2.誕生日
爽やかな朝の風。
優しく吹いた後、体を押す強い風が私を過ぎ去っていく。
こんな風は何処か不安にさせてくる。
何か……悪い物を運んできたのではないか……と。
※
「リュネリア、リュネリア!」
「ふぇ……?」
昼の講義中、昨日の夜興奮して眠れなかったせいか見事に船を漕いで沈没してしまった。机の上には私のヨダレで小さな池が出来上がっている。きっとここで私は船を漕いでいたに違いない。
「全く……はしたない。昨日の夜はちゃんと眠ったのですか?」
皆から鬼教官と恐れられている聖女カリス様にそう言われ、私は口から垂れるヨダレを手で拭いながら覚醒する。カリス様は眼鏡を直しながら溜息を吐き、鋭い目線を私へと向けてきた。慌てて机の上に広げてある教典を持ち、あたかも真面目にやっていますアピールをするが無駄なのは目に見えている。
「リュネリア、眠りながらも私の話を聞いていたのですか? なら今私が読み上げた所を復唱なさい」
「え、えーっと……」
分かる筈が無い。私はヨダレの池の上で船を漕いで、ものの見事に沈没してしまったのだから。
「すみません……分かりません……」
カリス様は再び溜息を吐き、代わりにとサリナを指名。
「サリナ、リュネリアに教えてあげなさい」
「はい」
サリナは椅子から立ち上がり、カリス様が先程読んでいたであろう部分を復唱しはじめた。どうやら妖精術の事について……らしい。妖精術ってなんだっけ……。
「以上です」
「よろしい。わかりましたか? リュネリア」
「は、はい……」
すみませんでした、とカリス様へと頭を下げつつ講義は再開する。あとでサリナにも謝らなければ。というか昨日の夜、サリナが可愛すぎて眠れなかったわけだが。しかしそんな事をサリナに訴えれるわけが無い。私は全くこれっぽちも嫌じゃないし、むしろ今夜もお願いしたいくらいだ。
今夜……と言えば、今日は私の誕生日。毎年誰かの誕生日には皆で聖堂に集まり、この世界に一つの命として芽吹いた事への感謝として、私達の女神へ祈りを捧げる事になっている。祈り事態は毎日やっているが、誕生日は特別だ。ちゃんと自分はこの世界の一部なんだと……実感できるから。
※
講義を終え、私はアルタと共に二人で洗濯物を取り込んでいた。他の少女達は私の誕生日の為の準備をしてくれているらしい。一応私は知らない態で居なくてはならないので、今日は少しの間だけ仲間外れだ。
「ぬけがけするみたいでアレだけどさ、誕生日おめでとう、リュネリア」
「あ、うん。ありがと」
洗濯物を干しながら、何気ない会話のように祝ってくれるアルタ。私も今日で十六歳。この国では成人する歳だ。といっても大して何かが変わるわけではない……と思う。私達は聖女を目指しているのだから、もう教える事は無いと、現役の聖女に認められなければならない。
そういえば、アルタはどうなのだろうか。いつかアルタは私よりも早く聖女と認められ、王都へと赴くのだろうか。そうなれば今度は私が最年長。とてもアルタの代わりが出来るとは思えない。
そんな不安があるせいか、私はついアルタへと聞いてしまう。アルタは聖女として認められたらどうするのかと。
「ねえ、アルタ……。アルタは聖女に認められたらどうするの?」
「……いや、私は無理でしょ。聖女って結局は実力主義の世界だし……」
「……? 無理って……何が?」
アルタは私達の中では一番知識も豊富だし人間性も優れている。事実カリス様もリューネ様も、アルタを誰よりも信頼している筈だ。間違いなくアルタは聖女に抜擢される存在だと思うが。
しかしアルタは苦笑いしつつ、洗濯物を干しながら私へと自分の過去を話し出した。まだ私も知らない、アルタの過去を。
「私はさ、魔人に身内食い殺されて……仕方なくここに来た子供だから。別に聖女になりたいなんて微塵も思った事無いし、私にとってここはただの家っていうか……うん、簡単に言えば私はお世話係だよ。可愛い妹達の」
「…………」
私はつい洗濯物を干す手が止まってしまい、アルタを見つめる。そしていつの間にか泣いてしまっていた。身内を魔人に食い殺された? なんだ、それは……。そんな事があっていいのか?
