279話 逆恨み
逆恨みとは厄介なものだと勝頼は嘆息する。社長がいなくとも、天津ヶ原コーポレーションは甘くは見られないはずなのに、正常な判断を失っているのか、見下してきていた。
だが、演技の可能性もあると、油断はしない。単純な与し易そうな相手に見えて、実はこちらを引っ掛けようとする輩がどれだけ多いかを勝頼は身を以て味わっているからだ。
それによって多大な損失を出したこともある。社長は気にしない風を装って経験を得たと思えと許してくれるが、天津ヶ原コーポレーションは資金がない。本来は激昂してもおかしくないのだ。まぁ、資金がないのはほとんどを設備投資に回しているからなのだが。
「この金額で利益を出す。価格設定をそうすれば良いのだよ。5万も10万も変わるまい? どちらにしても格安だろう?」
「天津ヶ原コーポレーション付近に住む者には大金です。5万でも厳しいんです」
「あぁ、そうだったかね? 少し飲食を楽しめば消える金額程度だと思うのだが」
「豚の脂肪を育てるためにいくらでも金を浪費できる人とは違いますので」
たいした金額ではないと、所長は手を振りニヤニヤと嘲笑う。廃墟街の住人の懐具合を馬鹿にしている態度を見せてくる。
なので相手の言葉にカチンときて、ついつい豚である理由を口にしてしまった。だが後悔はない。廃墟街の住人にとって、5万がどれほど大金なのか、この男はまったく理解していない。少し前は100円でも、手に入れば大喜びする環境であったのだ。軽々しく万単位で金額を上げるなどはできない。
まだまだ未熟だと社長には笑われるかもしれないが、それでも勝頼には譲れるところと譲れないことがある。まずい展開だと理性が囁くが、それでも怒気を隠すことなく練馬所長を睨みつけるのであった。
練馬所長はその太った頬をたるませて、ニヤニヤ笑いを隠さなかった。
かかったと内心ではほくそ笑んでいた。全て演技である。有能ではあるが、所詮は廃墟街の幽霊だ。コンプレックスを持ち、廃墟街の出身であるとのプライドもある。なので、少し廃墟街を馬鹿にすれば、すぐに怒ってくる。間抜けな奴だ。
練馬所長は、この太った身体と、下種そうなたるんだ顔立ちを利用していた。即ち、頭の悪い下種な悪役に見せかけることを得意としていた。
勧善懲悪の映画などでは、自分のような見かけの者は、高い役職にいながら無能であり、主人公などに簡単にあしらわれることが多い。現実ではそんなことはあり得ない。内街の重要研究所の所長になるのに、家門のコネがあってもどれだけのライバルを蹴落としてついたのか、見かけからは決してわかるまい。
魑魅魍魎の住まう内街で高位の地位につくには有能な者でないと駄目なのだ。すぐに足を掬われて蹴落されてしまう。だが、有能な若い連中ほど、そのことに思い当たらない。コネで所長についた男だと馬鹿にして、そうして上手く立ち回っているつもりで、所長にこき使われる運命となるのだ。
逃げてしまったのは真の天才神代セリカぐらいだ。こちらが謀略で身動きがとれないようにする前に、さっさと自分の研究所を手に入れて出ていってしまった。まぁ、あれは例外だ。
目の前の青年は武田勝頼。しっかりと下調べを所長は行なっていた。天津ヶ原コーポレーションの若き経営の天才。天野防人の右腕として活躍する青年だ。
普通の者たちと違い、警戒している様子であったが、手のひらで転がすなど簡単だ。他愛もなくこちらの挑発に乗ってきた。
馬鹿にしているような態度で、戦闘服の受注を奪おうとしているように勝頼には見えるだろう。だが、実際は冒険者用の戦闘服の受注生産は練馬研究所では不可能である。魔法付与を使える人材は少ないし、必要な資材を大量に手に入れる伝手もない。
