坂本彰二 小豆
偶然次の日の昼、珍しく、小林が、此の暑いのに、国民服姿の儘で、彰二の家まで来てくれた。
「…坂本、今まで、有難う」
聞けば、弓の婚約者が復員したのだと言う。
其れは良かった、と、彰二は、心から言ってしまって、そんな自分を、心の何処かで恥じた。
用済み、という扱いをされた事に、全く傷付く事が出来なかったのだ。
恋愛でも何でも無く、食べ物の為で、相手の何にもなれない関係だった事を、再認識してしまったのである。
昨日、彰二の清らかさに感じた羨望の方が、感情としては強かったくらいだったのだ。
ごめん、と言う小林に、いや、と彰二は言った。
「姉弟で、ああいう事をしたくなかった気持ちは分かるから。御互いの秘密にしよう。俺も、年上の女の人との、秘密の恋愛だったと思う事にするからさ。毎度、食べ物も助かったしよ。…嫌な思いして、集めて来てくれたもんも有ったんだろ?」
ごめん、と言って、小林は、泣きながら、袋に入った小豆を寄越してきた。
袋の中身を見ながら、彰二は瞠目して、言った。
「小林、此れ…。いや、此の時期に、よく、こんな…。小豆なんて、何処で?」
「母さんの枕の中身。肩が凝るからって、小豆で枕を作ってたの、思い出して。…食べられるか、もう、分かんないけど」
「…形見の枕、切って、中身出してくれたのか?御母さんの…」
未だ形見か如何か分かんないけど、と言って、強がる様に、小林は、日に焼けた顔を向けて、笑ってくれた。
「受け取ってくれ。其れで、此れきりにしよう。俺も、もう来ない。有難う。…最後の一線超えなかったのは、坂本の御蔭だ」
シーッと言って、彰二は、自分の右手の人差し指を、自身の唇に当てた。
「態々言わなくていいから。其れと、悪いよ、小豆。俺、今日は弓さんに会ってないんだし。今時分に、こんな貴重なもん、受け取れねぇ」
受け取ってくれ、と小林は、悲しそうに笑って言った。
「妹さんが居るんだろ?大事にしてやってくれ」
彰二が小林、と言うと、相手は、振り返らずに、ダーッと走って行ってしまった。
以降、二度と、小林と会う事は無かったし、小林の家の方面にも向かう事は無かった。
其の後、不安は、静吉と紘一が戻った事で、雲散霧消してしまったらしかった。
結局彰二は、一連の事を、食料が乏しい不安からした事、と結論付けて、忘れようとした。
其れでも、卑屈な女はもう御免だ、と思った。
多少、我が儘で高慢ちきでも構わないから、自己主張をハッキリしてくれる方が良い、と。
こうして、『売春』と『初恋』との境界線が酷く曖昧な、彰二の一夏の人間関係は幕を閉じた。
自身の精神性の低さと、怠惰への簡単な順応に、ヒモになるのだけは避けたい、という教訓を得ながら。
そして、小豆は、級友の小林が由里にくれた、と言って、松濤の家に持って行ってしまい、奈穂子に大変感謝され、彰二は更に気不味い思いをした。