赤いヤッケ
「あのう、ちょっとすいませんが…」駅構内のベンチに腰かけた俺のそばで若い女の声がする。日本語である。ん?空耳?…とばかり俺はうつむいたままだ。ここは西ドイツのフランクフルト市中央駅構内、異国での一人旅であり、日本語で呼びかけられるはずもないのだ。
しかしもう一度、今度ははっきりと、まぎれもない日本語で呼びかけられる「あの、失礼ですが日本の方じゃありません?」ようやくふり向けた俺の眼に赤いヤッケ姿の女性が映る。
駅構内とはいえ今は12月で、北海道より緯度の高い厳冬のヨーロッパのこと、そのせいだろうか顔に浮かんだ微笑みは凍りついたもののように見えた。「はい、そうです…」応じようとした刹那構内アナウンスが流れ轟音とともに隣国スイス行きの列車がなだれ込んできた。見れば列車の屋根には10センチほどの雪が一様にこびりついている。隣国の寒さのほどがうかがわれた。しかし俺はこの列車に乗ってこれからその他ならぬスイスへと向かう身であった。スキー等の観光の為などでは更々なく、オーバーだが彼のサウンドオブミュージックのマリア、トラップ一家のごとき、ある意味命がけの転出とも云うべき身の上だったのである。当地で仕事を得ようと目論んでいたのだが、日本国内ならぬ異国での一人旅、懐具合も逼迫していて、もし首尾が悪ければ破滅しかねない状況だった。しかしそんなことは今のこの女性には関係のないことで、俺は彼女の言葉を待つばかりだ。