172話 初夏
梅雨は明けた。陽射しは春の暖かなという表現から、照りつけるといった夏の陽射しへと移り変わり、雲一つない青空で大木君は目を眇めて空を窓越しに仰いだ。
「日本晴れってやつだな。気持ちの良い朝だ」
フッとクールに笑い、大木君は髪をかきあげて、キラリと歯を輝かす。
「もう昼近いけどな」
「すいやせんでしたぁっ!」
ツッコミを入れてくる上司の勝頼さんに、ジャンピング土下座をして謝る。ズザザと床を擦って滑る大木君に、勝頼は軽く息を吐くと、テーブルに置かれたコーヒーを飲み始めた。
天津ヶ原コーポレーション本社の食堂に大木君たちはいた。組み立て式の長机がズラッと並んであり、パイプ椅子に人々が座って、ワイワイと食事をしている。
社員食堂として、料理が安いし美味いし量もあると、良いことずくめなので、本社に住んでいる人たち以外も活用している食堂だ。
「少し飲みすぎやした。仕事をサボる気は……あれぇ? 今日は日曜日ですよね?」
「そうだな。お前、なにを謝っているんだよ?」
首を傾げて記憶を掘り出す大木君に、勝頼は呆れた表情を浮かべていた。
そうだったそうだったと、頭をかいて立ち上がると椅子に座る。まだ酒が残っていたらしい。少しふらふらしている感じだと、大木君は恥ずかしく思ってしまった。無駄に土下座をしちまったと。
「どれだけ飲んでいるんだ、まったく。少しは摂生するように」
コーヒーを飲みながら、叱ることも適当に勝頼は手元の新聞を読んでいた。最近は独自に天津ヶ原コーポレーションの誰かが作り始めたらしい。書かれていることは、主に今日のダンジョンツアーや建設その他での日雇い募集。バスの運行情報や諸々。少しだけニュースといったものが載っている。
「最近モテモテでして。へへっ、困っちまいやす」
「酒場のねーちゃんだろう。まぁ、モテて何よりだ」
日曜なのに、きちっとした身なりの勝頼は堅苦しい感じだ。最近はますます堅苦しくなっていると噂をされているのを、大木君は知っていた。
照れ隠しに頭をかきながら答えて、大木君は飯は何にしようかなぁと大きくあくびをする。地味にまだ眠い。酒場で知り合ったねーちゃんと帰ってきたはずだが、目を覚ましたらいなかったので、がっかりしながら起きたのだが、日曜日なのでもう少し寝ていれば良かったかもと後悔する。
飯を食べたら寝ようかなぁと、気怠さを感じながら朝食兼昼食を買いに立ち上がろうとしたら、ポテポテと幼女が近づいて、ニパッと笑顔で話しかけてきた。
「ご飯をおもちすりゅ? 50万円だりゅ!」
「ありがとうよ。それじゃあ適当によろしくな」
「ありあとでりゅ、たいぼくくんしゃん!」
お店のごっこ遊びでもしているのだろうと、微笑ましく思いながら財布から500円を取り出して、小さな手に渡す。幼女はコクリと頷くとテケテケとカウンターに向かっていった。
「………ねぇ、勝頼さん。俺、大変なことに気づいたんですけど」
「ん? なんだ? 最近は狼狩りの方が人気があるというところか?」
毛皮と肉が手に入るからなぁと、勝頼は新聞をチェックしながら生返事をするが、大木君は深刻そうにして、言うか迷う。
考え込んでいる中で、幼女がトレイに朝食セットを持ってきた。
「どーじょ、たいぼくくんしゃん。えっと、えーせっとでりゅ」
コーヒーに目玉焼きにマッシュポテト山盛りのサラダ、こんがり焼けているコッペパンとリンゴだ。リンゴは幼女へお駄賃だよと渡したら食べ始めた。
幼女の言葉に確信を持って、クワッと目を見開く。
