291話 日常
春となり風も暖かくなってきている。ふわりと肌を撫でる風を感じて、男は季節が変わったのを感じた。
目の前には水を入れたばかりの水田がある。後は苗を植えるだけだ。周り全てが同じように田畑が広がり、時折ダンジョン発生時に対応する兵舎がある程度だ。
「さて、春用の苗を植えるか」
男の他にも大勢の人たちが苗を入れた籠を片手に持ち立っている。今日は米の苗を植えるために集まっていた。まだまだ機械は少ないので、人海戦術でいくしかないのだ。男の妻と子供も一緒に今日は田植えの予定である。
キラキラと陽射しを弾く水面が眩しい程だ。綺麗だが、冷たそうだと、少しだけ腰がひけるが、妻と子供がいるので、虚勢を張って背筋を伸ばし堂々とした態度を装う。
「では各班、班長の指示に従って田植えを始めてください。熱耐性ネックレスを持っていると良いですよ」
華という自分の息子よりも少しだけ年上の少女が、立ち並ぶ大人を前に堂々とした態度で説明を始める。初めて参加する者たちの中には、あんな子供が責任者なのかと、戸惑ったりしていた。
もう華が責任者となってそこそこの付き合いの人たちは、いつものことなので、おかしいとは思わないが、やはり年端もいかぬ少女が責任者というのは違和感があるのだろう。
初めて参加するだろう若い男が耳穴をほじりながらあくびをして、仲間であろう他の若い男たちとひそひそと話をしている。
「なぁ、やっぱり冒険者にならねぇか? あんな子供にこき使われるなんて情けねぇよ」
「そうだなぁ、やっぱり成り上がるには冒険者だよな」
「だろう? 今からでも遅くねぇよ。よし、俺に任せろ」
ちらりと見ると、田植えに合った作業服を着込んでいる。腰まで入るゴム製の長靴と一緒になっているズボンだ。初めてということは、この特区に来て日が浅いか、外街の人間だ。真新しい服装から見るに外街の三男とかではなかろうか。廃墟街出身ならば、最初はあのような服装は買えないので古着となる。
「すみませーん、責任者ちゃん、少し話がありまーす」
軽い口調でニヤニヤと笑いながら青年たちは華の下へと歩いていく。他の面々が眉をひそめて不愉快そうにするが気にした様子はない。甘やかされて育ったのだろうか。
「はい、なんでしょうか」
華は青年たちの態度に気にした様子もなく、ニコニコと笑顔を浮かべて小首を傾げる。青年たちよりも年下なのに、よっぽど人ができている。
「実はぁ。俺たち田植え辞めたいんっすけど〜。いいっすか〜?」
ニヤニヤ笑いを崩さずに、華の目の前に辿り着くと背の高さを利用して青年は上から威圧をかける。ただの少女と侮っているのだ。
「あれを見ると、季節の変わり目を感じるな」
「よせよ、悪趣味だぞ」
隣に立つ知り合いが小声で笑いを含み言ってくるので、一応嗜めるが正直自分も同じことを思っているのは内緒だ。慣れている光景なので、周りの皆は何も言わずに、ニヤニヤと笑っている者もいる。
「あの〜。もう班割りも終わっているので、ここで辞められるのは困るんですが?」
「あ〜、わりい、さっき足を挫いちまってよ。捻挫なんだよ、捻挫。歩くのもきついんだよ」
「そうそう俺も頭が痛くって〜」
「腹の具合がわりぃなぁ」
青年を中心に、仲間の男たちもわざとらしく頭を押さえたり、腹を擦ったりして嗤う。ゲラゲラと笑いたてる。
その様子をニコニコと笑顔で華は見つめて
「そうですか。それなら仕方ないですよね」
というと、視認も難しい風のような速さでローキックを放った。
ゴキリ
と、嫌な音を立てて綺麗に1回転すると青年が勢い良く地面へと叩きつけられる。
「ギャ、ギャアアア。いでえ、いでえよ!」
足がポッキリと折れて力なく地に伏して、青年は痛みから絶叫する。一瞬の出来事であった。
「捻挫ではなくて、骨折かもしれませんね。医者に見てもらった方が良いですよ〜」
