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【幕間】あの時をもう一度


 ――あの頃に戻りたい。

 そう願ったことが、一度くらいはあるやろ?


 人生をやり直したい。

 もっと上手くやれたはず。

 失敗をなかったことにしたい。


 過去に戻りたいなんて、ありきたりな願いや。

 そして、絶対に叶えられない願いでもある。

 せやけど、うちにはできる。


 ――その願い、うちが叶えたるわ。


***


 思えば、今朝から不幸の連続だった。


 その極め付けが、これか。


「――」


 車のクラクションが鳴り響く。


 そして、とてつもない衝撃が全身を襲った。


 一瞬の浮遊感。


 だが、すぐに全身をアスファルトに打ちつけた。


「…………」


 しばらくの間、何も考えられなかった。


 永遠とも思える沈黙。


 けれど、数秒のことだったのかもしれない。


 じわりじわりと激痛がこみ上げてきた。


 全身が焼けるように痛いのに、寒気が止まらない。


 視界が真っ赤に染まり、徐々に靄がかかっていく。


「――あぁ」


 もう少しで意識を失う。そして二度と目覚めないだろう。


 そんな確信があった。



 嫌だ! こんなところで終わりたくはない!


 まだ二十歳そこそこの若造だ。まだ早すぎる!


 できることならやり直したい。数分前から。叶うなら今日の朝から……。



「……?」


 ふと、周囲が静かになっていた。


 騒いでいた通行人の気配も、近くで泣いていた子どもの声も、車の音もなくなっている。


 異常なほどに静かだ。


 不思議な現象への興味が、俺の意識をまだ現実に引き止めている。


 視線だけを動かして周囲の様子をうかがう。


「…………」


 人が止まって見えた。


 いや、人だけではない。


 車も、散歩中の猫も、今まさに飛び立とうとしている鳩も。


 すべてが停止している。


 まるで時間が止まってしまったように。


 何が起きているのか、理解できない。


 そうして困惑していた時だ。



 ――カランコロン、と下駄の足音が響く。



 視線を向けると、一人の艶やかな女性がいた。


 すべてが止まっている中、その女性だけはゆったりと歩みを進める。


 濡れ羽色の髪は古めかしい島田髷に、白粉に紅をさした顔は作り物のように整っていた。


 凛としたその姿は花魁のようにも見えるが、赤と金の華やかな着物ははだけ、肩が露出している。


 これでは格の低い遊女のようだ。


 その女性は、青年を引き連れていた。


 高校のものと思われる黒い学生服を着ている。



 ――ひどい有様やね?


 女性は俺のそばまで歩み寄ると、愉悦そうな笑みを向けてきた。


 当事者となっている俺には、まったく笑えない。



 苦痛に表情をゆがめる俺と、笑みを浮かべ続ける女。


 そこに割り込んできたのは、学生服の青年だった。


「あの頃に戻りたい、やり直したい――そう思いますか?」


「……!」


 ついさっき考えていたことだった。


 できることならば、今朝からやり直したい。


 それが叶うならば。


「――」


 しかし返事ができない。


 そんな力も残っていないのだ。


 全身から活力が抜け出て、声が出せない。


 だから眼だけで訴える。強く、強く……。


 俺の意思を読み取ったのか、青年がひとつうなずく。


「これをどうぞ」


 懐中時計だった。


 青年はポケットから取り出したそれを、俺に差し出す。


 少し古く、使い込まれた印象がある。


 その針は止まっているが、壊れている印象はない。


「…………」


 これを受け取れば、やり直せるのか?


 ならば――


 もう指一本、動かせないと思っていた。


 なのに、自然と手が伸びていた。


 俺の行動を見下ろして、女が愉悦の笑みを深める。



 ――ええよ。その願い、うちが叶えたるわ。




「……!?」


 気づけば、自分の部屋にいた。


「夢……?」


 いや、感覚は鮮明に残っている。


 ということは、本当に戻ってきたのか?


 時計を確認する。


 壁掛け時計の時刻は八時。


「よかった、まだ間に合う」


 いまからなら、今朝の失敗をやり直せる。


 今日は大学最後の補講だった。これを受ければ無事に卒業できるだろう。


 逆に、この授業を受けなければ落第確定。


 これまで不真面目な学生生活を送ってきたツケを、いま支払わされているのだ。


 一度目の今朝、鼻先の差で遅刻になってしまった。そうなれば教室に入れてもらえない。


 教授に何度も頭を下げて、ギリギリで受けさせてもらったが、小言を嫌というほど言われてしまった。


 耐えがたい屈辱だ。


 同じような目には遭いたくない。早く出なければ。


 けれどもしかし、服装が気になった。


 補講を受けた後は、恋人とのデートだ。


 せっかくならばイカした服装で会いたいものだ。


「…………」


 そこで思い出してしまう。


 デートの時にあったことを……。


 これは二度目の今日……ならば、それもやり直せるはずだ。


 今度はきっと上手くやってみせる。


 現に今だって。


 一度目の今朝は服装に迷って、授業に遅れそうになったが、今回は大丈夫だ。


 最終的に選んだ服は覚えている。ならば迷う余地はない。


 必ず授業に間に合うことだろう。




「…………」


 失敗した。


 雷門駅で途方に暮れる。


 結局、あそこからまた服選びに迷ってしまった。


 本当にこの服でいいのか? 他の服のほうがいいのではないか?


