君の涙を止めたくて
気がつくと、小さな神社にいた。
お正月で、いつもより人の多い神社の鳥居に。
わたしが誰なのか、ナニなのか――
意識がぼんやりして、よくわからない。
芽生えたばかりの自我は、夢の中のようにあやふやで。
どうしようもない不安感だけが、わたしを満たしていた。
ここはどこで、わたしはダレなの?
答えがほしくて、周りの人たちに声をかける。
けれど、誰も応えてはくれない。
何度話しかけても、返事すらくれない。
誰とも目が合わない。
わたしのことを認識してくれない。一人たりとも。
まるで、わたしがこの世に存在していないように。
嫌だった。
悲しくて、哀しくて、寂しくて、不安で。
気づけば涙がこぼれていた。
声を上げて泣き続けた。
それでも、やっぱり誰もわたしに気づいてくれなくて。
こんなに辛い思いをするくらいなら、本当にこの意識ごと消えてしまいたい。
そう思った時だった。
目の前に手が差し出される。
――大丈夫? どうかしたの?
彼の優しい言葉が、わたしを包み込んで――
余計に涙が止まらなくなった。
***
元旦の夜。毎年、同じ夢を見る。
神社の入口で、ひとりの女の子が泣いていた。
小学生くらいの幼い女の子。
古風なおかっぱに、鮮やかな刺繍が施された赤い着物姿で。
左手には不思議な光を放つ手毬がにぎられて、右手はずっと涙をぬぐっていた。
僕はその子の涙を止めてあげたくて、
「――大丈夫?」
そっと手を差し出して、必死に彼女を慰めようとする。
けれど、彼女の涙を止めることはできなくて。
なんだかこちらまで悲しくなってくる。
目の前で泣いている女の子ひとりも救えない自分が、ひどくちっぽけな存在に感じられて。
自分の無力さに打ちのめされて――
そこで目がさめた。
「…………はぁ」
意図せずにため息が漏れる。
この初夢を見るようになって、何年目だろうか。
きっとあの時の失敗をいまでも引きずっている証拠なのだろう。
「……」
とはいえ、それが悪いこととは思えない。
過去の失敗から学ぶのも大事なことだ。
この夢のおかげで、同じ失敗を繰り返さないという想いが強くなる。
だから今年も会いに行こう。
過去の自分と向き合うためにも。あの時のことを忘れないためにも。
そうして僕は、夢で見た神社へ向かった。
自宅から徒歩数分の神社へ。
僕の家がある商店街は上野からほど近い。周囲にはたくさんの神社やお寺がある。
少しだけ遠出をすれば、浅草寺にだって簡単に行ける。
けれど、それでも僕の初詣は毎年決まって、そこだった。
あの失敗から、毎年。
夢で見た、泣いている女の子のことを思い出しながら歩いていくと、すぐに鳥居が見えてきた。
その鳥居にもたれかかるようにして、彼女が立っている。
古風なおかっぱ、赤い鮮やかな着物姿で、左手には不思議な光を放つ手毬が。
夢の中と変わらない、小学生くらいの女の子がつまらなそうに佇んでいる。
「お久しぶりです」
そっと近づいて、声をかける。
女の子はびっくりしたようにこちらを見て。
僕の姿を確認すると一気に表情が明るくなった。
無邪気な子犬に似た印象を受ける。
「わ、わっ! 今年も来てくれたんだ!」
「もちろん。神主さんに新年のご挨拶をしないといけないので」
それに、と付け加えて、
「君とも話がしたいですから」
「――っ」
女の子は嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。
動物のようなしっぽが付いていたら、きっと左右にぶんぶんと振っていただろう。
「あなたとのおしゃべりは大好き! 誰も話し相手になってくれないんだもん」
「なってくれないというより、話し相手になれないというのが正確ですけどね」
「うん……そうなんだよね」
彼女は不満そうな表情で、社に目を向ける。
「ここの神主さんもわたしのことは見えてるみたいだけど、お話はできないし……」
「あの人の体質は、そこまで強くないですからね。仕方ないですよ」
彼女たち、人ならざるモノと交流できるヒトは限られる。
せめて――
「君が自由に動ければ、話し相手も増やせるんですが」
「それは無茶だよ」
彼女は悲しそうに断言する。
そう、無理な話だろう。
彼女は神社を守るために存在している。そういうモノの付喪神だ。
付喪神は本体であるモノの性質を強く残すことがある。
神社を守らなくてはいけない彼女は、ここから出ることができない。
「あなたがもっとたくさん会いに来てくれたら、話し相手には困らないんだけど」
女の子は寂しそうにつぶやく。
「すみません。僕も割と忙しくて……」
謝罪しながらも、彼女の不満は取り除いてあげたかった。
「でも、そうですね。なんとか時間を作って、なるべく会いに来ますよ」
そう告げると、彼女はすこしだけ慌てた様子で、
「ご、ごめんね。催促したみたいになっちゃって……別に無理はしなくていいから」
「無理というほどでは。すこし時間を作るだけですし」
「ほんとにいいから! あなたに迷惑はかけたくないし……」
喜ぶかと思ったけれど、なぜか申し訳なさそうな顔をさせてしまった。
また失敗してしまったのかもしれない。
彼女と話すのは意外と難しい。
この子のことを思って行動したのに、困らせてしまうことがよくある。
