175話 渡航
たった20年かそこらで、東京湾は驚くほどに綺麗になった。子供の頃に見た澄み渡った海。ハワイで見た海は驚くほどに綺麗だった。反面、日本の海はなんで澄み切っていないのかと、不思議に思ったものだ。
今の子供はそんなことを思いもしないだろうと、防人は海を見ながら思う。魚が見えるほどに澄み切った海はエメラルドグリーンと言ってもよいほどに美しい。
特に上空から一望すれば、その様子がはっきりとわかる。観光スポットにしても良いくらいだ。
「だが、環境が回復したと言っても昔の環境に戻るってことだ。あそこまで美しい環境になるとは思えないんだけど」
天野防人は眼下の様子を見て、微かに首を傾げて不思議にも思う。軍服を着込み軍帽をかぶって、新米少佐の防人さんだ。指には幻想の指輪を嵌めています。
「それはダンジョンのせいだと思うにゃんよ。近海はダンジョンがあるからにゃあ」
隣で珍しくキチッとした軍服を着込む花梨が話しかけてくる。
「あのぽつぽつ現れている洞窟か」
海の中に時折小島が顔を覗かせている。ぽっかりと穴が空いた洞窟がその中で見える。
ダンジョンだ。近海にはダンジョン小島が少しだけある。海中にもあるのかもしれないが、見たことがないので、わからない。なにしろ宇宙にもダンジョンは発生するのだから、きっと海中にもあるに決まっている。海底ケーブル周りとかに発生していたりするんだろうなぁ。
『宇宙にある人工衛星や海底にあるケーブル周りなら、Fランクのダンジョンが生まれるレベルだと思います。でも、地形が最悪ですからね、ランクの低い魔物であるいたずら小悪魔が人工衛星を蹴っ飛ばすだけでも効果は抜群ですし』
『人類は宇宙では弱い魔物と戦っても負けるだろうなぁ』
『デブリ回収屋が必要ですね。最後は木星行き宇宙船でテロリストと戦闘をするんです』
『なにがどう繋がっているのか、わからないんだけど』
雫さんの相変わらずの謎のネタフリをスルーして、周りを見渡す。現在内街の輸送用ヘリに搭乗している防人さんである。訳あって習志野に向かうヘリに搭乗しているのだ。
視界には軍服を着込み、真剣な表情で座っている軍人たちがいた。お喋りをせずに、ジッとしているのは、たいした忍耐力だと感心するぜ。
奥に軍服ではなく、普通のスーツ姿の男女が座っている。男の方は壮年の男だ。なんちゃらの家門の男。名前は忘れたが。今回の内街と習志野の関係悪化を回復させるための交渉役だそうな。
見せかけの看板だとは思うが。なにしろ隣には輝くような金髪と彫刻のような美しい顔立ちに、笹のような耳を生やすエルフ娘が座っているのだから。彼女が本当の交渉役、その権限を持っているのは間違いない。年若いために、男は建前上ついてきているのだ。
「お喋りをせずに寡黙なもんだな」
「あちしたちは鍛えられた軍人だからにゃ。………防人、なんて名前にしたんだっけ?」
俺の偽名を忘れた猫娘が耳元に口を近づけて小声で聞いてくる。あほか、さっき伝えたばかりだろ。
「丹羽だ。丹羽長秀。しっかりと覚えておけよ」
幻想の指輪で変装中。若い平凡な男に化けています。
「そうだったにゃんこ。丹羽少佐、あちしたちは鍛えられた軍人にゃ。だから、こんなことで騒がない……おぉ、今なにか波間で跳ねたにゃん。トビウオかにゃ?」
鍛えられた軍人であるにゃんこは、尻尾をフリフリと振って、珍しいと笑顔で俺の服の裾を引っ張ってくる。俺も対抗して花梨の尻尾を握って良いか?