 考え出してしまったら、止まらなかったのだ。


 そうして時間を無駄にしてしまった。


 結果として、駅に到着する直前、授業に間に合う最後の都電を見送る羽目になった。


「……いや」


 まだ諦めるのは早い。銀座線を使えば、まだ間に合うかもしれない。


 駅からも全力で走れば、あるいは……。


 急ぎ、浅草駅を目指す。




 結論を言ってしまうと、間に合わなかった。


 結局、教授に何度も頭を下げることになってしまった。最悪だ。


 だが頼み込んだおかげで、落第にはならないで済んだ。


 これで無事に卒業できる。


 就職先も決まっているし、すでに婚約している恋人とも、卒業を機に結婚する。


 これから、その恋人との逢引だ。


「…………」


 しかし、一度目の今日が思い出される。


 彼女が持ってきたのは、別れ話だった。


 ショックのあまり何も言い返せず、そのまま俺たちの関係は終わってしまった。


 だが、大丈夫だ。


 今度こそ失敗はしない。


 必ずやり直してみせる。




 大学での補講を終えて、そのまま徒歩で待ち合わせ場所に行った。


 上野恩賜公園。


 花園稲荷神社へと続く道で、恋人を待つ。


 その時間が、ひどく長く感じられた。もちろん悪い意味で。


 これから別れ話をされるのだ、楽しみに待てるはずもない。


「――」


 そして彼女がやって来た。


 上野駅の方向から歩いてくる。


 ずいぶんと浮かない顔をしていた。


「やぁ」


 俺のほうから声をかける。


 けれど、返事はない。


 わかっていたことだ。


 この光景は一度見ている。まったく同じだ。


「……」


 大丈夫だ、やり直せる。


 そのために何度も頭の中でシミュレーションした。俺ならば上手くやれる。


 あと数秒もすれば、彼女が謝ってくるはずだ。


 俺の記憶通りに、深々と頭が下げられた。


「ごめんなさい! 結婚の話をなかったことにしてほしいの」


「……」


 ぐさり、と来た。


 知っていたことだが、やはり堪える。


 最愛の女性から、そんなことを言われるなんて……。


 二度目だから慣れる、なんてことはかけらもなかった。


 むしろ、こんなにも辛く苦しいことを二度も体験するのは地獄のようだ。


「ど、どうして……?」


 理由なんてもう知っているのに、聞いてしまった。


 考えておいた受け答えとも違う。


 どうやら気が動転しているようだ。


 落ち着け。これから彼女が口にする答えも、俺は知っているのだから。


「あなたの大学であった事件のこと……両親も親戚たちも気にしていて」


「そんな……」


 またショックを受けている。


 馬鹿か、俺は?


 しかし、とはいうものの、そんな理由では納得できないのも事実だ。


 あんなことが原因で別れてなるものか。


 世間をおおいに騒がせたあの事件だが、そもそも俺には関係ない。


 血気盛んな連中が勝手にやったことだし、さらに言うなら実行犯のほとんどはうちの大学の者ではなかったと聞く。


 そう、心配することなど、何もないのだ。


 そんな理由ならば、やり直せるはずだ。


 彼女の表情にも未練を感じる。


 ならば、二人で親族を説得すればいい。


 いくらでも反論ができる状況なのだ。


 なんと答えるかも、前もって散々考えた。考え抜いた。


 だというのに――



「…………」


 いざ彼女を前にして、別れ話を告げられて――俺は何も言えなくなっていた。



 親類に反対されてまで結婚することがあるのか?


 それで彼女が幸せになるのか?


