ホットコーヒーをブラックで
――あの人に会いたい。
一緒にいることが、あたり前だと思っていた。
けれど、離れ離れになってしまった。
あたり前のものがなくなってしまうのは、とても恐ろしい。
失う前から知っていた。
あなたがどれほど大切な存在なのか。
二人一緒でなければ、私は生きていけない。
あなたがそばにいてくれれば、他には何もいらない。
どんなことがあっても、二人なら耐えられる。
けれど――
私の隣に、あなたはいない。
***
まだ梅雨も明けていないというのに、晴れの日が続いていた。
とても暑い。
初夏であることを考えると、これから先もっと暑くなるのだろう。
「こう暑いと、外に出るのも億劫になるね」
上野にほど近い商店街を歩きながら、ぼやく。
こういう日は、冷房の効いた室内で休んでいたい。
とはいえ、お得意様に呼ばれてしまったのだから、そうも言っていられない。
暑い日差しにさらされながらお客様の家へ出向き、ちょっとした相談を受けてきたところだった。
とりあえず今日の用件は終わった。ならば、あとは自宅である骨董店に帰るだけだ。
早く帰って涼みたい。
「しかし、本当に暑いね」
溶けてしまいそうなくらいに。
どうもこれは、家まで持ちそうにない。
どこかで休んでいったほうがいいかもしれない。
そこで、都合よく行きつけの喫茶店が目についた。
休むには打ってつけだろう。
「…………」
それに、あの子のことも気になる。
僕はさほど迷うことなく、喫茶店の戸を引いた。
からんころん、とドアベルが音を奏でる。
「いらっしゃい」
カウンターにいる女性店主が出迎えてくれた。二十代後半くらいの、しっかりした雰囲気の女性だ。
前の店主だった母親が引退してから、彼女がこの店の主人となっている。
僕の顔を見ると、彼女は営業用の笑顔から普段の表情に戻った。
「やぁ、君か。ほんとよく来るね」
「定期的に様子を見ておきたいので」
「いつものでいい?」
「はい、カフェラテでお願いします」
注文しながら、店内へ入っていく。
席数が二十ほどの、小さな喫茶店。
中途半端な時間だからか、お客はほとんどいなかった。
唯一、カウンター席の一番奥に、ひとりの女性が座っている。
僕よりいくつか年上で、透き通るような黒髪の女性。
純白のロングワンピースを着ていて、装飾がまったくないのに、どこか豪華な印象を受ける。まるでウェディングドレスのように。
彼女の前には、ひとつのコーヒーカップが置かれていた。
真っ白な、陶磁器のカップ。
どこか古めかしい、アンティークと思われるものが。
その中には、何も注がれていない。
「――」
僕はいつも通り、彼女の隣に腰かけた。
「何か飲みますか? ご馳走しますよ」
問いかけに、少し悩んでから、
「では、ホットコーヒーをブラックで」
返事を受けて、僕は無言で店主に視線を送る。
店主も無言でうなずきを返してくれた。
先に言っておこう。
彼女は人間ではない。
付喪神だ。
彼女の前に置かれているアンティークのコーヒーカップ。
それが彼女の正体だった。
「調子はどうですか?」
ゆっくり、話しかける。
「なかなか厳しいですね。最近は座っているだけでも、疲れてしまって……」
「人の姿をしていると、それだけで消耗しますからね。必要な時以外は、休んでいたほうがいいかもしれません」
彼女のことを思って助言する。
けれど、彼女はわずかに首を左右に振った。
「一度カップに戻ってしまったら、もう出てこられないような気がして……」
「――――」
否定しきれない。
彼女の力は弱すぎる。付喪神としての力が。
本来なら、まだ付喪神になれるほどの存在ではないのだから。
それでも、こうして人の姿を取っている。
それだけ、大事な想いを抱えているということでもある。
「行方は、わかりましたか?」
彼女のほうから、問いかけがあった。
僕は申し訳ない気持ちで目をそらす。
「すみません。知り合いの古物商をあたっているんですが、なかなか見つからなくて……」
「そうですか……いえ、気に病まないでください」
そう言う彼女の声は、しかしとても悲しそうで。気にしないというのは無理な相談だった。
彼女からひとつ、探し物を頼まれていた。
アンティークのシュガーポット。
砂糖を入れるための容器。
本当なら彼女とセットになっていなければいけないシュガーポットを、探しているのだという。
不運にも離れ離れになってしまったらしい。
彼女にこの相談をされてから、一年近くが経とうとしていた。
けれど、今のところ手がかりはない。
「…………」
なんと声をかけたらいいのか、わからなかった。
居心地の悪い空気に困っていると、喫茶店の店主がカウンター越しにカップを差し出してくる。
「おまたせ。カフェラテと、ブラック」
僕の前にカフェラテを、彼女の前にホットコーヒーを。
「ありがとうございます。いただきますね」
彼女は、店主と僕それぞれに頭を下げる。その動き、ひとつひとつがやけにゆっくりで、脆く儚く見える。
壊れ物でも扱うみたいに、両手で丁寧にコーヒーカップを持ち上げる。
そうして一口、ほんの少量を、口にふくんだ。
「……にがい」
口に合わなかったようで、わずかに顔をしかめる。
ついつい呆れた声が出てしまう。
「いい加減、砂糖を入れたらどうですか?」
一年前にこの喫茶店に来てから、彼女はこれしか注文していない。
ホットコーヒーのブラック。