「今の聞きました? 大木君さん、と言ったんですぜ! 大木じゃなくて、大木君! 俺の苗字に君も入ってる! 最近みんなから大木君と呼ばれるから変だ変だと思ってたんですよ。俺は仙人かなんかですか!」
中国の仙人とかで、なんとか君と、君までが名前の人がいましたよねと、愚痴るように勝頼に言うが、ジト目を向けられるだけだった。
「良いじゃないか、大木でも、大木君でも。私は気にしない」
「いやいや、勝頼さんは気にしないでも良いでしょうが、本多忠勝ノワールって、誰も覚えてくれないし、ますますヘンテコな名前にされちまいますよ」
「ポンポン苗字を変えるからだろ。そんなことより、上手く行っているのか?」
どうでも良いことではないんだけどと、不満いっぱいだが、朝食を食べながらニヤニヤと笑う。
「酒場でモテモテでさ」
「うん、それならば良い」
なにがとは大木君も聞くことはない。さすがになにを勝頼が聞いてきたかわかっているつもりだ。
「足利家から100億の大金を賠償金としてもぎ取ったと吹聴しています。皆はさすがは防人様と感心していますね」
「問題はないか。新聞にも載っているしな」
バサリとテーブルに新聞を勝頼は置く。三面記事として足利家から100億円を賠償金として天津ヶ原コーポレーションは奪う! と、センセーショナルな書き方をされて、その経緯が書いてあった。
「まぁ、本当のことなんでしょ? 俺に引き抜きの声も掛からなくなったし」
兄貴を揺さぶるために、引き抜こうとする動きがあった。だが、内街に来ないかと、億の年収を出すと言われて………。
普通にからかっていると思って相手にもしなかった。聞けば、幹部には同じような引き抜きがあったそうな。どこの誰が仕掛けてきているかわからなかったが、どうやら足利家だったらしい。
へー、という感想しか出なかった。足利って誰? 引き抜きを仕掛けてくる相手は足利家と言っていた感じもした。
だが、廃墟街の人間にそれを伝えても、全然ピンとこなかった。相手との認識の齟齬は致命的で防人まで情報は上がらなかった理由の一つである。
それに億の金と自分の命を天秤にかけても、命が重すぎて天秤は壊れるほどだったのだ。天野防人は優しい男だが、容赦のない廃墟街の危険人物でもあるからして。
つらつらと思い出す大木君に勝頼は話を続ける。
「本当のことだが、真実が周りに伝わるにはアピールも必要なんだ」
「なんか、勝頼さん、段々と兄貴に考えが似てきましたよね」
コッペパンにかぶりついて、もしゃもしゃと食べる。勝頼は大木君のセリフに苦笑して返すだけであった。自覚はあるのだろう。大木君のような気楽な立場ではない勝頼は忙しい中で、つまらないちょっかいなども対応していたので、やり方がどんどんと社長へと似てきている。
大木君は先日100億の話を聞いた。偶然にも兄貴と勝頼の話し合いでお茶くみ係をしていた時に。
さすがは兄貴。内街のトップから100億円の金を奪い取るなんて凄えやと感心しきりにその話を聞いた。
正直信じられない思いだった。
内街の奴らを上回る力を持つ兄貴を誇りに思い、この話は内密でなと、ボーナスとして100万円を貰ったので、絶対に話しませんぜと、力強く頷き返したら、酒場でここだけの話なんだがと話すように小声で勝頼が教えたのだった。
なるほどと、ポンと手を打って大木君は札束を手にして、毎夜任務に従事している。大変な任務だが、この任務はきっと俺にしかできないんだと。
まだまだ懐には金が残っているのだ。廃墟街は物価が安い。今日も飲みまくるかと、強く決心して拳を握りしめる大木君であった。
「それじゃあ、俺は頑張って周りに吹聴してきます。酒場のねーちゃんは、噂話を広げることにかけてはピカイチですからね」
