【幕間】ありがとう、そしてごめんなさい
――恩返しがしたい。
私はあの人に命を救われたのだから。
しかし、それ以上に償いをしたい。
私のせいで、あの人は自分を殺し続けているのだから。
***
バレンタインデーが明日に迫っていた。
乙女にとって大事な祭典である。
けれども私には関係ない。
関係なくなってしまった。
「……はぁ」
ため息をひとつこぼして、高校からの帰り道をとぼとぼ歩いていく。
家への近道である商店街は、バレンタインフェアなるもので色めき立っていた。
その華やかさが、さらに私の心を沈める。
「…………」
好きな人はいる。
チョコも贈るつもりだった。
ダメ元で告白するはずだったのだ。
今日の帰りに、スーパーに寄って製菓用のチョコを買う予定だった……。
「……」
もう関係ないけれど。
しかし、この後キッチンで格闘する予定だったから、時間が空いてしまった。
やることがない。
途方に暮れる、とはこういう状態のことを言うのだろうか?
……なんて、どうでもいいことを考えていた時だった。
――きゅ~ん
何かの鳴き声が聞こえた。
すぐ下。私の足元からだ。
「――?」
反射的に足を止めて、視線を下げていた。
すると、綺麗な金色が目についた。
キレイな毛並み。サイズは中型犬くらい?
私の枕にすっぽり収まるくらいの大きさだ。
最初は犬かな、と思った。でもすぐに違うとわかった。
タヌキだ。
一匹のタヌキが、私の足元に鎮座していた。
「…………」
はっきり言おう。
私は混乱していた。
ここは上野駅から歩いて十数分のところにある商店街だ。
東京の中でも、どちらかというと下町よりの地域ではあるけれど、さすがにタヌキは珍しい気がする。
というか、ありえない。
東京でタヌキを見るなんて、初めてだ。
「……」
驚きつつ、どうしたものかと考えを巡らせる。
都会のど真ん中でタヌキを見つけた……この場合は警察に連絡すればいいのかな? それとも消防?
でも、下手に通報なんてしたら殺処分とかにされてしまうのだろうか?
それはあまり嬉しくない。
このまま無視するのが一番いい気もしてくる。
だけど、そのせいで誰かが襲われたりして、怪我をされても困るし。
「…………」
どうしよう、考えがまとまらない。
比喩抜きで頭を抱えそうになっていた時、どんっと突然背中に衝撃があった。
なんだろうと思って振り返ると、小学生くらいの男の子がいた。
怯えているような、申し訳なさそうな表情。
「ご、ごめんなさい……」
どうやら、ぶつかられたらしい。手にスマホを持っているから、前方不注意だろう。
こういう時、どうしたらいいのかはすぐにわかる。
「大丈夫だよ。気にしないで」
なるべく優しい笑顔になることを意識して、声をかける。
「こっちこそ、ごめんね。道の真ん中でぼーっとしちゃってて……」
そう、私にだって非はある。
背中はちょっと痛いけれど、私がガマンすればすべてが丸く収まるのだ。なら、ガマンしない理由はない。
「本当にごめんなさい」
男の子は何度も謝りながら去っていった。
大丈夫と言ったのに、気にしてしまったのかもしれない。
でも、ちゃんと謝れるのは実に好感が持てる。将来はきっといい大人に成長してくれるだろう。
「さてと、私も帰らないと……」
あれ、何かを忘れているような?
