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結婚したいので、騎士辞めます。

作者: みのり

 夕日を背に馬に乗って跳ね橋を渡り、訪問者を警戒する門兵を笑顔に変えて門を通る。すぐに馬から降りて近付いてきた馬番の青年に手綱を渡し、埃が舞う広場を最短で突っ切って城内へと続く階段を駆け上がった。


 領主の護衛を任されている者は、他の兵士の模範でなければならない。どんなに急いでいようとも落ち着いた身の振る舞いを心がけねばならないのだ。騎士たる者、己の存在意義は忠誠を誓う主人あってこそなのだから、その御尊顔に泥を塗るような言動はご法度である。


 しかし今はそんな戒めなど後回しだ。早くこの書類を主人の元へ届けねばならない。ようやく掴んだこのチャンスを逃すわけにはいかないのだ。


 「領主様は今どちらにおられる!?」

 「領主様でしたら執務室におられますよ。」

 「執務室だな!分かった!」


 急いでいる時に侍従長に会えたのは幸運だった。侍従長に礼を言って階段を上がり、歩き慣れた廊下を速足で突き進む。さすがにここで足を鳴らせば主人の耳に届いてしまうので、極力足音を立てないようにした。


 己の中で張り詰める緊張と高揚感、そして乱れた呼吸を整えて、静かに扉をノックした。


 「ティアナスタ・トラバリンです。」

 「入れ。」

 「はっ。」


 ティアナスタは静かに扉を開けて中に入り、扉を閉めて数歩進んだ。主人に向けて胸に手を当て、一礼する。主人と護衛仲間の視線を受けつつ頭を下げていると、抑揚の無い澄んだ声が耳に触れた。


 「どうした、今日は実家に呼ばれていたんじゃなかったのか?戻りは明日の予定だっただろう。」

 「はい。その予定だったのですが、一刻も早く領主様に許可を頂きたく飛んで帰ってきた次第です。」


 ティアナスタは飛び上がりたい気持ちを内に押し込んで真顔を保ち、静かに頷いた。しかしやはり空気で伝わってしまうようだ。


 冷静沈着なティアナスタのいつもとは違う様子に、主人の側に立つ護衛隊長のジムレイと同僚のヘドウィンが顔を見合わせている。今ヘドウィンが立っている場所には普段ティアナスタが立っているのだが、もうすぐこれが常態になるのだと思うと無意識に口の端が上がった。


 その微かな動きを、主人であるライオネスは見逃さない。濃紫の瞳を細めてティアナスタの手の中にある紙にチラと視線を向け、不機嫌な眼差しを護衛隊副隊長に刺した。


 「許可?」

 「はい。こちらの書類です。」

 「見せろ。」

 「はっ。」


 ティアナスタは歩みを進めて立ち止まり、一礼してから書類を差し出した。もうこれ以上真顔でいるのは無理だ。書類に目を通すライオネスの険しい表情とは正反対の、満面の笑みを浮かべて祝福の言葉を待った。


 「これは…婚姻許可証か?」


 ライオネスの声にザワと周囲の空気が変わる。ジムレイとヘドウィンは目を見開き、ライオネスとティアナスタに交互に視線を向けた。いつもならティアナスタも主人を危険から守る為に僅かな空気の変化にも敏感に反応するのだが、この時ばかりはその勘が鈍った。


 なぜなら婚姻!待ちに待った縁談話が舞い込んできたのだ!


 ティアナスタは騎士として身を立てているだけあって、女だてらに腕っ節が強い。父親譲りの立派な体躯は男と肩を並べる程大きく、日焼けた肌は積み重ねた訓練と度重なる負傷で傷だらけ。さらには両親の残念な部分だけを寄せ集めたような器量の悪さと短髪だ。ハッキリ言って醜女だ。


 そんな女に縁談を申し込む物好きな男など当然いるわけがない。しかしどこぞのバツイチ子爵のおかげで、永遠に続くかと思われたこの独身生活にようやく終止符を打つチャンスが巡ってきた。


