怒り、悲しみ
大聖教会へ身を寄せてからというもの、レイナートのさまざまな怒りの感情を目の当たりにしてきた。
けれども今、この瞬間がもっとも怒っていると言っても過言ではないだろう。
よりによって、三誌出た新聞の中からゴシップ誌を読んでしまったなんて。ついていないとしか言いようがない。
彼が怒るのも無理はないだろう。処女を捧げたなんて、でっち上げられたのだから。
実名は書いていないとはいえ、私の傍にいた近しい男性なんてレイナートしかいない。年に一度あった露台から行われる国民への顔見せでも、レイナートはずっと私の隣にいた。国民ですら、相手はレイナートだろうなと勘づくに違いない。
ここは彼の怒りを一身に受けよう。そんな覚悟をもって、レイナートと視線を合わせる。
「ごめんなさい。ここしばらく、騒がしくなると思うけれど」
「そんなことはどうでもいいのです」
レイナートはテーブルに手をつき、身をかがめて接近する。
整った顔が眼前に迫る。怒っていても、レイナートは美しかった。
そんな彼が、地を這うような低い声で問いかけてくる。それは、私が欠片も想像していなかった質問であった。
「ここに書いてあった相手は、いったいどこの誰なのですか?」
「え?」
「あなたの想い人は、大聖教会の誰かと聞いているのです!」
レイナートの睨みは鋭くなり、声も低くなっていく。けれどもそんなことはどうでもよかった。
「レイナート、今、なんと?」
「あなたは誰に想いを寄せていたのか、聞いたのです。隠さず、正直に言ってください」
口元を押さえ、しばしレイナートの言葉を反芻する。
彼は聞いた。私が懸想している相手は誰なのか、と。
もしかしなくても、レイナートは私が好きな人が自分であると気づいていないのだ。
危うく、笑ってしまいそうになる。慌てて口元を押さえた。
だが、間に合わずに少しだけ声が漏れてしまった。
「――うっ、ふっ……!」
「泣きおとしは効きません。正直に答えてください」
堪えた笑いは、嗚咽と勘違いしたらしい。彼は本当に、新聞に書かれてあった初恋の相手が自らだとわかっていないようだった。
もう限界だ。レイナートの質問を無視し、立ち上がる。
「っ! ご、ごめんなさい!」
その場から全力疾走で立ち去る。レイナートはあとを追おうとしたが、護衛騎士の「私たちにお任せください」という声に制止されたようだ。
部屋に戻るなり、私は寝室に飛び込む。
枕に顔を押し当てて、大爆笑してしまった。
その様子を不思議に思ったスノー・ワイトが、寝台に跳び乗って問いかけてくる。
『何か愉快なことでもあったの?』
「ええ」
しばし大笑いしたあと、スノー・ワイトに説明した。
「というわけで、レイナートは初恋相手が自分だって、勘づいていなかったというわけ」
『難儀な男ね。これまで自分が大切に思っていた王女殿下に、悪い虫が付いていたんだって知らされて、激怒していたってわけなの』
今回の件で気づいてしまう。
私がレイナートに対して抱いていたのは恋だった。けれども、レイナートが私に抱いていたのは家族愛なのだ。
レイナートはきっと兄のような愛で、私に接していたに違いない。
それを思うと、今度は泣けてくる。
『あなたの感情、まるで沈んでいく夕日みたいね』
地平線に浮かび、あっという間に消えてなくなる夕日――たしかにそうだ。
少し前まで楽しかったのに、今はまるで暗闇の中を彷徨っているような気分だった。
「でも、これでよかったのかもしれません」
『あら、どうして?』
「レイナートに恋心が知られずに済んだので」
『ふうん、そう。あなたの恋は、複雑なのね』
それは絡みに絡んだ刺繍糸みたいだ。あまりにも複雑に絡み過ぎて、きれいに解くのを諦めてしまった。
そんな刺繍糸はもういいやと放置されてしまう。一生懸命解こうとする余裕なんてないのだ。
心の中で輝いていた恋は、一方的なものだった。
一生気づかなければ、幸せだったのかもしれない。
「恋心なんて、叶わないとわかった瞬間に消えてなくなればいいのに」
思い出とともに大切にしようと思っていたのに、今はわだかまりとなって心の中でもやついていた。
夜――落ち込んでいた私に追い打ちをかけるかのように、アデリッサ様がやってくる。
勢いよく扉を開き、ずんずんと大股でやってきたのだ。
「これ、どういうつもりなの?」
足元に叩きつけられたのは、貴族向けに発行されている新聞である。
「あなた、やっぱりレイナート様を目的に大聖教会へやってきたのね!」
本人には伝わなかったのに、アデリッサ様にはきっちり伝わったようだ。
「こんな手を使ってレイナート様を射止めようとしているなんて、ずる賢いとしか言いようがないのよ!」
今回の件が悪知恵だったことは素直に認めよう。けれども、それをきっかけにレイナートの気を引こうとしていたわけではない。その点だけは否定しておく。
「アデリッサ様、わたくしは別に報道を利用して、レイナートの気持ちをこちらに向けようと考えていたわけではありませんの」
「だったらどうして、このように低俗な記事が掲載されるの? こんな醜聞、王族の権限でいくらでも止められたはずなのに」
「報道の自由というものがありますから。それに、もうわたくしは王女ではありませんし」
これで話は終わりだと思いきや、アデリッサ様は勝ち誇ったような微笑みを浮かべる。
「まあでも、落ち着いていられるのも今のうちだわ」
「どうしてですの?」
「お父様が、レイナート様との結婚時期を早めようと言っているの。私は近いうちに、レイナート様の妻になるのよ!」
ああ、そういうことか、と納得する。
何も思わないわけではい。けれども、レイナートが決めた選択だ。それに関して何か物申す権利なんてあるわけがない。
「どうして黙っているの? なんとか言いなさいよ」
「……どうか、お幸せに」
悔しがってほしかったのか、アデリッサ様は「何よ、それ」とだけ返し、そのままいなくなってしまった。




