―回想―
「奴隷って……」
アリーチェは、がらんと静まり返った部屋の中でぽつりと小さな声を漏らした。
そう言われても仕方ないのかも知れない。
アリーチェは左鎖骨の下の烙印にそっと手を当てた……。
(私の胸にはもう、奴隷の烙印が刻まれている。これは奴隷の証で、一生私に付き纏い変えられぬもの。ご主人様に買われた以上、逆らうことは決して許されない……どのような扱いを受けようと、死ぬまで耐え続けなければならない)
それが奴隷の運命であり宿命だ――。
(……それにしても、あんな失礼で意地悪な人がご主人様だなんて……)
私はこれからいったいどうなってしまうのだろうと、強い不安がアリーチェを襲う。
アリーチェは目を閉じ、深くひとつ息を吐いた。そして、
(お父様、お母様、どうやらここが今日から私が住む場所のようです……)
、と心の中でとなえた。
心の中で今は亡き両親に語りかけると、黄色い花が活けてある窓へ向かい、アリーチェは静かに手を動かし始めた。
――五ヶ月前、祖国メアーナに沢山の帝国の兵士が攻めて来た。
一夜にして、城も城下町も民も帝国の支配下になってしまった。
優しかったアリーチェの両親は翌日、城門前で公開処刑の見せしめにあい、無念な死を遂げた。
もともと平和主義国のメアーナは、戦争や武器などという野蛮な物とは無縁で何百年と続いてきた美しい自然に囲まれた小国だった。
危険を感じた両親はアリーチェと少数の臣下を城の地下の秘密通路から逃がした直後帝国に捕まり、まる一日中虐められた挙句、この世を去った。
アリーチェが両親の死を知ったのは半年後、彼女がナッシュ王都についた後のことになる……。
数日後、アリーチェ達とナッシュ王都の人々は、女子ども関係なく胸に決して消えることのない奴隷の烙印を押され、テレジア帝国に自身の身を捧げる事を条件に命を保障されるのだった。
見せしめの烙印の儀式は昼夜問わず行われ、人々の悲痛な叫び声と悲鳴が地下室の遠くの遠くまで響き渡り、皆、恐怖に怯え眠れぬ日々を過ごした。
中には灼熱の鉄板に体が耐え切れず、ショックを起こし死んでしまう者もいた。
言い知れぬ恐怖と絶望が人々の心を支配したことは言うまでもない。
アリーチェの正体は、一緒にいた臣下の「姫様」
という一言で簡単にばれてしまい、彼女だけは別の部屋へ通され、王の前に跪けさせられた。
「わたしが怖いか」
テレジアの皇帝は、アリーチェのぼろぼろの姿を見下ろすと高らかに笑いながら言った。
「そうか、お前がアリーチェか。お前の両親は、門前で公開処刑の見せしめをさせてもらったぞ。私はお前を知っている。お前の両親が処刑前にお前の名前を引っ切り無しに叫んでいたからな。嫌でも耳に入ってしまったよ。くくっ、ウハハハ! 処刑前の人間の苦しんで命乞いする姿って興奮するねぇ。両親と同じ道を歩むか、一生奴隷として生きるか選択せよ、王女よ」
テレジアの皇帝は、意外にもまだ若い青年で綺麗な顔立ちの長髪男性だった。途中、人が変わったように不気味に笑いながらその男は言った。
『その胸の烙印は奴隷の証。一生お前を苦しめ、もう誰もお前を王女などと呼ばない。地位も名誉も無くし、絶望した暮らしがお前の生きる意味となるだろう。天地をひっくり返された気分はどうだ。そうだな、お前には面白いゲームに参加してもらおうか。おい、奴隷市場でこの娘を競売にかけ、民の前で見せしめにせよ――』
熱い炎と木々《きぎ》の燃える臭い、崩れ行く外壁、人々の悲痛な叫び声が今もアリーチェの心の中でこだまする。悲惨で、残酷で恐ろしい光景――。
アリーチェと五人の臣下たちは、崩れ行く故郷メアーナを胸を痛めながら後にした。
その後、三日かけてアイルの森を抜け、隣国のナッシュ王都を目指す。
メアーナ国はナッシュ国と古くからの親交関係にあったため、一刻も早くこの大惨事をあちらの王に伝えなければならない。
焦りと不安が彼女の足を速める。急がなければ、ナッシュ王都も危ないかもしれない!