 この際バツイチだろうがなんだろうが関係ない。

 歳が離れていても子作りができれば問題はない。

 少々困った性癖があっても、度が過ぎればこの拳でボコればいい。


 あとはこの地の領主であり我が主であるライオネス・バージェント侯爵に婚約・婚姻の許可をもらうだけだ。

 ティアナスタはニコリと微笑み、普段は必要以上に人の耳に触れさせないハスキーボイスを高らかに響かせた。


 「はい!実は今回実家に呼ばれたのは、私に縁談の話があったからなのです!それで一日でも早く話を進めたいと」

 「却下。」

 「思いまして…え、却下?」


 ライオネスの手にあった書類はジムレイの手に渡り、フワリと飛んでティアナスタの手元へ返ってきた。なんと、これは渡り鳥だったのか。な訳あるか。


 聞き間違いだろうか。ティアナスタはサインも印もなされなかった書類を見下ろし、首を傾げて口を開いた。


 「却下と仰いましたか?」

 「二度も言わせるな。何年俺の護衛をしているんだ。」

 「なぜですか!!」

 「お前にはまだ早い。それにまだまだ俺の側で働いてもらわねばならん。」

 「私はもう二十五です!早く結婚して、早く子を産みたいのです!家庭を持ちたいのです!」

 「必要ない。」

 「なぜそれを貴方様が仰るのですかッ!!」


 ティアナスタの悲鳴に似た抗議の声が室内に重く響き渡る。刹那、誰かの唾を飲み込む音が聞こえてティアナスタはハッと我に返った。


 ----しまった!


 謝らなければ。直ちに謝罪し、赦しを乞わねば首が飛ぶ。このままでは家庭に入る前に墓場に入ってしまうじゃないか。


 それだけは嫌だ!せめて一度でいいから男に抱かれてから死にたい!女になってから死にたいんだ!


 今ならまだ間に合う。昔のよしみで情をかけてくれるだろう。

 ティアナスタはギュッと拳を握り締め、勢いよく頭を下げた。


 「申し訳…」

 「何が家庭を持ちたいだ…」

 「え?」

 「お前、相手の男がどんな奴か知っててこの話を受けたのか?」

 「名前と歳と身分と家業、それから二年前に妻に先立たれた、ということぐらいです。それから子はいないと聞いております。」

 「その男の妻が死んだ原因は、ソイツに原因があると噂されているんだぞ。」


 ライオネスはティアナスタの手の中にある紙を指さし、怒りを含ませた声で吐き捨てるように言った。


 ライオネス・バージェントはいついかなる時も冷静・冷徹に対処することで有名な男だ。罪人に酷い刑罰を与える時も、寝所に呼んだ女を抱く時も、感情を一切表に出さない。それを知っているのは情事の最中も室内の衝立の陰に護衛を置いているからだ。ティアナスタはその場に立ち会ったことはないが、そんな話はどこからでも入ってくる。


 そんな男の感情を含んだ声にはティアナスタだけでなく、側に控える二人の護衛も驚きに目を見開いた。


 が、ティアナスタはすぐに平常運転に戻り、背筋を伸ばして正真正銘の真顔を向けた。

 なんだそんなことか、と溜息すら零してしまう程呆れてものが言えなかった。

 この男は本当にライオネス・バージェントか?


 貴族に関する噂話など国中の至るところにあるものだ。それに妻の死の原因が夫にあるからなんだというんだ。剣を手に持ち、常に死と隣り合わせでいる者にとってはそんなことは些末なことだ。それぐらい分かっているだろうに。


 戦場で敵に捕まり辱めを受けて死ぬ覚悟に比べれば、夫に刺される覚悟などたかが知れている。


 ----しかしまぁ、私が騎士として働いているから側に置こうとなさるんだよな。はぁ、有能すぎるのも困りものだ。


 仕方がない。

 騎士でいることは己のたった一つの誇りだったが、こうなっては仕方がない。

 騎士でいるより、結婚して家庭を持ちたい。

 男に抱かれたい。

 我が子を抱きたい。

 そして子が大きくなれば私自ら剣を教えようじゃないか。

 息子でも、娘でも。


 ----うん、そうしよう。


 胸の中を何かがストンと落ちていく。

 ティアナスタはマントに付けていた護衛隊のバッジと副隊長のバッジを外し、ライオネスの机に綺麗に並べた。それをじっと見つめる男の鋭い眼がティアナスタを睨みつける。


 「…何のつもりだ?」

 「私が騎士でいる間はお側に置くということでしたら、このバッジはお返し致します。」

 「騎士を辞めるということか?」

 「はい。剣を置き、一人の令嬢に戻ってこの縁談を受けようと思います。」

 「俺の話を聞いていなかったのか?」

 「聞いておりました。そして、私にとっては大した問題ではないと判断致しました。」

 「…。」

 「後日、改めて私の父が謁見を申し出ると思います。その時はどうぞよろしくお願い致します。」


 ティアナスタは胸に手を当てて一礼し、静かに扉から出て行った。


*


 ティアナスタが騎士を辞めて実家に戻ってから二か月が過ぎた。窓の外は白い景色が広がり、薄く積もった雪には人の足跡でできた道が四方に伸びている。その道を辿るように動き回る使用人を見下ろしながら、ティアナスタは目を剥き大きな口を開けて壁に手をついていた。