「この距離で跳ねるのが見えるっておかしいだろ。かなりの大きさだぞ」
「魔物かぁ。海釣りとか一度してみたいんだけどにゃあ」
「完全武装で戦艦に乗っての釣りなら付き合うぜ」
がっかりして肩をおとす花梨に苦笑しつつ、かぶっている帽子の位置を直し薄く笑う。
「きっと海釣りよりも面白いものが釣れると思うぜ」
「あんまり大物はいらにゃいんだけどにゃ」
そうはいかないだろと、これから向かう先を楽しみに思う。きっと習志野シティは観光スポットがたくさんあるだろうからな。
しばらく進むと、森林が広がる大地が目に入ってきた。その中に海沿いに壁に囲まれている習志野シティがある。習志野と言っても、既にその場所は習志野ではない。かなり南に移動して作られたシティだ。廃墟街はなく、その全てが壁に囲まれている。
「色合いが明らかに違うな」
「そうにゃね。ほぇ〜」
花梨と肩を並べて、窓から外を覗き込む。3層に壁は建てられており、中心にある区画には綺麗なビルや家屋が見える。そして、層を貫くように軍基地も。戦闘機やヘリに戦車がずらりと並んでいた。
外側に行くにつれて、段々と汚らしく適当な建設をしたのだろうビルや家屋がある。
「習志野シティは完全な階級制度にゃ。形だけ軍に全員入隊していることになっているにゃんこ」
3機の輸送用ヘリは問題なく千葉にある習志野シティへと近づく。その中で説明にゃんこが指をフリフリ、尻尾をフリフリと振って教えてくれる。
「習志野は元自衛隊の基地があったにゃん。クーデターが発生して軍基地になっても変わらなかった。でも、壁の建設が始まると習志野基地から移設。成田空港を中心にした本格的な軍基地を建設。その基地に人々が集まって作られたのが、習志野シティにゃん。軍基地として建設されたから、表向きはシティの住人は軍属になっているにゃんよ」
「もう習志野でもなんでもねーだろってのはツッコんで良いのか?」
「わかりやすくするためだと思うにゃんよ。あくまでも軍基地だという当時の人間のエゴだにゃ」
あっさりとした口調の花梨は気にする様子はない。まぁ、俺もこだわるつもりはない。成田空港でも習志野シティでも、どちらでも良いし。
「成田空港は元々街としても使える設備があったし、すぐに軍基地として移設は終了したにゃ」
皆が黙り込む中で、花梨のドヤ顔の説明は続く。俺たちだけお喋りをしているのは多少気まずいが、花梨も気にしていないしな。
「3等兵が廃墟街の人々と同じ……まぁ、廃墟街の連中よりもマシ………?」
「マシではありませんね。風魔大佐」
俺たちの話に座っていた男のひとりが口を挟む。見ると、神経質そうな男だ。日本刀を腰に下げている。
こちらをジロリと見て、きつい視線を向けてくる。
「丸目大佐?」
「物事は正確に。正確には3等兵予備役だ。この習志野シティだけにある特殊階級。配給をもらえる代わりに奴隷のような生活をしている」
つまらなさそうに鼻を鳴らして、丸目大佐という男は背を壁につける。マナの含有量から、かなりの腕前だと見て取れる油断できなさそうな相手だ。
「3等兵予備役とは……奴隷扱いなのですか、丸目大佐殿」
新米少佐として、上司を敬う演技をしながら尋ねると
「そうだ。廃墟街の臭い連中とはまた違う。何度か来たことがあるが、生きるためとはいえ、まさに奴隷だ。古臭い奴隷制度から生まれたような階級だな」
「あちし、今回の件で知識だけはあるにゃんけど……」
ニャハハと愛想笑いをする花梨。頬をポリポリとかきながら、丸目大佐にかなり気を使っている模様。
「ふん、酷いものだぞ? 荷車でもないと持てない荷物を持たされて、長時間働かせたり、上の階級の者の食べ残しを延々と待った挙げ句にパン一欠片を貰ったり。廃墟街の連中とどちらがマシか……。いや、以前ならばともかく、今は廃墟街の連中の方がマシだな。そんなことに軍の階級を使うなと言いたいところだ」