砂糖もミルクも入れない。
けれど、彼女自身は甘いもののほうが好みのようだった。
未だにコーヒーの苦さに慣れる気配がない。
いつも嫌そうにコーヒーを飲んでいる。
「願掛け、みたいなものなんです」
静かに語る。
「こうして砂糖を使わずにいたら、あの人が来てくれるような気がして」
「――」
この話は初めて聞いた。
そんなことを考えていたなんて。
付喪神が願掛けというのも奇妙なものだ。
けれども、重要なのはそこではない。
決して饒舌ではない彼女が、そんな話をしてくれた。
それは、おそらく彼女自身、悟ってしまっているからかもしれない。
コーヒーを一杯飲んで、僕は喫茶店を後にした。
帰路を進みながら、喫茶店を振り返る。
「もって、あと二日といったところかな」
彼女の付喪神としての寿命。
あまりにも力が弱すぎるのだ。このままでは、人の姿を維持するのは難しいだろう。
それまでにシュガーポットを見つけ出してあげたいが、
「いや、下手をすると今日中にも……」
時間がなさすぎる。
せめて、あと数ヵ月あれば。
残りの時間でなにができるのかを、必死に考える。
シュガーポットを見つける手立てはないのか、思考を巡らせる。
「――」
けれどもしかし、すぐに妙案が浮かぶはずもなく。
自宅である骨董店に着いてしまって、僕は足を止めた。
「もし、そこの貴方」
店の前に、ひとりの男が立っていた。長身の白い男が。
ゆっくりと丁寧な口調で声をかけられる。
その人物は、全身が白でおおわれていた。白い靴に、白いタキシード、そして白い帽子をかぶっている。
帽子さえなければ、これから結婚式に出る新郎のようにも見えた。
「なにかご用ですか?」
「ここは付喪神よろず相談所で、あっていますか?」
「えぇ、僕が店主です。ご相談なら、お聞きしますよ」
答えながら、僕はほとんど確信を得ていた。
だって、一目見た瞬間から、それが付喪神であると気づいていたから。
「探してほしいモノがあるんです」
加えて、雰囲気がとてもよく似ている。
だから迷うことなく、問いかけた。
「白い陶磁器のコーヒーカップですか?」
男性は、弱々しい笑みを浮かべた。
「そう、それです。やっと再会できる……」
その笑みも、彼女に非常によく似ていた。
僕は、反射的に男性の手をつかむ。
「来てください! 時間がない」
走った。全力で。
来た道を戻り、喫茶店へと飛びこむ。
からんころん、とドアベルが鳴った。
「会いに来てくれましたよ!」
あなたの願掛けは成功した。
そう伝えたかった。
けれど、
「――――」
店内には、女性店主しかいなかった。
いつも彼女が座っている席には、誰の姿もなく。
そこには白いアンティークのコーヒーカップだけが置かれている。
店主が、うつむきがちに口を開いた。
「ついさっき、ね。君に、いつも話しにきてくれてありがとう、と伝えてほしいってさ」
「……」
間に合わなかった。
あと少しだったのに。
無意識に唇をかむ僕の後ろで、
「――あぁ」
嗚咽混じりの声が響いた。
白いタキシードの男性が、頼りない足取りで店の奥へ進んでいく。
「あぁ……あぁ……」
声にならない声を上げて泣いている。
涙を流しながら、それでも足を進め、コーヒーカップの前でひざまずく。そして、
「やっと会えた」
幸せそうな笑みを浮かべていた。
「――え?」
僕が疑問の声をもらしていると、彼の姿がかき消える。
こちらも付喪神として限界だったのだろう。
その存在感が、一気に薄らいでいくのがわかった。
テーブルの上には、白いアンティークのコーヒーカップと、シュガーポットが並んでいる。
再会を願っていた彼女と、彼が、一緒にそこにいる。
「あぁ、そうか」
付喪神でいられなくなっても、終わりではない。
彼女も彼も、ちゃんとそこにいるのだ。
壊れたわけではない。だから、その意識が完全に消えるわけでもない。
二人はちゃんと再会できたのだ。
付喪神という形にこだわって、モノの意識というものを失念していた。
「僕もまだまだだね……」
後日、再びその喫茶店を訪ねた。
からんころん、とドアベルが鳴る。
それらは、入ってすぐの所にあった。
小さなガラスケースに、アンティークのコーヒーカップとシュガーポットが並んで飾られている。
店主は二人を使用するのではなく、大事に保管することにしたらしい。
特別なものだと主張するように。
もう二度と離れ離れにならないように。
「――」
すでに二人の姿は、僕にも見えない。
けれど、きっと心は満たされているのだと信じたい。
まともに動くこともできないのに、彼女はずっとこの喫茶店で彼との再会を待っていた。
ただ、それだけを願って。
なかなかできることではない。
その想いが成就したのだから、二人は幸せになったのだと信じたい。
「…………」
僕にはできるだろうか?
ただ一人の人だけを想って、待ち続けることなんて。
正直、わからない。
身を焦がすほどの恋をしたことはないし、いつまでもそばにいたいと思える相手に出会ったこともない。
そんな僕では、まだ答えを出せない問題なのかもしれない。
「いらっしゃい。いつものでいい?」
迎えてくれた店主が問いかける。
「そうですね、カフェラテを――」
言いかけて、口を閉ざす。
彼女の気持ちは、きっと僕にはまだわからない感情だろう。
けれど、理解することを放棄したくはない。
「いえ、ホットコーヒーをブラックで」