「…………あ!」
思い出した。タヌキだ。
どうして、こんな一瞬で忘れてしまうのか……。
タヌキの扱いについて考えていたのだった。
再び足下に視線を戻す。
「あれ? いない?」
いつの間にか、タヌキが消えていた。
動いていた気配も、物音もなかったのに。
そもそもさっきの男の子はタヌキに気づいてもいなかった。あの距離なら、絶対に視界に入っているはずなのに。
「……私の見間違い?」
そういうことなのかもしれない。
こんなところにタヌキがいる方がおかしいのだ。
きっとバレンタインのことでショックを受けているのだろう。だからあんな幻覚を――
――きゅ~ん
また鳴き声が聞こえた。
そして、私はありえないものを目にすることになる。
足元にタヌキが現れたのだ。
どこかから歩いてきたのではない。
すーっと、目隠しが取れるように。映画で見るCGのように。何もなかったところに、いきなりタヌキが出てきた。
「…………」
これは見間違いなどではない。
あきらかに怪しい。このタヌキは普通ではない。
逃げ出そうと思った。
けれど、なぜか怖いと感じていない自分に気づいた。
こんな奇天烈なタヌキを前にしても、私はまったく恐怖していなかった。
どうしてなのかは私にもわからない。
とりあえず、自分が危険な目にあうことはないと確信を持てた。
「――」
かといって、ここで立ち止まっている理由もない。
怖くないとはいっても、奇天烈タヌキと積極的に関わりたいとは思えない。
「そうだ、帰ろう」
タヌキなんて見なかった。出会わなかった。
そういうことにしておこう。
私は再び足を動かした。
帰っても、やることなんてないけれど……。
それでも変なことに巻き込まれるよりはいい。
タヌキを避けて、どんどん進んでいく。
――きゅ~ん
すぐ後ろから鳴き声が聞こえた。
首から上だけを動かして、背後を確認する。
「……」
タヌキが追ってきていた。
なんで?
「――」
試しに足を止めてみる。
タヌキも足を止めた。
再び歩き出す。
それに合わせて、タヌキも前に進みだした。
「――」
どうやら、気のせいではないらしい。意図して、私について来ているようだ。
このまま無視し続けてもいいけれど、放っておくと家までついて来そうだった。
それはちょっと……。
仕方なく足を止める。やはりタヌキも、歩みを止めた。
「……どうしよう?」
さて、困った。
こういう時、私はうまく動けない。
誰かの指示がほしい。意見でもかまわない。
こうしたらどうかな、というアドバイスがほしい。
そう、いつもなら友だちに頼る。唯一無二の、親友とも呼べる彼女に。
「…………」
ふと、彼女の言葉を思い出した。
今朝聞いたばかりの話だ。
「ねぇ、知ってる? 隣のクラスの男子なんだけど――」
細かい部分は忘れてしまった。
噂好きの彼女は、この手の話をよく持ってくる。
いつものことだから私も聞き流していた。
おおまかな内容は……不思議な出来事に詳しい男子がいる、という話だったと思う。
何か困ったことがあったら頼ってみるといい、と。
「たしか、この商店街の裏路地……だったよね?」
話の中で、その男子の家も教えてもらっていた。
ずいぶん具体的な噂話だ。
仮に噂が嘘だったなら、その男子にはいい迷惑だろう。
その可能性を考えると、少しだけためらう。
でも、いまの私には他に頼れるものがない。
だから――
「うん、仕方ない……よね?」
私は商店街の表通りから、横道へと入っていった。
やっとたどり着いた。
親友から聞いた話がうろ覚えだったから、何度か場所を間違えたけれど……。
それは商店街の裏道にあった。
木造の一軒家。
古い、小さな骨董店。
店先には、ちょうど一人の青年が立っていた。
青年、と呼ぶのもおかしいかもしれない。だって彼の年は、私と同じくらいに見える。
というか、親友から聞いた話が本当なら、同い年に決まっている。彼は、私の隣のクラスに在籍しているのだから。
背は高くもなく、低くもなく……顔立ちは平均的で、髪型も普通。特徴らしいところが見当たらない。
どこにでもいそうな、一般的な人だった。
私と同じ高校の制服を着ているから、彼もいま帰ったところなのかもしれない。
「――ん?」
じっと見つめていると、青年のほうも私に気づいたらしい。
同学年とは思えないくらい大人びた笑みを浮かべて、私に向き直る。
「なにかご用ですか?」
「あ、いえ……えっと……」
なんて答えたらいいのか、わからなかった。
たしかに用事はある。
でも、どう説明したらいいかわからない。
不思議なタヌキに出会って困ってます……なんて言ったら、変な人だと思われるだろう。
ううん、そもそもそんなに困ってはいないのだ。
だからこそ、なおのことなんて言ったらいいのかわからなくなってしまう。
「……」
答えられずにいると、青年の視線が私の後ろに向けられた。
「あぁ、なるほど。お客様はそっちか」
「え……?」
すべてを見透かしているかのように、青年は続ける。
私の後ろにいる、タヌキを見つめながら。
「いらっしゃい。付喪神よろず相談所へ、ようこそ」
「……つくも、がみ?」
聞きなれない言葉に、私は首を傾げることしかできなかった。
なぜか骨董店の奥、居住スペースの居間まで通されてしまった。
しかも、私だけ……。
六畳の和室に一人きり。
さっきの青年は外でタヌキと話している……らしい。
タヌキと話すって、どういうことだろう?
