午前七時三十二分のきみ
駆け込み乗車は危険ですのでおやめ下さい。
シルバーにイエローのラインが入った鉄の箱。毎日毎時定期的に走るそれに乗り込む、いつも通りの通勤風景。どこにも余地の入り込む隙のない完璧なルーティーンの日々。社会人になって八年目の春も、今まで通りに進み続けるのだと思った。
──閉まりかける扉に、走り込んだ一人の少女の存在以外は。
「すみませんっ!」
プシューと、音を立てて閉まる扉に駆け込んだ少女は額に汗を浮かべながら周囲に恥ずかしそうに謝っている。まっさらな制服に型崩れのない鞄、真っ黒で傷一つないローファー。持ち物全てが彼女を新入学生だと示していて、その懐かしさに頬が緩んだ。
自分にもあんな頃があったなとその輝きに眩しさを覚えて、どこにでもいるようなその少女が脳裏に焼き付いた。
午前七時三十二分の電車。あの日から彼女は同じ時間の電車に乗り込むようになった。あの時以外に彼女が駆け込み乗車することはなかった。抱えた鞄からスマホを取り出すと耳にはイヤホンをして、目的地までぐらりと揺らされる。
染色されていない黒々とした髪がさらりと流れ、若さが現れたようなそれに目を奪われて、一人自嘲した。年端も行かない少女に対して抱いていいものではない。自分は良い歳をした大人であるのだから。
彼女は静かに、そして確実に変化していく。この年齢ではよくあることだ。何かを得て何かを失い、学んでいく。大人に近づくための試験期間。学生というものは常に学び変化していくものである。だから彼女がだんだんと変化していくのもおかしなことではなかった。
初めに変わったのはその目だった。はっきりとした意志を感じさせるその目が、何かを探すように動く。いつもはスマホを取り出してその世界に落ちていくというのに、取り出すこともなく、鞄の紐を握り周囲を見回す。一巡りして、目当てのものか、……人を見つけて、彼女はひっそりと微笑んだ。
その瞬間、雷に打たれたような気持ちになった。
あれは、恋するものの目だ。
年頃の少女に恋の一つや二つ、降り注ぐのは当然で。
ああ、と出そうになった溜息は口の中で飲み込んだ。
薄いピンクのリップ。はじめはそんなもので。それはだんだんと色を濃くしていく。すっぴんだった彼女の顔は恋の濃度を示すように少しずつ色を付け、増していった。表情は華やかに色鮮やかに変わり、その笑みは世界に祝福でも受けたかのような全能感があった。
彼女にあんな顔をさせる男とは一体どんな男のなのか。毎日同じ時間電車に乗り込むだけの男にわかるはずもなく。彩りを身につけて彼女は花開いていくようだった。
季節が夏に近づくにつれ、彼女の衣服も変化する。冬服から夏服へ、薄い半袖のワイシャツ、明らかに短くなったスカート。変わらないのは綺麗にされている革靴くらいだろうか。鞄にはよく分からないキャラクターもののぬいぐるみがいくつも付けられている。
とはいえ、彼女の表情は少し変わっていた。恋をした幸せそうな少女の笑みには翳りが見えていた。
高校生という時分の恋は激しい移ろいがある。昨日は好き合っていてもその次の日には関係が終わっている、なんてこともあるくらいだ。自分にもそんな覚えがある。
もしかしたら、そんな起伏が彼女を襲っているのかもしれないと思い、喜んでしまう己の浅ましさに目を背けた。
自分の半分ほどしか生きていない彼女に、なんておぞましい思いを抱えてしまったのだろうか。たまたま目に入っただけの、出会いとも言えないその偶然に心はいつまでも踊らされて、視界にいるだけでその日一日が明るいものに思える。
恋の魔法にかかっているのは何も彼女だけではないのだった。
それでも日々は平凡で、単調に進んでいく。自分と彼女の関係も同じ車両の乗客でしかない。変わりゆく彼女とは違い自分は代わり映えのない大人だ。見つめるだけの恋に変化などあるはずもない。
彼女の目はまた少し変わりを見せていた。はしゃぎ煌めくような輝きは落ち着きを見せ、物憂げで何かを思い悩んでいるようだった。恋が上手くいっていないのかもしれない。しかし、迷い彷徨うのが若年の在り方とも言える。彼女は実に真っ当な学生生活を送っているのだと思えばそれは、なんともまばゆく、こそばゆい思いがした。
大人として少女の成長を見守る自分と、男として少女の女としての有り様を見詰める自分との差異に、少し笑ってそれでも彼女を見ない日はないのだからろくでもない。
自分の恋については絶望的なまでに期待はしていない。ただすれ違うだけの存在に誰が思いを寄せるというのだろうか。自分にとっては彼女の駆け込み乗車はハプニングであったが、当の本人にとってはそうではないこともわかっていた。
けれど彼女の恋が上手くいけばいいとも思っていないのだから、つくづく大人気ない。
見つめるだけの恋は続いた。
彼女の髪が少し、短くなって色が明るくなる。
それは単なる気分転換なのか、それとも心境の変化なのか。知る術はないけれど、彼女は大人びた笑みを浮かべて窓の外を眺めていた。
ある日のことだった。いつもは視界の端に見えるだけの彼女が、目の前で吊革に捕まっている。決して縮まらないはずの距離がふいに近くなり、じっとりとした汗が流れた。
俯いた顔にけぶるまつ毛が、影を作る。吐き出した吐息が触れてしまいそうで、思わず息を詰めた。目を閉じて意識を飛ばす。ここにいるのは自分ではなく、隣にいるのも彼女ではない。
そして、アナウンスが告げる駅名をひたすらに待つ。目を開ければ終わる、一時の空想なのだと、言い聞かせて。
ドアの開閉で人の波が揺り動く。掻き回されるようにして蠢いた空間の中、自分の懐の辺りでかさりと音がした。その音に振り向けば、そこにいたはずの彼女はいなくなり幻想の終わりを知った。
せめて音の在処を知りたくてスーツのポケットに手を這わす。触れた紙切れの感触に首を傾げて、電車を降りた。
そのまま大人の役目を果たすための日常に身を浸す。差し込まれた非日常について思い馳せることもなく。
イレギュラーな朝は続く。
触れてしまえる距離にいる彼女は、ふいに自分を見つめるように見上げた。
「読んで、くれましたか?」
何かを期待されるような目。身に覚えがなく、首を傾げる。
「ごめん、なんのことだろう」
初めての会話にしては間抜けな台詞。恥ずかしくなりながら尋ねると彼女の方も少し弱った顔をして俯いた。
「ポケット……見てませんか」
はて。視線を中空に投げやって、しばし思考すると昨日のアクシデントともに思い出した。ごそごそと狭い車中でスーツのポケットを漁る。
取り出した白い紙には、英数字の羅列と名前がひとつ。
それを見届けた彼女は顔を真っ赤にして呟いた。
「私と、恋をしてくれませんか」
そんなことを言われて。何も思わないやつがいるだろうか。心ごと全部奪い去るような力強さで、純情を投げ出すように、そんなことを言われて。
儚げに震える細い手を掴んで、微笑む。
踏み込んできたのなら、もう逃がさない。逃がせない。君の心も身体も何かも、独り占めにしていいと君が言うのなら。
僕のすべてを捧げてもいい。
大人気ない愛情で君を閉じ込めさせてくれるなら。
君の瞳に誘われて、捕まえられたのは君か、それとも僕だったのか。
どちらだって構わないさ。花が綻ぶように笑う君のそばにいられるのだから。
お読み下さりありがとうございました。