 あの事件は、これからの俺の人生にずっとついて回るかもしれない。


 俺以外の誰かと一緒になったほうが、不自由なく暮らせるかもしれないではないか。


 そんな考えがよぎってしまって、何も言えなくなった。


 彼女のことを想うなら、俺は……。



 黙っていると、彼女は再び頭を下げた。最初より深々と。


 その光景は、前回とまったく同じ結末になることを示している。


「本当にごめんなさい」


 それだけ言って、彼女は逃げるように走り去ってしまった。



「――」


 全身から力が抜けて、その場に座り込んでしまう。


 立ち上がる気力もない。


 せっかくやり直せると思ったのに、これでは……。


 いつまでそうしていたのか。


 一時間か、二時間か、気づけば夕暮れになっていた。


「……帰らないと」


 呆然とした意識の中で、そんな言葉が漏れた。


 なぜそう思ったのかわからない。


 けれど、しかし無難な選択な気がする。


 今は何も考えられそうにない。帰って頭を冷やしたほうがよさそうだ。


 だから俺は上野駅に向かって歩き出した。



 そうだ、冷静になれ。すべてが終わったわけではない。


 帰ったら、彼女の家に電話してみよう。


 また明日説得すればいい。


 一度で終えていい話ではない。


 どうするのがお互いのためなのか、じっくり話し合うべきだ。


 寝て起きたら、俺の頭も冴えてくることだろう。そうすれば、もっとよく考えられる。


 そう、明日になれば――



「――」


 ふと思い出す。


 全身を襲う激痛と、アスファルトの冷たい感触を。



 そうだ、俺はこのあと……。


「……いや」


 避けられるはずだ。


 ここまでは上手くいかなかったが、こればかりはなんとかしなければならない。


 命がかかっているのだ。そんな状況で間違えるはずがない。


「……」


 そもそも、あの子どもがいけない。


 道路沿いでボール遊びなんてするから、あんな目に遭うのだ。


 そんな子どもは捨て置いていいだろう。


 見捨てても問題はない。


 我が身のほうが可愛いのだから。誰だって、そうだろう。


 必死に自分に言い訳をしながら上野公園を出て、駅前へ。


 電車には乗らず、歩いて帰るつもりだった。その方が頭も冷える。


 そして、一度目と同じように、駅前の信号に捕まった。



 そこで例の少年を見つける。


 サッカーボールを持って、信号待ちをしている。


 手持ち無沙汰なのか、その少年がボールを手放す。


 自由落下していくボールを、右足の甲が蹴り上げた。


 少年の手に、ボールが戻っていく。それを何度か繰り返す。


 この後どうなるかなど、俺でなくてもわかるだろう。


 不意に、ボールがあらぬ方向へ跳ね出た。車道のほうへと。


「あっ!」


 反射的に動いてしまったのだろう。少年がボールを追いかける。


 もちろん、そこは車が行き交う道路だ。


 飛び出した少年に、車が迫る。


 この事態に気づいた女性が、いち早く悲鳴を上げた。


 叫ぶだけで助けようとしないのだからヒドイことだ。


「……」


 まぁ俺も人のことは言えないのだが。


 この少年が事故に遭うとわかっていて助けなかったのだから……。



 少年と目が合った。


 偶然かもしれない。


 けれど、とてつもない罪悪感に襲われた。



「――っ」


 そして取り返しのつかない間違いに気づく。


 この少年が道路に飛び出すことを、俺は知っていた。


 ならば、それをこそ未然に防ぐべきだったのだ。


 ボールを蹴りだした少年を、一言注意するだけでもよかった。


 その気になれば、この少年の命を救えたかもしれないのに、それをしなかった。


 思いつきもしなかった。


 恋人と別れたのが、よほどショックだったのだろう。頭が回っていない。


 これでは、俺がこの少年を殺したようなものだ。



 気づいてしまったら、もう手遅れだった。


 とっさに少年を追って駆け出していた。


 腕をつかみ取り、歩道に向かって強く引く。


 少年が歩道に戻される代わりに、その反動で俺の体はさらに速度を上げ、完全に車道へ飛び出していた。


 直後、全身を衝撃が襲った。


 一瞬の浮遊感。だが、すぐに全身をアスファルトに打ちつけた。


「…………」


 しばらくの間、何も考えられなかった。


 永遠とも思える沈黙。


 けれど、数秒のことだったのかもしれない。


 じわりじわりと激痛がこみ上げてきた。


 全身が焼けるように痛いのに、寒気が止まらない。


 視界が真っ赤に染まり、徐々に靄がかかっていく。


「――あぁ」


 もう少しで意識を失う。


 そして二度と目覚めないだろう。


 そんな確信があった。



「これだけは……」


 声にならない声でつぶやく。


 そう、これだけは何としても回避しなくてはいけなかった。


 上手くやり直さなければならなかった。


 にも関わらず、この結果だ。ここでも失敗してしまった。


 わかっていたはずなのに、同じことを繰り返してしまった。


「……」


 これはもはや運命というものを信じる他ない。


 過去に戻れても、結末は変えられないのか?


 人間には不可能な領域なのか?


