終の工房
終わりは必ずやってくる。
すべてのモノに終わりがある。
それは避けられない。
いつかは受け入ればなければならない。
けれど、遠ざけることはできる。
終わりを先延ばしにすることは、決して悪いことではない。
***
ここ一週間ほどで、ずいぶんと肌寒くなってきた。
個人的な話をするなら、この季節が一番心地いい。
もうすぐ冬だと感じられる冷たい空気が好きだった。
出したばかりの上着を羽織って、小さな包みを抱えて、僕は家を出た。
「――」
自宅がある商店街を進んでいく。
目的地は商店街の外れだ。
表通りをしばらく進んで、そろそろ商店街が終わりというところで横道に入る。
そこから何度か狭い角を曲がっていくと、その店があった。
古い小さな木造の一軒家。
外観だけでは、お店とはわからない佇まい。
けれど、入口には小さな看板が出ている。
――思イ出 修理シマス
何十年も前に書かれた、かすれた文字。
古い木製の扉を開く。
――ちりん
小さく、ドアベルが鳴った。
扉の向こうは土間になっていて、その奥には座敷がある。
座敷には一人の女の子がいた。
前のめりに座り込んで、なにか作業をしているようだが、ドアベルの音に反応して顔を上げる。
「いらっしゃい」
落ち着いた声。
しかし、その外見はとても若い。
僕よりいくつか年下なのだから、当然だ。
若草色の着物姿に、大きな羽織を肩からかけている。
その着物は着古したものなのかよれよれで、セミロングの髪は適当にひとつにまとめられているだけ。
とても人前に出る格好ではないだろう。
そんな女の子は僕の顔を見ると、わずかに浮かべていた愛想笑いを消した。
「なんだ、君か。何か用?」
「ひどい対応だね。これでもお客なんだけど」
「ということは、また修理?」
僕は返事をする代わりに、持ってきた包みを掲げて見せる。
彼女は神妙にひとつ頷いた。
「君が持ってきたってことは……付喪神か」
理解が早くて助かる。
――付喪神。
長い年月を経て、意思を持った道具たち。
神霊の一種だと思ってもらえると、わかりやすいかもしれない。
しかし神霊とは言っても道具である以上、壊れることもある。
それはつまり付喪神にとっての死だ。
けれど人間が怪我を治療できるように、付喪神も壊れた部分を直すことができる。
特殊な知識と技術が必要だけれど。
「――」
もちろん、僕にはできない。
僕はただの骨董屋だから。
そこで彼女の出番だ。
この子は、どんなモノでも直すことができる。付喪神であろうと。
「いつくらいに直せるかな? 急ぎではないんだけど」
「数日はかかるかな。いま依頼が立て込んでるんだ」
作業に戻りながら、彼女は続ける。
「ちょうど一件終わるところだから、ねじ込もうと思えばねじ込めるけれどね」
「いや、順番は守るよ」
彼女が直しているのは懐中時計だった。
分解された部品をひとつひとつピンセットではめ込んでいく。
蓋をして、ゼンマイが巻かれた。
カチコチと時計が時を刻んでいく。
「……うん。まぁ、こんなものかな」
一息ついて、懐中時計に優しい笑みを向ける。
「よかったね。お前はまだ動けるよ」
けれど、それは一瞬のことで、無表情に戻ると懐中時計を箱にしまう。
そうして改めて僕のほうに向きなおった。
「久々に来たんだ、上がっていきなよ。お茶と菓子は奥にある」
「……」
勝手に取ってこい、ということらしい。
もてなす気のない彼女は、作業に戻っていく。
まぁ、彼女のこの態度はいつものことだ。
僕も慣れたもので、特に気にすることなく座敷へ上がる。
「――」
そこは完全に、ただの仕事場だ。
修理に使う道具があちこちに転がっている。
そして、簡素な棚がふたつだけ。
片方は修理を終えて、受け取り待ちとなっている物を置くために。