忌々しそうに舌打ちをする丸目大佐。かなり嫌そうな表情なので、本当に3等兵予備役というのは酷い扱いを受けていると理解できる。
「だが、習志野シティは孤立しているから、逃げられないと?」
魔物要塞もあるし、廃墟街で暮らしていた者と違い移民できないってか。
「戸籍もあるしな。希望がなく、自由もない。戸籍がある分たちが悪い。それに………もっともたちが悪いことがある。設備だけは軍基地として一流だが。まぁ、降りてみればわかるでしょう」
チッと舌打ちする丸目大佐。たちの悪いことが他にもある? 気になるが、まぁ良いか。
「ご教授ありがとうございました、丸目大佐。しかし、水や電力はどうしているのでしょうか?」
食糧は畑とかあるし大丈夫だと思うが。水に電力は………例のごとく、魔法具の力なんだろうけど。
「世界樹ですね。あれを見てください」
基地が近づく中で、へんてこな物が見えてくる。シティ中心にある物だ。大きな屋敷一軒分ぐらいの樹が聳え立っている。巨大な樹木は葉が黄金に輝いており、ひと目で普通の樹でないことがわかる。
……だが、世界樹? ファンタジー溢れる植物だな。
「世界樹は周囲一帯の土地を浄化するらしいです。そのためにいかなる汚染された土地も浄化するのだとか。土地に流れる水も清流よりも綺麗な水になるらしいですよ」
「それは素晴らしいですね。電力は?」
意外と説明好きな丸目大佐の話を聞く。花梨はあちしが言うはずだったのにと悔しそうだが無視。
「水力発電と言われています」
「それは含みのある物言いですね?」
「どのシティも一つや二つ、秘匿しているものがあります」
俺の疑問をあっさりと受け流し、説明は終わりだと目を瞑る丸目大佐。
秘匿技術ねぇ。世界樹か……。
もちろん世界樹の説明をしてくれる人はいます。
『世界樹は、環境汚染対策として作られた人工植物です。その樹があれば街の汚染は全て無くなるという触れ込みでした』
『過去形ありがとうございます。で?』
『世界樹は周りの大地にあるマナを吸収して、植物を結晶化させます。その結晶体はエネルギー結晶として使われる予定でした。まさに夢の植物でした。実際はただの水晶であり、エネルギー結晶でもなんでもなかったので、その点は失敗でしたが』
そりゃすごいと、淡々と話す雫さんを見ると、眉根を寄せていた。そんなに凄い世界樹さん、習志野シティは素晴らしい物を手に入れたもんだよな。
『致命的な欠陥がありました。根っこに栄養が集まり、そのエネルギーが暴走。ダンジョンを作り出したんです。しかもマナをどんどん流し込んでいたので、強力なダンジョンがある時、一斉に発生しました』
『……習志野シティは滅びるのか?』
根っこからの侵食かよ。目に見えないから気づかなかったのか。習志野シティも同じように気づかなかったか。
『大丈夫ですよ。マナを流しこんだと言ったじゃないですか。この世界ではマナを流し込む技術はありません。だからこそ、あの世界樹もあの程度の大きさなのだと思います』
『マナを流し込むのって、どうやるんだ?』
『特殊な機械が必要となります。それか魔法的な物を吸収させるのですが、大量に必要です。マナを含んだものは人とかが入るのですが、数百人程度では無駄です』
ふふっと微笑んで、俺の考えを杞憂だと言ってくれる雫さん。
『そうか、良かった良かった』
それならば安心だ。強力な敵とダンジョンは勘弁してほしい。
良かった良かった。
もう基地は目の前で、世界樹の周りもよく見えてくる。
花畑が世界樹の周りで育っている。
ゆらゆらと見覚えのある春の花や冬の花が一面に広がっている。
良かった良かった。
あの花が大量にマナを含んでいるなんてことないよな? きっと世界樹だけだと、寂しい風景だから花を植えたんだよな? 習志野シティの奴らは優しいのな。
あの花々は繊細な環境でしか育たないはずなのに、どうやって育てているわけ? 世界樹のパワーってやつか?
まぁ、単なる花畑だよな。うん。