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【幕間】ありがとう、そしてごめんなさい


 ――恩返しがしたい。

 私はあの人に命を救われたのだから。


 しかし、それ以上に償いをしたい。

 私のせいで、あの人は自分を殺し続けているのだから。


***


 バレンタインデーが明日に迫っていた。


 乙女にとって大事な祭典である。


 けれども私には関係ない。


 関係なくなってしまった。


「……はぁ」


 ため息をひとつこぼして、高校からの帰り道をとぼとぼ歩いていく。


 家への近道である商店街は、バレンタインフェアなるもので色めき立っていた。


 その華やかさが、さらに私の心を沈める。


「…………」


 好きな人はいる。


 チョコも贈るつもりだった。


 ダメ元で告白するはずだったのだ。


 今日の帰りに、スーパーに寄って製菓用のチョコを買う予定だった……。


「……」


 もう関係ないけれど。



 しかし、この後キッチンで格闘する予定だったから、時間が空いてしまった。


 やることがない。


 途方に暮れる、とはこういう状態のことを言うのだろうか?


 ……なんて、どうでもいいことを考えていた時だった。



 ――きゅ~ん



 何かの鳴き声が聞こえた。


 すぐ下。私の足元からだ。


「――?」


 反射的に足を止めて、視線を下げていた。


 すると、綺麗な金色が目についた。


 キレイな毛並み。サイズは中型犬くらい?


 私の枕にすっぽり収まるくらいの大きさだ。


 最初は犬かな、と思った。でもすぐに違うとわかった。



 タヌキだ。


 一匹のタヌキが、私の足元に鎮座していた。



「…………」


 はっきり言おう。


 私は混乱していた。


 ここは上野駅から歩いて十数分のところにある商店街だ。


 東京の中でも、どちらかというと下町よりの地域ではあるけれど、さすがにタヌキは珍しい気がする。


 というか、ありえない。


 東京でタヌキを見るなんて、初めてだ。


「……」


 驚きつつ、どうしたものかと考えを巡らせる。


 都会のど真ん中でタヌキを見つけた……この場合は警察に連絡すればいいのかな? それとも消防?


 でも、下手に通報なんてしたら殺処分とかにされてしまうのだろうか?


 それはあまり嬉しくない。


 このまま無視するのが一番いい気もしてくる。


 だけど、そのせいで誰かが襲われたりして、怪我をされても困るし。


「…………」


 どうしよう、考えがまとまらない。


 比喩抜きで頭を抱えそうになっていた時、どんっと突然背中に衝撃があった。



 なんだろうと思って振り返ると、小学生くらいの男の子がいた。


 怯えているような、申し訳なさそうな表情。


「ご、ごめんなさい……」


 どうやら、ぶつかられたらしい。手にスマホを持っているから、前方不注意だろう。


 こういう時、どうしたらいいのかはすぐにわかる。


「大丈夫だよ。気にしないで」


 なるべく優しい笑顔になることを意識して、声をかける。


「こっちこそ、ごめんね。道の真ん中でぼーっとしちゃってて……」


 そう、私にだって非はある。


 背中はちょっと痛いけれど、私がガマンすればすべてが丸く収まるのだ。なら、ガマンしない理由はない。


「本当にごめんなさい」


 男の子は何度も謝りながら去っていった。


 大丈夫と言ったのに、気にしてしまったのかもしれない。


 でも、ちゃんと謝れるのは実に好感が持てる。将来はきっといい大人に成長してくれるだろう。


「さてと、私も帰らないと……」


 あれ、何かを忘れているような?