 「お嬢様!!もう少し息を吐いて下さいませッ!!」

 「む、無理…ぐるじいぃぃぃ…!!」

 「もっと締めないとドレスの形が美しく出ないのです!!」

 「も、もういい!出なくていい!お願いだからもうやめてく、れぇぇーッ!」

 「え!?きゃあぁぁ!」


 武人とは、命の危機を感じれば無意識に身を守る行動を取ってしまうものである。


 ティアナスタは拷問に匹敵するコルセット刑から逃れる為に、コルセットの紐を手綱の如く握り締める侍女の腕を掴んで壁に縫い付けた。もし何も知らない者がこの状態を見れば、女装をしている途中の男が侍女を襲っているように見えるだろう。それ程に体格差があった。


 「無理だと言っただろ…でしょうが!」

 「ヒッ、も、申し訳ございません!」

 「特注だろうがなんだろうが、こんな物を着けるぐらいならドレスなどいらない。というよりこの身体でドレスは無理があるだろ、でしょう?」

 「そ、そのようなことはありません!」

 「もういい。私は今まで通りチュニックとズボンを着て過ごす。ドレスは必要な時だけ着るからクローゼットに片付けておいてくれちょうだい。」


 あぁ、令嬢言葉ってなんて難しいんだ。

 ドレスを着るのと同じくらい難しいじゃないか。


 兵士なんて大半が男である。しかも副隊長という立場から部下たちに檄を飛ばし喝を入れねばならなかった。そんな時にフニャフニャした口調では誰も言うことなど聞かない。自分が舐められるぐらいならまだマシで、領主の威厳を貶めることにでもなれば領地の存続に関わるのだ。


 だから自然と乱暴な口調になる。そして大声を出し過ぎて喉が潰れ声が枯れた。それが一層ティアナスタを縁談から遠ざけた。


 ティアナスタは侍女を下がらせ、ソファに座ってダラリと身体の力を抜いた。もうドレスなどウエディングドレスの時だけで十分だ。その一日すら耐えられないかもしれない。こんなものを毎日着ている令嬢方を心から尊敬する。


 騎士への道を志してからはドレスを着ることはなくなった。しかしティアナスタがドレスを着なくなった理由は他にもあった。


 ティアナスタには幼い頃に親同士が決めた婚約者がいた。その婚約者とはほとんど会うことは無かったが、会えばこの屋敷の訓練場で剣を交えて稽古試合をしていた。


 結果はティアナスタの全戦全勝。


 騎士の家系に生まれ、一族の中でも類い稀なる剣の才を持って生まれたティアナスタは、当時九歳にして十二歳の婚約者を何度もコテンパンに叩きのめしていたのだ。


 本当ならもう少し手加減しなければならなかった。いや、全敗しなければならなかった。しかし若干九歳のティアナスタにそんな気遣いなどできる訳もなく、気が付けば婚約を白紙に戻されていた。


 そしてあの日。


 婚約が白紙に戻ってしばらく経ったある日のパーティーでその元婚約者と再会し、同じ年頃の子息令嬢たちの前で面と向かってこう言われたのだ。


 「お前のような醜女がドレスを着るな!お前には鎧と剣がお似合いなんだよ!このデカ女!目障りだ、帰れ!」


 憎悪を宿した濃紫の瞳がティアナスタに真っ直ぐ向けられる。


 八歳を迎えた頃からすでに背が伸び始めていたティアナスタは、ドレスが似合わなくなってきていることに大きなコンプレックスを抱いていた。それは元婚約者であるライオネス・バージェントも知るところだった。


 それなのに公衆の面前で罵倒され侮辱されたことに、硝子のような乙女心は粉々に砕かれた。


 ----あの日の夜は泣いたなぁ。あれ以来、怖くてドレスを着られなくなったんだよなぁ。それでもう二度とドレスを着ないと誓ったんだっけ。


 まぁ、今となっては過去の思い出だ。


 その日を境にライオネスとは会わなくなった。騎士としてライオネスの護衛に採用され、まともに顔を合わせるようになる頃には十年が経っていた。


 大人になった二人は互いに過去のことには一切触れず、六年の護衛期間の間は主と従の一線を引いていた。その頃にはティアナスタの中の乙女心もとっくに消えていたので、特に気まずい雰囲気も無かった。ライオネスの方もすでに今のような人格が出来上がっていたので特に何も問題は無かった。