実はあのタヌキは言葉をしゃべれるのかな?
あるいは、あの青年のほうが動物と話せるのか?
考えても答えなんかわかるはずもなくて……。
「――」
私は、用意された缶コーヒーを口に運ぶ。
青年のオススメというカフェラテだった。
普段コーヒーは飲まないから味なんてわからないけど、たぶん美味しいんだと思う。
オススメというのだから、美味しいのだろう。
ふぅ、とひと息ついたところで、青年が戻ってきた。タヌキと一緒に。
部屋に入ってきた彼は、私の姿を見ると、少しだけ申し訳なさそうな表情になった。
「すみません。暖房はつけておいたんですけど……寒かったですか?」
「……?」
何の話だろう、と思った。
でも、すぐに思い当たる。私はコートを着たままだ。
「あ、いえ! 大丈夫です。寒いわけではないので」
初対面の人を前にして、薄着になることには抵抗があった。制服の下にも長袖を着ているので、そこまで気にしなくてもいいと思うけれど。
「それならいいんですけど……無理はしないでくださいね? なんなら設定温度をあげますよ?」
真剣に心配してくれているのが伝わってくる。
私のほうこそ、申し訳ない気持ちになってきた。
「本当に平気ですから。それより、どうなったんですか?」
早く話を変えたくて、本題を促す。
すると私の意図をくんでくれたのか、わかりました、とあっさり引き下がってくれた。
座卓をはさんで私の正面に座ると、彼は大人びた笑みを向けてくる。
「事情がわかりましたよ」
タヌキとは、ちゃんと話ができたらしい。
どうやって話したのだろう? ちょっと興味がわく。
でも本題を促した手前、私が余計なことを聞くわけないはいかないだろう。ガマンして、黙って続きを待つ。
すると、彼はちょっと意外なことを言ってきた。
「このタヌキは、とある男性に恩返しがしたいそうです」
「恩返し……?」
「明日のバレンタインにチョコを渡したいと言っています」
「…………」
意味がわからなかった。
私がバカなだけだろうか?
動物が恩返しに来る。
割とありきたりな話に聞こえる。でも、おかしい。
恩返しにチョコ?
バレンタインデーって、そういう日だったっけ?
もう疑問が多すぎて、どう反応したらいいかもわからない。
この状況を理解できる人がいるなら名乗り出てほしい。そして私と代わってほしい。
「えっと……」
とりあえず順番に処理していこう。
まず最初に確認したい疑問はなんだろう?
真っ先に浮かんだのは、自分のことだった。
「なんで、私が巻き込まれてるんですか?」
――このタヌキは、とある男性に恩返ししたい。
それなら、私は関係ないはずだ。なのにどうして私の後をついて来たのか?
「君とは相性がいいみたいで、チョコを渡す時に体を貸してほしい、と」
「体を……貸す?」
取り憑くとか、そういう感じのことだろうか?