「…………あ!」


 思い出した。タヌキだ。


 どうして、こんな一瞬で忘れてしまうのか……。


 タヌキの扱いについて考えていたのだった。


 再び足下に視線を戻す。


「あれ? いない?」


 いつの間にか、タヌキが消えていた。


 動いていた気配も、物音もなかったのに。


 そもそもさっきの男の子はタヌキに気づいてもいなかった。あの距離なら、絶対に視界に入っているはずなのに。


「……私の見間違い?」


 そういうことなのかもしれない。


 こんなところにタヌキがいる方がおかしいのだ。


 きっとバレンタインのことでショックを受けているのだろう。だからあんな幻覚を――



 ――きゅ~ん


 また鳴き声が聞こえた。



 そして、私はありえないものを目にすることになる。


 足元にタヌキが現れたのだ。


 どこかから歩いてきたのではない。


 すーっと、目隠しが取れるように。映画で見るCGのように。何もなかったところに、いきなりタヌキが出てきた。


「…………」


 これは見間違いなどではない。


 あきらかに怪しい。このタヌキは普通ではない。



 逃げ出そうと思った。


 けれど、なぜか怖いと感じていない自分に気づいた。



 こんな奇天烈なタヌキを前にしても、私はまったく恐怖していなかった。


 どうしてなのかは私にもわからない。


 とりあえず、自分が危険な目にあうことはないと確信を持てた。


「――」


 かといって、ここで立ち止まっている理由もない。


 怖くないとはいっても、奇天烈タヌキと積極的に関わりたいとは思えない。


「そうだ、帰ろう」


 タヌキなんて見なかった。出会わなかった。


 そういうことにしておこう。


 私は再び足を動かした。


 帰っても、やることなんてないけれど……。


 それでも変なことに巻き込まれるよりはいい。


 タヌキを避けて、どんどん進んでいく。



 ――きゅ~ん


 すぐ後ろから鳴き声が聞こえた。



 首から上だけを動かして、背後を確認する。


「……」


 タヌキが追ってきていた。


 なんで?


「――」


 試しに足を止めてみる。


 タヌキも足を止めた。


 再び歩き出す。


 それに合わせて、タヌキも前に進みだした。


「――」


 どうやら、気のせいではないらしい。意図して、私について来ているようだ。


 このまま無視し続けてもいいけれど、放っておくと家までついて来そうだった。


 それはちょっと……。


 仕方なく足を止める。やはりタヌキも、歩みを止めた。


「……どうしよう?」


 さて、困った。


 こういう時、私はうまく動けない。


 誰かの指示がほしい。意見でもかまわない。


 こうしたらどうかな、というアドバイスがほしい。


 そう、いつもなら友だちに頼る。唯一無二の、親友とも呼べる彼女に。


「…………」


 ふと、彼女の言葉を思い出した。


 今朝聞いたばかりの話だ。



「ねぇ、知ってる? 隣のクラスの男子なんだけど――」



 細かい部分は忘れてしまった。


 噂好きの彼女は、この手の話をよく持ってくる。


 いつものことだから私も聞き流していた。


 おおまかな内容は……不思議な出来事に詳しい男子がいる、という話だったと思う。


 何か困ったことがあったら頼ってみるといい、と。


「たしか、この商店街の裏路地……だったよね?」


 話の中で、その男子の家も教えてもらっていた。


 ずいぶん具体的な噂話だ。


 仮に噂が嘘だったなら、その男子にはいい迷惑だろう。


 その可能性を考えると、少しだけためらう。


 でも、いまの私には他に頼れるものがない。


 だから――


「うん、仕方ない……よね?」


 私は商店街の表通りから、横道へと入っていった。




 やっとたどり着いた。


 親友から聞いた話がうろ覚えだったから、何度か場所を間違えたけれど……。


 それは商店街の裏道にあった。


 木造の一軒家。


 古い、小さな骨董店。


 店先には、ちょうど一人の青年が立っていた。


 青年、と呼ぶのもおかしいかもしれない。だって彼の年は、私と同じくらいに見える。


 というか、親友から聞いた話が本当なら、同い年に決まっている。彼は、私の隣のクラスに在籍しているのだから。


 背は高くもなく、低くもなく……顔立ちは平均的で、髪型も普通。特徴らしいところが見当たらない。


 どこにでもいそうな、一般的な人だった。


 私と同じ高校の制服を着ているから、彼もいま帰ったところなのかもしれない。


「――ん?」


 じっと見つめていると、青年のほうも私に気づいたらしい。


 同学年とは思えないくらい大人びた笑みを浮かべて、私に向き直る。


「なにかご用ですか?」


「あ、いえ……えっと……」


 なんて答えたらいいのか、わからなかった。


 たしかに用事はある。


 でも、どう説明したらいいかわからない。


 不思議なタヌキに出会って困ってます……なんて言ったら、変な人だと思われるだろう。


 ううん、そもそもそんなに困ってはいないのだ。


 だからこそ、なおのことなんて言ったらいいのかわからなくなってしまう。


「……」


 答えられずにいると、青年の視線が私の後ろに向けられた。


「あぁ、なるほど。お客様はそっちか」


「え……?」


 すべてを見透かしているかのように、青年は続ける。


 私の後ろにいる、タヌキを見つめながら。


「いらっしゃい。付喪神よろず相談所へ、ようこそ」


「……つくも、がみ?」


 聞きなれない言葉に、私は首を傾げることしかできなかった。




 なぜか骨董店の奥、居住スペースの居間まで通されてしまった。


 しかも、私だけ……。


 六畳の和室に一人きり。


 さっきの青年は外でタヌキと話している……らしい。


 タヌキと話すって、どういうことだろう?