「ほどほどにしておけよ。あんまり酒ばかりに金を使わないで貯金をしておくように」
片眉をあげて、注意を促してくる勝頼に、うへへと頭をかいて答える。
「銀行ないですからね〜。一応考えておきます」
貯金ねぇと考えるが、外街から堕ちてきた苦い思い出があるので、誤魔化すことにした。そんな大木君を見て、勝頼はそれ以上注意を促すことはしなかった。
「そういえば、大木。お前は最近……いや、単なる噂話だろうな」
勝頼は大木君に、ふと気になるようなセリフを言うが、気のせいだろうと肩をすくめる。そんな勝頼の様子を見て気になったが、とりあえず放置しておこうと、大木君は受け流すのだった。
朝食兼昼食を食べ終えて、大木君は食堂を出た。去年と比べるのも馬鹿らしいほどの人の多い本社をのんびりと歩く。本社はペントハウスがあることからわかるとおりに、横に敷地が広いビルだ。
段々と研究室や居住区域と分かれていったが、1階と2階にテナントが入り始めた。
天津ヶ原コーポレーション本社は市場から少し離れているし、気軽に買いに行ける距離というわけではない。なので、店舗が空いたフロアに作られるのは必然的でもある。
正面玄関横の通路から、店舗がフロアに入っていた。
とはいえ、市場の方が遥かに栄えている。なので、懐が暖かい大木君は、市場オンリーである。
「おっと、今日は門番の奴と飲む約束だったな。マリンちゃんのお店に行くか」
最近仲良くなった外街の門番と約束があったと思い出す。贔屓にしているお店に行こうとニヤニヤと笑う。
「新しい服を買ってやるといえば、ワンチャンあるかも!」
フハハと調子にのって笑いながら、市場へと向かうのであった。
本社ビルの店舗は金物屋に雑貨屋とパン屋や弁当屋にレストランと少ないながらも店が揃っている。小さいお店だが、皆は元は廃墟街の人間だ。金を貯めて防人に借金をして店舗を手に入れた。
そのためにその熱意もやる気も高い。腕も良いといけば完璧なのだが……そこは練習あるのみといったところだ。
それでも毎日研究をして頑張っているので、食べ物屋は少しずつ腕前は上がっている。廃墟街の人間は味は2の次、3の次であるので、量を重視して大きいサイズのパンや弁当が売り物に多いのだが。
パン屋は焼きたてを作るために、ふんわりとパンの焼き立ての匂いが店の外まで漂っている。
わいわいと人が店の前に並んでいる。焼き立てのパン、そして大きいサイズなので、行列ができている。
小麦の良い匂いが鼻をくすぐり、お腹を減らす中で、紙袋に買い込んだパンをたくさん入れた女性が出てきた。
昔ならばOLと呼ばれたかもしれない若い年頃のカジュアルな服装の女性は、大事にパンを抱えていた。その隣には弟だろうか、男の子も一緒にいる。
が、周りを見ずに歩いていたのか、ドスンとちょうどその脇を歩いていた大木君に当たってしまう。
「キャッ」
「おっと」
体勢を崩し、紙袋を落としてパンを零してしまうが、大木君は素早く手を伸ばしてパンを手にとり、紙袋を受け止める。
「ありがとうございます。うっかりしていました」
慌てて謝る女性。純朴そうな女性だ。
「気をつけるんだな」
零れたパンを紙袋に入れて渡す。
「はい。ああっ!」
頭を下げてくる女性だが、紙袋を持ったままなので、またもやパンを零しそうになって慌てる。
おっととと、大木君はまた落ちそうなパンを地面寸前で手に取ると苦笑しながら手渡す。
「あはは。たびたびありがとうございます。良かったらお礼にパンを一緒に食べませんか? 買いすぎまして」
「それは良いな。腹が減っていたんだ」
ニカリと笑いながら大木君は了承するのであった。