忘れ去られるモノたち
――ここにいるよ。
小さな声で叫び続ける。
決して忘れられたくない、と。
強く存在を主張するように。
***
暦のうえでは秋になったけれど、まだまだ残暑が厳しい。
今朝も、真夏といっていいほどに暑い。
そんな熱気にうんざりしながら、僕は自宅の庭で、ある作業をしていた。
すると、ふいに背後で声があがる。
「なにをしておる?」
若い女性の声。しかし、その口調はどこか老成している。
ご老人の知り合いは多いけれど、こんな若い声となると、思い当たる人物は一人しかいなかった。
その声の主に答えようと、振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。
人間は、誰もいない。
代わりに、一匹の白猫が縁側からこちらを見つけていた。
その白猫がわずかに口を開く。
「この暑い日に、わざわざ日差しの下に出るとは……ヒトというものは理解できんな」
さきほどの若い女性の声。
僕に声をかけたのに、彼女だ。
猫の付喪神。
うちの飼い猫であり、僕の保護者のような存在でもある。
まぁ保護者らしいことは、ひとつもしてくれないけれど。
彼女はのんきにあくびをすると、さきほどの問いを繰り返した。
「で、なにをしておる?」
「菊にかぶせていた綿を取っているんだよ」
答えながら、ついさきほど集めた綿を差し出すようにして見せる。
朝露でわずかに水気を含んだ綿を。
「きく? わた?」
白猫が首をかしげる。
なぜ僕がそんなことをしているのか、理解できなかったのだろう。
たしかに菊の花に綿をかぶせておくなんて、普通なら誰もやらない。
しかしそれなりに知識のある猫だ。すぐに納得するように、ひとつうなずいた。
「ふむ、今日は九月九日。重陽の節句じゃったな」
「そう。あまり大仰なことはできないけど、おじいさんの見様見真似でね」
なくなった祖父は、年中行事を大事にしていた。
ならば僕もそれを引き継ぐべきだろう。骨董店を引き継いだのと一緒に。
それなりに重い気持ちでいる僕に、猫は二度目のあくびをした。
「とはいえ、重陽の節句とはなにをするのだったか?」
「……毎年しているはずだけど?」
「わしが覚えておるはずなかろう。猫は忘れっぽい」
重陽の節句と気づいておいて、よく言う。
呆れる僕に、猫は言い訳をするように続けた。
「それに、重陽の節句など世間的にはあまり知られておらんだろう」
「まぁ……確かに」
他の節句に比べれば、知名度は低い。
一月七日の人日。
三月三日の上巳。
五月五日の端午。
七月七日の七夕。
そして九月九日の重陽。
ひな祭りにこどもの日、七夕は有名だし、知らない人はいないと思う。
人日も七草粥の日といえば、多くの人に伝わるだろう。
けれど、重陽はあまり一般的ではない。
なにをするのかと聞かれて、答えられる人も少ないはずだ。
「本来なら、五節句の中でもかなり重要なものなんだけどね」
「九だからか?」
さすが、忘れっぽいとはいえ知識だけは豊富な猫だ。的確な答えを返してきた。
「そう。奇数は縁起がいいとされている。その中でも一番大きい奇数は九だからね」
同じ奇数が重なる日は、特に縁起がいい。
ただしそのぶん災いに転じやすいとも言われている。
だから厄払いの意味もあって、節句の祝い事が行われる。
その考えなら、一番大きな奇数である重陽の節句こそ、気にかけなければならない。
「…………」
とはいえ、僕自身もそこまで考えて準備を進めているわけではない。
あくまでも祖父がしていたから、真似ているだけだ。
付喪神が見えている分、他の人よりも信心深いつもりだけれど、それも少しの違いでしかない。
クリスマスにケーキを食べるけれど、キリストの誕生日を祝わない日本人的な考え方と言えばわかりやすいかもしれない。
そういう行事があるから、とりあえずやっておこう。というわけだ。
「で、重陽にはなにをするのかのう?」