それは……なんとなく怖い。そのまま乗っ取られたりしないか心配になる。
「タヌキのまま渡しちゃダメなんですか?」
「君はタヌキにチョコを渡されたら、どうしますか?」
「…………」
たぶん、受け取らない。
いや絶対に受け取らない。そもそも、自分に渡しているのだと認識できないと思う。
「わかりましたか?」
「……はい」
「この子の恩返しのために協力してくれませんか?」
「そんな、急に言われても……」
体を貸すなんて、簡単に返事なんてできない。
ためらう私に、彼は深々と頭を下げてきた。
「お願いします。君しかいないんですよ」
「……」
あぁ、これはダメだ。
ダメな流れだ。
「安全は僕が保証します。だから、どうか」
頼み込まれると、私は弱い。
断ったり逆らうのが苦手なのだ。
この人がそのことを知っているとは思えないから、悪気はないんだろうけれど。
「――」
なんとか断れないものかと、考えを巡らせる。
どう応えたらいいかもわからなくて、必死に言葉を探して、やっとしぼり出したのは、
「相手は?」
もう引き受ける気満々の言葉だった。
こんな自分が恨めしい……。
私が了承したと思ったのか、単に話題が変わったからか、彼はゆっくりと顔を上げた。
「相手、ですか? たぶん君も名前くらいは知っていると思いますよ」
神妙な笑みを浮かべて、彼は続ける。
「僕たちの高校の、サッカー部のエースですよ」
「……!」
どきり、とした。
よりにもよって、サッカー部のエース?
知らないわけがない。
だって、私が明日チョコを渡そうとしていた相手なのだから。
あの人とは小中とずっと一緒で、ずっと好きで、高校もあえて同じところにした。
そしてついに勇気を出して告白することにしたのだ。
何日も前からバレンタインの準備を進めて。
でも、不安で。自信がなくて……。
だから、つい親友に相談してしまった。しないと決めていたのに。
なんて言われるかはわかりきっていたから。
そして案の定、予想通りの言葉が返ってきた。
――フラれて泣くのは目に見えてるでしょ? やめたほうがいいよ。
「……」
何を言われても、どんなことがあってもチョコを渡すつもりだった。
そう固く決意したはずなのに……。
唯一無二の親友に反対されて、私は――
――うん、そうだよね。
うなずいてしまった。
だから私は、今年もチョコを作らない。
それなのに、このタヌキはバレンタインにチョコを渡したいと?
しかも私が渡そうとしていた人に?
「む、むりですっ!」
とっさに声が出ていた。
だって、あたり前だ。
私の体を借りて、このタヌキがチョコを渡すということは……あの人から見たら、私がチョコを渡しているようなものではないか。
見ず知らずの、まったくの他人なら、後のことを気にする必要はない。
でも、相手は同じ学校の、しかも私が諦めてしまった相手……。
「――」
いやいや、ムリムリムリ!
頭と両手をぶんぶん降り続ける私に、青年は困ったような笑みを向けてきた。
「でも、他にいないんですよ。どうかお願いします」
「うぐ……」
もう一度言うけれど、私は頼まれると断れない。押しに弱いのだ。
だから、この後自分がなんて答えてしまうかは、嫌というほどわかっている。
「……わ、わかりました」
断れない私には、うなずく以外の選択肢などなかった。
色よい返事を聞いて、青年の顔色が明るくなる。
ありがとうございます、と頭を下げて、
「では、明日はチョコを作ってきてください」
唐突にそんなことを言われた。
「なんで私が!?」
「タヌキにチョコが作れると思いますか?」
ムリだと思う。
「で、でも、買ったものでいいんじゃ?」
「バレンタインチョコなら、やはり手作りのほうがいいと思いますよ?」
いや、そうかもしれないけれど……。
困惑している私に、青年は念押しするようにほほ笑む。
「よろしくお願いしますね?」
あぁ、やはりダメだ。
「……はい」
こんなふうに頼まれたら、私が断れるはずがない。
なんでこんな性格になってしまったのだろう。こんな自分が憎い。
昔はもっと自分の意見をハキハキ言えていた気がするのに……。
「……」
ともかく、引き受けてしまったのだから、やるしかない。
幸いなことに、道具はある。今夜は元々、チョコを作るつもりだったのだから。
いいだろう。ならば本気でチョコを作るまでだ。
