―王子と奴隷娘―
【表紙】
ハミルトン王国、第一王子デュオにひとりの奴隷娘が与えられた。
「今日からデュオ様の遊び相手としてこの城に仕えさせていただくことになりました、アリーチェ・テュアル・メアーナと申します」
彼女の名はアリーチェ。デュオより二歳年上の彼女は、まだ十二歳の可愛らしい少女だ。ぼろぼろに汚れた白い服、髪は綺麗な栗色で毛先はくるんと弧を描いていた。レアリ島南西部にある深海のような美しいコバルトブルーの瞳は、少女の白い肌をさらに引き立たせていた。
しかし、その美しい肌を持った彼女の破れてはだけた胸元には、赤黒く腫れ上がった奴隷の烙印がくっきりと刻まれていた。恐らくは最近のものに間違いはないだろう。
デュオは一度目に入った烙印を睨み付けると、浅く息を吐き言い放った。
「奴隷か。そのような汚らしい格好でよくもぼくの前に立てたな。しかも女……どういうことなんだ、エドガール」
馬鹿にしてると言わんばかりの飽きれた眼差しでもう一度ため息をつきながら、扉の前の男に問いかける。
エドガールと呼ばれたその中年男性は丁寧に答えた。
「はいデュオ様、彼女はミュルスの港町で奴隷市場に立たされていたところ、遠征帰りの国王陛下の目にとまり城へ連れて戻られたのです。なんでも、もとはメアーナ国の王女だったそうにございます。国王陛下が、デュオ様の身の回りのお世話や話し相手にと仰られておりました」
「父上が?イザックからお戻りになられたのか?」
デュオは驚き、はっと顔を上げた。
「はい、デュオ様、先ほどご帰還されました。」
「そ、そうか……」
デュオの少し長めのブロンズの前髪が揺れ動いた。ブロンズの隙間から覗くエメラルドグリーンの瞳が一度大きく瞬きをしたと思ったら、黒いマントがひらりとアリーチェの目の前を通り過ぎ、踵を返す。
その時ふわりと花のいい香りが漂う。
美しく整った顔立ちのデュオの表情は曇っていた。
「デュオ様?」
神妙な面持ちのデュオをみてエドガールは静かに問いかける。
「あ、ああー……メアーナ国だったな。国はテレジア帝国に侵略され、王族は皆処刑されたと聞いたが?」
心ここにあらずといった顔でデュオは聞き返した。
その時だった。ドクンと少女の心臓が鼓動を打った。小さな身体を小刻みに震わせ、青ざめたアリーチェはその場に屈みこんでしまった。両手で顔を包み必死で何かを呟きはじめる。奴隷にされた人間には決して珍しくない反応だ。よほど怖い思いをしたのだろうか。
テレジア帝国は、表向きは統一という名目で飾られているがその扱いは酷いもので、逆らう国は容赦なく滅ぼされる。統一という名の支配国家だ。
十年ほど前から、あちこちの小さな国や町を侵略しては生き残った王族を無残にも民の前で一人ずつ公開処刑していくのだと学問の先生から前に聞いたことがあった。
もっとも、此処ハミルトン王国はテレジア帝国から大陸ひとつと海ふたつを挟んだ、帝国から遠く離れた国だからなかなか被害は及ばないが、他人事といえば他人事だ。
「彼女は王族唯一の生き残りでございます。デュオ様にはきちんと教育を受けた特別な人間を近づけたいという陛下のお考えでしょうか」
「それがこのぼろぼろの小汚い娘だと……?」
横目で座り込むアリーチェを見下ろした。
「申し訳ありません。陛下はお戻りになられたばかりですので、デュオ様」
エドガールは慌てることもなく静かに返答し頭を下げた。
(それにしても汚い女だ) 冷めた眼差しで嫌悪感をあらわにしたデュオだったが、彼は先程の挨拶の過程で鋭く彼女を観察していた。
確かに身に纏っているものはぼろぼろだが、見る限りでは彼女の仕草には気品があり、綺麗にすればひとめで美しく位の高い娘だとわかるだろう。
しかし、今は追い詰められて怯えたひとりの子供だ。
「出直せ」
「は……?」
「綺麗にした後、出直させろ! ぼくは父上のところへ行く!」
そう言うと、デュオは扉を開けて出て行った。
大広間へ向かう途中デュオは思った。
(まったく! 意味がわからない。ぼくに奴隷の女だなんて、父上はいったい何を考えているの。ぼくを監視でもさせるつもりなの? 次期国王だからって、ぼくに対して父上は何かと煩いし、厳しすぎる。あいつには優しいくせに、ぼくには国の情勢や国務を学べ、作法を身に付けろ、学識をつけろと難しい話しかしない。毎日、朝から晩まで勉強するように言い残し、イザックへの半年間の遠征を終えて帰国したと思ったら、変な女を買って来るし……今度は一体何を考えているの。もしかして、またあの時みたいに……?)
嫌な記憶が背筋を走る。恐怖と悪寒が一瞬彼を襲ったが、デュオはその記憶を押し込めるように出来るだけ考えないようにした。
出来れば思い出したくなかった。それもこれもあの奴隷女のせいだ。(あの女が……!)
