【幕間】いつか君に、ありがとう
――ありがとう、と伝えたい。
わたしは彼に感謝している。
こんなわたしを置いてくれている。
こんなわたしにごはんを用意してくれる。
こんなわたしに話しかけてくれる。
彼のおかげで、どれだけ救われたか分からない。
彼がいなければ、わたしはいま生きてはいないはずだから。
だから、わたしは彼に伝えたい。
ただ一言。
ありがとう、と。
***
六畳一間キッチン付き、それが彼の暮らす家。
家具は少なく、部屋の中央に小さなちゃぶ台。
小さな洋服ダンスと、本が並ぶ棚がひとつ。
それだけ。
とても質素な部屋。
そんな部屋で、今日もわたしは彼の帰りを待っている。
何をするでもなく。
ちゃぶ台に頭をもたげて、気だるげに。
――ガチャリ。
と、鍵が開く音がした。
彼が帰ってきたようだ。
扉が開く。
「ただいま」
彼は疲れた声とともに帰ってきた。
学校が終わった後、そのままアルバイトに行く彼は、高校の制服のままだ。
「おかえりなさい」
彼の疲れを癒すことはできないけれど、少しでもわたしの元気をわけられるように笑顔で出迎える。
けれど、わたしはわたしで疲れていた。
というのも、とっくに夕飯の時間を過ぎている。
これは由々しき事態だ。
「ねぇ、ごはんは?」
尋ねても、彼はわたしと目を合わせてくれない。
まっすぐにキッチンへと向かい、持っていたスーパーの袋から食材を取り出していく。
「お腹すいたよな? すぐに用意するから」
「――」
わたしは無性に嬉しくなった。
すぐ、ではなかった。
夕飯ができるまで、小一時間かかった。
できあいの物を買えばいいのに、彼は節約のためにどんなに疲れていても自炊を欠かさない。
もうちょっと楽をしてもいいと思う。
「できたよ」
ちゃぶ台の上にはオムライスが二人分用意された。
彼の得意料理だ。
「ありがとう! いただきます!」
手を合わせて、すぐにオムライスを口に運ぶ。
とても美味しい。
「……美味いか?」
「美味しいよ! すごく!」
答えながらも、オムライスを食べる手は止めない。
お腹がすいているのもあるけれど、彼のオムライスを熱々の美味しい状態で平らげたかった。
わたしの食べっぷりを見て、彼は優しく微笑む。
「そうか。美味しいならよかった」
「……?」
よくわからないけど、少しだけ彼が元気になった気がする。
それはとても嬉しいことだ。
オムライスが美味しいくらいに、嬉しい。
「――」
ふと、気づく。
彼は自分のオムライスに手をつけていない。
「ねぇ、どうしたの? オムライス、冷めちゃうよ?」
彼のオムライスは冷めても美味しいけれど、やっぱり温かいほうがいい。
少し待ってみたけど、やっぱり彼の手は動かない。
疲れているのかな?
でも、彼の表情からは別のものを感じる。
なにか悩んでいるような……?
不思議に思って、わたしも食事を止めていた。
減らなくなったオムライスを見て、彼も決意を固めるように一つうなづく。
「――なぁ」
意を決したように、ゆっくりと口が開かれた。
「俺は……君がここにいてくれて感謝しているよ。一人になったのに、一人じゃないような気になれた」
「……」
いきなり、どうしたのだろう?
「いつでも俺の帰りを待ってくれてるし……ごはんも一緒に食べてくれる。君がいなかったら、俺はおかしくなってたかもしれない。本当に、とても感謝してるんだ」
そんな風にはっきり言われると、少し照れてしまう。
でも――
「だから、そろそろ俺の前に姿を出してくれないか?」
彼の目は、私には向けられていない。
視線の先にあるのは、棚の上に置かれた赤い小さな飾りグシ。
去年亡くなった彼の母親の形見。
「――」
真剣に待っている彼。
でも……けれども、彼の瞳がわたしを写すことはない。
「……やっぱり駄目なのか」
悲しそうなつぶやき。
「ただ、君の目を見て、お礼が言いたいだけなんだけど……」
そんな顔をしないでほしい。
わたしだって――
視界がゆがむ。
頬を温かいものが流れた。
「わたしだって、君にちゃんと会いたいよ」
でも、それはできない。
まだわたしには、そこまでの力がないから。
「わたしだって、君と話したい。わたしだって、君に感謝してる。わたしだって、お礼が言いたいよ」
だから――
「もう少し待ってて。きっと……いつか、君と話せる日が来るから」
何年かかるか、何十年かかるかわからないけれど……君が待っていてくれるなら――
「俺、待ってるから」
「――!?」
「何年でも、何十年でも……とりあえず死ぬまでは待ってみるから。気が向いた時にでも出てきてくれたら、嬉しいかな」
「……」
一年後には、彼の気が変わっているかもしれない。
本当にいつまでも待ってくれるとは限らない。
でも、その言葉はとても嬉しかったから。
だから、より一層強い決意で、わたしは宣言する。
「いつかきっと君に伝えるよ――ありがとう、って」