 実はあのタヌキは言葉をしゃべれるのかな?


 あるいは、あの青年のほうが動物と話せるのか?


 考えても答えなんかわかるはずもなくて……。


「――」


 私は、用意された缶コーヒーを口に運ぶ。


 青年のオススメというカフェラテだった。


 普段コーヒーは飲まないから味なんてわからないけど、たぶん美味しいんだと思う。


 オススメというのだから、美味しいのだろう。



 ふぅ、とひと息ついたところで、青年が戻ってきた。タヌキと一緒に。


 部屋に入ってきた彼は、私の姿を見ると、少しだけ申し訳なさそうな表情になった。


「すみません。暖房はつけておいたんですけど……寒かったですか?」


「……?」


 何の話だろう、と思った。


 でも、すぐに思い当たる。私はコートを着たままだ。


「あ、いえ! 大丈夫です。寒いわけではないので」


 初対面の人を前にして、薄着になることには抵抗があった。制服の下にも長袖を着ているので、そこまで気にしなくてもいいと思うけれど。


「それならいいんですけど……無理はしないでくださいね? なんなら設定温度をあげますよ?」


 真剣に心配してくれているのが伝わってくる。


 私のほうこそ、申し訳ない気持ちになってきた。


「本当に平気ですから。それより、どうなったんですか?」


 早く話を変えたくて、本題を促す。


 すると私の意図をくんでくれたのか、わかりました、とあっさり引き下がってくれた。


 座卓をはさんで私の正面に座ると、彼は大人びた笑みを向けてくる。


「事情がわかりましたよ」


 タヌキとは、ちゃんと話ができたらしい。


 どうやって話したのだろう? ちょっと興味がわく。


 でも本題を促した手前、私が余計なことを聞くわけないはいかないだろう。ガマンして、黙って続きを待つ。


 すると、彼はちょっと意外なことを言ってきた。


「このタヌキは、とある男性に恩返しがしたいそうです」


「恩返し……?」


「明日のバレンタインにチョコを渡したいと言っています」


「…………」


 意味がわからなかった。


 私がバカなだけだろうか?



 動物が恩返しに来る。


 割とありきたりな話に聞こえる。でも、おかしい。



 恩返しにチョコ?


 バレンタインデーって、そういう日だったっけ?


 もう疑問が多すぎて、どう反応したらいいかもわからない。


 この状況を理解できる人がいるなら名乗り出てほしい。そして私と代わってほしい。


「えっと……」


 とりあえず順番に処理していこう。


 まず最初に確認したい疑問はなんだろう?


 真っ先に浮かんだのは、自分のことだった。


「なんで、私が巻き込まれてるんですか?」


 ――このタヌキは、とある男性に恩返ししたい。


 それなら、私は関係ないはずだ。なのにどうして私の後をついて来たのか?


「君とは相性がいいみたいで、チョコを渡す時に体を貸してほしい、と」


「体を……貸す?」


 取り憑くとか、そういう感じのことだろうか?


