雪の降る日に祝福を
――私は待ち続ける。
いつまで待っても、何も変わりはしない。
そんなことは分かっている。
現実を知るには十分な時間が経った。
それでも私は待ち続ける――
***
冬の夕暮れのことだ。
高校からの帰り。僕は上野駅を訪れていた。
通り道――というわけではない。
通っている高校も、自宅のある商店街も上野周辺ではあるが、上野駅からは離れている。
下校中にこんなところに来るのは、珍しいことだった。
「――」
だが、仕方のない事だ。
仕事だったのだから。
僕の家は骨董店を営んでいる。お得意様から呼ばれれば、行かないという選択肢などない。
いざお宅を訪ねてみると、世間話だけで終わったのだから納得できないけれど……。
「――――」
ただ、そんな余談はどうでもいいだろう。
ここからが本題である。
用事が終わり、僕は家に帰ろうとしていた。そうして上野駅まで来たのだ。
特別な理由などない。
単純に、一番近い道を通っているだけの話だった。
だから、これから起きることは偶然が引き合せたことだ。
僕が関わったことで、何かが変わったわけではない。
あくまでも一人の傍観者でしかいられなかったのだから……。
駅前。広小路口の前に開けた空間がある。広場というには狭い空間だが、あえて駅前の広場と称しておこう。
「…………」
ふいに僕は足を止めていた。
一人の人物に目を奪われてしまったのだ。
広場に一本だけ植えられたクスノキ。
その植込みの縁石に、少女が腰かけている。
――――不思議な雰囲気の女の子だった。
しかし、外見はいたって普通。どこにでもいる少女だ。
年の頃は中学生くらいだろうか?
少し小柄で、女の子にしては髪が短い。年末の寒い日だというのに、Tシャツにカーゴパンツという軽装だった。
じっと縁石に座って、広小路口を見つめている。
服装こそ季節外れだが、変わっている所はない。気にするような相手ではないだろう。
現に、道行く人たちは目にも止めていない。その存在に気づかないように、素通りしている。
それが通常の反応だろう。流すのが正解だ。
けれど――
僕はそうするわけにはいかなかった。
何もせずにはいられない。気づいてしまったのが運の尽きだ。
「なるほど……僕の出る幕か……」
ため息を一つこぼす。
吐き出した分の息を吸い込む。同時に現実を受け入れ、呑み込む。
――さぁ、出番だ。動くとしよう。
僕はそっと少女の前に進み出た。目の前で足を止める。
「隣、いいかな?」
「……」
返事はなかった。
こちらを見ることもない。ただじっと駅の出入り口を見つめている。
だが、少なくとも拒否はされなかった。ならば、勝手にしていいだろう。
彼女の隣――縁石に腰かける。
「……」
少女の態度は変わらない。ただただ無言。批難するようにこちらを一瞥することもなく、真っ直ぐ駅の出口を見つめている。
隣に座ったことについて、文句は出ない。
ならば、もう少し踏み込んでみよう。
彼女の真似をするように、適当に駅の方向を見ながら、口を開く。
「――君、名前は?」
「…………」
予想できたことだが、無言が返される。
それでも諦めることなく、いくつかの質問を投げてみた。
どこから来たのか、という素性を訪ねる問い。
趣味や好きな物を聞き出すための、どうでもいい雑談。
時間にして数分といった所だろう。
それら全ての質問に、彼女は一言も返事をしなかった。
「――――」
さて、困ったことになった。何も得られないのでは、動きようがない。
ため息の一つでもこぼしたい所だが、その実、僕は落胆などしていなかった。
なんてことはない。いつものことだ。
この手合いは口が堅い。こちらが話しかけても無言を貫かれることは多い。慣れてしまえば、笑って流せるようになる。
こうなってしまったら、根気よく続けるしかないだろう。
「――」
けれど、しつこ過ぎてもよろしくない。
今日の所は引き上げるべきかな?
そんなことを思案し始めた時だった。
「――あぁ、そうだ」
大事なことを聞き忘れていた。最も重要なことを失念するなんて、情けない。
あえて外していた視線を、僕は少女に向ける。
「君はここで何をしているのかな?」
応えは――
「……」
やはり無言だった。
「――――」
手詰まり、か。
やはりすぐには心を開いてくれないらしい。
けれど拒絶の姿勢もない。
ならば、もう少し粘ってみるのも手か?
