思った。
―誰の心音だろう。ああ、当たり前じゃないか、此れは、自分の双子の片割れ。そして。母だろうか。
水は、全てが青い花になり、足元に花畑として広がった。
花畑と、空と海とは、境が分からないくらい青く、暖かく、周二と由里を包んでいる様に思った。
周が目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。
由里と手を繋いだ儘、由里を抱いて寝入ってしまっていたらしい周は、自分が新三と奈穂子に見下ろされている事に気付いて、ギョッとした。
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こりゃまた随分と迂闊な人だなぁ、と、彰二は思った。
十七の男が、血縁でもない十二の女児と抱き合って一緒に寝ていたのである。
―そりゃ警戒されるだろうに。
偶々、彰二の誕生日を祝う為に、珍しく煮物を持って来た伯父夫婦が、由里が自分達を出迎えない事を不審がって、由里の自室に向かったところ、そんな光景を発見してしまったのである。
新三は軽く注意しただけだったのだが、新三の妻の奈穂子は、自分の娘の様に可愛がっている由里を守る様に抱き締めると、さっさと自分達の家に由里を連れて帰ってしまった。
無理からぬ事である。
しかし、実は、彰二自身は、其の様な、ふしだらな事には感じていなかった。
本当のところ、彰二は、由里の部屋に周が居るであろう事を薄々知っていたのだった。
ピアノの音が変だったからである。
由里は、奈穂子以外の人間にピアノを触らせない。しかし、今日は、全く演奏の心得の無い人間が叩いたのであろう何気無い音が、由里の演奏の中に混ざっていたのである。
其れは、信じ難い事ではあるが、由里が誰かにピアノを触らせた事を意味していた。
家に居る可能性の有る人物は、自分でも静吉でも紘一でもないのなら、消去法で周しか居ない。
よく分からないが、と、彰二は思った。
由里は恐らく、周二を慰めようとしたのであろう。
そして、其れには、大事な物を触らせるか、一緒に遊ぶくらいしか、由里には発想が無かったのだろう。
彰二の様な爛れた慰め方を、発想として持たないに違いない、と思われた。
そして、と彰二は思った。
彼らは恐らく、遊んだのだ。
―十七の男が、付き合いの良い事で。ああ、明日には十八か?
彰二は、現場に残されていた帳面を見詰めて、思ったのだった。
其処には、ただ、青い線が一本引かれていただけだったが、彰二には、何故か分かった。
其れは理屈では無かった。
周二と由里は遊んだ。
其れも、もっと、山の様に高い様な、海の様に深い様な場所で。例えるなら何か、二人にしか入れない花園の様な場所で、二人は遊んだのだ。
そう、例えるなら其れは、其の、帳面に引かれた一本の線の中で。
―あの線は水平線だ。あの線より上は空で、下は海だ。
そんな場所で、ただ二人は遊んでいたのだ。
其処には恐らく、奈穂子が警戒する様な事は何も無かったに違いない、と、彰二は、何時になく、妙な確信を持っていた。
其れは、彰二には珍しい事だった。
そんな科学的でない考えは好かない。
だが、そうだとしか、何故か思えなかった。
此れが、伯父夫婦でなく、静吉や紘一に見付かったのなら、布団を上から掛けられて終わっただけの話だったのではないか、とすら思える程だった。
実際、事態を知っても、静吉と紘一は大した反応を示さず、そうか、由里は、今日は彼方の家で寝るのか、とか何とか言っていた。
そんな暢気な二人を、新三は少し諫めたという話だが、どの程度伯父の意図が伝わったかは、彰二には伺い知る事が出来なかった。
しかし、あれは自分も悪かった、と彰二は思った。
妹と、血縁ではない青年が一緒に居ると知っていて、見逃したのである。
賑やかだな、などと、ただ思うだけで、自室で久し振りに読書をしていたのだった。
本来、気にして部屋に介入して止めるべきだった。
しかし、紘一や周二相手だと、如何にも毒気を抜かれるというか、全く、そういう邪推が出来ないのである。
そしてやはり、考えれば考える程、周二は妹に悪さをしない、と思えるのだった。