繰り返された猫の問いに、僕はさきほど集めた綿を見せた。
「菊についた朝露を綿にしみこませて、その綿で体をふくんだよ」
「なぜ、そのようなことをする?」
「菊の薬効がしみこんで、無病になるそうだよ」
「菊そのものを食べたほうが早そうだのう」
確かに、その通り。
「実際、食べもするよ。一番多いのは菊酒だね」
「菊を漬けた酒か。それはうまそうじゃ」
「まぁ、僕は未成年だから用意していないけど」
「なぜっ!?」
「だから、僕は未成年だと――」
「わしが飲む」
「あぁ、そうだったね」
猫にアルコールはダメだけど、彼女は付喪神だ。普通の猫とは違う。
神様の一種だけあって、酒はかなり好んでいるらしい。
この家には未成年の僕しかいないから、基本的にはお酒はおいていないけれど。
「菊酒がないなら、どうやって菊を食すというのか……」
心底、絶望したような顔を向けないでほしい。
「そこは普通に食べればいいでしょう。おひたしとか」
「ふむ……それはそれで良さそうじゃ。わしのぶんも用意せよ」
「え? 猫に菊は有害だよ?」
「わしはその辺の猫ではない。食べても問題なかろう……たぶん」
本人も自信はないらしい。
とはいえアルコールもいける猫だ。意外と平気かもしれない。
もし問題があっても、しゃべれない猫と違って彼女は体調の変化を伝えることもできるし。
本人が望むのなら、とりあえず準備だけはしておこう。
「わかったよ。ただし、一気に食べないこと。一口食べて問題なければ、ということで」
「うむ、それでかまわん」
機嫌よくうなずいた猫は、鼻歌でも歌い出しそうな笑みを浮かべていた。
「こうなってくると、存外興味が出てきた」
「そうは言うけど、お酒と食べ物につられただけだよね?」
僕の指摘に、白猫はあからさまに視線をそらした。
「そ、そんなことはない。ちゃんと重陽の節句そのものにも興味を持っておる。嘘ではないぞ! わしをそんな食い意地が張っているだけの猫だと思うでない」
取り繕うようにまくし立てて、猫は真面目なふりをして、こほんと咳をひとつ。
「それで……綿で体をぬぐい、菊を食す。これでおしまいか?」
そんな猫の様子がおかしくて、笑うのをこらえながら僕は返した。
「厳密にはもっといろいろあるんだろうけど、うちでやるのはそれくらいだね」
答えてから、ふと思い出して続ける。
「いや、あともう一つだけ。あるものを部屋に飾るよ」
「あるもの?」
「これから蔵に取りにいこうと思っていたんだ」
「ふむ……どんなものか気になる。わしも付き合おう」
これは取り繕うためではなく、本当に知りたい様子だった。猫はわりと好奇心旺盛だから。
そういうわけで、僕と一匹の猫は連れ立って庭のはじにある蔵へ向かった。
蔵というよりは物置といったほうがいいような、小さな蔵へ。
鍵を開け、重い扉を引き開ける。
たくさんの道具が雑然と納められている蔵へ、一歩踏み込む。
「――」
ひんやりとした空気が、体を包んだ。
まるで異界に迷い込んだような感覚。
もちろんただの比喩だが、あながち間違ってもいない。
ここに納められている道具は、普通のモノではないのだから。
「さて、どこにやったかな?」
目的のものは重陽の節句にしか使わない。
つまり前に出したのは、ちょうど一年前だ。
どこにしまったのか、見当もつかない。
「これは大捜索になりそうだね」
僕の発言に、白猫は呆れたような声を上げた。
「なにを言うておる。自分から出てきてもらえばよかろう」
「……あぁ、それもそうか」
失念していた。
どうも僕は、彼らに頼ることを忘れてしまう。
普段ならば僕は彼らの相談を受ける側だから。
しかし、こういう時くらい、たまになら頼ってもいいだろう。
「すこし、いいですか?」
蔵全体に問いかける。
返事はないが、そのまま続けた。
「茱萸嚢を探しているんです」
本人が名乗り出てくれるのが一番だが、
「……」
返事はなかった。
おかしい。彼女は比較的、心を開いているはずだったけれど?