所詮、研究所は研究所なのだ。工場を作ったのは1台数億円の高価な精密機器を少数生産するためである。一着5万だかの服を縫製する工場では決してないのだ。この事業はでかいが練馬所長の手に負える代物ではない。きっと縫製関係の家門が首をツッコむに違いない。
ならばなぜ勝頼を挑発したのかというと、理由がもちろんある。それは現状の内街の勢力図に関係した。
現状、内街のトップは御三家。足利家が一時期勢力が衰えたが、すぐに復活した。今は御三家が圧倒的な勢力を持って内街を支配している。
だが、勘違いされやすいが、それで内街が平穏となったというわけでは決してないのだ。織田家や三好家など、御三家に匹敵する力を持っていた家門が次々と没落。他の力を持った家門も軒並み最近の勢力争いで力を落とした。
しかし、世の中は時代が変わっている。コアストアの出現と、天津ヶ原コーポレーションの台頭。それによるダンジョンの資源化が進むことにより、景気が良くなっている。
時代の風向きが変わったことにより、新たな仕事が増えて、見たこともない品物を売ることにより、大金を手にする者が多くなってきたのだ。
家門は力を失くしているのに、大金を手にする者が多くなった。それがどのような意味を持つかというと、新興の家門が雨後の筍のように現れて、お互いに勢力争いをし始めているのである。
御三家には敵わないが、その次ぐらいの力を持つ家門にはなれるかもしれないと、皆は獣のようにギラついた目で争っている。
まだまだ家門自体小さいので、没落した家門を吸収しつつ、大きくなろうとしている。即ち、世は下剋上が当たり前の現代版戦国時代と相成ったわけだ。
その中で練馬所長は成り上がることを狙っていた。なにしろ、内街最大にして最高の研究所のトップなのだ。元の家門と縁を切り、新たなる家門を作るのも、それとも没落した家門を復興させるにも、この地位は使える。
御三家や他の家門からの支援金や国の予算により研究所は成り立ってはいるが、そこはそれ、蛇の道は蛇。なんとでもなる。今までのように上手く立ち回れば良い。
そして成り上がる方法として練馬所長が狙ったのは、天津ヶ原コーポレーションの天野社長と縁を持つことである。
「金額設定はそちらの決めることだ。こちらとしてはその条件を飲んでもらうつもりだが?」
腕を組み、練馬所長がニヤリと嗤ってみせると、勝頼は顔を顰めて、苦々しい表情となる。この取引内容では到底受けることはできないと考えていることは明らかだ。
無理難題なのは練馬所長は理解している。この金額設定は練馬所長自身が見ても、受けることはできない。尊大な態度。あからさまに廃墟街の連中を馬鹿にする素振り。相手は怒り席を立つという寸法だ。
練馬所長にメリットがないと思われるがそうではない。
「ライセンス契約の金額は5%。それ以上は譲れませんね」
妥当な価格設定だ。量産することを考慮すると、普通ならその金額で手を打つだろう。
「話にならないな。そもそもこのような話し合いはトップ同士で行うものだ。君では話にならないな」
フンと鼻を鳴らし、憎々しげな態度をとる。この金額で手を打てば、研究所は潤い、自身の力も多少は増す。だが、それで終わりだ。一介の研究所の所長がでかい山の取引をまとめただけ。今年度の功績として名前を残す程度で終わる。
それでは困るのだ。自身が成り上がるには足りない。天津ヶ原コーポレーションと太いパイプと後ろ盾を持ち成り上がる。そのために、わざと神代セリカのことを口に出し、天津ヶ原コーポレーションを挑発した。
このままこの青年は席を立ち、取引内容を天野防人に伝えるだろう。そうして、天野防人自身が交渉に来るに違いない。
天野防人は恐ろしいことで有名だ。人を簡単に殺せる力と狡猾なる頭を持っている悪魔とか魔王と呼ばれる程の人物だ。
