桜に愛をこめて
――愛しています、結婚してください。
初対面だった。
彼は、一目惚れですと付け加える。
いきなりの求婚に、わたしはひどく驚いた。
そして、それ以上にわたしの姿が見えていることに驚く。
わたしたちを認識できる人間は少ないから……。
そう、彼は人間だ。
二十代そこそこの青年。
そんな相手と結婚できるはずがない。
なぜなら、わたしは桜の木なのだから。
姿は人間に見えていても、あくまでもモノでしかない。
そのことを正直に話して、お断りした。
すると、青年はよかったと微笑む。
――私はこの木が一番好きなんです。
――この木があなただというなら、なおのこと嬉しい。
その言葉を聞いて、わたしのほうも嬉しくなってしまった。
***
休日、上野公園へとやって来た。
数日前まで花見客でごった返していた桜並木を歩いていく。
ふと、横から若い女性の声が上がった。
「ほとんど散っておるようじゃな」
指摘の通り、花をつけている桜は少ない。代わりに、足元が花びらのじゅうたんになっていた。
「ここ数日の強風のせいだね。見ごろは先週だったらしいよ」
ニュースの情報を伝えながら、声のしたほうに視線を向ける。
そこには誰もいなかった。
人間は、誰も。
代わりに、一匹の白猫が僕の隣を歩いている。
少し体が大きく、毛並みの良い白猫。よく見ると、尻尾が二股に割れている。
その猫が呆れるような顔で、口を開いた。
「花見ならば、もっと早くに来るべきじゃったな」
「僕は花見で来たわけではないけどね」
「なぬ? では、何故に店を空けてまでこんな所に?」
「……君には事情を話したと思ったけど?」
「知らん、忘れた」
これだから猫は。
興味のないことはすぐに忘れて困る。
「相談を受けたんだよ」
その一言だけで、白猫は理解したらしい。
つまらなそうに、ため息をつく。
「なんじゃ、依頼か。なら儂は勝手にさせてもらうぞ」
言い終わるなり、白猫は僕とは違う方向へと歩き出してしまう。
気ままなものだ。
そもそも勝手についてきただけだから、どこに行かれても困りはしないけれど。
僕は僕でやることがある。そちらを優先しよう。
そのまま歩みを進める。
そして、途中で横道にそれる。
人通りの多い桜並木から少し外れただけで、途端に人の気配がなくなった。
「――」
そうして、すぐにそれを見つけた。
ぽつんと、孤立するように一本だけで立っている桜の大木を。
こちらもやはり花はほとんど落ちてしまい、根本に薄桃色の山ができていた。
この桜の木が待ち合わせ場所だった。
というより、ここでしかまともに会話はできないのだ。
「来ましたよ」
木の前まで進み出て、声をかける。
直後、強い風が吹いた。
足下の花弁が上空へと舞い上がる。
つられて視線を上げていた。
すると、あり得ないものが視界に入る。
木の上にひとりの女性がいた。
年のころは二十代中盤といったところか。白と薄い桃色が合わさった涼やかな着物を身にまとっている。
木のてっぺんに腰かけていた女性が、その身を投げた。
ふわり、と舞い降りてくる。
ゆっくりと、まるで桜の花びらのように。
僕の正面に着地すると、彼女は朗らかに微笑み、深くお辞儀をした。
「ようこそお越しくださいました」
なかなか礼儀正しい方のようだ。
けれど、仰々しすぎる。どうか頭を上げてほしい。
「付喪神に関する相談なら、僕の出番ですから」
大したことはないのだと暗に伝える。
僕の言葉を受けて、顔を上げた女性は不安そうに首を傾げた。
「関わる……というより、わたし自身が付喪神ですが?」
「付喪神からの相談なら、なおのこと僕の出番でしょう。あなたたちが見える人はそう多くありませんから」
なるほど、と納得した様子の女性は、ひとつ息をついた。
真剣な顔で、僕の目を見つめてくる。
「では、さっそく本題に入ってもよろしいですか?」
どうぞ、と無言でうながす。
女性は緊張した面持ちで、再び深く呼吸した。そして意を決するように、
「きゅ、求婚をされたんです」
恥じらう乙女のような口ぶりで、告げてきた。
「……はい?」
意味がわからず、聞き返していた。
相談の内容が、予想外すぎる。
理解が追いつかない僕に構わず、彼女は続ける。
「しかも、人間の男性に……」
「はい?」
さらに困惑した。
人が、付喪神に告白した?
