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初雪にざわめく


 ――初雪の日に、山に登ってはいけない。


 初、というものには強い力が宿る。

 初夢、初咲き、初姿、初物……

 それらは最初の一回目というだけで、特別な意味を持つ。


 そして力があるところには、ナニモノかが蠢く。

 こちら側ではないモノたちが集い、ざわめく。


 だから、初雪の山に登ってはいけない。


***


 高校での授業を終えて、僕は根津のほうに来ていた。


 僕の家とは、上野公園をはさんで反対側だ。


 とある相談を受けて、以前にもお邪魔したことのある家に来ていた。


 和室に通された僕の視界には、二人の人物がいる。


 大人の女性と、小学生くらいに見える童女。


 まず、僕の正面にいる女性が口を開いた。


「私もね、好きで言い争ってるわけじゃないのよ?」


 暖房が効いているというのに厚着をしている女性は、たしか僕の母親と同じくらいの年齢だったはずだ。


 しかし、とてもそうは見えない。実際よりだいぶ若く見える。


 三十前後と言われても、普通に信じられそうだ。


「こっちは大人なんだし、引いてあげてもいいかなぁ、とも思うのよ」


 この言葉に、もう一人が不機嫌そうに眉を上げた。


「聞き捨てならんな」


 その声を聞いて、僕は頭上を見上げる。


 視線を受けて、彼女は続けた。


「こう見えても、儂のほうがお主より長く生きておる。大人と言うなら、こちらのほうだ!」


 何度言ったらわかるのだ、と憤慨する女の子。


 彼女は、なぜだか天井に正座していた。頭を下にして。


 女性と童女が、お互いに頭上を見上げてにらみ合う。


「…………」


 説明するまでもないと思うけれど、あの女の子は人間ではない。


 付喪神だ。


 長く大事にされてきた道具には、意思が宿る。


 そしてその意思が、人の形になることがある。


 普通の人とは違う、特殊な存在に。


 僕の正面にいる女性は、あの付喪神の持ち主である。


「――」


 ため息をひとつ。


 つまり、僕はケンカの仲裁に呼ばれたわけだ。


 茶番でしかないけれど……。


「お二人とも、落ち着いてください」


「私は落ち着いてるわ。あっちが突っかかってくるから!」


 女性の矛先がこちらに向いた。


 睨まないでほしい。正直、怖い。


 怒った女性の表情というものは、あまり見ていたいものではない。


「彼女が長生きなのは事実ですよ。たしか付喪神になったのは五十年前でしたか……?」


「四十九年だ。間違うな」


「それは失礼」


 謝罪しながら、今度は天井の少女へ視線を向ける。


「あなたも年上だと言い張るのなら、もっと大人の対応をしてください」


「……む」


 苦虫をかみつぶしたような、とは軽妙な表現である。


 まさにそんな表情をしてから、少女はそっぽを向いた。


「まぁ、今回はそいつの顔に免じて、引いてやろう」


 彼女の言葉を受けて、


「……私も大人げなかったわ。ごめんなさい」


 女性のほうも、すんなり引き下がった。


「――」


 やはり茶番だ。


 彼女たちのケンカは、それほど深刻なものではないのだから。


 そもそもどういう理由でケンカが始まったのか、本人たちも忘れてしまったらしい。


 おそらくどうでもいいことだろう。


 朝、起こすのを忘れたとか、食事の味付けが気に入らないとか。


 どうでもいいことで始まったケンカだが、なかなか後に引けなくなってしまった。


 彼女たちがほしかったのは、ケンカを止めるきっかけだ。


 ケンカは終わらせたい。


 けれど、自分から謝るのもなんだか嫌だ。



 つまり彼女たちが求めていたのは仲裁役である。


 このケンカを治めてくれる、間を取り持ってくれる人物を。



 それをきっかけに仲直りすればいい。


 だから、こんなにもすんなりと問題は解決した。


 僕が呼ばれた時点で、問題なんてなくなっていたわけだ。


 茶番以外の何物でもない。


「……」


 けれど、悪い気はしなかった。



 ヒトとモノの間を取り持つ。


 それは僕だからこそ、できることだ。



 付喪神は人の姿をしているけれど、人間とは明確に違うモノだ。


 僕はそこを別けたくないけれど、どうしようもない事実として違ってしまっている。


 人と人でも意見がぶつかるのに、ヒトとモノならば理解し合うのはさらに難しい。


 せっかく出会えた持ち主と、言い争ってしまうことだってあるだろう。


 僕がいることで、事態が深刻になる前に解決できるなら、それはいいことだ。


「――さて」


 とはいえ、いつまでも茶番に付き合い続けるほどヒマでもない。