練馬所長の所にも、根回しを完全にしてやってくる。勧善懲悪の話のように、不正の証拠なども持ってくるかもしれない。練馬所長は追い込まれて破滅するわけだ。
だが、天野防人は正義の人ではないことを知っている。正義の人であれば、悪魔とか魔王とか呼ばれない。彼は利益について鼻が利き、悪党とも手を組む男だ。
追い込まれた練馬所長は平身低頭で、取引内容の修正を了承しつつ、こういうつもりだ。
「どうでしょう、この練馬研究所を手に入れたくはありませんか?」と取引を持ち掛ける。この研究所の研究員は7割は縁故採用で使えない奴らだが、3割は本当に優秀だ。充分な価値を持つのであるからして。
研究所所長が手伝えばなんとでもなる。そう吹きこめば、天野防人は必ず手を組むことを決意するはず。天津ヶ原コーポレーションの後ろ盾を持てば御三家も迂闊には手を出せない。
後は研究所所長として、天津ヶ原コーポレーションに食い込んで、力を増していけばよい。勝負に勝って、試合には負けるというやつだ。あのムカつく小娘の神代セリカにお中元を贈ってやっても良い。きっと自尊心を満足させるだろう。天野防人の妻に納まるとは、こずるい女だ。
内心でほくそ笑みつつ、勝頼が席を立つのを今か今かと待つ。だが、想定とは違った。
「魔法付与による特許。一般的な魔法付与を特許にするなど変な話だと思っていたが、強化の方法に工夫があるのだな。麻を灰に浸けて、麻糸と灰それぞれに硬化と摩擦係数減少の強化魔法を付与している。灰を麻に浸透させる際の薬品やその方法が実際の特許内容だ」
勝頼の隣に座る偉丈夫の男が、資料を見ながら口を開く。その内容は的確で特許内容を正確に理解していることに、練馬所長は嫌な予感を持った。
よくあるチンピラの威圧要員だと考えていた。その筋骨隆々の逞しい体つきと、深い彫りの顔立ち。軍人であろうと勝手に決めつけていたのだが違うのか?
「帰るぞ勝頼。この特許は今伝えた薬品と浸透手順だけだ。わざとなのか、他の糸などには採用されないと書いてある。麻糸は諦めて、生糸にすれば良い」
「ば、馬鹿なっ! そんなことが許されるものかっ! そんなことがあるわけがない」
「この特許を取得した者は、よく考えている。わざとなのか知らんがな」
慌てて立ち上がり怒鳴るが、その部分が書かれた資料を見せてくるので、よく読む。細かな文章は見る気をなくす内容であり、普通は読まない代物だが……たしかにそう書いてあった。こんな細かいところまでよく読んだと感心してしまう。
そして実際にそのとおりだった。麻糸へしか効果はないと、それ以外の糸にはこの特許は適用されないと書いてあった。
だがこの特許を取得した者は……当時の神代セリカだ。おのれっ、あの小娘、こんな小細工を弄していたのかっ!
怒りと動揺で手を震わす練馬所長に、なるほどと勝頼が資料を読み返してニヤリと笑い、所長の取り巻きたちが慌て始める。誰も詳細を読んでいなかったのだ。資料作りも部下に作らせたのである。
「では再度の交渉を始めましょう。この資料、どうやら特許の部分以外は間違いだらけの資料のようですし」
余裕を取り戻した勝頼を見て青ざめる。ここで取引を止めれば、成り上がるどころか、利益を得る機会も失う。
「ライセンス契約料は3%でどうでしょうか? 適正料金だと思うのですが」
「薬品などを用意するには時間がかかりますぞ」
その間に他の家門が口を出してくると言外にいうが
「無論、そのときは惜しげなく資金を投入する予定です。ご存知でしょうが、天津ヶ原コーポレーションは唸るほど金が余っているので」
その言葉は死刑宣告のようなもので、契約は3%で成立し
後日、所長は歴史資料作成部へと更迭された。