もう少し、待ってみるが、やはり返事はない。
すると、見かねたのか、あちこちから小さな声が上がり始めた。
――もっと奥にいるよ。
――こっちにはいないよ。
――あっちじゃないかな?
協力的なモノたちの声に導かれて、ゆっくりと場所が特定されていく。
――いたよ、こっち。
最後の声に連れられて、棚の奥をのぞき込む。
そこに、小さな袋を見つけた。
中身がつまった、古めかしい赤い布袋を。
「ありがとうございます。思ったより早く見つかりました」
蔵全体へお礼を言ってから、その袋をそっと拾い上げる。
すると直後に、袋が震え、白い煙を吐き出した。
霧のような煙は、徐々に一ヶ所に集まり、ヒトの形になっていく。
そうして、僕の目の前に小さな女の子が現れた。
おかっぱ頭で、赤い鮮やかな着物を着ている。
座敷童と聞いてイメージするような、そんな女の子が。
彼女はびっくりしたように目をまたたかせる。
「わ、わたしに用だったんですか……?」
信じられないといった様子だ。
「蔵に入ってきたときに、そう言ったと思いますけど?」
「だって……わたしが使われることなんてないから……」
「…………」
否定はできない。日常的に使うモノでないのは事実だ。
「そやつは?」
僕を追ってやって来た白猫が、首をかしげる。
この猫も毎年会っているはずなのだが。
「そ、そうですよね。わたしのことなんて、記憶にとどめておく価値もありませんよ」
そこまで卑下することもないと思うけれど。
ともかくまずは猫の質問に答えよう。
「彼女は茱萸嚢だよ」
「それはさっき聞いた。しかし茱萸嚢とは?」
「ゴシュユという植物の身を詰めた袋のことで、邪気を払ってくれるんだ」
僕の説明に、茱萸嚢本人が付け足す。
「という設定になっているだけです」
こういう伝承を設定と言ってしまうのは、どうなのだろう?
しかも言っているのが本人となると、咎めるのも難しい。
どうも彼女は自信がなさすぎる。
「今日は重陽の節句です。もっと堂々としていいんですよ。あなたを部屋に飾って邪気祓いしないと、重陽は始めりません」
「そうはいっても、そもそも重陽そのものが廃れているじゃないですか」
「……」
これも否定できない。
「重陽だって知ってる人は少ないんだから、わたしのことなんてもっと知られてません……」
――そのうち誰からも忘れられてしまうんだ。
そう悲しく告げる。
存在を忘れられた付喪神は、どうなるのだろうか?
消えてなくなる、ということはないはずだ。
神様や妖怪と違って、付喪神はヒトの信仰心で作られたモノではない。
ヒトへの想いから、モノが自発的に化けたものだ。
ならば、人々から忘れ去られても、付喪神は付喪神であり続けるだろう。
誰もその存在を覚えていないのに、存在し続けなくてはならない。
「それは……」
ただ消えてなくなるより悲しい気がした。
けれど、適当ななぐさめは言えない。
きっとそのうち日の目を見るとか、何かの機会に有名になるかも、なんて無責任なことを言ってはいけない。
彼女だって、そんな言葉は求めていないはずだ。
だから僕が口にできる精一杯のことを伝えよう。
「少なくとも、僕は覚え続けますよ」
死ぬまで忘れない。
そして可能な限り、伝え残す。
それがモノを、文化を、伝統を守る第一歩だと知っているから。
僕の言葉に、彼女は――
「一人のヒトが覚えていてくれても、たいした意味はありません」
「――」
なかなかに辛辣だった。
だいぶ、こじらせているらしい。
けれどもしかし、彼女はふと頬を緩めて、
「でも、ちょっとだけ嬉しかったです」
一瞬のことだったが、その身にまとう着物のような、鮮やかな笑みを見せてくれた。