自分よりも背も低く、年も若い少女は笑顔を崩さずにそう告げるのを見て、青年は恐怖で顔を染める。まるで硬い鈍器の一撃のような蹴りだったからだ。
「で、頭とお腹も痛い人がいるんでしたっけ?」
コテンと可愛らしく小首を傾げる華を見て、青年の仲間は青ざめると首を横に激しく振った。ひ弱な少女だと思った。少し凄めば泣き出すか、周りの大人に助けを求めるだろうと。
彼らは外街で問題児として両親たちが匙を投げた者たちであった。暴力沙汰は日常茶飯事、万引きやカツアゲなどもしてきたいわゆる不良と呼ばれる恵まれた者たちだった。今回は親に無理矢理斡旋された仕事であったのだ。
なにが恵まれているかというと、まだ生きているということだ。彼らは彼らの狭い常識の中で生きてきていた。殴り合いなどの喧嘩もあったが、本物の暴力に出会ったことがなかったのだ。
まさか少女が息を吐くように、自然体で路傍に転がる小石を蹴飛ばすように、仲間の足を折るとは思わなかった。そして足を折った自身の力を誇ることもなく、罪悪感の欠片もなく当たり前だという表情の少女に陰りがまったくないことから、この地では極々一般的なことだと思い知った。
廃墟街の怖さは聞いていたが、来てみたら平和そうに和気藹々としているので勘違いをした。周りの子供すらも足を折られた青年を気にすることもなく、田植えを早く始めたいといった態度を表している。一つ間違えば殺されるかもしれない場所だと悟り震え上がった。
「頭痛は治りました!」
「俺も腹が少し減っていただけでした! 昼まで我慢します!」
直立不動になって、大声で叫ぶ青年たちに、華はニコリと微笑み返す。
「抜けた穴は私が代わりにやりますから、皆で頑張りましょ〜」
ムンと細い腕を曲げて告げる華。その姿はか弱そうなおとなしい少女にしか見えない。それがまた恐怖を誘う。そうして、皆へと説明を再開して、田植えは始まるのであった。
「性格破綻者向けの矯正キャンプ」
「なにがだ?」
「この仕事さ。外街の問題児が多くないか?」
太陽が頂点に昇り、お昼となったので男は妻と子供とご飯を食べるべく水田から出てくると、友人が苦笑をしながら声をかけてきた。田んぼから出てきたために、泥がベッタベッタと畦道に残る。
「う〜ん……そうなのか?」
問題児なんかいたっけかと、男が首をひねると友人はアタタと言って顔を手で覆う。なにか変なことを口にしたらしい。
「いや、俺も同じ反応だったんだよ。やっぱりそういう反応だよなぁ。さっきの青年たちのことだよ」
「あいつらが問題児? 馬鹿を言え。問題児ってのは俺たちの命を脅かす奴らのことだろ。魔物をトレインしてきたり、ナイフを刺してきて、その後に脅す奴」
基本は自分を殺しにくる奴が問題児だ。魔物を呼び込みコミュニティを崩壊させたり、盗賊へと鞍替えして殺しに来たりと。
さっきの連中は可愛らしいもんだ。本当の問題児なら、殺されている。見逃されても、他の仲間が殺すだろう。
「廃墟街の常識だよな。だが、壁1枚挟んだ外街だと常識が違うんだと。基本は殺しは無しなんだと」
「それは俺たちも同じだろ? 殺し合いなんかしない」
簡単に殺すわけではない。生き残るために殺すのだ。意味合いが違うのだ。
「罰則が違うらしい。あれは苛烈だったらしいぞ。最近、仲が良くなった外街の連中が言っていたんだ」
「からかわれているんだよ、それ。あの程度で済んで幸運だっただろ」
青年の脚は綺麗に折れていた。治りも早いに違いない。まだ生き残れるはずなのだ。苛烈な奴なら、脚を切り落とされている。外街の常識とか言って、騙されているに違いない。廃墟街の人間は何も知らないと思っているのだ。
元々外街の連中は配給券1枚で、廃墟街の住人をこき使う奴らなのだ。命は配給券のような紙切れより安いと思っているはず。罰則は死がほとんどだと知っている。
「う〜ん、そうなのかねぇ。俺もおかしいとは思ってたんだ。やっぱり担がれていたか」