「ちょ……何泣いてんのよっ! あー、もう……成長しないな、リュネリアは」
優しい姉は、私の涙を指で拭いながら抱きしめてくれる。本当に泣きたいのはアルタの方なのに。なんで私が泣いているんだ。
「リュネリア、別に気にする必要ないから。魔人に家族殺されたなんて人、腐る程居るんだし……」
「そんな風に割り切れないよ……」
私の家族は全員何事もなく普通の生活を送っている。魔人など話でしか聞いた事が無いし、家族を殺された人と会った事すら無かった。でもまさかアルタがそんな境遇にあるとは知らなかった。これまで共に寝食を共にしておきながら。
「リュネリアは優しすぎるよ……。まあ、いい所なんだろうけど、もう少し他人の事なんてどうでもいいって思ってもいいんじゃない?」
「他人じゃないもん……アルタだもん……」
「……そうだね、ごめんごめん」
優しく頭を撫でながら抱きしめてくれるアルタ。私もついアルタの腰に腕を回し、子供のように泣いてしまう。
「リュネリア……ありがと。私が思うに、リュネリアは聖女に一番向いてると思うよ。そうやって自分の事みたいに……悲しんでくれるから……」
いつのまにかアルタも泣いていた。震えながら私を抱きしめてくる。まるで何かに怯えるように……。
「……アルタ?」
「……私、まだ怖いんだ……。魔人が怖いわけじゃなくて……皆が居なくなっちゃう事が怖くて怖くて……。リュネリアは駄目だよ……サリナも、他の子達も……絶対死んじゃ駄目だよ……」
私はアルタを慰めるように、力いっぱい抱きしめる。
そのまま力強く私はアルタへと宣言する。アルタへと誓うように。
「私は死なないよ……絶対アルタを残して……死んだりしないから……」
「うん……」
初めて私がアルタを慰めた気がする。今のアルタは何処か可愛い妹のようだ。
そのまま私はアルタが落ち着くまで抱きしめていた。というか私も涙が止まらなかった。幼い頃のアルタを想像すると……出来ればその頃にまで戻って、アルタを守ってあげたい。でもそんな事は不可能だ。
私にできる事と言えば、今ここに居るアルタへ尽くす事。アルタが笑顔で笑ってくれるように……いつものように、姉として皆の前で笑ってくれるように……。
※
日が沈み、今日は湯あみを先に終えて夕食の席に着く頃、私は目隠しをされて幼い妹達に手を引かれていた。楽しそうに私の手を引く年齢一桁の少女達。キャッキャと可愛い笑い声が聞こえ、私も思わず笑みを返しながら「何? 何処に行くの?」とわざとらしく言ってみる。すると妹達は「ないしょー」と非常に嬉しそうに返してくれる。
そして鼻をくすぐるいい香りが。芳ばしい香り。もしかして私の大好物であるシチューがメインなのかな? と考えていると、目隠しが解かれる。そして目に飛び込んできたのは、可愛い姉妹達の笑顔。テーブルを囲んで皆で拍手しながら口々に
「リュネリア、誕生日おめでとうーっ!」
正直、これは分かっていた展開だ。毎年やっているんだから。
でも涙が止まらない。ぶっちゃけ目隠しをされている時点で既に泣きかけていたのだ。私は笑顔のまま、嬉しくて泣いてしまう。幸せ過ぎて……泣いてしまう。
「ほらほら、今日はリュネリアが主役なんだから。上座に座りなさい」
聖女リューネ様に導かれるままに上座に座る私。私の両隣に聖女二人が座り、普段鬼教官と呼ばれているカリス様も今日は笑顔で私の誕生日を祝ってくれる。
「リュネリア、今日で十六歳ですね。成人おめでとう」
「ありがとうござい……ます……」
不味い、涙と鼻水が止まらない。そんな私を見て妹達は笑いながら涙と鼻水を拭ってくれる。すると中央に置かれた大きな鍋から、サリナがシチューを注いでくれた。
「……ん」
「あ、ありがとうサリナ……っ!」
満面の笑みを返しながらシチューを受け取る私。クリーム色の野菜がたっぷりのシチュー。私の大好物だ。そのまま全員分のシチューが揃うと、皆で両手を組み祈りの言葉を。
