雨宿りする傘
――雨はお好きですか?
わたしは雨がすき。
そして、雨がきらい。
雨が降れば、わたしは外を出歩ける。
人に使ってもらえる。
それは自由に動けないモノとして生まれたわたしにとって、とても幸せなこと。
だから、わたしは雨がすき。
けれど、なのに、それでも――
わたしは雨がきらいなのです。
***
いつのことだったか、不思議な少女を見かけたことがある。
そう、あれは確か三年前。
突然の夕立に、傘を持っていなかった僕は雨宿りをしていた。
辺りには誰もいなくて、まるで世界で一人だけ取り残されているような錯覚に襲われていた。
そんな時、ひとつ足音が聞こえてきたのだ。
音のするほうへ視線を向けると、高校生くらいの少女がいた。
セーラー服姿で、黒い大きな蝙蝠傘を持っている。
雨が降っているというのに、その傘をさすこともなく大事そうに抱えて歩いていた。
「…………」
少女はゆっくりと近づいてくる。
そして僕の目の前で立ち止まり、
――いい天気ですね?
悲しそうな笑みで、そう問いかけてきた。
「――」
上野公園を歩いている時だった。
ぽつり、と水滴が頬を打つ。
「……雨?」
そう疑問に思った時には手遅れだった。
水滴は、あっという間に数を増していく。
このままでは全身がずぶ濡れになることだろう。
「雨宿りするしかなさそうだね」
この辺りで、雨をしのげる場所となると……。
少し考えてから、すぐに足を速めた。
一番近くで、真っ先に浮かんだのは公園内にある清水観音堂だった。
本堂で雨宿りというのも失礼に感じたので、手水舎に入る。
それからお堂のほうを向いて、軽く一礼を。
「少しの間、休ませてもらいます」
ここに着くまでに服が濡れてしまったが、このくらいならすぐに乾くだろう。
それよりも雨だ。早く止んでくれると助かるけれど……。
「――」
雨はどんどん勢いを増している。
これはいつ止むかわからない。
「さて、困ったね」
知り合いが通りがかってくれれば、傘に入れてもらうという手もあるが……。
上野公園は静かだった。
雨音しか聞こえない。
まったく人の気配がなかった。
まるで、自分だけが取り残されてしまったかのように。
「あの日に、似ているね」
三年前の、あの日に。
だから、あんなことを思い出してしまったのだろうか?
そんなふうに考えていると、
ぱしゃり、と足音がした。
どこか異質な、そして聞き覚えのある音。
視線を向けてみる。
そこに、あの少女がいた。
僕と同じくらいの年齢で、ボブカットの髪は吸い込まれそうなくらいの黒色。逆に肌は、金属のように透き通った白色で、黒いセーラー服を着ている。
そして黒い大きな蝙蝠傘を、大事そうに抱えていた。
「……三年前と同じだ」
そう、まったく同じだった。
彼女の服装も、傘を抱えている様子も。
そして、彼女の外見も。
あの時から、まったく年を取っていない。
「――」
いや、あたり前だ。
彼女は人ではないのだから。
三年前に、一目見た時からわかっていたことだ。
「…………」
ぱしゃり、ぱしゃり、と少女は歩みを進める。
そうして、 僕の前で足を止めた。
こちらを向いて、悲しそうに微笑む。
――いい天気ですね?
「――」
気軽に答えていい質問ではなさそうだ。
三年前の僕は、なんと答えたのだったか?
……思い出せない。
なら、素直な気持ちで応じよう。
「そうですね。たまにはゆっくり雨宿りするのもいいですよ」
「あなたは、雨がお好きなんですね?」
「好きかと問われると……まぁ好きなほうですね」
「そうですか。うらやましい……」
うらやましい? どういう意味だろう?
こういう時に、選択を間違えるのは危険だ。
相手は付喪神――神の一種でもあるのだから。
僕が答えあぐねていると、少女が視線を外した。
「では、わたしはこれで……」
すんなりと立ち去ってくれるらしい。
「――――」
けれど、いいのだろうか?
