―憂鬱―
楽しみにしていた。
街へ行けることを――。
城の外へ行くということは、ぼくにとって奇跡みたいなものだから。
ぼくは、生まれてからほとんどの時間をこの城の中で過ごしてきた。読書は嫌いじゃないけれど、部屋にこもってひたすら書物を読んでは勉強の繰り返し。毎日規則正しい生活に同じ眺めの部屋からの景色……。
城での生活には自由がない。窮屈以外のなにものでもない。
本で世界の事を知るたびに、外の世界の事をもっと知りたくなる。
世界ってどんなだろう?
この目で見てみたいと思いを馳せるのは、遠くの国や海や空や沢山の自然。
けれど、ぼくは物心ついた頃から城の外に出る事は許されなかった。
叶わないとわかっていても、いつかはって考える事は窮屈な城で暮らすぼくの唯一の楽しみだ。
大好きな本がある。
『エイリックの冒険』と言う本だ。
エイリックは貧しい家の生まれだけれど、ある日両親が死んで意地悪な村人たちに村を追い出され一文無しになってしまう。
住むところを失い親友のねずみ、ライトと旅に出るのだ。当てもない旅は辛くて苦しいものだけれど、彼らにとっての外の世界は未知なる発見の連続だった。
デュオが落ち込み部屋へ戻ると、アリーチェがせっせと部屋の掃除をしていた。
「あ……」
一瞬の沈黙のあとアリーチェは言った。
「デュオ様、何かお忘れ物ですか?」
「別に……気分が乗らないから出掛けるのをやめたんだ。文句ある?」
デュオが不機嫌にアリーチェを睨み付ける。
一瞬慌てた彼女だったが、
「いいえ、そんなことはありません」
、と不器用な笑顔を見せる。
デュオはそれが妙に気に入らなかった。
彼女は空気を察したのか慌て取り繕うように、
「あ、あの! まだお部屋のお掃除が終わっていません。本当に申し訳ありません! 直ぐに終わらせますね」
、と言い頭を下げた。
そのたどたどしい態度が何だかとても腹立たしいのだ。(奴隷のくせに! ……こんなやつがぼくの遊び相手とか――そんなことより、すっかり気分が下がってしまった。このようなことが起こったのは一度だけではない……この城でぼくへ対する扱いが酷いのは今にはじまったことじゃない。父上やカリフはぼくを置いて、三人で買い物を楽しむのだろうか)
デュオの目に何かあついものがこみ上げて来た。(くやしい、悲しい、でも、泣きたくない。
でも――……)
目頭があつい。
(くそ!)
デュオはこんな見っとも無い姿はアリーチェには見せられないと、半ば強引に気持ちを切り換えようとし、わざと威厳ある声で彼女へ向かって話しかけた。
「おい、ぼろ女」
「アリーチェでございます」
は?
「なんだって?」
びっくりして思わず声が漏れた。
「もういちど繰り返しましょうか、デュオ様」
ひと呼吸入れた後、彼女はもういちど声を発した。
「わたしはアリーチェ・テュアル・メアーナ。ぼろ女という名前ではありません」
さっきまでびくびく震えていた奴隷の女が急に毅然とした態度で答え、じっとこちらを見つめている。
思わず声につまり、デュオはごくんとひとつ息を吞み込んだ。ドキドキと小さな鼓動の波が胸を打つのを感じる――。
弱々しい女かと思いきや、あまりにも予想外で。次の瞬間、デュオの口元は自然とつり上がり笑っていた。
「随分と偉そうだな。もと王女だからって次期ハミルトン国王のこのぼくにいい度胸だね。それともバカなの? 口の利き方もろくに知らないとか?」
デュオは笑いながら言った。
勿論目は全く笑っていないが。
「一国の国を任される王子様とあろうお方が、いくら身分の低い相手だからといって、その人を人と思わぬ発言には違和感を感じざるを得ません。メアーナ国では、そのような教育をわたしは受けた事がありませんので、とても残念に思います」
まるで、このぼくがまともな教育を受けていないかのように奴隷の女は皮肉を込めた返答をした。透き通るようなコバルトブルーの瞳が真っ直ぐと突き刺さるようにデュオの視界に飛び込む。
「偉っそうに! ……お前、自分の立場がわかっているのか?」
デュオが怒りに満ちた表情で少女をにらみつけると、アリーチェは一瞬たじろいだ様子を見せたが、直ぐに持ち直したのか先ほどの毅然とした態度で言った。
瞳と瞳が交差する――。
「大変失礼と存じあげた上で申し上げたいのですが、王族ならば、本来民の幸せを願い考えるもの。感情に流され、貶す行為はそこらの賊がすることにございます」
「な! 奴隷のくせに、ぼくに意見するとか……いったい何様だおまえ……」
(ぼくが、賊だって?)
もはや笑う余裕すらなくなったデュオの怒りに満ちた形相にアリーチェは圧倒され、怯みそうになりながらも、傍から見るとその様子を微塵も感じさせない姿を貫く。
(この女! 人を愚弄するのにもほどがある。わかって言ってるからたちが悪い)
「お前、自分の立場がわかってるのか! 奴隷の分際で! お前の処分は厳重に考えさせてもらう。もういい、出て行け! ぼくの前から消えろ!」
(父上といい、こいつと言い……ほんと、今日はなんだって)
「お気を悪くされたなら、申し訳ありませんでした。失礼致します、デュオ様」
(当たり前だろう)
少女の影が扉を挟み見えなくなってもなお、デュオの怒りは一向に収まらなかった。
(あいつ、覚えておけ。こんなに小ばかにされたのは生まれて初めてだ。すごく気分が悪い。しかもあんなやつに! ……もしかして、あれも父上の策略か? フッ、もう誰も信用など出来ないな)
デュオは、力無くしてベッドに倒れこみ、うな垂れた。
(今頃、カリフ達は三人で楽しそうに城下町で買い物でもしている頃か……。……宴が始まるまで、やることやんないと……な。)