ぎりっと噛み締めた唇から微かに血の味がした。
(くそっ! あの女、後で部屋に戻ったらこき使って絶対にぼくに逆らえないようにしてやる!)
そんな事を考えていた時だった。背後から拍子の抜けるような高い声がした。
「兄さーん」 (きた!)
デュオはげんなりした。(あいつがきた……)
デュオは、はぁ~とひとつため息をつくと向き返り、冷たい眼差しで声の主を見やった。
「なに?」
(ぼくは弟が嫌いだ。弟のカリフとは年齢がふたつしか違わないが、ぼくとは正反対でカリフは誰にでも愛想がいい。城の皆から愛され、ぼくはことある度にカリフ《こいつ》と比べられていつも迷惑しているんだ)
「もしかして、兄さんも父上のところへ行くの?」
瞳をキラキラと輝かせた少年が急ぎ足で近づいてくる。
「そうだけどなに?」
「ぼくもなんだ!兄さん一緒に行こうよ!」
少年は真新しい赤いマントを靡かせ、砂糖菓子のような甘い笑顔でデュオに笑いかけると隣りに並んで歩き始めた。
「今日はずーっと勉強ばかりだったね。教育係のアイシルの話はあくびが出ちゃうくらい眠くなるよ」
(お前の話なんてどうでもいい……) 嫌悪感と鬱陶しさからデュオはカリフを無視したが、カリフは気にせず話しを続ける。
「そういえば、今日は午後から母上と城下町へ行くんだけど、もちろん兄さんも行くでしょう?」
「え!城下町へ行くのか?本当か?」
デュオの声のトーンが急に高くなった。
「うん!昨日母上にお願いしたら、今日のお昼過ぎに連れて行ってくれるって言ってた。今日は家族水入らずだって!」
カリフが嬉しそうに言うと、とたんにデュオの顔が笑顔に変わった。嬉しそうに口元が綻ぶ。
「そうか、城下町か。ずっと城の中で勉強ばかりしていたから退屈していたところだ。母上、買い物してもいいって言ってた?」
「もちろんだよ!」
「本当に⁉︎ もちろん行く!となったら、こんなところでのんびりなんかしてられないな。行くぞ!カリフ」
「うん!」
ふたりは長い城の廊下を走り始めた。
大広間で待つ父上に急いで挨拶を済ませ、支度をしなければ! カリフの一言で、デュオの憂鬱だった気持ちが一瞬で晴れ、期待に胸が膨らんだ。
「おお、デュオ様、カリフ様!」
前方から臣下の男性に声を掛けられるも、ふたりの速度は変わることなく、男性をあっという間に通り過ぎた。
「セイラ、どけ」
「セイラごめんね~」
「え? えええ??」
びっくり顔の男性をかまうことなく。デュオは、大広間のドアを勢いよく開いた。
「父上!」
「父上ー!! お帰りなさい」
「おお、デュオにカリフ、ようやく来たな」
日に焼けた黒髭でがたいのいい男が嬉しそうにふたりに近づいてくる。ハミルトン王と王子の再会に、周りの兵士や召使いたちは一斉に目を向けた。半年ぶりに見る父の姿は、さらに大きく逞しい男性へと変貌を遂げていた。
「ふたりとも元気でやっていたか?」
そう言うと、王は右手でカリフの頭を撫でた。
「うん!父上~、会いたかった」
カリフは王の懐に飛び込んだ。
「おいおい、カリフ」
王は少年の身体を優しく包み込んだ。
「あらあら、カリフったら、すっかり甘えてしまって。父上は長期間の遠征でお疲れなのですよ」
前方から甘い声がした。
温かい親子の再会を愛おしそうに見つめたデュオとカリフの母親、エマ王妃は上品に口元に手をあて微笑みながら言った。遠征から戻った愛おしい夫というより、その視線は我が子カリフに向けられている……その瞳は数秒の間、瞬きひとつせずに一身にカリフだけを捉え、注がれる。――まるで恋人を見る女性のように。
しかし、その状況に気付く者はこの城には誰一人としていなかった。
皆が国王の帰還をよろこび、その朗らかな再会の様子に拍手喝采。今夜ハミルトンでは、王の帰城を祝い盛大な宴が開かれる。召使いは宴の支度に忙しく、兵士たちは、今宵皆に振る舞われるであろう沢山の豪華な料理と酒を楽しみに、城全体はお祭りのように活気だっていた。
「父上! 今日は母上と兄上と城下町へ行く約束をしたんだよ。もちろん父上も一緒に行くでしょう?」
カリフがこの上ない愛くるしい笑顔で王に笑いかけると、王は少し考えた後に言った。
「……そうだな、しかし今日は城の者も何かと忙しい、またの機会ではだめか?」
まるで小さな子どもをあやし立てるように、ん? と相槌く。
その瞬間、カリフが露骨にがっかりした顔をしたものだから王が困った顔をしていると、後方から煌びやかな水色ドレスを身にまとった王妃エマが甘ったるい声で王の左肩側に近づき言った。
「あら。いいではありませんか。買い物と言っても少しの時間で済みますわ。宴は夜からですし、久しぶりに戻ったんですもの。家族の時間も大切ですわよ」