 問題は、ライオネスがいつまで経っても婚姻の許可を出さないことだ。


 風の噂で副隊長だったティアナスタの後任にはヘドウィンが就いたと聞いた。城勤めから離れてから気付いたことだが、外にいる者に城内の情報などほとんど何も伝わってこない。当然と言えば当然なのだが、ついこの間まで領主の側に立ち、情報の中心にいたとは思えない程だ。


 だからだろうか。


 なぜライオネスが許可を出さないのかが分からない。もしかしたら何か事情があって後回しにされているのか?婚姻許可証に許可のサインをしているところを羨望の眼差しで見ていた記憶はあるが、余程のことが無い限り却下することはなかったのに。


 ----何かあったのだろうか。


 こうなったら直接乗り込んで聞いてみようか。

 辞めてからまだ間もないので、ティアナスタ・トラバリンの顔はまだ忘れられていないはずだ。門兵もある程度は融通をきかせてくれるかもしれない。…いや、やはりここはきちんと手順を踏まねば。


 そうと決まればと、ティアナスタは謁見願を出し、年が明けてから会う約束を取り付けた。


 「久しぶりだな、トラバリン卿。」

 「お久しぶりです、領主様。」

 「いや、今はティアナスタ嬢か。ところで令嬢に戻ったのではなかったのか?なぜ男の格好をしている。」

 「これはその…一応挑戦はしてみたのですが、なにせ身体が大きくてドレスが似合わないのですよ。何よりコルセットが苦しくて。鎧を身に付けている方が余程マシでした。」


 ハハハ、と自虐ネタで事実を伝えてみるが、ライオネスはピクリとも反応せずにじっとティアナスタを見下ろしている。以前ならこの程度の軽口に対して『フッ』と笑うぐらいはしてくれたはずなのに、やはりおかしい。


 ティアナスタはコホンと軽く咳払いをして背筋を伸ばした。さっさと本題に入ってしまおう。


 「えーと…そう、本日は領主様にお話があって参りました。」

 「婚姻許可証のことか?」

 「はい。あれから三か月以上が経ちました。そろそろ許可を頂きたいのです。」

 「却下と言わなかったか?」

 「私はもう騎士ではありません。後任にはヘドウィンが就いたと聞いております。」

 「それがどうした。」

 「つまり、私はもう領主様のお側でお仕えすることは無いのですから、認めて頂けない理由が分からないのです。」

 「理由、か…」


 ライオネスは一度目を伏せ、黄金に輝く絹糸の髪をサラリと流して射抜くようにティアナスタを見下ろした。


 「そんなに結婚したいのか?」

 「はい、それはもう!」

 「だったら俺の妻になれ。」


 ピキンッと空気の膜にヒビが入ったような緊張感が謁見の間を支配する。今、言葉通りの麗しき独身貴族であるライオネス・バージェントが、醜女の大女に向かって戯れとしか思えないようなセリフを向けたのだ。


 見なくても分かる。

 この場にいる全員が己の耳を疑っている顔をしている。


 「はい?いいえ、当初の予定通りアキレイ・フレツァー子爵様としたいと思っております。」

 「なぜだ。その男の元へ嫁げばお前も何をされるか分からないんだぞ?」

 「その噂についてなのですが、実はこの三か月の間特にすることもありませんでしたので、フレツァー子爵様について少々調べたのです。」


 ティアナスタは濃紫の瞳の上にある凛々しい眉がピクリと動くのを確認してから、主人に報告する部下の姿勢で口を開いた。


 アキレイ・フレツァーの妻は元々身体が弱く、特に胸を酷く患っていた。

 少しでも長く夫婦でいることを望んで結婚したのだが、結婚して三年目から病状は悪化の一途を辿り、急な発作が頻繁に起こるようになった。


 そんなある日、フレツァー子爵は主治医から残酷な選択を突きつけられる。


 妻が服用していた従来の薬はもう効かない。胸の病に効く新薬があるが、まだ治験が済んでいない為効くかどうか分からない。しかし、今の薬では飲んでも飲まなくても命は助からないだろう。


 フレツァー子爵は妻と相談し、一縷の望みをかけて新薬の服用を決意したがダメだった。


 妻は服用したその日の夕方に息を引き取り、愛する夫に手を握り締められながら永遠の眠りについた。そして今は花が咲き乱れる美しい丘の上にある墓地で眠っている。


 フレツァー子爵には妻以外の女の影はなく、真面目で誠実で、妻一人を愛していた。そんな男がティアナスタに縁談を申し込んだのは、跡継ぎである子を望んでいることと、もう二度と同じ思いはしたくないという理由だった。