 それは……なんとなく怖い。そのまま乗っ取られたりしないか心配になる。


「タヌキのまま渡しちゃダメなんですか?」


「君はタヌキにチョコを渡されたら、どうしますか?」


「…………」


 たぶん、受け取らない。


 いや絶対に受け取らない。そもそも、自分に渡しているのだと認識できないと思う。


「わかりましたか?」


「……はい」


「この子の恩返しのために協力してくれませんか?」


「そんな、急に言われても……」


 体を貸すなんて、簡単に返事なんてできない。


 ためらう私に、彼は深々と頭を下げてきた。


「お願いします。君しかいないんですよ」


「……」


 あぁ、これはダメだ。


 ダメな流れだ。


「安全は僕が保証します。だから、どうか」


 頼み込まれると、私は弱い。


 断ったり逆らうのが苦手なのだ。


 この人がそのことを知っているとは思えないから、悪気はないんだろうけれど。


「――」


 なんとか断れないものかと、考えを巡らせる。


 どう応えたらいいかもわからなくて、必死に言葉を探して、やっとしぼり出したのは、


「相手は?」


 もう引き受ける気満々の言葉だった。


 こんな自分が恨めしい……。


 私が了承したと思ったのか、単に話題が変わったからか、彼はゆっくりと顔を上げた。


「相手、ですか? たぶん君も名前くらいは知っていると思いますよ」


 神妙な笑みを浮かべて、彼は続ける。


「僕たちの高校の、サッカー部のエースですよ」


「……!」


 どきり、とした。


 よりにもよって、サッカー部のエース?


 知らないわけがない。



 だって、私が明日チョコを渡そうとしていた相手なのだから。



 あの人とは小中とずっと一緒で、ずっと好きで、高校もあえて同じところにした。


 そしてついに勇気を出して告白することにしたのだ。


 何日も前からバレンタインの準備を進めて。


 でも、不安で。自信がなくて……。


 だから、つい親友に相談してしまった。しないと決めていたのに。


 なんて言われるかはわかりきっていたから。


 そして案の定、予想通りの言葉が返ってきた。



 ――フラれて泣くのは目に見えてるでしょ? やめたほうがいいよ。



「……」


 何を言われても、どんなことがあってもチョコを渡すつもりだった。


 そう固く決意したはずなのに……。


 唯一無二の親友に反対されて、私は――




 ――うん、そうだよね。


 うなずいてしまった。



 だから私は、今年もチョコを作らない。


 それなのに、このタヌキはバレンタインにチョコを渡したいと?


 しかも私が渡そうとしていた人に?


「む、むりですっ!」


 とっさに声が出ていた。


 だって、あたり前だ。


 私の体を借りて、このタヌキがチョコを渡すということは……あの人から見たら、私がチョコを渡しているようなものではないか。


 見ず知らずの、まったくの他人なら、後のことを気にする必要はない。


 でも、相手は同じ学校の、しかも私が諦めてしまった相手……。


「――」


 いやいや、ムリムリムリ!


