柚香は魔王になりまして4
チサトから同行の許可を取り付けた柚香は、旅立ちのための準備をエレノアと伴に進めていた。
とはいったものの、着の身着のままの状態でこの世界に産み落とされたに等しい柚香にとって、特にこれといってやらなければならない準備などはほとんどなかったため、早々に作業をエレノアに引き継いで柚香はふらふらと屋敷内を探索していた。
(思えば短い間になっちゃったけど、もうすぐこの屋敷ともお別れなんだよね……)
長い年月を経て色褪せている漆喰の柱を眺めながら、柚香は感慨に耽っていた。この世界で魔王として生活を始めてから約一か月、ついに柚香は魔王として、『物語を動かす』ための旅立ちの日を迎えようとしている。
(そういえば、エレノアが読み聞かせてくれたあの本、まだ書庫に置いたままなのかな? )
『リュミーネものがたり』と銘打たれたそれは、薄くてイラストの多い何の変哲も無い絵本であったはずだが、何故だか柚香の脳裏にはそれが深くこびりついて離れなかった。
それは柚香が、ひょっとするとあの絵本が、謎の青年の言う『物語を動かす』ためのヒント、ないしは重要な鍵となりうるかもしれないとぼんやりと思っていたからであった。
ということは、今回の呪書を捜すための旅にも、きっと何かの役に立ってくれるに違いない。そう結論付けた柚香は、はやる気持ちを抑えつつゆっくりと書庫のある部屋へと足を進めた。そして、そうっと扉を押し開けてから部屋の中を覗き込む。
「……魔王様? 」
綺麗に整理された室内の中央には、黒髪の少女がひとり佇んでいた。机の上に積まれたいくつもの書物が、柚香の足元までその影を伸ばしている。
「チサトさん? こんなところにいたんですか」
「ええ、やはり呪書はここにあるんじゃないかと思いまして」
他のところは全部ハズレでした、と苦笑して見せたチサトの足元には、なにやら黒色の幾何学的な模様が描かれている。
「これは……? 」
「魔方陣ですね。今からこれで鑑定魔法を展開させます」
そこで言葉を区切り、チサトは何やら呪文のようなものを唱え始める。それに呼応するように、その黒かった陣が徐々に青色を帯びて発光し始めた。
(本物の魔法だ……! )
眼前で繰り広げられる非現実的な光景にすっかり心を奪われた柚香は、嘆息を漏らしながらその成り行きをじっと見守る。初めて見受ける魔法らしき魔法に、柚香の胸は自然と高鳴っていた。
柚香がその魔方陣に釘付けになっている間にも、魔法陣は段々とその輝きを増していく。そしてチサトの合図のような掛け声と伴に、勢いよく風が巻き上がり、書庫内が眩い光に包まれた。
反射的に目を瞑った柚香は、目蓋の裏が少しずつ暗転するのを確認してから、そっとその眼を開く。あれほどの強烈な風だったのもかかわらず、書庫内の本は散らばることも無く、先程までと何一つ変わらない景色が、柚香の眼前には広がっていた。
チサトは足元の擦れた魔方陣を眺めて、残念そうに肩をすくめてみせる。
「うーん、どうやらこの部屋にも無いみたいですね……」
「そう、ですか」
見つからなかったことについては残念ではあるのだが、仮にもしここで呪書が見つかってしまっていれば、柚香の願望が全てふりだしに戻ってしまうわけで、どちらかといえば見つからなくて嬉しい柚香は、内心相当に複雑な心境であった。
「そういえば、魔王様は何故こんなところに……? 旅立ちの準備はもうお済みになられましたか? 」
「いえ、それはまだなんですけれど、持っていきたい本がありまして……」
何の本でしょうか? と首を傾げるチサトに、柚香は『リュミーネものがたり』についての詳細を伝える。すると何故か、ますますチサトはその首を深々と傾げてしまうのであった。
「……そのような絵本は、見かけませんでしたが」
「そんな。確かにこの部屋に置いてあったはずです」
柚香は以前の記憶を頼りに、その特徴的な背表紙を眼で拾う。しかし、柚香が何度も書庫の中を見渡しても、その絵本が二度と柚香の前に姿を見せることはなかった。
「あれ? 見つからない……」
書物の片付けを済ませたチサトは、お気に入りの絵本が見つからなくてぐずっているようにも見える目の前の少女に、なるべく諭すようにして声を掛けた。
「もしかしたら、既にエレノアさんが持って行ってしまった後かもしれませんよ? 」
「そう、なのかな……? 」
柚香は、渋々ながらもチサトと伴に書庫を後にすることにしたのであった。
◇ ◇ ◇