 体力のある女性を望んだとき、真っ先に思い浮かんだのが領主の護衛を務めている唯一の女であるティアナスタだったのだ。


 「素敵な方じゃないですか。私にはもったいないぐらいです。」

 「だからなんだ。俺はお前を妻にすると言っているんだ。」

 「またまたご冗談を。何を仰ってるのですか。私は領主様のことを、主人としては心から敬愛しておりますが男性として見ることはできません。」

 「俺に不満があるのか?…そうか、やはり昔のことが原因か…。」

 「えっ、まさか!私たちは元婚約者と申しましても、幼い頃のほんの一瞬の間だけではないですか。それに騎士になってから護衛としてお側にいた時間の方がより濃く長いのです。昔のことなど関係ありません。」

 「では、なぜ俺ではダメなんだ?」

 「不特定多数の女性と関係を持つ男性との結婚なんて考えられないだけです。」


 ピシャリと言い切ってみた。自分でもなかなかの無礼な言葉を吐いたと自覚している。皆まで言われずとも、こんな美形領主の申し出を断るなんて身の程知らずだと重々承知している。


 しかしアキレイ・フレツァーの純愛を知ってしまっては、たとえ愛のない結婚でもそっちの方がいいと思ってしまうのだ。


 むしろその純愛を貫いてほしい。

 その愛を一緒に守ってあげたい。

 自分は心の良い男に抱かれて、子を産めたらいいのだ。

 あとは厳しい訓練にも耐え抜いたこの自慢の肉体と鋼の心で家と家族を守っていくのだ。


 ちょろっとでも文句を言う奴がいたらこの拳で黙らせてやる!


 と思っていたら、真っ向から麗しい顔を向けられフンと鼻で笑われてしまった。

 さすがにこの御尊顔は殴れない。


 「独身の男が複数の女と関係を持っていて何の不思議がある。」

 「不思議には思っておりません。領主様程のお美しいお方が、女性を知らない方が不思議に思うくらいです。」


 眉目秀麗。才色兼備。文武両道。

 大人の落ち着きと青年の若さを併せ持つ、男盛りの二十八歳。


 そんな若き領主の元には連日縁談を申し込む手紙が届いているのを、ティアナスタはいつも羨望の眼差しで見ていた。


 だからこそ思うのだ。

 なぜわざわざ私なんだ、と。

 もっと隣に立つに相応しい令嬢がいるだろう、と。

 貴族として、貴婦人としての教養を身に付けた女など、領内の至るところにいるのだ。


 そして思う。

 護衛としてならいいが、女として妻として、こんな美男と並んで立つなど絶対に嫌だ。

 いい笑い者になるだけだ。

 自分ではなく、我が主ライオネス・バージェント侯爵が。


 「女を知らない男と結婚したいわけじゃないのだろう?」

 「そんなことは申し上げておりません。とにかく、私は領主様の妻になるつもりはございません。どうしても許可して下さらないのなら、フレツァー子爵様とは事実婚として共に暮らします。」


 今さらだが、ライオネスの爆弾発言からここまでの間謁見の間は静まり返り、皆が固唾を呑んで耳を大きくしている。ティアナスタは引く気がないことを示す為に、これまでに二度だけ見せた態度を表した。


 一度目は、戦いの途中で負傷し、城に帰れという命令を拒否した時。

 二度目は、少数の部下だけを連れて敵陣の偵察に向かうと言った時。

 そして三度目が今だ。


 ライオネスはそれを忌々しそうに見つめ、深く息を吸ってゆっくりと吐いた。


 「ならば…俺と勝負しろ。」

 「はい?」

 「俺が勝ったらお前は俺の妻になる。どうだ?」


 今度はライオネスが目を細めてギラリと眼を光らせる。ティアナスタは呼吸を抑え、その光に向けて小さく頷いた。


 負けるはずはない。騎士を辞めてからも訓練は怠らなかった。

 相手がたとえ主人でも剣を交える以上は全力で立ち向かう。


 「いいでしょう。では、私が勝ったら許可を頂きます。」

 「分かった。」


 ライオネスは椅子から立ち上がり、階段を降りて領主専用出入り口から出て行った。


*


 久しぶりに足を踏み入れた訓練場は、雪でぬかるんだ土の上に乾いた土が被せられていた。


 ----ったく、こういう情報だけはあっという間に広がるんだよなぁ。


 普段の訓練で使用する時は、土がぬかるんでいようが嘔吐物で汚れていようがそのまま使用する。実戦ではこれが雪ではなく人間の血や臓物で埋め尽くされているからだ。足を滑らせ、肉の塊につまずきながら戦うのだから、いちいち土を綺麗になどしないのだ。


 ではなぜこんなことをしたのか?