「そろそろ僕は帰りますね」


「あぁうん、今日はありがとう。次にケンカしたときも、またよろしくね」


「ケンカをしないように頑張ってください」


「私はそうしたいんだけど、あっちがね……」


 ぴりっと空気が張り詰めるのがわかった。


「儂に問題があると?」


「そこまでは言わないけどね」


「そこまで、ではないなら、どこまでだ? 詳しく言ってもらおうか?」


 またケンカになりそうな雰囲気だった。


「さっき仲直りしたばかりでしょう? 今日一日くらいは、揉め事を起こさないでください」


 呆れる僕に、二人の女性は同時にそっぽを向いた。


 また近いうちに呼ばれる予感がしてならない。


「…………」


 こんなにケンカばかりだというのに、本当にこの女性が持ち主でいいのだろうか?


 けれども、天井の彼女がここを去りたいと相談してきたことはない。


 つまりは、そういうことなのだろう。


「では、今度こそ本当に帰りますね」


 立ち上がった時だった。


 窓の外を舞うものが、目についた。


 僕の視線を受けて、二人も外に目を向ける。


「――雪だ」


 同時に声が上がる。


 関東地方の初雪だった。


「傘、貸しましょうか?」


「いえ、たいした距離ではありませんから」


 気持ちだけ受け取っておく。


 部屋を出て行こうとする僕に、今度は天井の彼女が声をかけてきた。


「雪に気をつけて帰れ」


 やけに真剣な口調で。


 彼女らしくない気づかいだった。


 けれど、特に気にせず、


「えぇ、充分に気をつけますよ。では失礼します」


 軽く答えて、彼女たちの家を後にした。


 その直後だ。


 亡くなった祖父に、かつて言われた言葉を思い出したのは。



 ――初雪の日に、山に登ってはいけないよ。


 戒めるように言われたのを覚えている。



 けれども心配はないだろう。


 僕に山登りの趣味はない。


 それに、ここは都会の真ん中だ。そもそも山がない。


 だから僕はなにも気にせず、帰路を急いだ。


 ここから家に向かうなら、上野公園を通ったほうが近道だろう。


 そうして雪が降るなか、木々に囲まれた坂道を進んでいく。


 しかし、妙な違和感があった。


「……やけに人が少ないね」


 というより、一人も見当たらない。


 いきなり振り出した雪のせいだろうか?


 不思議に思いながらも、歩みを進めていく。


 歩いて、歩いて、歩いて……さらなる違和感に襲われた。


「道が……終わらない?」


 いつまで歩いても、公園から出ることができない。


 どこまでも道が続いている。


 雪は徐々に積もり始めていた。


 それだけの時間、歩き続けても出口が見えてこない。


 上野公園は決して小さくはないけれど、そこまで広大でもない。


 明らかにおかしい。


 いったん足を止めて、周囲を見回してみる。


「これは……?」


 積もり始めた雪に、足跡がついていた。


 小さな、はだしの足跡。けれども、人間のものとは思えないほどに小さい。


 その足跡からは、僕のよく知る気配が漂っていた。


「あぁ、そうか」


 どうやら捕まったらしい。


「そういえば、上野公園は高台だったね」


 上野の街のなかでも、上野公園は土地が一段高い。


 この公園は、上野台と呼ばれる台地に作られた。


 そのことから「上野の山」と呼ばれることもある場所だ。



 初雪の山に登ってはいけない。


 そこには様々なモノが集ってしまうから。



 注意していたつもりだったけど……これは盲点だった。


「――来たね」


 気づけば、僕の周囲には複数の影があった。


 ゆらめく黒い影が、僕を取り囲んでいる。


 形はなく、向こうが透けて見える。


 とても弱々しく揺らめている。


 これらがなんなのか、すぐにわかった。


「君たちは、付喪神……のなりかけだね」


 もう少しで付喪神になるモノ。


 しかし、まだ力が足りないモノたち。


 彼らから敵意は感じられない。


 当然だ。これらに人を害する意思はない。


 ただ知りたいのだろう。ヒトというものを。


 理解したいのだ。人に近づくために。


 人の形になって、人に言葉を届けるために。


「いいよ、語り合おうか」


 僕の返事に、影たちは歓喜するように揺らいだ。


 仕方ない、受け入れよう。


 これもヒトとモノをつなげるための行いだ。


 ただひとつ、不安があるとすれば、あまり厚着をしてこなかったことだろうか。




 結局、あれらが僕を解放したのは翌朝のことだった。


 そして、僕は風邪を引き、数日間寝込む羽目になった。


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