周二と由里との間には、恋愛感情すら無いであろう。
何なら、伯父夫婦に見付かる前に、警告しに行けば良かった、とまで思った。
妙な話である。
自分が、其処まで周二を信用しているとは、彰二は、自分が自分で信じられなかった。
結局其れ以降、由里は、殆ど伯父夫婦の家で過ごす様になった。
奈穂子が相当警戒していたものと思われる。
其れは、女児の保護者としては正しいのであろう、と彰二は思った。
そして、あの一件から一週間しないうちに、伯父の家から赤飯が届けられた。
此の食糧不足に、と驚きながらも、彰二は妹の初潮を察した。
まさか、あの時の豆だったら嫌だな、と思いながら。
あの、如何にも華奢な妹の体が、其の様な成長の兆しを見せていたとは、露程も思ってはいなかった彰二だったが、何故か、其れは、あの一件に関係している気がした。
確証は全くない。
しかし、由里が成長したのだとしたら、其れは周の御蔭、という風に、何故か彰二は思った。
初潮を迎えたらしい妹は、急速に女性らしく成長していった。
しかし、彰二には、何故か、由里が以前より逞しく、少し中性的に見えるようになった。
背も髪も伸び、何と、あれ以降、小児喘息の発作を起こさなくなったのだという。
しかし何故か、あれ以降、妹の瞳の色が濃くなったように、彰二には思えた。
父や、兄の紘一そっくりの、色の薄い黒曜石を思わせる様な輝きを放っていた瞳が、常人の其れと変わらぬような、落ち着いた光を湛えるようになった。
手も、女性にしては急に大きくなったように、彰二には見えた。
其のせいか、演奏も、グッと上手くなった。
由里が力任せに弾いていたショパンの音色に、余裕が生まれたのである。
そんな事が有るだろうか、と彰二は訝しんだが、誰に言っても信じてはもらえまい。
其れは、ただ一言、由里の成長と言って片付けるのが賢い態度というものだった。
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迂闊だったな、と周は思った。
女の子の部屋で二人きりだったのに、全く考えが足りなかった。
奈穂子に嫌われてしまったかもしれない、と思うと、周は少し悲しかった。
しかし、周の迂闊さが原因なのだ。其れは甘んじて受け入れよう、と周は思った。
何故なら。恐らく多分、周と由里は、少し混ざってしまったのだった。
以前の周とは、何かが違ってしまったのである。
髪の色が、以前より濃くなった気がする。
そして、髪質が、以前より少し柔らかくなったのだ。手触りが、まるで違う。
そして、唇の色が、以前より赤くなったように感じられる。唇ばかりが、十歳は若返ってしまったかの様に柔らかで、艶やかになった。
オマケに、空気の悪い、風通しの悪い場所が少し苦手になった。行きたくない、と思ってしまうのである。そんな事は、今まで無かった。
そして、一番大きな事は、心の何処かが、一部分、分厚くなった事だった。
他人の言動に傷付きにくくなった。
あれは、性交などでは断じてない。しかし、根源としては、最も性交に近いものだったように思う周である。
一度、由里と母胎に回帰して、一緒に生まれ直したかのようだった。
交配とか、交雑に近いのだろうか、兎に角、あの時、由里と周は、少し混ざってしまったのだった。
由里の一部を貰って、自分も、自分の一部を由里に渡したのだ。
其れは、由里の勝手で行われた事だという気が周はしていた。
しかし、少しも腹が立たなかった。
如何やら自分は、由里に、血を分けた兄妹、というものにしてもらえたらしかった。其れが、由里の精一杯の慰めだったのだ。そんな愛情表現を、周は知らないし、由里以外の誰にも出来ないだろう。由里は、周を、そんな風に受け入れて、家族にしてくれたのだった。
変化は、もう一つ有った。
由里と離れていても、由里の機嫌が大体分かるようになってしまったのである。
其れによって周は、屈託が無いと思っていた由里の、様々な葛藤を知った。
自分の何かも、由里に知られるようになってしまったのかも知れないが、其れも、少しも嫌ではなかった。