馬車にがたごとと揺られながら、柚香はかつて滞在していた屋敷が段々その姿を小さくさせていくのを眺めていた。その外見はまさに古びた洋館そのもので、悪霊でも取り憑いていそうな程におどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
あれが魔王の住居だといわれれば、柚香だってなるほどそれっぽいなと思えてしまう。裏腹に、その内装がやたら綺麗なことについては、素直にエレノアの努力の結晶の賜物として賞賛せざるを得ない。
太陽が昇りきっている今ですらこの有様なのだ。夜であればもっと恐ろしいことになるに違いない、と柚香は馬車の後方に腰掛けながら、日光浴がてら外界の風景を満喫していた。
(やっぱり、陽射しって気持ちいい)
柚香の昼夜逆転生活が終了を迎えることとなった背景には、チサトの提言があった。
それは夜間に馬車を移動させることへの危険性といった、至極単純な理由によるものであったため、柚香は勿論のこと、エレノアも二つ返事でそれを了承した。
柚香にしてみれば、むしろこちらの生活リズムの方が深く慣れ親しんでいる分、気軽に受け入れることができたのだが、エレノアにとっては少し難しい問題であったようだ。
血色の悪そうな顔で時折欠伸をかみ殺すその姿に、柚香はエレノア含む魔族は、朝が極端に弱いのではないかという推論を立てる。
あれから、柚香はエレノアに本の行方を聞いてはみたものの、やはり空振りに終わり、結局、本の所在は不明となってしまった。
(本当に、どこにいっちゃったんだろう? )
そういえば、今年の初詣の御神籤の失せ物は時を待てだったなあ、と柚香はかつていた世界での他愛のない出来事をゆるりと思い返す。
(まあ、そのうち見つかるでしょ)
本が独りでに動くわけないし、と今度は屋敷が姿を消してなおその身体を伸ばす『始まりの樹』へと視線を移動させる。遠目から見てもそれは確かにこの世界の歴史を刻まんとするにふさわしい一本の大樹であった。
「そういえば……魔王様のお名前はユズカ様でよろしいのでしょうか? 」
「えっ? う、うん」
おもむろに口を開いたチサトに、柚香は驚きつつも曖昧な口調で答える。
チサトも、柚香と同じくして馬車の中で待機をしていた。御者を務めるのはエレノアでる。ちなみに、どちらがその役をやるのかで少しだけ揉めていたようだ。その実、役目の引き受け合いのような形ではあったので、特に柚香が口を挟むことはなかったのだが。
(そういえば、まだ名前は言ってなかった気がするけど……? )
柚香の疑問を察したのか、チサトは警戒を解くように両手を挙げて表情を崩す。
「その、エレノアさんがそう呼んでいたものですから」
「あー。なるほど」
「それで、私もお名前で呼んでも宜しいでしょうか? これから寝食を共にする付き合いになることですし、なるべく魔王様のご身分も隠しておきたいのですが」
確かに、知らない人を目の前にして魔王様などと呼ばれ続けるのは、それはもうこっ恥ずかしいことこの上ない。それを想像しただけで、柚香の頬は少し熱くなってしまう。
(何だか、やんごとなき存在になったみたい……)
実際、この世界における唯一の立場であるからにしてその通りではあるのだが、今一歩、柚香にはそういった自覚というものが足りていなかった。身分を伏せての遠出だなんて、まるでどこかのお姫様みたいじゃないかと、思わずチサトのことも忘れて舞い上がる。
「そうだね。じゃあ呼び捨てでいいよ」
「ええっ! そ、それは流石にどうかと……」
自身から話題を振っておいて及び腰なチサトに、柚香は予想通りの展開になってしまったと肩をすくめた。エレノアの時と同じく、どうにも柚香は魔王という肩書きに振り回されているような、そんな印象を受けることが多々あった。
「身分がどうのこうのって言ったのはチサトさんだよ? 」
「確かに、それはその通りですが……」
「それじゃ私もチサトって呼ぶからね、ほらっ」
「ええっと、分かりました、ユズカ……様」
尻すぼみに消えてゆく敬称に、柚香の眉間に皺が刻まれる。おろおろと視線を泳がせるチサトに、まあ少しずつ慣れてね、などといった旨の慰めの言葉を二言三言投げかけた後で、柚香はそっと心の中で溜息を吐いた。
(まあ、最初はこんなもんだよね……)
エレノアの時だって、最初はお互い腫れ物に触れているかのようなぎくしゃくした関係だったのだ。現在のようにある程度の距離をつかめているのは、お互いがお互いを知ろうとしたからに他ならない。
いつの日かチサトとも打ち解けるようになればいいな、と柚香は離れ行く故郷を臨みながら、ひとり感慨に耽るのであった。
◇ ◇ ◇