「そうだよ。それじゃ俺は家族と昼飯だ」
「あぁ、また午後頑張ろうぜ」
お互いに手を振り別れると、開けた場所にゴザを敷いて待っている家族の下に合流する。
「おとーさん、遅いよ! もうお腹ペッコペコだよ、もぉ〜」
「ははは。すまなかったな」
男の子供が頬を膨らませて怒ってくるので、頭を撫でて謝るが、子供が手に持っている木箱をソワソワしながら持っているのを見て、どうやらお腹が空いただけではないと笑ってしまう。妻もそのことを知っているので、微笑ましそうに眺めてきていた。
「ほら、俺の分も温めてくれ。頼むよ、うちのコックさん」
「うん。それじゃ使うね!」
保温の魔道具。最近は売り切ればかりでどこも品切れ中の物だが、男は子供にせがまれて、開店当初に行ったので3個買えた。9000円は大金であったが、仮面の少女の宣伝文句を耳に入れて、無理して買ったのだ。気休めだとわかっていても、お守り代わりに持っていたかった。
今日が初めて使用する日だ。子供がお弁当と燻製肉を魔道具の中にいれると、ワクワクした表情で手を蓋に添えて呟く。
「保温起動!」
その言葉と共に木の箱がマナの輝きというものなのだろう。仄かに青く光る。
「おぉ、これは凄いな」
「本当にねぇ。これが魔法なのね」
「かっこいい〜」
親子揃って魔法が起動する様子を物珍しそうに眺める。魔法という非現実的なものに年甲斐もなくワクワクしてしまう。周りで同じように昼ごはんを食べている人々がちらちらと見てきて、少し恥ずかしい。
まぁ、すぐに慣れるんだろうなと思いつつも初めての魔法に感動していると
「あ、猫だ!」
子供が横にいつの間にかちょこんと座っている黒猫に驚く。男も同様に驚いてしまう。
「みゃん」
子供でも抱えられる程の小さな黒猫は尻尾をフリフリと振って魔道具を見て、鼻をふんふんと鳴らしていた。可愛らしい黒猫だ。
早くも子供は喜んで、黒猫の頭をそっと撫でる。滑らかそうな毛艶だ。黒猫も気持ち良さそうに目を瞑っており、おとなしい。これが、ゴブリンをあっさりと片付ける強さを持つとは到底思えない。
「本当に保温の魔道具を使うと寄ってくるのね」
「僕、燻製肉をあげるね!」
光が収まり温め終わったことを示す保温の魔道具の蓋を子供は開けて、燻製肉を取り出す。黒猫へとウキウキとした表情で燻製肉を差し出すと、カジカジと食べ始めた。
「食べてる! かわいい〜」
「そうだな。ペットを思い出すよ」
子供の頃、まだダンジョンが発生する前に、ペットを飼っていたことを思い出し懐かしく思う。こういう風に餌を差し出す時だけ寄ってきたっけ。
「ペットって、なぁに?」
「ペットという言葉自体使われないもんな。ご飯を食べたら教えてやるぞ」
「ほら、冷めちゃうわよ。食べましょう」
廃墟街では自分たちが生き残るのも大変だったのだ。ペットなど考えたこともないし、話にのぼることもなかった。
ペットにご飯を分けられるほど、暮らしが楽になったんだと、改めて気づき嬉しく思う。この生活を大事にしたいと口元を綻ばせながら、温めたおにぎりを口に入れる。
じんわりと塩っ気が口に広がり、米の味が残る。混ぜ物のザラザラとした怪し気な味ではない。米だけの味だ。
この幸せな光景は望むことも難しかった。だが、今目の前にその光景はある。男は優しい目つきで妻と子供を見て、これからも頑張ろうと心に誓うのであった。
……それにしても保温の魔道具はマナというものを放つらしいが、微弱だと思っていたので、黒猫がやってくるとは思わなかった。使い魔というのは凄い感知能力を持っているのだなぁと、黒猫を眺めて感心する。
男に見つめられても気にもせず、黒猫は金色の瞳を周囲へと向けていた。他の人が保温の魔道具を使うマナを感知しているのだろう。
だが、なぜか他の物を探しているようにも見えた。まぁ、気のせいだろうが。