 元婚約者同士である領主と元護衛騎士が互いの結婚を賭けて戦うからだ。

 どこのどいつか知らないが、そんな面白そうなイベントに相応しい舞台を用意してくれやがったのだ。


 十中八九、護衛隊長のジムレイに違いない。


 ティアナスタが剣を片手に溜息をついていると、訓練場を囲う野次馬から歓声が上がって視線を向けた。

 麗しの我が主のご登場だ。


 「待たせたな。」

 「いえ。それよりこのような大騒動になってしまっては彼らの業務に差し支えます。退散させましょうか?」

 「いや、構わない。このまま見させておけ。」

 「かしこまりました。」

 「ククッ、お前はもう俺の部下じゃないだろう。」


 ライオネスは剣を軽く振りながら中央へと足を進めた。


 冷たい風が男の身体を避けているのか、美しい金糸は一筋の乱れもなく毛先を揺らめかせている。光を受けた濃紫の瞳は澄んだ硝子細工のように艶めき、そこに立っているだけで天の使いが降臨したと錯覚させた。


 こんな美しい男に求婚されて断るような愚かな女は二度と現れないだろう。


 ----さっさと勝負をつけて目を覚ましてもらうか。


 ティアナスタも剣を振って中央へ歩み寄り、ライオネスの前に立った。

 体格は互角。力はライオネスに敵わないが、技はティアナスタの方が上だ。


 互いに睨み合い、腰を落として地を蹴った。

 力と技で弾き合うのなら、勝負を決めるのは速さだ。


 速さはティアナスタの最も得意とする分野だった。身軽だからではない。脚と腰の筋力が並の人間よりも優れているからだ。そのしなやかな筋力が生み出す剣捌きを次々と男に叩き込み、じわじわと追い詰めた。


 「クッ、クッ…!」

 「はあぁぁッ……ッ!?」

 「ティアッ!!」


 最後の一撃を振り下ろそうと踏み込んだ瞬間、身体が仰向けになり天が視界を覆い尽くして後ろへ傾いた。

 ぬかるみに足を滑らせたのだ。

 ところが目に映るものは、ぬかるんだ土と地についた己の両腕だった。


 全てが一瞬の出来事に、何が起こったのか分からない。ただ、妙に手首が痛い。

 ティアナスタが身体を起こそうと片手を地につけた瞬間、周囲から悲鳴が聞こえてバッと顔を向けた。


 「領主様!!」

 「…」

 「なんてことだ…おいッ、誰でもいい!医務室へお運びするから、すぐに治療の準備をしろと伝えに行け!!」


 ティアナスタはうつ伏せで横たわるライオネスの身体をそっと起こして『うっ』と顔を顰めた。

 額にできた抉れた傷から血が流れ、ライオネスの美しい顔に赤い筋を作っている。視界の端に地面に置かれた木箱が映り、その側に血が落ちていた。


 ----アレの角に当たったのか!!私を庇って…


 もしもライオネスに腕を引かれなかったら、ティアナスタの後頭部が当たっていたかもしれない。


 だからなんだというんだ!!

 元とはいえ護衛兵だ!護衛を庇って護衛対象が負傷するなど、絶対にあってはならないことだ!!

 何の為に命を張ってると思っているんだ!!


 ティアナスタはグッと奥歯を噛み締めて言葉を呑み込み、ライオネスの肩下と膝の下に腕を通して抱き上げた。


 「う…」

 「良かった、意識はありますね。すぐに医務室にお連れ致します!」

 「ティア…無事か?」

 「…ッ!私は無傷です!このようなこと…とにかく急ぎます。揺れますので私の服にお掴まり下さい!」


 ライオネスの返事を待たずに走り出す。

 ティアナスタは己を見つめる濃紫の瞳に気付かぬまま最短距離で医務室へ向かった。


*


 「う…」

 「お気付きになられましたか!?」

 「大声を…出すな。頭に…響く…。」


 薄暗い部屋のベッドに横たわる男が眉間にしわを寄せて目を瞑っている。手術用の麻酔の副作用のせいで顔色が悪い。サイドテーブルに置かれた小さな灯りの火が眩しいのか、暗闇を求めて顔を背けた。