「君はもっとワガママになっていいと思いますよ」
「ワガママ……無理だよ。だって……」
そこで彼女は口をつぐんだ。
続く言葉を聞くことはできない。
無理に聞こうとは思わない。
だって、彼女が泣きそうな顔をしているから。
「すみません。変なことを言ってしまったみたいですね」
「う、ううん……あなたは悪くないよ。わたしのほうこそ、ごめんなさい」
あぁ、ダメだ。また失敗している。
彼女を悲しませたいわけではないのに、どんどん話題が暗くなる。
僕は彼女の顔色をうかがって、彼女のほうも僕の顔色をうかがっている様子だった。
お互いがお互いを気にしすぎて、うまくかみ合わない感覚。
やっぱり僕は全然成長できていないのだな、と思い知らされる。
「――」
ため息をつきたい気分だ。
そんな僕の顔を見つめていた彼女が、意を決したように拳をにぎる。
「あ、あの……っ!」
今日一番の大きな声は、しかしすぐに弱々しくなっていく。
「……あの……あなたに話さなきゃいけないことがあるんだ」
「僕に? なんですか?」
「それは、その……」
ためらい、迷い、なかなか次の言葉を続けられない様子だった。
「言いづらいことなら、無理に言わなくても――」
彼女の困っている姿を見たくなくて、そう言葉をかけたが、
「ううん! 言う! 伝えなきゃ……ダメ、だから」
そう言う割には、まだ迷っている印象で。
けれど、彼女はひとつうなずくと、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「あの、初めて会った時のこと、覚えてる?」
「……もちろん」
忘れるはずがない。
毎年夢に見ているのだから。
「そのことで、ずっと謝りたいって思っていたの」
「謝る? 君が?」
なにを謝るというのだろう。
あの時、僕は泣いている彼女を慰めることができなかった。
謝罪が必要なのは僕のほうだ。
「だって……いっぱい泣いて迷惑をかけちゃったから」
「迷惑だなんて思ってませんよ」
本心からの言葉だった。だって――
「僕は君に何もできませんでしたから」
涙を止めることも、悲しみを消すこともできなかった。
後悔を込めた言葉に、彼女はわずかに顔を伏せる。
「……やっぱり……そう思ってたんだ」
小さなつぶやきは、悲しく響く。
「あれから、あなたがたまに会いに来てくれて……話し相手になってくれて嬉しかった」
弱々しい声が、わずかに明るさを取り戻していく。
「わたしのことを気づかってくれて嬉しかった」
でも、と彼女は続ける。
「初めて会った時のことを気にしていることも、なんとなく気づいてて……あなたはわたしに気を使いすぎてるから」
気にしているからこそ、会いに行っていた。
それは否定できない事実だ。
「だから、これは本当は言いたくなかった。だって、もう会いに来てくれなくなるかもしれないから」
彼女は何を言っているのだろう?
何を言おうとしているのだろう?
僕が会いに来なくなる?
そんなことが起きるほどの何かを、彼女は抱えているというのか。
どうにも信じられない。
けれども、彼女の表情は真剣そのもので。
「だけど、このままあなたを困らせるのはもっと嫌だから……言うね」
覚悟を決めるように、大きく息をつく。
そうして彼女は僕の目をまっすぐに見つめてきた。
「わたしは、あなたに救われてたんだよ」
彼女が打ち明ける。
「あの時、わたしは嬉しくて泣いてたんだ」
誰も気づいてくれない。
ひとりも自分を認識してくれない。
「そんな時に、あなたが声をかけてくれて……とても嬉しくなって、余計に涙が止まらなくなっちゃったんだ」
だからあなたは悪くない、そう告げられた。
「あなたはもう、わたしを充分に救ってくれてたんだよ」
「……」
それは予想外の事実だった。
僕はずっと「失敗してしまった」と思っていたのに。
それが勘違いでしかなかった?
あまりの衝撃に、僕は……
「――はは」
乾いた笑いを漏らしていた。
何年もの間、ずっと思い違いをしていたなんて。
気の使いどころを間違えて、最初以外はずっと失敗していたようなものではないか。
失敗を恐れて、何年も真実が見えていなかった。
やっぱり僕はまだまだだ。全然うまく立ち回れていない。
自分の未熟さに呆れていると、彼女は心配そうな目を向けてくる。
「あの……わたしのこと、嫌いになった?」
「――」
彼女をまた困らせてしまっている。
僕が変な勘違いを続けていたせいで。
まったく、本当にどうしようもない男だと思う。
もう手遅れかもしれないが、すこしでも挽回したくて、なるべく優しい声で応える。
「まさか。君を嫌うなんて、ありえませんよ」
嫌うとしたら、自分自身だろう。
愚かな自分が、何よりも憎らしい。
そんな僕の返事に、彼女の表情がやっと明るくなった。
「また会いに来てくれる?」
「もちろん。これまで通り、話し相手になりますよ」
彼女と会う意味は変わらない。
失敗から学ぶのは大事だ。同じ失敗をしないように。
彼女のことが心配であることも、変わりはない。
だから定期的に様子を見に来よう。
数年越しの打ち明け話には驚いたけれど、僕の行動はなにも変わらない。
「ただ――」
おそらく、あの初夢を見ることは、もうないだろう。