 頭と両手をぶんぶん降り続ける私に、青年は困ったような笑みを向けてきた。


「でも、他にいないんですよ。どうかお願いします」


「うぐ……」


 もう一度言うけれど、私は頼まれると断れない。押しに弱いのだ。


 だから、この後自分がなんて答えてしまうかは、嫌というほどわかっている。


「……わ、わかりました」


 断れない私には、うなずく以外の選択肢などなかった。


 色よい返事を聞いて、青年の顔色が明るくなる。


 ありがとうございます、と頭を下げて、


「では、明日はチョコを作ってきてください」


 唐突にそんなことを言われた。


「なんで私が!?」


「タヌキにチョコが作れると思いますか?」


 ムリだと思う。


「で、でも、買ったものでいいんじゃ?」


「バレンタインチョコなら、やはり手作りのほうがいいと思いますよ?」


 いや、そうかもしれないけれど……。


 困惑している私に、青年は念押しするようにほほ笑む。


「よろしくお願いしますね?」


 あぁ、やはりダメだ。


「……はい」


 こんなふうに頼まれたら、私が断れるはずがない。


 なんでこんな性格になってしまったのだろう。こんな自分が憎い。


 昔はもっと自分の意見をハキハキ言えていた気がするのに……。



「……」


 ともかく、引き受けてしまったのだから、やるしかない。


 幸いなことに、道具はある。今夜は元々、チョコを作るつもりだったのだから。


 いいだろう。ならば本気でチョコを作るまでだ。


 自分のために使う予定だったチョコ作りへの意欲を、ここにつぎ込んでしまおう。


 さしあたって、材料を買いに行くとしよう。




 その日の夜。


 チョコは無事に完成して、その達成感からか、ぐっすりと眠れた。


 そして不思議な夢を見た。


 私は山の中にいる。見知らぬ山……だと思うけれど、初めてとは思えない。どこかなつかしい感覚がする。


 それだけなら別段、不思議な夢ではない。


 だけど、私の目の前に、子どもの頃の私がいた。


 大声を出して、泣いている。


 彼女の腕からは血が流れている。すごく痛そうだ。


「…………」


 ふと、私の視線が低いことに気づいた。子どもの私より、さらに低い。


 ついでに痛みにも気づいた。


 私もまた怪我をしているようだ。足がすごく痛い。


 どんな怪我なのか、痛みのほうに視線を向けてみる。


 すると、そこには毛むくじゃらの足があった。



「――」


 その直後に目がさめる。


 窓から朝陽が差し込んでいた。


 今日はバレンタイン当日だ。




 今日の授業は、まったく頭に入ってこなかった。


 自分が渡すわけでもないのに、緊張しているのかもしれない。


 あっという間に放課後になってしまった。


「――」


 教室で、ついそわそわしていると、隣のクラスから骨董店の彼がやってきた。


「じゃあ、行きましょうか」


 ついにその時が来てしまった。


 私は言われるがまま、手作りチョコを持って、ついて行く。


「……」


 やってきたのは校舎横の自転車置き場だった。


 正確に言うと、自転車置き場が見える茂みの中だ。


 放課後とはいえ、まだ人気はない。


「あの……なんで、こんな所に?」


 てっきり、あの人のクラスに行くのだと思っていた。


「すぐにわかりますよ。ほら、あそこに」


 促されて視線を向けると、あの人がいた。


 サッカー部のエース。


 昨日まで、告白しようと思っていた相手。


「――」


 どきり、とした。


 あの人は、誰かを探すように辺りを見回している。


「ど、どうして……?」


「僕が匿名で呼び出しておきました。さぁ、行ってください」


 優しく、背中を押される。


 でも、待ってほしい。


「わ、私が渡すんじゃないですよね!? タヌキは!?」


「近くにいますよ。ただ……少しの間しか、人の体に乗り移れないんですよ」


 まだ力が弱いので、と彼は説明した。


「あの人にチョコを差し出してください。その直後に体を借りるよう打ち合わせています。そこからなら一言だけ――感謝の言葉を伝えるくらいの時間はあるでしょう」


 初耳だ。聞いていない。


 チョコを差し出してから、一言伝えるまで体を貸す……?


 ほとんど私ではないか。話が違う。


 今からでも断りたい、ぜひとも。


 けれども、しかし――


「やってくれますね?」


 彼は悪気も悪意もなく、笑顔を向けてくる。


「……はい」


 やっぱり私は断れない。


 嫌でも、人の言うことを聞いてしまう。


「はぁ……」


 仕方なく、茂みから出ていく。


 こちらに背中を向けているあの人に、ゆっくりと近づいていく。


「ん?」


 足音に気づいたのか、あの人がこちらに振り返った。


「――」


 心臓が破裂しそうだ。つい足が止まってしまった。


 けれど、あの人との距離はもう数歩もない。ここからでも、話しかけるには充分だ。


「あの……」


 しかし何と言ったらいいのかわからない。


 言葉が出てこない。


 でもいいのだ。チョコを渡すのは私ではない。


 言葉はあのタヌキが決めることだ。


 私はただ、チョコを差し出すだけ。あとはタヌキが勝手にやってくれる。


 だから、何も言わずに、そっとチョコを差し出した。


「…………」


 ………………。


 ……あれ? 何も起きない?


 どういうことだろう?


 チョコを差し出したら、タヌキが私の体に乗り移るのでは?


 状況が理解できず、キョロキョロと周りに目を向けてしまう。


 どうしてそんなことをしたのかはわからない。


 近くにあのタヌキがいないか、探したかったのか。


 あるいはただ混乱して、じっとしていられなかったのか。


 すると、後ろのほう。さっきの茂みが視界に入った。


 まだ骨董店の彼がいた。


 その口が動く。


 声なんて届かない距離。言葉も長かった。


 なのに、なぜか口の動きだけで、何を言っているのかすぐにわかった。



 ――依頼は果たしました。がんばってください。


 それだけを残して、彼は去っていってしまう。



「……?」


 どういうこと? 意味がわからない。


 がんばるってなにを?


 私はなにをしたらいいの?