 額に巻かれた包帯と襟についた赤い染。

 医師は、傷痕は残ってしまうと言っていた。

 己の不注意のせいで唯一無二の美しい顔に醜い傷痕を残してしまった。

 戦の中で受けた名誉の傷ならまだしも、こんなお遊びの勝負で怪我を負わせてしまったのだ。


 ----勝負さえ受けなければ…。


 ティアナスタは床に両膝をつき、頭を下げて震える声を潜めた。


 「申し訳ありません。私がついていながら…私のせいで…」

 「なぜ…お前が謝る。お前は騎士でも俺の護衛でもない。それに…愛する女を庇うのは当然だろう。」

 「ッ!!」


 愛する女?こんな時まで何を言ってるんだ?

 気にしないようにとの気遣いなのだろうが、冗談も言って良い時と悪い時があるだろう!


 この顔の熱さは込み上げる怒りのせいだ。

 頬が真っ赤なのもそのせいだ。

 そしてバクバクと脈打つこの胸の鼓動も。


 どうしたというんだ。

 友の死を目の当たりにして悲しみに身を刻まれた時も、迂回か直進か瞬時の選択を迫られた時も、自分を庇って目に矢を受けた部下を担いだ時も、ここまで胸が苦しくなることは無かった。


 どうなってるんだ。

 己の失態で厳罰を受けた時、奥歯を噛み締めて弱音も泣き言も吐かなかった。なのに今は苦しくて苦しくて、まともに呼吸ができない。


 喉が渇く。

 汗が滴る。

 何か言わないと。

 何も考えられない。


 ティアナスタが目を泳がせながら声の出ない口をパクパクとさせていると、ライオネスの澄んだ声が耳に触れたので口を閉じた。


 「ずっと後悔していた。ガキの馬鹿なプライドで…婚約を白紙にしたことを…」

 「…。」

 「どんなに必死で稽古を積んでも…お前にあっさり負けるのが悔しくて…」

 「…。」

 「女で…年下で…婚約者で…」

 「…。」

 「でも剣を振るお前は美しくて…負けたのに尻をついて見惚れていた。そんな情け無い自分を認めたくなかった…。」

 「領主様、あまりお話しになってはお身体に障ります。それに貴方様は決して情け無いお方ではありません。それはずっとお側でお守りしていた我々全員が知っております。」

 

 こんな定型文のような言葉を言いたかったんじゃない。

 でもこれ以外に何を言えばいいんだ?

 己に向けられる甘い言葉を黙って聞いていられる程の強い心臓など持ち合わせてはいないんだ。


 忘れてないか?


 私は泣く子も黙る元鬼副隊長ティアナスタ・トラバリンだぞ?

 醜い顔にさらに傷を作っているような大女なんだぞ?

 声枯れてんだぞ?


 自惚れてはいけない。これは男女のアレではなく、人として惚れるという意味なんだ。

 たった六年、されど六年。

 この六年の間に繰り返された小競り合いのような戦を共に過ごした戦友として…


 「昔…あるパーティーで、俺はお前に酷いことを言った。覚えてるか?」

 「ドレスを着るなと仰ったやつですか?えぇ、覚えておりますよ。今では良い思い出です。」

 「良い…思い出だと?ハッ、俺はずっと悔やんでいたのに。」

 「今も昔も似合わないのは事実ですからねぇ。」


 傷付いたのも事実だが、言えばややこしくなりそうだ。

 ティアナスタはこのまま昔話に話題をすり替えた方がいいと判断して笑い話風に返した。


 しかしそんな元部下の気遣いは一瞬で露と消える。

 ライオネスが手を伸ばし、ティアナスタの頬を撫でるように手を添えているのだ。

 顔色は悪いが、それでも濃紫の瞳の奥には情熱が揺らめき、眼差し一つでティアナスタから自由を奪い去った。


 「お前はあの頃から…背が伸びだして、その分発育も良かったから…ドレスを着たら身体の線がくっきり出ていたんだ。それを男どもが卑猥な目で見ていた。」

 「へ?」

 「我慢できなかった。でも…人目に触れさせたくないなどと言える立場じゃない。だからあんな馬鹿な方法でドレスを着ないようにしようとした…。結局お前を傷付け…浅はかな考えに…後悔が重なっただけだった…。悪かった…。」