半月もの間、殆ど飲まず食わずで懸命に走った。(お父様が……お母様が心配だ)
しかし、泣いている暇など微塵もない、考えてる暇など何処にもないのだ。
まだ十二歳の誕生日を迎えて間もないアリーチェには、メアーナを出たあとの生活は今まで味わった事のない苦しい時間だった。
ナッシュに着く頃には、身なりはぼろぼろになり、体も痩せ衰えた状態だった。
それでも、五人の臣下たちが道中必死にアリーチェを気遣い、少ない食料を分けてくれたり、姫様姫様と身の回りの世話をしてくれたりしたため彼女はこうして今生きていられるのだ。
国から出る時に王妃から手渡された僅かな食料はあっという間に底をつき、一度だけ身に付けていた宝石を売り払い、そのお金で食料を買ったが後は野宿の日々だ。
一度国を出れば、メアーナのお金は価値を失い何の意味も示さなかった。
突然の奇襲だったため、着のみ着のままに近い状態だったし、見つからぬよう静かに行動していたぼろぼろの一行を見ても小さな村では誰も王家の者だなんて思わなかった。
ナッシュ王都に着いたアリーチェが目にしたものは、既にテレジア帝国に王都を占領され、奴隷として連れ出される民の姿だった。
『遅かった――』
メアーナを出てから、あまりにも時間が経ちすぎていた。
王へ伝えることが不可能だと落胆した一同だったが、街から離れた山の中に空き家を見つけ、そこへ隠れ、暫く様子を見ることにした。
しかし数日経ったある日、偵察に出た臣下がつけられていたのだろう。静かに身を潜めていたアリーチェ達だったが、夜中寝ている所を少数の部隊に捕えられ、直ぐにナッシュ王都の地下に収容されてしまった。
テレジア皇帝の傲慢に笑う声は人を痛めつけることに慣れ、愉しんでいるようだ。
目の焦点は何か恐ろしいことを想像しているかのごとく全く笑っていない。
彼の心には悪魔でも棲みついているのか、はたまた心の何か一部が欠落しているのか、その眼差しは人々の心を恐怖に陥れ、絶望と破壊へと導く。まさに狂気。それは彼を表すのに相応しい言葉だった。
(ころ……された? うそ……そんな……お父様、お母様、そんな……うそでしょ!?)
アリーチェが絶望し、力なく崩れ落ちる様子を王はさも愉快そうに甲高い声をあげて笑っていた。
その後、アリーチェの身柄は奴隷商人に引き渡され、何日か海の上を航海し、大都市ミュルスの奴隷市場の大勢の人々目の前で競売にかけられることとなった。
奴隷にされた沢山の人々の中に一際高く値段をつけられた王女アリーチェは、疲れ果て、その場に崩れ落ちた。意識はあったものの目の前は暗く、いったい何が起こっているのかわからない。
「さあ、本日の目玉商品はな〜んとこの若い娘だ! なんとなんとこの娘は、あのメアーナ王国の第一王女アリーチェ。王族を奴隷にできるなんざ滅多にないぜ!」
奴隷商人は大きな声とともにアリーチェの手枷と髪の毛を乱暴に引っ張り上げ、大勢の民衆の真ん中に立たせると、
「何をぐずぐずしている! もっと愛想をふりまけ」と促した。
「……っ! ……やめて! 皆を解放して‼」
声を張り上げ、アリーチェは必死で抵抗した。
アリーチェは両手の手枷ごと力いっぱい振り回した。
「痛っ! この野郎! 静かにしろ、このアマ」
商人はアリーチェが暴れるのを制止しようと、力いっぱい彼女の頬を引っ叩いた。頬が赤く腫れあがる。アリーチェの心とは裏腹に大粒の涙が頬を伝い流れ落ちる。
