親愛なる君へ
――お盆に、海や川に近づいてはいけないよ。
人の言葉には、耳を傾けるべきだ。
古くから伝えられている忠言には、特に。
そこには先人たちの知恵がつまっている。
予期せぬ危機を回避するための手段を教え伝えるために。
長くヒトの営みを見てきたから、わかる。
それを無視してはいけないのだと。
親愛なるヒトの子たちよ、これはぼくからの忠告だ。
***
それは小学生の時の、夏休み初日だった。
ふと、唐突に川が見たくなった。
僕の家は、上野にほど近い商店街の中にある。
ここからなら、近くに隅田川がある。おそらく東京でもっとも有名な川が。
自転車なら五分ほどだろうか。
歩いても二十分はかからない。
せっかくの夏休み。時間は持て余している。
どうせヒマなのだからと、歩いて行くことにした。
「――」
そして、すぐに後悔することになる。
あまりの暑さに、とけてしまいそうだった。
しかし一度出てしまったのだから、仕方ない。とりあえず目的は果たそう。
隅田川へ向けて、歩を進める。
すこし歩くと、不思議なものを見つけた。
郵便ポストの上に、女性が座っている。この暑い日に真っ赤なコートを着た、髪の長い女性が。
僕の視線に気づくと、女性が手を振ってきた。
「こんにちは」
あいさつされたので、僕も頭を下げる。
「こんにちは」
「ふふ、やっぱりキミには私が見えてるんだね」
笑って、女性の姿は消えてしまった。まるで煙のように。
「あぁ、なるほど」
どうやら付喪神だったらしい。
見た目は人と変わらないから、なかなか判別がつかない。
「――」
なぜだか、気が落ち込んでしまった。
僕には人に見えないモノが見える。その現実を突きつけられたようで。
付喪神が見えることは嫌ではない。むしろ嬉しい。
モノと会話できるなんて、素晴らしいことだと思う。
けれど、自分が他の人と違うという事実が、時に不安にさせる。
僕が見ているモノを共有してくれる人がいないのは、なんとなく寂しかったりする。
「……行こう」
すこしだけ沈んだ気持ちで、延々と足を進める。
黙々と歩いていくと、ほどなくして厩橋に到着した。
隅田川にかかる無数の橋の一本。
橋のたもとにある階段を下って、川沿いの道に出る。
あっさりと目標を達成してしまった。
「――」
ひとつ、深く呼吸をする。
隅田川は決して、きれいな川ではない。
もちろん空気だって、途端に良くなることはない。
けれど、なんとなく川沿いの空気というものは気分がいい。
落ち込んでいた気持ちが、持ち上がった気がする。
「帰ろうかな」
川に来ることだけを目的に、ここまで来た。
もうやることはない。
引き返そう。
そう思った時だった。
ぞくり、と奇妙な感覚に襲われる。
その感覚に導かれるように視線を移し、厩橋を見上げた。
「…………」
特に変化はない。おかしなところなど、どこにもない。けれど、不思議な感覚だった。
これはいったい?
疑問に首をかしげていると、
「付喪神になろうとしているね」
不意に、後ろから声をかけられた。
「え?」
声のしたほうへ振り返る。
そこに男の子がいた。
僕と同い年くらいの。深緑の着物を着流した古風な少年が。
「あの橋が、付喪神に?」
にわかには信じられずに聞き返すと、男の子は当然と言わんばかりにうなずいた。
「あと数年か、数日か……期間はわからないけど、付喪神になる前兆だね」
説明しながら、男の子が右手をあげた。ある一点を指さす。
「ほら、見てごらん」
促されるまま、視線を向ける。
厩橋に三つあるアーチのうちの中央、その上にありえないモノを見る。
馬がいた。
全身が緑色の、金属のような光沢を放つ、この世のものとは思えない馬が。
緑の馬は辺りを一瞥し、空を見上げると、煙のように消えていった。
「あれは……?」
「まだ人の姿になれないんだよ。あの時期は不安定だから、色々な姿をとることがある」
付喪神というものには、段階があるらしい。
知らなかった。
てっきり、ある日突然、人の姿になると思っていたから。
「厩橋だから、馬の姿をしていたのかな?」
そんな疑問をもらすと、男の子はおそらくと同意した。
「付喪神になりかけているときの姿は、自分の名前やあり方に影響を受けるからね」
「詳しいんだね、付喪神のこと」
「まぁな。それなりに語れるよ」
誇るわけでもなく、当然の事実を語るように淡々と言ってのける。
それから男の子は、僕の目を見つめてきた。
「君は見える人なんだね。珍しいな」
それは僕のセリフだ。
同年代で、付喪神が見える人は本当に珍しい。
加えて、彼は付喪神に関する知識も多いようだった。
僕よりも多くのことを知っている。
共通の話題がある。
それはとても大きな影響がある。
特に、これまで同じ視点で語れる相手がいなかった、僕のような人間にとっては。
彼と親しくなるのに、時間はかからなかった。
「また会えるかな?」
自然と問いかけていた。
「あぁ、ここに来てくれれば、大抵はいるよ」
彼の返事を聞いて、とても安心したのを覚えている。
その年の夏、僕は何度も隅田川へ行った。
川沿いの道に出れば、いつも彼に会えたから。
付喪神について、多くのことを語り合った。
僕の知らないことを、たくさん教えてもらった。
あの夏を経験していなければ、今の僕はなかったかもしれない。
それくらい多くのことを学んだ。
そうして彼と話す日々を送っていたのだが、ある日、
「明日から数日、ここには来ないほうがいいよ」
ゆっくりと告げられた。
「どうして?」
「お盆だからね」
「……あぁ」
そういえば、祖父に注意されたことがある。
お盆に海や川に近づいてはいけないよ、と。
どうしてなのは知らないけれど。
「じゃあ、お盆が明けたら、また来るよ」
「そうだね。その時に、また話そう」
その受け答えを最後に、僕は隅田川を後にした。
そして、翌日の僕はヒマを持て余していた。
彼に会えないとなると、途端にやることがなくなってしまう。
かといって、川に行くわけにはいかない。
理由はわからずとも、あの祖父の忠告は守っておいたほうがいい。
けれど、
「――」
ふと、川沿いに立つ彼の姿がちらついた。
彼はいま、どこにいるのだろう?