このまま放置していいとは思えない。
これは僕の分野だ。
他の誰でもない、僕が対処しなければならない現象だ。
なによりも、彼女の悲しそうな笑みが、脳裏から離れない。
「――あの」
気づけば、声をかけていた。
一歩、足を踏み出した体勢で、少女が振り返る。
「なにか?」
「よければ、一緒に雨宿りしていきませんか?」
「あま、やどり……?」
きょとん、と首を傾げていた。
まるで、未知のものに出会ったかのように。
「わたしが、雨宿りなんてしてもいいのでしょうか?」
「大丈夫だと思いますよ。誰もあなたを責めたりしません」
僕の言葉に少しためらいつつも、彼女はひとつうなずいた。
「それじゃあ……」
一礼して、手水舎の屋根の下に入ってくる。僕と並ぶようにして。
「……」
横目に彼女を確認する。
その体は、まったく濡れていなかった。しかし、大事そうに抱きかかえている傘だけは、水滴を浮かべていた。
なるほど、それが本体なのだろう。
「……なにを、していたんですか?」
話しかけてみる。
返事はあまり期待していなかったが、彼女はすんなり口を開いた。
「人を探しているんです」
「それは……あなたの持ち主、ということですか?」
「――え?」
事情を察しているような発言に、少し驚いているようだったが、彼女はすぐに納得するようにうなずいた。
「はい。わたしの持ち主になってくれる人を」
なってくれる、ということは、まだ出会ってもいない誰かということか。
「こんな雨の中で?」
「……わたしは、雨の間しか出歩けないので」
「雨が降っていないと、人の姿になれない?」
「まぁ、そんなところです」
まだ力が弱いのだろう。
付喪神といっても、様々だ。
誰にでも人の姿に見えるモノ、僕のような限られた人にしか認識されないモノ。
好きに動き回れるモノもいれば、特定の一日しか人の姿になれないモノもいる。
しかし傘の彼女が、雨の日に動けるというのは、なんともわかりやすい。
「――」
にしても、持ち主探しか。
それは難しい問題だ。
うちにも、何十年も持ち主に出会えていないモノたちが、たくさん眠っている。
付喪神が望む相手に出会うのは難しい。
彼女の場合は――
――いい天気ですね。
――雨がお好きなんですね?
さきほどの質問が思い出された。
僕は、好きだと答えた。
あれではダメだったのか?
ならば、
「あなたは雨が嫌いな人を探しているんですか?」
そんな単純な話ではないとわかっているけれど。
足がかりを得るために、問いかける。
すると彼女は、また悲しそうな笑みを浮かべた。
「さぁ、どうなんでしょう?」
あいまいな返事。
はぐらかしているという感じではない。
ということは、これは……。
確認するために、僕は自然と尋ねていた。
「あなたは、雨が好きですか?」
彼女がしたのと同じ質問を。
この問いに、彼女は――
「…………」
答えなかった。
口を堅く閉ざして、うつむいている。返事に困るように。
やがて、ゆっくりと顔を上げると、屋根越しに雨雲を見上げた。
「どう、なんでしょう……? わたし自身、わからないんです」
困惑したような声で、続ける。
「わたしは雨の日に使ってもらうモノなんです。雨が降れば、人のお役に立てる。それはとても嬉しい……誰かの役に立てるのは、本当に幸せなことです」
小さな幸福を見つけた時のような、そんな表情で語っていた彼女は、けれど一転して暗い顔になる。
「でも、雨は冷たい。冷たい雨に打たれ続けるのは……決していいものではありません。わたしは消耗品かもしれませんけど、それでも大事にしてほしいと思ってしまうんです」
モノとしての、本能なのかもしれない。
人だって同じだ。大切にされたいと願うのは。
「大事にされたいわたしは……だから、雨が嫌いなんです」
そう締めくくった彼女は、困ったように笑う。
「でも、わたしはわたしを使ってくれる人を探していて……なんだかおかしいですね」
その笑みは、悲しそうにも見えた。
「そんなことはないですよ。あなたは実に付喪神らしい」
誰かの役に立ちたい。
そして、誰かに大切にされたい。
付喪神ならば、誰もが持っているような願いだ。
だから付喪神である彼女が、その両方を願っていても、どこもおかしくはない。
「そう、ですか……そう言ってもらえて、なんだか安心しました」
けれども、彼女の笑みは悲しそうなままで……。
「うちに来ませんか?」
最適解とは言えないけれど、とっさに提案していた。
「うちには、あなたのように持ち主を待っている付喪神がたくさんいます。そこなら、雨の中を歩き回る必要もありませんよ」
「それは……」
わずかな時間だけ迷って、
「止めておきます」
彼女は首を横に振った。
「わたしは、もうちょっと自分のことをはっきりさせるべきなんです。雨が好きで、雨が嫌い……そんな中途半端な気持ちで、持ち主に出会うのは良くない気がします」
「――」
だから、と彼女は再び雨雲を仰ぐ。
「もっとこの雨に触れあって、もっと自分のことを理解しないと」
「そうですか。それは残念です」
「……あっさり引き下がるんですね?」
「無理強いはよくありませんから」
「モノ相手なのに、優しいんですね」
「甘い、とよく言われますよ」
「たしかに。あなたのは優しさというより、甘やかしという感じですね」
ひどいことを言う。
僕がひとつため息をつくと、それを終いの合図にするように、彼女が一歩前に出た。
無数の雨粒が、彼女に降り注ぐ。
「では、そろそろ行きます。話し相手になってくれて、ありがとうございました」
久々に楽しかったです、と言い残して少女は去っていった。
「――――」
彼女は、自分の持ち主になる人を探し続ける。
これまでも、これからも。
三年前のように、今日のように。
いったい何年前から探しているのか。
いったい何年後まで探すことになるのか。
気が遠くなるような年月を、雨に打たれて過ごす。
それは、とても辛いことに思えた。
たとえ傘でも、雨に打たれ続けるのは堪えるだろう。
「……」
あの悲しそうな笑みが、頭から離れない。
だから、どうか彼女のことを知ってほしい。覚えていてほしい。
いつか雨の日に、黒い大きな蝙蝠傘を大事そうに抱えている女の子を見かけたら、どうか優しくしてあげてほしい。