もう一つにはこれから修理する物が並べられている。
修理待ちは、かなりの数だった。
「忙しくしているみたいだね」
「お陰様でね」
答えながら、もう次の修理を始めるつもりらしい。
彼女は棚から木箱を取った。
そして蓋を開けようとした時だった。それが起きたのは――
――空気が変わった。
視界が歪む。
畳も壁も天井も、ねじれて曲がっていく。
めまいに似た感覚。
けれど、これはめまいではない。
本当に空間が歪んているのだから。
「――」
それに続くように、木箱がガタガタと揺れ始めた。
激しく揺れる木箱は、それを持っていた少女の手を逃れて壁際へ移動していく。
「これは……?」
困惑する僕だったが、彼女は冷静だった。
「ただの神通力だよ。慌てるようなことじゃない」
神通力。
一部の付喪神が持つ、不思議な力。
「でも……これは強すぎる」
あちら側の空気が周囲を満たしていた。
土間のほうを振り返るが、真っ黒な闇が広がっていて出られそうにない。
閉じ込められたというよりは、座敷を現実から切り離された感覚だ。
あちら側に引き寄せられてしまったのだろう。
このまま完全に飲み込まれたら、現実には戻ってこられない。
「…………」
そんな危機的状況なのに、彼女は慌てる気配がなかった。
「付喪神の修理をしていると、たまにこういうのが混じってるんだよ」
「冷静すぎないかな?」
「慣れているからね」
彼女は立ち上がると、壁際に逃げた木箱へ足を進める。
この状況は、箱の中にいる付喪神が原因だ。
解決するには、あれをどうにかするしかない。
けれど、原因だからこそ、迂闊に近づくのも危険だ。
――空気が揺れた。
「……っ」
彼女の肩から羽織が落ちる。
同時に、腕からわずかに鮮血が飛んだ。
浅いようだが、大きな切り傷ができている。
けれど、彼女はかまわず歩を進める。
「――っ」
一歩進むごとに、傷が増えていく。
「ちょっと――」
「大丈夫。慣れてるから」
いや、慣れの問題ではない。
血が出ているのに大丈夫なはずがない。
それに、この状況も異常だ。
付喪神が人間に危害を加えている。
基本的に付喪神が人を害することはない。
なのに、目の前では確かに彼女が傷つけられている。
何が起きているのか、さっぱりわからない。
僕が理解できていない間にも、彼女は歩みを進める。
「大丈夫、安心して」
それは僕に向けた言葉ではなかった。
「怯えることはないよ。私はお前を壊したいわけじゃないから」
一歩進む。
腕の傷がひとつ増えた。
「……あまり無理しないほうがいいよ。このままだと本当に壊れてしまう」
さらに一歩。
頬から血が流れる。
彼女は怒ることも憤ることもなく、ただ無抵抗を示すように両手を広げた。
「ほら、私はお前を傷つけない。だから落ち着いて」
もう一歩踏み込む。
両腕が何ヶ所も切り付けられる。
それでも彼女は揺るがない。
「私はただ、直したいだけなんだよ」
最後の一歩。
今度は、何も起きなかった。
「そうそう、大人しくしてな」
彼女は優しい手つきで木箱を持ち上げる。
「……」
気づけば、部屋を満たしていた異質な空気がなくなっていた。
土間の方を見ると、暗闇も消えて元通りになっている。
どうやら戻ってこられたらしい。
木箱を抱えた少女が、疲れた表情でこちらを振り返る。
「巻き込んで悪かったね。でも、もう大丈夫だから」
「いや、大丈夫ではないだろ」
「ん? まだ何かあったかな?」
本当にわかっていない様子に、僕は彼女の腕をつかんだ。
「こんなに血を流して、大丈夫もないよ」
彼女の体は傷だらけだった。
すべて浅い傷のようだが、放置はできない。
「いいよ、このくらい」
ダメに決まっている。
まずは手当てが必要だ。
救急箱の場所は知っている。