(くやしい! わたしには何もできない。何の力もない。皆んなを助けることも出来ない……)
はぁはぁと自分の小さな息が切れる音だけがきこえる。
――その時、遠くから男性の声がした。
「その娘は私が貰い受けよう」
声の主、重そうな防具を身に付けた男性が人々の背後から姿を現した。民衆を掻き分け、こちらへ向かってくる。
男は袋に入った大量の金貨を奴隷商人に押し付けると、アリーチェの体をその大きな手で抱え込だ。
アリーチェは直ぐにこの男性の所有物となった。
その後は丁寧な扱いで立派な馬車に案内され、乗せられた。
その男性はアリーチェと向かい合う形で座り、馬車はゆっくりと動き出した。
「そなたには私の城で息子の世話係を命じよう」
道中の馬車の中で、目に光を無くしたアリーチェに男性は言った。
「亡きソフィアにその面持ちがなんとなく似ているな」
男性はアリーチェの顔をじっと見つめ、独り言のようにつぶやいた。
ソフィア…誰?
アリーチェの心にその名前は余韻を残したまま、馬車は草原の一本道を規則的な音をたて走りぬける。
(この方は何処かの国の偉い王様のようだけれど……、わたくしはこれからこの方の息子にあたる人物の下で一生奴隷として働くのだわ……)
もうお父様とお母様にも、城の皆にも一生会えないのね……幼いアリーチェにもそのくらいの事は理解出来た。
瞳から熱い液体が零れ落ちる。それは止まることなく幾重にも……。
祖国メアーナでは、花に囲まれ愛らしく笑うアリーチェは心優しく賢い王女だった。
城の皆から愛され、しっかり者の彼女は勉強熱心で困ってる人々に手を差し伸べては自然や生き物をこよなく愛し、普段から皆に優しかった。
メアーナ王国の未来は平和で、安泰だと誰もが口々に噂していた。
(一緒に捕らえられた臣下たちは無事かしら……自分の空腹を我慢し少ない食料をくれたレオンも、吹きつける雨風の盾となってわたくしを寒さから守ってくれたスルガ、ああ……心配なのはアルーシオだわ。一番高齢のおじいちゃんだもの。怖い人たちに酷い目に遭わされたりしてないかしら、どうか、どうか――、皆無事でいて……)
(かみさまお願いします! お願いします!! どうか皆を――)
ぽろぽろとアリーチェの瞳からとめどなく涙が零れ落ちる。
両手で顔を覆い肩を引っ切り無しに震わせた少女を王は不憫に思い、自分が身に着けていたマントをすっぽりとアリーチェに被せると言った。
「あいにく私は帰国途中で、こんな物しかないが使うがよいぞ。辛かったであろう……こんな幼子が皮膚に一生消えぬ傷をつけられあんな大衆の目の前で見世物にされたのだ。どのような経緯かはわからぬが、わたしはそなたが息子の遊び相手と世話係の仕事を全うしてくれれば、むやみにお主を傷つける事はしない。だから安心しなさい。ハミルトンまで道中はまだ長い……それまでゆっくり休まれよ姫」
男性はそれ以上何も話さなかった。
(姫? 私が王女だとどうして知っているの? この人は、いったいどこから私を見ていたの? この方は今までの悪い人たちとはちょっと違うみたいだけれど……ああ、何だか疲れたわ、色々ありすぎたもの。おとうさま……おかあさ……ま……ほんとうに、ほんとうに死んでしまったの? どう……して……)
……そのままアリーチェの意識はなくなり、彼女は深い深い眠りへとついた。
少女を乗せた馬車が走る。カタカタという規則的な音とともに草原を一気に駆け抜ける――。