なんとも珍しいケースだ。
まぁ僕みたいな人間がいるのだから、そういう人もいるだろうけれど。
やっと状況を飲みこんできたあたりで、女性の表情が曇った。
「もちろんお断りしたんです。わたしは付喪神ですから」
「――」
それはそうだろう。
人とモノが一緒になるには障害が多すぎる。
「でも、諦めてくれないんです。何度断っても、何度でも会いに来てくれて……」
彼女の話によると、数日に一度はここに来るらしい。
連日やって来ることも。
「ただ世間話だけして、帰っていくこともあるんですけど」
基本的には、いつも告白をしてくるらしい。
何度断られても、めげずに。
ついでとばかりに、いくつかの雑談をしていく。
「おかげで退屈はしないんですけど……このままというのも申し訳ないですし」
一通り話し終わったのか、女性が口を閉ざした。
「…………えっと」
困った。
これは、どうしたものか。
「それで、僕にどうしろと?」
わからないから直接聞いてみた。
僕は彼女が求めることをするだけだ。
けれども、しかし、問われた女性は首を傾げた。
「どうしたらいいのでしょう?」
「……」
僕に聞かれても困る。
「わたし自身、どうしたらいいのか……どうしたいのか、わからないんです」
呆れてしまいそうな発言。
だけど、僕の場合は疑問が先に立った。
「それはおかしいですね。付喪神なのに」
付喪神は、思いから生まれるもの。
人に伝えたい思いがあるから、人の姿になる。
「付喪神である以上、あなたにも何かがあるはずですよね? 強い思いや、大事な感情や、叶えたい願いが」
それがなければ、付喪神になることはありえない。
「つまりは、それがあなたの一番したいことですよ」
「わたしは……」
一瞬、言い淀んだ。躊躇うように。
けれど、意を決するように、ひとつ息を吸い込む。
「特別になりたかったんです」
誰かの特別に、と彼女は付け加えた。
ふと、女性が微笑むを向ける。
「桜の木を、どう思いますか?」
「……」
適当に答えてはいけない質問だろう。だから、少しだけ考えた。
「日本人にとって、特別な木ですね」
毎年、春には多くの人が花見をする。ここ上野公園でも。
彼女も肯定するように、ひとつうなずく。けれど、その表情は浮かない。
「でもあの人たちは、わたしという木を見ているわけではないんです」
上野公園の桜という、群体を見にきているだけ。
「――」
たしかに、一本の木だけに興味を抱く人間は少ないだろう。
「だけど、わたしは……わたしだけを見てほしい」
――誰かの特別になりたい。
ありきたりな願い。人間でもよく抱く感情だ。
だけれど、だったら――
「答えは決まっているようなものじゃないですか」
その人は、彼女のことを特別視している。
「そう。そうなんですよね……。でも、わたしはまだ迷っていて。だって、わたしはモノで、彼はヒトで……」
彼女は困ったような笑みを浮かべて、続けた。
「それで本当に幸せになれるんでしょうか?」
この人は……。
「また、わかりきったことを聞きますね?」
「え?」
僕が言っていることがわからなかったのか、ほうけた表情を返された。
けれど、そんなに難しいことではない。さきほど問い――彼女がどうしたいのか、という答えよりもわかりきっている。
「その人のことを話しているとき、あなたはとてもいい表情でしたよ」
「わたしが?」
「話題に出すだけで、あんな顔ができるんです。そんな相手と一緒になるなら、幸せに決まっているでしょう」
「……」
とても驚いた表情だった。
自覚がなかったらしい。
ふと、足音が聞こえた気がした。
視線を向けると、一人の男性がこちらに向かって歩いてきている。
「あ、彼です」
嬉しそうな彼女の言葉を受けて、男性をよく見てみる。
「――」
初老の男性だった。
少し意外に感じる。もう少し若い人だと思っていたから。
しかし驚いている場合ではない。
彼が来たのなら、邪魔をしては悪い。
「では僕はこれで。あとはあなた次第です」
別れを告げて、桜の木を後にする。
必然的に、僕のほうからも男性に近づくことになった。
すれ違う数歩手前で、男性が足を止めた。
僕もつられて立ち止まる。
男性は朗らかな笑みで、軽く会釈をした。
「こんにちは。いい天気ですね」
「そうですね。絶好の花見日和です」
「花はほとんど散ってしまいましたが」
ふと、男性が桜の木に視線を送った。
僕も一緒になって、あの木を見つめる。
たしかに花びらは残っていない。
「それでも、美しい木ですね」
「えぇ、あまりの美しさに、一目惚れをしたほどですよ」
男性は初恋でも語るように、気恥ずかしそうに笑ってから続けた。
「それから、ここに通うようになりましてね。かれこれ三十年近くになります」
「――」
三十年、か……。
まだ十年そこそこしか生きていない僕には、まったく想像できない年数だ。
それだけの間、たった一人のことを想い続けるなんて、気が遠くなる。
「では、私はこれで。彼女に伝えないといけない言葉があるので」
「はい。どうかあなたの想いが届きますように」
別れのあいさつに、彼は笑みを浮かべた。桜の木に似た笑みを。
「ありがとう」
決意のこもった声で言うと、男性は再び会釈をして歩みを再開した。
ゆっくりと進んでいく。
そして、桜の木の前で足を止めた。
目の前には、着物姿の女性が。
「――」
男性がなにか話しかけている。
そして手を差し出した。
「……」
女性は少しだけ迷う素振りを見せてから、そっとその手を取る。
一瞬だけ、男性が驚く。
しかし、すぐに朗らかな笑みを浮かべた。
女性も恥じらいながら、嬉しそうに微笑んでいる。
ふと、風が吹いた。今日一番の強い風が。
足下の桜が舞い上げられる。
視界いっぱいを、桜の花びらが埋めた。
ひらひらと花弁が踊る。まるで、二人を祝福するように。