 ならば、もう諦めもつく。


 ここが俺の天命なのだろう。



 どうせ同じところに行きつくのなら、俺はもうやり直したいなどとは願わない。



 しかし俺の思いとは裏腹に、周囲が静かになった。


 すべてのものが停止している。


 まるで時間が止まってしまったかのように。



 ――カランコロン、と下駄の足音が響く。


 艶やかな女性が歩いてくる。


 後ろに一人の青年を引き連れて。



 ――ひどい有様やね?


 女は愉悦そうに笑む。


 俺には笑えない。



 続けて、学生服の青年が前に出てきた。


「あの頃に戻りたい、やり直したい――そう思いますか?」


 一度目とまったく同じ問いかけ。


 だが、もうその必要はない。


 俺はもうやり直そうとは思わない。


 返事をする力もなく、俺はただ眼だけで訴える。


 このまま眠らせてほしい、と。


 しかし、青年はひとつうなずくと、あるモノを差し出してきた。


 あの懐中時計を。



 いいや、いらないのだ。


 何度繰り返そうと、俺は同じ結末に至るだろう。


 たった一度だが、そう確信するには充分だった。


 その時計に頼っても意味はない。


 俺では何も変えられない。


 わかっている。


 わかっているのに……。


 俺は時計に手を伸ばしていた。



 ……あぁ、そうか。


 この結果もまた、変えられないのか。



 ――ええよ。その願い、うちが叶えたるわ。


 女が愉悦の笑みを浮かべていた。


***


 上野の駅前は騒然としていた。


 ついさきほど交通事故が起きたせいだが、どこか様子がおかしい。


 野次馬たちの困惑の声が響くのも、無理はない。


「おい……あの兄ちゃん、どこに消えたんだ?」


 車に跳ね飛ばされた大学生の姿が、煙のように消えてしまったのだから。



 騒がしさを増していく駅前広場を、遠くから眺める影がふたつ。


 ひとつは学生服の青年。


 もうひとつは、着物姿の艶やかな女性。


 女は自らの腹を愛おしそうになでる。


「ふふ、なかなかの上物やったね」


「満足したかい?」


「そやなぁ……ま、ぼちぼちといったところやろか?」


 青年の問いに、女は再び腹をなで、


「満足はしぃひんけど、しばらくは食事せんでもよさそうやね。やっぱ若い男の子は活きがええわぁ」


 悦ばしそうに笑むのだった。


***


 実家である骨董店の店じまいを終えて、僕はひと息つく。


 作業中、ずっと隣で昔語りをしていた女性が、愉悦の笑みを浮かべる。


「失望しはった?」


「なんのことですか?」


 わかっていないフリをしたけれど、女性は笑みを深めるだけだった。


 僕がそこまでバカではないとわかっているのだろう。


「……つまり、僕の祖父が君に人間を食べさせていたっていう話ですよね?」


 だから僕が、祖父の人間性に失望するのではないか、と?


 そんなはずがない。


「あの人なら、そうしますよ」


 人よりモノを優先する人だったから。


 付喪神を誰よりも愛していた。


 だから、そのくらいのことは平気でやってのけるだろう。


「それで、僕にも同じことをしろ、と?」


「理解の早い子は好きやわぁ。最近ご無沙汰でなぁ……」


 女性は自らの腹をなでる。空腹を嘆くように。


 あるいは、誘うように。


「ダメですよ。僕が管理している間は、誰もあなたの犠牲にはしません」


 きっぱりと拒否する。


 僕は祖父ほど割り切れない。


 中途半端な僕は、人間のこともないがしろにはできない。


「そら残念やわぁ……気が変わったら教えてなぁ」


 まったく残念そうな様子もなく、その女性は笑みを浮かべたまま手を振る。


 すると、その姿が徐々に薄れていった。


 全身が煙のようにゆらめく。


 やがてその体は、店内に飾られている懐中時計へと飲みこまれていった。


「……」


 かなり古いが、よく手入れがされた懐中時計を手に取ってみる。


「僕は祖父のように、人よりモノを優先することはできませんよ」


 でも、と続ける。


「君が正しい持ち主に巡り合えることを願っていますよ」


 これは隠すことのない本心だった。


 ここにいる付喪神たちを、すべて望む人のもとへ――それが僕の役目だと自負している。


「――――」


 きっと彼女は、すでに何人もの人間を取り込んでいるのだろう。


 そんな存在を壊すでもなく、しまい込むでもなく、持ち主との出会いを願うなんて……。


 祖父とは違っていても、僕も充分に毒されているようだ。


 そのことを考えると、自然と自虐的な笑みがこぼれた。


 おそらくだけれど、そんな僕の様子を見て、時計の中の彼女は愉悦の笑みを浮かべていることだろう。


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