そう言って王の左肩に手を添えるとひと撫でした。
王は少し困った表情をして見せたが、落ち込むカリフとそれを気遣うエマの悲しそうな表情についには根負けしてしまった。よしよしわかったわかったと我が子カリフの頭を撫でるのだった。
その瞬間、デュオは湧き上がる興奮を必死に抑え皆に気付かれぬようそっと喜んだ。
そして 、
「カリフは子どもだな」
、とあざ笑った。
「兄様と買い物をしたら、父上と母上にプレゼントするから楽しみにしていてね」
カリフの満面の笑顔の前には、国王も城の者でさえいちころだ。
「まあ嬉しいわ。カリフ、貴方は本当に心の優しい子ねぇ」
、とエマ王妃がいうと、皆が笑顔でまた拍手喝采だ。
「デュオはまた少し背が伸びたな。どうだ、わしが留守の間変わりなかったか?」
「はい父上。ぼくはもう十歳です。父上のいない間、言いつけどおり勉学に励み、将来立派な国王になれるように励んでおりました。お帰りなさいませ父上」
「そうか、期待しているぞ。ハミルトンの名に恥じぬよう、しっかりと学識を身に付け精進せよ」
「はい、承知しました」
デュオはそう言って王の前に跪いた。
王がデュオに向ける眼は、カリフに向けられる優しい眼差しとは違い、厳しく張り詰めたものだったが、デュオ自身それをきちんと理解していた。
奴隷娘の事や遠征の話、聞きたいことは沢山あったが、それは街から帰って来てからにしようとデュオは思った。
心がもやもやしている時、考えを良い方向に転換させ気分を紛らわそうとするのは彼の癖だった。
(城下町、楽しみだな……どんな物を買おうか……あの女は、胸に奴隷の烙印を押されてた。ぼくと歳もあまり変わらないみたいだし、烙印押される時ってやっぱり痛いのかな……)
まぁ、ぼくには関係ないことだけど、うん、でも……そうだな。お菓子でも買ったら、奴隷娘にもひとつくらいならくれてやるか。
父親との久しぶりの再会中に、デュオは全く違う事を考えていた。
そんなデュオの存在を密かに疎ましく思う母親エマの存在を傍らに、彼にもまたカリフのような子どもらしい一面があった。
街へ……
「カリフ、お前は何を買う?」
「えーっとねぇ、ぼくは、雨雫のキャンディーと昆虫模型、父上には剣の飾り、母親には宝石マカロンを買おうと思ってるよ! 兄上は?」
「そうだなー。ぼくは、父上と母上に星屑のキャンディーと船の形のフィナンシェ、動物の置物もいいな、あとは秘密だ」
「えー」
久しぶりのお出かけでふたりの会話は弾んでいた。部屋で鞄に物を詰め街へ行く準備をしていると、ノックの音とともに、そこには真新しい城の召使の衣装を身に纏ったかわいい少女が現れた。
「失礼致します」
、とソプラノの可愛らしい声が部屋に響いた。
デュオの心臓が一瞬ドキッとなり、動かしていた手の動きが止まったと思ったら、今度は俯き慌てて目を逸らした。(び、びっくりした〜! これがさっきの奴隷の女?)
アリーチェがさっきの身なりとは変わり急に現れたので、反射的に目を逸らしたデュオの頬には少し赤みが差している。
「君は?」
先に口を開いたのはカリフだった。
「あ、はい。初めまして、カリフ様…私は今日からデュオ様の……」
「黙れ! それはさっき聞いただろ。おい奴隷の女、馬子にも衣装だな。一瞬誰かわからなかったぞ」
アリーチェの言葉を途中で遮り、デュオは短く笑った。
「どれ……い?」
カリフが顔を傾けながら聞き返すと、デュオはお前には関係ないと制し、こいつは俺の奴隷だからなと付け加えると表情を曇らせたアリーチェなどお構いなしに再び街へ行く準備を始める。
「おねえさん可愛いね。あ! わかった、新しい召使いさんでしょう」
カリフがアリーチェに近づいて、
「ぼくはカリフよろしくね」
、と手を差し出す。
その爽やかで可愛らしい笑顔をみたアリーチェは頬を赤らめ、
「あ、はい。よろしくお願い致します、カリフ様」と笑顔で答えた。
その様子を横目で見ていたデュオは、アリーチェが見せた初めての笑顔に一瞬息がとまった。
(か! かわいくなんかない! 誰がこんなぼろ女!
城には大人の召使いしかいないからな、た、多分そのせい……)
、と意味のわからない緊張感にデュオは平静を保つのがやっとだった。
この気まずい空間からデュオは早く抜け出したかった。
「おいカリフ、そんなぼろ女放っといてさっさと行くぞ。おい奴隷! ぼくの部屋を綺麗に片付けておけよ!」
そう言ってドアの方へ向かう。
「うん! 待って兄さん。あ! おねえさん、後で名前を教えてね。」
と、カリフは言い残しデュオの後を追った。