などと長期的な展望をもって楽観視していた柚香ではあったが、状況はそれを許してはくれなかった。柚香が屋敷を出発してから早一週間。後三日もすれば最寄の街へ辿り着かんとするこの時期に、その事案は引き起こされた。
柚香が心にしこりを抱えるきっかけとなったのは、言うまでもなく目下のチサトと、そしてエレノアであった。
端的に言ってしまえば、柚香が見知らぬ間に二人の仲が急成長していた。それだけである。それだけではあるのだが、そのことに対し柚香は強いショックを受けていた。
柚香に対する常に一歩引いたような二人の態度もその一因なのだが、何より二人が楽しげに談笑している姿が柚香には心苦しく思えた。気がつけば、互いの名を呼び捨てにしていたり、柚香に隠れて色々と情報交換をしているようでもあった。
そのことを知ってから、柚香は二人の前に顔を出すのが辛くなった。特に、二人が揃って一緒にいるときなどは、わざわざ外の景色を見に行ったり、あの狼のような生物に会いに行ったりなどをして、ことあるごとにその場をやりすごした。
柚香自身も、そんな己を心の淋しい人間であるとは自覚していたものの、それでもやはりその気持ちに抗うことができなかった。
(私が、魔王だからなのかな……)
魔王でさえなければ、こんな苦しい想いはしなくて済んだのだろうか、と柚香の思考は八方塞がりの一途を辿る。魔王でなければチサトとも親密になれたのかもしれないし、エレノアとはもっと親密になれたのかもしれない。
そんな泥沼に嵌れば嵌るほど、柚香は自身が魔王であることについて、憤りのようなものを覚えてしまうのであった。
そんなことを考えていた所為なのか、柚香はその日、どうしても寝付くことができなかった。
掛け毛布に身体を埋めて、ただひたすらに眠気が訪れることだけを願い続けていた柚香は、不意に床を叩いた靴の音にそっと耳を澄ませる。
少しの時間を置いて、木の軋むような音と伴に、誰かが馬車の中へと上がりこんだ。もしかしたら夜盗の類かもしれない、と柚香は張り詰めた緊張に身体を強張らせる。
ひっそりと息を凝らして様子を窺っていると、その人影は柚香から少し離れたところへと向かい、そして何やらひそひそと呟いた。
「……エレノア。交代の時間ですよ? 」
その声色から人影がチサトであると判断した柚香ではあったが、何故、こんな夜更けにチサトは外出しており、そして寝ているエレノアを起こそうとしているのかが、柚香には理解できなかった。
ごそごそと布の擦れるような音がして、掛け毛布の中から喘ぎ声が漏れ出す。チサトがそれを捲ってみると、膝を抱えて微睡むエレノアの姿があった。
「んっ……」
「おはようございます」
「……おはよう」
エレノアはそのとろんとした眼でチサトを一瞥すると、ふわあと軽い欠伸を出した。そして上体を起こすと、首を捻ってパキパキと肩の骨を鳴らした。ううんと背伸びをしてから、胸につかえた空気を一気に押し出す。
あまりに無防備なエレノアの様子に、自然とチサトの頬も緩んでしまう。
「あまり物音を立てると、ユズカ様が起きてしまいますよ? 」
「……うう、ごめんごめん」
「それじゃ、朝まで見張りの番お願いしますね。……と言いたいところですが、今日は少しだけお話をしましょう」
「……? 何かあったの? 」
チサトのその表情から僅かな翳りを見出したエレノアは、普段とは少し異なるチサトの態度に、珍しくも眉をひそめた。
「いえ、ユズカ様のことについてなんですけどね……」
苦笑混じりに話を切り出したチサトではあったが、その表情はどこか痛ましさを感じさせるものがあった。
チサトの話によれば、どうにも最近、チサトは自身に対する柚香の態度がどこかよそよそしいものであると感じているらしい。一応、チサトから話しかけた場合にはそれなりの言葉が返ってくるものの、柚香からチサトへ話しかけてくることは滅多に無いそうだ。
それに加えて、チサトは柚香を見かける機会すらも少なくなったように思えてきたとのこと。これに関してはエレノアも薄々勘付いてはいたのだが、どうやら柚香には何かと独りきりになりたがっている節があるようだった。
「私、もうどうしたらいいのか分からなくて……。ユズカ様に直接言えたら、それが一番良かったんですけどね」
力なく表情を崩してみせるチサトに、エレノアはうむむと腕を組んで思考を働かせる。
「難しいよね。私だって、ちょっと前まではユズカ様が何を考えているのか、さっぱり分からなかったし……」
「基本的に聡明なお方ですけれど、ふとした瞬間に子供っぽくなりますもんね。そこがまた可愛らしい部分だったり」