自分のために使う予定だったチョコ作りへの意欲を、ここにつぎ込んでしまおう。
さしあたって、材料を買いに行くとしよう。
その日の夜。
チョコは無事に完成して、その達成感からか、ぐっすりと眠れた。
そして不思議な夢を見た。
私は山の中にいる。見知らぬ山……だと思うけれど、初めてとは思えない。どこかなつかしい感覚がする。
それだけなら別段、不思議な夢ではない。
だけど、私の目の前に、子どもの頃の私がいた。
大声を出して、泣いている。
彼女の腕からは血が流れている。すごく痛そうだ。
「…………」
ふと、私の視線が低いことに気づいた。子どもの私より、さらに低い。
ついでに痛みにも気づいた。
私もまた怪我をしているようだ。足がすごく痛い。
どんな怪我なのか、痛みのほうに視線を向けてみる。
すると、そこには毛むくじゃらの足があった。
「――」
その直後に目がさめる。
窓から朝陽が差し込んでいた。
今日はバレンタイン当日だ。
今日の授業は、まったく頭に入ってこなかった。
自分が渡すわけでもないのに、緊張しているのかもしれない。
あっという間に放課後になってしまった。
「――」
教室で、ついそわそわしていると、隣のクラスから骨董店の彼がやってきた。
「じゃあ、行きましょうか」
ついにその時が来てしまった。
私は言われるがまま、手作りチョコを持って、ついて行く。
「……」
やってきたのは校舎横の自転車置き場だった。
正確に言うと、自転車置き場が見える茂みの中だ。
放課後とはいえ、まだ人気はない。
「あの……なんで、こんな所に?」
てっきり、あの人のクラスに行くのだと思っていた。
「すぐにわかりますよ。ほら、あそこに」
促されて視線を向けると、あの人がいた。
サッカー部のエース。
昨日まで、告白しようと思っていた相手。
「――」
どきり、とした。
あの人は、誰かを探すように辺りを見回している。
「ど、どうして……?」
「僕が匿名で呼び出しておきました。さぁ、行ってください」
優しく、背中を押される。
でも、待ってほしい。
「わ、私が渡すんじゃないですよね!? タヌキは!?」
「近くにいますよ。ただ……少しの間しか、人の体に乗り移れないんですよ」
まだ力が弱いので、と彼は説明した。
「あの人にチョコを差し出してください。その直後に体を借りるよう打ち合わせています。そこからなら一言だけ――感謝の言葉を伝えるくらいの時間はあるでしょう」
初耳だ。聞いていない。
チョコを差し出してから、一言伝えるまで体を貸す……?
ほとんど私ではないか。話が違う。
今からでも断りたい、ぜひとも。
けれども、しかし――
「やってくれますね?」
彼は悪気も悪意もなく、笑顔を向けてくる。
「……はい」
やっぱり私は断れない。
嫌でも、人の言うことを聞いてしまう。
「はぁ……」
仕方なく、茂みから出ていく。
こちらに背中を向けているあの人に、ゆっくりと近づいていく。
「ん?」
足音に気づいたのか、あの人がこちらに振り返った。
「――」
心臓が破裂しそうだ。つい足が止まってしまった。
けれど、あの人との距離はもう数歩もない。ここからでも、話しかけるには充分だ。
「あの……」
しかし何と言ったらいいのかわからない。
言葉が出てこない。
でもいいのだ。チョコを渡すのは私ではない。
言葉はあのタヌキが決めることだ。
私はただ、チョコを差し出すだけ。あとはタヌキが勝手にやってくれる。
だから、何も言わずに、そっとチョコを差し出した。
「…………」
………………。
……あれ? 何も起きない?
どういうことだろう?
チョコを差し出したら、タヌキが私の体に乗り移るのでは?
状況が理解できず、キョロキョロと周りに目を向けてしまう。
どうしてそんなことをしたのかはわからない。
近くにあのタヌキがいないか、探したかったのか。
あるいはただ混乱して、じっとしていられなかったのか。
すると、後ろのほう。さっきの茂みが視界に入った。
まだ骨董店の彼がいた。
その口が動く。
声なんて届かない距離。言葉も長かった。
なのに、なぜか口の動きだけで、何を言っているのかすぐにわかった。
――依頼は果たしました。がんばってください。
それだけを残して、彼は去っていってしまう。
「……?」
どういうこと? 意味がわからない。
がんばるってなにを?
私はなにをしたらいいの?