 こういう時、私は動けない。自分で考えるのは苦手なのだ。


 どうしたらいいのか、誰かに意見してもらわないと困る。


「――」


 でも、この状況……。



 今日はバレンタインデーで、


 目の前には好きな人がいて、


 私の手には、昨日一生懸命に作ったチョコがあって……。



 なにをすればいいかなんて、目に見えていた。


 だから――




 ここからは後日譚。


 後日というか、あの放課後の数時間後である。


 日もとっくに暮れた時間に、あの骨董店を訪ねた。


 一言、文句を言ってやらないと気が済まない。


「どういうことか説明してくださいっ!」


 怒鳴り込んできた私を、彼は笑顔で迎え入れる。


「告白は無事にできましたか?」


「わ、私のことはいいんです!」


 それより早く説明してほしかった。


 言葉にするまでもなく、私の意思を読んだのか、彼はひとつうなずいた。


「あのタヌキに依頼されまして。君が自分の気持ちを口にできるように、お膳立てしてほしい、とね」


 なんであのタヌキが、そんなことを……?


「命の恩人だから、と言っていました」


 恩人? 私が?


「――」


 思い出したのは、今朝見た夢だった。



 昔、田舎にある親戚の家に行ったときのこと。


 当時まだ活発だった私は、山へ遊びに行っていた。


 危ないから山には入るな、と注意されていたのに。


 親戚からは、動物を捕まえるための罠があるとも説明されていた。怪我をするから絶対に近づかないように、とも。


 それらの言い付けを無視して一人で山を歩いていると、鳴き声が聞こえた。


 がしゃん、という音も。


 何かの動物が罠にかかったのかもしれない。


 好奇心から鳴き声のするほうに行くと、罠にかかったタヌキがいた。足からは血が流れている。すごく痛そうだ。


「……」


 助けてあげたいと思った。


 今の私だったら、おろおろしていただけだろう。


 でも当時の私は、すぐに動いていた。良くも悪くも、行動力があったのだ。


 そうして、罠を外してタヌキを解放してしまった。



 けれど、素人が簡単に罠を扱えるはずがない。


 中途半端に開かれたそれは、私の腕を――



「――――」


 反射的に、右腕を抑えていた。


 当時の傷跡が残っている場所を。


 とても痛かったのを覚えている。


 死んでしまうかと思った。いま思い返すと、大げさだけれど……。


 その後、両親にも親戚にもひどく怒られた。


 勝手に山に入ったことも、タヌキを助けたことも。


 後で知ったけれど、タヌキは害獣らしい。


 駆除するために罠が設置されていた。


 なのに、そんなタヌキを助けるために大怪我をしたのだから、怒られて当然だ。


「……」


 その時からかもしれない。


 私がとても聞き分けのいい子になったのは。



 人の言うことには逆らわない。


 逆らったら、また痛い目を見るかもしれないから……。



 私はあの日から、自由に生きたことがなかった。


 そう、例えばわがままを言ったり、誰かの意見に反対したり、何かやりたいことがあっても黙っていたり――


 好きな人に告白できなかったり。



「……じゃあ、あのタヌキは?」


「その時のタヌキでしょうね」


「タヌキの恩返しですか? 語呂が悪いと思います」


「恩返しというより、罪滅ぼしですね。責任を感じていましたよ」


「……?」


 責任って? いったい何のことだろう?


「自分を生かしたせいで、君が自分を殺し続けている、と言っていました」


「――っ!」


 そんなこと気にしなくてもいいのに。


 当時の私は本当に自由で、聞き分けのない子どもだった。


 だから、いつかは痛い目を見て同じ性格になっていたと思う。


 あのタヌキが責任を感じる必要なんてなかったんだ。


「……でも」


 それでも、今日私に告白させるためにがんばってくれたのなら、とても嬉しく思う。



 久々に自分の気持ちをはっきりと口に出せたからかな? なんとなく清々しい。


 これからはちょっとだけ自由に生きられる気がする。


 生まれ変わったような気分の私に、彼は大人びた笑みで問いかけてきた。


「ちなみに、告白の結果は?」


「えっと、それは……」


 すぐに答えようとして、でも思い留める。


「ううん、あえて言わないでおきます」


「僕も少しは関わったんです。結末を知っておきたいんですが?」


「うぐ……」


 教えてほしい、と頼まれている。


 私は断るのが苦手だ。


 けれど――


「お、教えませんってば! ご想像にお任せします」


 今日のことは、私だけの大切な宝物にしたいから。


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