「そうそう。着せ替え人形にすると頬を膨らませて機嫌を悪くしたり、だけど私の体調はしっかり気遣ってくれたり」
馬車の中を二人の忍び笑いが反響する。その和やかな空気に暫く浸ってから、エレノアはぽつりと言葉を漏らした。
「ユズカ様はね、過ぎるほどにいい人過ぎるんだよ。だからきっと、甘え方が分からないんだと思う。悩んで悩んで、それでも分からなくて立ち止まっちゃう」
エレノアはそこで言葉を区切ってから、チサトの方へ視線を合わせる。
「私はね、そんなユズカ様の背中を押してあげたいんだ」
かつて、柚香に心を開いたエレノアが心に決めたこと。それは、柚香がエレノアの手を引いて歩いてくれる分だけ、柚香の背中を押すことであった。いつだってエレノアが傍にいてくれる、と柚香に思って欲しい。そんな関係になれるようにとエレノアは誓った。
「……やっぱりエレノアは凄い。私なんて、こうして泣きつくことしかできないのに」
「それは違うよ? 」
そこに過去の自身を重ね合わせるかのように、エレノアは優しくチサトに笑いかけた。
エレノアだって、それなりの紆余曲折があったからこそ今の自身に辿り着くことができたのであって、決して最初からこのような想いを柚香に抱いていたわけではない。それだけは、チサトに勘違いをして欲しくなかった。
だから、エレノアはチサトがその本心を吐き出す時をじっと待った。そしてチサトは、意を決したようにその口を開いた。
「――私は、ユズカ様のことをまだよく知りません。だけど私は、ユズカ様と仲良くなりたいんです」
その時、チサトの視界の一端が揺らぎ、そしてそこからすすり泣く音が漏れた。
◇ ◇ ◇
柚香は知らなかった。
エレノアがあれだけ眠たそうにしていたのは、毎晩のように見張り番をやっていたからであったことを。柚香自身の底の浅い行動によって、チサトが苦しんでいることを。エレノアが柚香のことを大切に思っていることを。そして、それはチサトも同様であったことを。
柚香は情けなかった。そんなことすらも分からなかった自身が憎かったし、恥ずかしくもあった。そう考えると悔しくて悔しくて、涙が溢れて止まらなかった。
「……ユズカ、様? 」
音の出所である掛け毛布をそっと捲ったチサトが目の当たりにしたのは、涙と鼻水で顔面をぐちゃぐちゃにした柚香の泣きじゃくった姿であった。柚香はチサトの姿を確認すると、わき目もふらずにチサトへと抱きついた。
「ごめん、なさいっ……」
自身の腕の中でしゃくりあげる柚香に、チサトは柚香の身体を優しく腕で包んでから、ぽんぽんと頭を叩いて撫でた。銀色の糸束が、月灯りに照らされて淡い輝きを放っている。
「怖い夢でも、見たのでしょうか? 」
「違う、違うの……」
首をふるふると横に動かしてチサトの言葉を否定する柚香に、エレノアは気まずそうに頬を掻いた。
「いつから、聞いていたんですか? 」
「……最初、から」
あはは、とエレノアは乾いた笑いを浮かべ、チサトは暫しその意味を図りかねてから、ざっと血の気を引いた顔で口をぱくぱくと動かした。
三人の間を柚香の嗚咽だけが響いて、居た堪まれない空気がその場を支配する。息がつまりそうなほどに重苦しいそれを破ったのは、遅れて我に返ったチサトであった。
チサトは腕の中の柚香を見据えてから、今しがた決意したことを行動へと移す。
「ええと、そのですね。先程お聞きになられたと思うんですけど、私はユズカ様と……」
チサトは少しだけ逡巡した後に、ちらとエレノアのほうを見やる。にこにこ笑顔でその言葉の続きを待つエレノアに、チサトは観念したとばかりに息を吐き出した。
「お友達になりたいな、なんて考えているんですけれど……」
「うん」
恥ずかしそうに頬を赤らめたまま頷く柚香の姿に、チサトは自身を受け入れてくれた嬉しさよりも先に、なにこの愛くるしい生物といった保護欲をかきたてられた結果、気がつけば思いっきり柚香のことを抱きしめている自身に気付いた。
いきなり抱きしめられた柚香はパニックに陥るも、心ここにあらずといったチサトの表情に、しばらくは逃れられそうに無いことを悟り、大人しくチサトの抱き枕になる道を選んだ。
柚香は、チサトに疎まれてなどいなかったことを知れて嬉しかったが、何よりもチサトが自身に本心を打ち明けてくれたことが嬉しかった。そしてより一層、チサトと仲良くなりたいと思えるようになった。
気がつけば、チサトも柚香もお互いを固く抱きしめたままに、すうすうと気持ちよく寝息を立てていた。その表情はとても幸せそうで、そんな二人の様子をエレノアは只々、楽しそうに眺めているのであった。