彼女の手を引いて、無理矢理奥の部屋に連れていった。
不服そうな女の子を座らせて、手当てを進める。
僕は包帯を腕に巻いてあげながら、彼女の説明を受けていた。
「たまにいるんだよ。捨てられたと勘違いする付喪神が」
「修理ではなく、処分されるためにここに持ってこられた、と?」
「そういうこと。そりゃあ、処分されそうになったら、付喪神だって抵抗するよ」
なるほど、人に危害を加えないはずの付喪神が彼女を攻撃した理由はわかった。
だとしても……
「もうちょっと穏便な方法はなかったのかな?」
「ああしたほうが手っ取り早いんだよ」
彼女が言うなら、そうなのだろう。
こういう事態はよくあるようだし。
よくある、ということが問題だけれど。
「相手は神様なんだから、気を付けてくれよ」
忠告のつもりで告げる。
けれど、彼女からは呆れた声が返させた。
「そっくりそのままお返しするよ。私より君の方がよっぽど危険じゃないか」
「…………」
否定はできない。
僕の店には何人も付喪神がいるし、依頼があれば初対面の付喪神のところにも向かう。
命の危機に直面することも多い。
とはいえ、彼女が危険な立場にいる事実は変わらない。
それは本人もわかっているようで、諦観したようなため息を漏らす。
「お互い、いつ終わってもおかしくない道を選んじゃったからね」
「……」
僕も彼女も、他の道があったのに付喪神と関わる人生を選んだ。
そう、だからこれは仕方のないことだ。
けれど――
「どうせなら、終わりはなるべく遅いほうがいいよ」
「そう? 長生きしたところで、やることもないしなぁ……」
ぼんやりとしたつぶやき。
それはあまりにも達観しすぎている。
年頃の女の子とは思えない。
「何か好きなものはないの? このために生きている……みたいなものは」
「ないね」
即答だった。
「じゃあ、作ってみたら?」
「簡単に言うね。作ろうと思って好きなものができるなら、苦労しないよ」
「好きだと思い込むことが大事らしいよ」
最初は好きじゃなくていい。
これが好きなんだと決めて、それをご褒美として頑張る。
「そうしているうちに、本当にそれが好きになってご褒美になるらしい」
「へぇ……」
興味なさそうにつぶやいて。
しかし彼女は何か思いついたように声を漏らした。
「あぁ、それなら温泉がいいね。温泉は割と好きだから」
「それは……またずいぶんと手ごろじゃないものを選んだね」
「ご褒美にするなら、それくらいにしないと」
気持ちはわからなくもないけれど。
まぁせっかく彼女が話に乗ってくれたのだし、言い出した僕がすこしは協力してあげるべきか。
「じゃあ、修理の仕事がひと段落したら、僕が温泉に連れていくよ」
「いいの?」
少女が驚きに目を見開く。
「なんとなく温泉って言ってだけなんだけど……うん、それはご褒美になりそうだね」
そうして、にんまりと笑う。
「長生きすれば、何度でも君が温泉へ連れてってくれるわけか。それは頑張ろうという気になるね」
「何度も、とは言ってないけど?」
「どうせ君のことだから、頼めば連れてってくれるだろう? 君は甘ちゃんだからね」
「……」
答えに困った。
昔馴染みだけに、僕のことをよくわかっている。
苦い顔をしていると、彼女のほうは楽しそうな笑みを浮かべていた。
「私にご褒美をあげるために、君もなるべく長生きしておくれよ」
「……仕方ないね」
自分で言い出したことなのだから、覚悟を決めよう。
まぁでも、僕にも理由は必要だ。
なにがなんでも生き残るという理由が。
それが、彼女を温泉に連れていくというのは、なんとも納得しがたいけれど。
それでも何もないよりはいい。
この理由を糧に、もう少しだけ頑張ってみよう。と、そう思うことができた。