 「おやめ下さい!私は傷付いてなどおりませんし、もしそうだとしても昔のことです!忘れる程度のことなのです!領主様に…」

 「ライオネスだ。」

 「はい?」

 「ライオネス…あぁ、いや。昔のようにライナスと呼んでくれ、ティア。」

 「は、はい!?何を…いけません!そのような無礼な…あ!?」


 頬にあった手が後頭部へ回され、ハッとした時には唇が重なっていた。

 見開いた目に映るのは、額に巻かれた包帯と流れる金糸、そして同じ金糸でできた豊かなまつ毛。

 不用意に触れては傷付けてしまいそうな柔らかい感触が、ガサついたティアナスタの唇を優しく覆い尽くしていた。


 「…?…?ッッ!?」

 「うん?お前…もしかしてこれが初めてなのか?」

 「は、へ、は、な、何をッ!!」

 「そうかそうか、それは良いことを知った。キスは諦めても、せめて処女だけは俺がもらおうと思っていたんだ。」

 「な、な、な、」

 「あぁ、良かった。つまりこれでお前の全ては俺のものにできたということだな。」


 何を言ってるんだ。

 何がそんなに嬉しいんだ。

 キスが初めてだからなんだ。

 こんな女の唇を奪いたいと思う男がいたら、とっくに結婚してるだろうよ。

 結婚?ハッ


 ----そ、そうだ、結婚!今は口約束でいいから婚姻の許可をもらってさっさと逃げよう!!


 これ以上至近距離でこの御尊顔を見続けてしまったら絶対に流される。

 ティアナスタは身体を後ろに下げて頭を下げた。


 「領主さ…」

 「ライナス」

 「ラ、ライナス様…」

 「ラ・イ・ナ・ス」

 「お許し下さい!あの、とにかく、その、婚姻許可証のことですが、」

 「あぁ。あれならサインしたくても、もうできないんだ。」

 「許可を…はい?どういう意味ですか?」


 したくてもできないとは?

 え?()()できない?


 「お前が騎士を辞めて実家に帰ってからアキレイ・フレツァーには他の令嬢を紹介した。もうとっくに結婚して新しい家庭を築いているぞ。」

 「は?え!?えぇぇ〜ッ!?」

 「この俺自ら結んでやった縁談だ。奴は光栄ですと言って喜んで受けた。」

 「な、な、な、」

 「お前さっきから猫みたいだな。」


 ニコニコと微笑む(かんばせ)のなんと美しきことよ。

 って、何をしてくれてんだ!!


 「なんてことを!!」

 「うん?当然だろう。死んだ妻の代わりにお前を妻にするだと?この俺の女をなんだと思ってるんだ。」

 「いえ、ですから、そのお話はですね!」

 「奴は身体が丈夫な女なら誰でもいい。だが…」


 ライオネスはベッドに肘をつき、ゆっくりと身体を傾けた。まだ気分が悪いのか、すぐには起きあがろうとはせずに顔を顰めている。


 「領主様、まだ起き上がってはなりません!」


 ティアナスタは咄嗟に身体を支えて寝かせようと抑えるが、その手は男の身体の横を通り過ぎて広い胸に頬が当たった。いい香りがする。


 なんだこれは。

 まさかこれが噂に聞く『抱き締める』という行為なのか?

 互いの肩を強く抱き、健闘をたたえあう抱擁とは全然違う。


 力強く、優しく、扇情的で、甘い。


 ティアナスタが両手を伸ばしたまま固まっていると、普段の冷徹さなど幻だったかのような甘い声が耳に触れた。


 「俺はお前じゃないとダメなんだ。やっと騎士を辞めたお前を、俺が他の男に渡すと思うか?」

 「へ?いや、その、」

 「はぁ、長かった…。やっと女に戻ってくれた。」

 「まさか…だから私が辞める時、引き止めようとはなさらなかったのですか!?」

 「そうだ。あんなチャンスは二度と無いかもしれないからな。」

 「おかしいと思ったのです。まだ働けと仰っていた割にはあっさり辞められたなぁ、と。」

 「あぁ、俺もそろそろ子が欲しいからな。」

 「そうですね、領主様もそろそろお世継ぎを…え?それってもしかして…」


 ハタと我に返ってソロリと顔を上げる。

 すでに爆発寸前だった心臓は男の表情を見た瞬間羽を生やして飛んでいった。


 あぁ…つまりそういうことですよね…。


 「頑張って俺の子をたくさん産んでくれよ?」

 「え、えぇぇ〜ッ!?」

 「ハハッ、普段は無口なのに今日はよく喋るな。そっちの方がいいぞ、ティア。」


 嬉しそうに微笑む男がゆっくりと近付いてくる。


 ティアナスタは息をするのも忘れて目の前で閉じられた瞼を最後にそっと目を閉じた。


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