常に川のそばにいる印象がある。
僕には来るなと言ったが、彼は今日もあの場所にいるかもしれない。
「大丈夫だと思うけど……」
不安が胸を満たす。
もし彼が川にいて、それが祖父の忠告通りに危ないことだったなら。
じっとしてはいられなかった。
「……様子を見るだけなら」
そう、彼がいるかどうかだけ確認しよう。
もしいたら、すぐに川から遠ざける。
それだけなら、問題ないはずだ。
決意したら、行動は早かった。隅田川に向かって駆け出す。全速力で。
いま思い返すと、驚かされる。
家から目的地まで、止まることなく全力疾走していたのだから。
僕が足を止めたのは、厩橋のたもとだった。
荒くなった息を整えながら、階段を下っていく。
川沿いの道に出て、辺りを見回す。
そこに、彼はいなかった。
「よかった……」
ほっと息をつき、引き返そうとした時だ。
異様なモノを目にした。
隅田川から、黒い腕が生えていた。
一本や二本ではない。
数えきれないほどの腕が、ゆらめている。
まるで影を固めて作ったような黒い腕が。
「――――」
あれは危険だ。逃げなくてはいけない。
恐怖を抱いたときには、もう黒い腕が眼前に迫っていた。
四肢をつかまれ、口を封じられる。
無数の腕が僕の体をつかんで、川に引きずり込もうとする。
「――っ!」
すごい力だった。
声を上げることもできず、必死に抗っても、じりじりと川面が近づいてくる。
そして、一瞬の浮遊感に襲われる。
ばしゃん、と水の中に飛びこむ音が聞こえた。
苦しい。息ができない。
苦しい、苦しい、苦しい苦しい苦しい――
他になにも考えられなくなる。
全身を黒い腕につかまれているから、もがくこともできない。
「……あぁ」
このまま死んでしまうのか。
僕が諦めそうになっていると、覚えのある声が聞こえた。
――彼から離れるんだ。
いや、聞こえたというのとは少し違う。全身を振るわせるように、響いてくる。
まるで川の水全体が、そう主張するように。
その直後、黒い腕がいっせいに僕のもとを離れた。
やっと解放されたが、もう浮かび上がる力もない。このまま沈んでいくしかない。
「――」
だが、そうはならなかった。
疲れ果てた僕を支えてくれる人がいたから。
温かい手が、背中を押してくれる。
残された力で視線を向けると、いつも川沿いにいた彼が、僕を支えて泳いでいた。
川岸に引き上げられて、意識がはっきりするまでに、それなりに時間がかかった。
せき込みながら起き上がると、深緑色の着物を着流した男の子が、呆れたような顔をしていた。
「来てはいけないと言っただろう?」
さっきまで川に入っていたはずなのに、その体はまったく濡れていない。
「言い付けは、ちゃんと守らないとだめだよ」
それもそのはずだ。
「親愛なる君への忠告だ」
彼は、この川そのものだったのだから。
「…………」
かつてのことを思い出しながら、今の僕は厩橋のたもとで隅田川を眺める。
隣には、深緑の着物を着た同年代の男子がいる。
「またぼくの中に落ちてこないよう、気をつけてくれよ」
「大丈夫だよ。もうあんな失敗はしないから」
あれ以来、お盆にここに来ることはなくなった。
けれど、それ以外の日は、たまにこうして足を運ぶようにしている。
近くのコーヒー屋で買ってきたカフェラテを飲みながら、二人で語らう。
「結局、あの黒い腕はなんだったんだろうね?」
「お盆の期間は、水辺が此岸と彼岸の出入り口になるんだよ」
此岸はこの世で、彼岸はあの世。
つまり死後の世界ということだ。
お盆は、この世とあの世がつながりやすくなってしまう。
だから、お盆に海や川に近づいてはいけない。
「僕は、霊感はさほど強くないはずだけど?」
「それでも、ぼくたち付喪神が見えるからね。付喪神だって、神霊のようなものだよ。彼らに目をつけられる条件としては、充分だね」
あの腕らは、僕を道づれにしたかったのか、あるいはワラにすがるような思いで助けを求めていたのか……。
真相はわからないけれど、彼の助けがもう少し遅ければ、どうなっていたかわからない。
「気をつけてくれよ。ぼくも話し相手が減るのは嫌なんだ」
同年代にしか見えない彼は、我が子に言い付けるように続ける。
「君はこちら側に関わる分、危険も多いからね。なるべく注意してくれよ」
最後に、心底心配するように付け加える。
「親愛なる友人からのお願いだ」