こういう時、私は動けない。自分で考えるのは苦手なのだ。
どうしたらいいのか、誰かに意見してもらわないと困る。
「――」
でも、この状況……。
今日はバレンタインデーで、
目の前には好きな人がいて、
私の手には、昨日一生懸命に作ったチョコがあって……。
なにをすればいいかなんて、目に見えていた。
だから――
ここからは後日譚。
後日というか、あの放課後の数時間後である。
日もとっくに暮れた時間に、あの骨董店を訪ねた。
一言、文句を言ってやらないと気が済まない。
「どういうことか説明してくださいっ!」
怒鳴り込んできた私を、彼は笑顔で迎え入れる。
「告白は無事にできましたか?」
「わ、私のことはいいんです!」
それより早く説明してほしかった。
言葉にするまでもなく、私の意思を読んだのか、彼はひとつうなずいた。
「あのタヌキに依頼されまして。君が自分の気持ちを口にできるように、お膳立てしてほしい、とね」
なんであのタヌキが、そんなことを……?
「命の恩人だから、と言っていました」
恩人? 私が?
「――」
思い出したのは、今朝見た夢だった。
昔、田舎にある親戚の家に行ったときのこと。
当時まだ活発だった私は、山へ遊びに行っていた。
危ないから山には入るな、と注意されていたのに。
親戚からは、動物を捕まえるための罠があるとも説明されていた。怪我をするから絶対に近づかないように、とも。
それらの言い付けを無視して一人で山を歩いていると、鳴き声が聞こえた。
がしゃん、という音も。
何かの動物が罠にかかったのかもしれない。
好奇心から鳴き声のするほうに行くと、罠にかかったタヌキがいた。足からは血が流れている。すごく痛そうだ。
「……」
助けてあげたいと思った。
今の私だったら、おろおろしていただけだろう。
でも当時の私は、すぐに動いていた。良くも悪くも、行動力があったのだ。
そうして、罠を外してタヌキを解放してしまった。
けれど、素人が簡単に罠を扱えるはずがない。
中途半端に開かれたそれは、私の腕を――
「――――」
反射的に、右腕を抑えていた。
当時の傷跡が残っている場所を。
とても痛かったのを覚えている。
死んでしまうかと思った。いま思い返すと、大げさだけれど……。
その後、両親にも親戚にもひどく怒られた。
勝手に山に入ったことも、タヌキを助けたことも。
後で知ったけれど、タヌキは害獣らしい。
駆除するために罠が設置されていた。
なのに、そんなタヌキを助けるために大怪我をしたのだから、怒られて当然だ。
「……」
その時からかもしれない。
私がとても聞き分けのいい子になったのは。
人の言うことには逆らわない。
逆らったら、また痛い目を見るかもしれないから……。
私はあの日から、自由に生きたことがなかった。
そう、例えばわがままを言ったり、誰かの意見に反対したり、何かやりたいことがあっても黙っていたり――
好きな人に告白できなかったり。
「……じゃあ、あのタヌキは?」
「その時のタヌキでしょうね」
「タヌキの恩返しですか? 語呂が悪いと思います」
「恩返しというより、罪滅ぼしですね。責任を感じていましたよ」
「……?」
責任って? いったい何のことだろう?
「自分を生かしたせいで、君が自分を殺し続けている、と言っていました」
「――っ!」
そんなこと気にしなくてもいいのに。
当時の私は本当に自由で、聞き分けのない子どもだった。
だから、いつかは痛い目を見て同じ性格になっていたと思う。
あのタヌキが責任を感じる必要なんてなかったんだ。
「……でも」
それでも、今日私に告白させるためにがんばってくれたのなら、とても嬉しく思う。
久々に自分の気持ちをはっきりと口に出せたからかな? なんとなく清々しい。
これからはちょっとだけ自由に生きられる気がする。
生まれ変わったような気分の私に、彼は大人びた笑みで問いかけてきた。
「ちなみに、告白の結果は?」
「えっと、それは……」
すぐに答えようとして、でも思い留める。
「ううん、あえて言わないでおきます」
「僕も少しは関わったんです。結末を知っておきたいんですが?」
「うぐ……」
教えてほしい、と頼まれている。
私は断るのが苦手だ。
けれど――
「お、教えませんってば! ご想像にお任せします」
今日のことは、私だけの大切な宝物にしたいから。