「我らが女神よ。貴方に感謝します。我らに恵みを齎してくれた事を、今日という日を平和に暮らせる事を、この世界に一個の命として芽吹かせて頂いた事に感謝を」
祈りを終えると、聖女リューネ様が私とアルタ、そしてカリス様と自分のグラスへと果汁酒を注いでいく。そうか、私は成人したから……お酒が飲めるのか。
そしてサリナと年齢一桁の少女達には同じ果汁から作られたジュースを。そのまま皆で乾杯し、私は初めてのお酒を一口。意外と甘い。そしてなんだかホワホワする。
「ほら、リュネリア食べて食べて。今日のシチューはサリナが腕に寄りをかけて作ったんだからっ」
アルタの言葉に、思わず私はサリナを見つめてしまう。ぁ、少しサリナが赤くなって目を逸らした。なんて可愛い子……。普段はツンツンしてるくせに、こんなに良くしてくれる。幸せだ。私は誰よりも……幸せ者だ。
その時、聖堂の扉が開いたような音がした。そして勢いよく閉じる音も。
さっきまで楽しそうに笑っていた姉妹達から笑顔が消える。全員が無表情になり、動きが止まる。まるで時間が止まったかのように。
「……何、今の音……」
そう零したのはリューネ様。窓から聖堂の方を見るが、既に今は日が落ちている。宿舎からは何も見えない。
「ちょっと私様子見てくる」
リューネ様はそういいつつ出て行こうとするが、カリス様が呼び止めた。
「待ちなさい、私も行くわ。貴方達は絶対にここから出ない事、いいわね。アルタ、念の為……王都に鳩を飛ばして」
「わ、わかりました」
楽しい誕生日パーティーが一瞬にして怪しい雰囲気に。もしかして泥棒か何かだろうか。もしそうなら罰当たりすぎる。仮にもここは教会なのに。
「……大丈夫かな……ねえ、アルタ」
窓を開けて鳩を飛ばすアルタ。夜の冷たい空気が部屋の中に流れ込んでくる。外は強くもない、弱くもない風が吹いていた。なんだか余計に不安になってくる。
アルタは鳩を飛ばすと窓を締め、そのまま一変してしまった誕生日パーティーを仕切り直そうと明るい声で
「大丈夫大丈夫、今日は特別な日なんだから。ほらほら、皆手が止まってるよ、シチュー沢山あるんだから気合入れて食べないと……」
「逃げて! 逃げてぇ!」
一瞬で青ざめる私達。再び時が止まったかのように硬直し、同時に体が震える。
リューネ様の悲鳴に似た叫び声。そして勢い良く宿舎の扉が開かれた。思わず私達は悲鳴をあげてしまうが、入ってきたのはカリス様だった。しかし……全身血まみれで……左腕が……無い。
「全員……隠れて……アルタ……王都に鳩は……」
「カリス様……カリス様!」
アルタはカリス様へと駆け寄り、倒れこむその体を支える。数秒遅れて私とサリナも駆け寄り、一緒に抱え込んでソファーに寝かせるが……血が、無くなった左腕から血が止まらない。
「リュネリア! 薬草袋と包帯取ってきて! サリナはお湯!」
アルタの指示で動こうとするが、カリス様はそれを静止する。
「待ちなさい……私の事はいいから……全員隠れて……アルタ、もう一度鳩を……急ぎ騎士を……寄こせと……」
「騎士……? 騎士って……何で……」
カリス様の深手、リューネ様の叫び声。そして騎士。
まさか……聖堂に居るのは……
「魔人……」
途端にアルタは震えあがり、床へと座り込んでしまった。そのまま呼吸を荒くしながら苦しみだすアルタ。不味い、過呼吸だ。
「アルタ、アルタ!」
私は持っていたお守り入れの中身を全て出し、アルタの口と鼻を覆う。大きく体を痙攣させながら、アルタはなんとか落ち着いていくが、カリス様はいつのまにか動かなくなっていた。だらん、と先端が欠損した左腕がソファーから床に垂れている。
「カリス様? カリス様!」
いくらサリナが呼びかけても返事はない。呼吸もしていない。まさか……
「嘘……嘘よ……カリス様ぁ!」