この先のことを考えながら、僕は再び少女から視線を外す。いつまでも見つめていては不快感を与えるかもしれない。
なんとはなしに彼女が見つめている駅の出口に目を向ける。すると――
「――?」
道行く人の一部が奇異の視線を投げていた。
少女にではなく、僕に。
こちらが気付くと、慌てて通り過ぎていく。
「なるほど」
こんな子に男子高校生が話しかけていれば異様に見える事だろう。
あまり注目は集めたくない。そろそろ引き際のようだ。
一応、腕時計を確認してみる。
もうすぐ夕飯を作らないといけない時間だった。
食事が遅くなると家のモノから苦情が出てしまう。アレの文句に付き合うのは、なかなか骨が折れる。
帰る以外に選択肢はなさそうだった……。
仕方なく、僕は腰を上げる。
「いきなり質問責めにして悪かったね。僕はもう行くから、安心して」
最後に微笑みを向けてみるものの、やはり少女に反応はない。
「近々雪が降るらしいし、あまり体を冷やさないように気を付けて……」
これを別れの言葉として、僕は歩き出す。そこで――
――人を、待っているの。
かすかに声が聞こえた。
「――!?」
反射的に足を止め、少女に振り返る。
だが、何も変化はない。彼女はひたすらに駅を見つめている。
それでも、確かに聞こえた――――
「誰を? 家の人でも待っているのかな?」
さらなる進展を期待して尋ねてみるが、彼女からの返事はなかった。
変わらず無言が続く。
これ以上応えるつもりはないのだろう。
「――」
ならばやはり、ここは一度引こう。
今度は別れの言葉もなく、僕はその場を後にした。
それから、数メートルほど進んだ時――
「君、ちょっと話をしてもいいかな?」
後ろから声をかけられた。
その男性の声は、どこか聞き覚えのあるもので、振り返ってみればやはり顔見知りであった。
ラフな格好をした壮年の男性は、僕の顔を認識するとわずかに驚きを見せる。
「……なんだ、君だったのか?」
どうやら、僕と気付かずに声をかけたらしい。
困惑しながらも納得した様子を見せる男性は、僕の自宅がある商店街の商店会長である。
交流はあるけれど、さすがに後ろ姿で判別できるほどの仲ではない。僕だと気づかなくても仕方ないだろう。
しかし、と僕は口を開く。
「意外でした。会長さんは見ず知らずの高校生に話しかける趣味があったんですね?」
「そんなわけがないだろう……? 君なら、事情があることくらい推察できるはずだが?」
もちろん、わかっていた。商店会長は至って一般的な趣味嗜好の方だ。
「けれど、僕に用があったという感じでもないですね?」
「それはそうだよ。あの子に話しかけていたようだから、話が聞きたくなってね」
商店会長の視線は、駅前のクスノキに向いていた。
「見覚えがあったので声をかけただけですよ。無視されてしまいましたけど……。会長さんはどこの子かご存知なんですか?」
この問いに、商店会長はわずかに声を潜めた。
「ほら、あれだよ。電気屋の……」
「――」
あぁ、なるほど。大体の事情は察することができた。
「言われてみれば……電気屋の息子さんと一緒にいる所を何度か見ましたね」
なんとか、それだけを返す。
電気屋の一人息子は、二十代前半で今年大学を卒業し、実家は継がずに一般企業に就職した。その息子さんと遊んでいる姿に見覚えがあったわけか。
息子さんは通勤に上野駅を利用していただろう。
ならば、彼女は彼の帰りを待っているのかもしれない。
――人を、待っているの。
あの子はそう言っていた。
一人理解を深めていると、商店会長が困り顔を向けてくる。
「私たち商店会も対処に悩んでいるんだ。あの子をあのままにしておくわけにもいかないだろ? なんとか止めさせようとしているんだが、誰の言うことも聞いてくれなくてね」
僕の質問にも無言を貫いていたし、なかなかの難敵らしい。
苦笑を浮かべる僕に、商店会長はかすかにすがるような目を浮かべていた。
「君、どうにかできないかな? こういうのは得意だったと思うんだが?」
「……得意分野であることは否定しません」
それどころか専門と言える事柄だろう。そこまで込み入ったことを説明する必要はないけれど。
「だけど、僕には何が正しいのかわかりませんよ。あの子の行動を止めさせることが、本当に幸せにつながるのか、判断がつきません」
「いや、しかし……」
言い募ろうとする商店会長の言葉を遮って、続ける。
「本人の好きにさせるのが一番いいのかもしれませんよ?」
これは商店会長への忠告であり、自戒でもあった。
それから商店会長とはいくつかの世間話をして別れた。
駅前のあの子について、結論も解答も得られてはいない。僕が積極的にその話題を避けた、というのもある。
そっとしておくことが正解かもしれないのだから――
「――――」
にも関わらず、商店会長にあんなことを言っておきながら翌日の放課後、僕は上野駅を訪れていた。
あれからずっと悩んでいた。
何が正しいのか?
彼女にとって一番いい事は何か?
考えていても答えなど出るはずはない。だから、もう一度彼女と話したいと思ったのだ。
「……」
人が流れる駅前。広小路口の広場、クスノキの縁石。
彼女は昨日とまったく同じ場所に座っていた。
「隣、いいかな?」
声をかけてみるが、やはり無反応だった。
拒否はない。
ならば、と僕は隣に腰かける。
そこでふと思い出した。
「そうだ……今回はおみやげがあるんだった」
紙袋を掲げて見せる。
中から肉まんを取り出し、彼女の横に置く。
「……」
さすがの彼女も、こちらに視線も向けてきた。
けれど、素直に受け取る気配もなかった。むしろ警戒していると言える。
僕と肉まんとを交互に見つめていた。
「――」
彼女が困惑している間に、僕は二つ目を取り出し、こちらは自分の口に運ぶ。駅近くの商店で適当に買ったものだが、なかなかに美味しい。
「……」
舌鼓を打っていると、危険はないと判断したのか、彼女も肉まんに口をつけた。空腹だったのか、食べるペースが速い。
食事の邪魔にならないよう、僕はゆっくりと声をかける。
「商店会長から、君の話を聞いたよ。電気屋の息子さんを待っているんだね?」
「……」
問いかけるも、やはり彼女は無言だ。
けれども、
――こくり
と一つ頷きが返された。
やはり食べ物は偉大だ。
すこしは心の距離が縮まったのかもしれない。
「――」
これで、予想は確信になった。
彼女の事情は把握できたと言える。
――だからこそ、ここからが問題だった。
ここで何を選択するか……下手をすれば命取りになる。
そっとしておくという選択が、最も無難だろう。
わざわざ危険を冒す必要性はない。
それでも、僕は、黙っていることなどできなかった。
「待っていても、彼が帰ってくることはないよ? だって――」
一瞬、声が詰まる。
続く言葉を口にして、彼女がどんな反応をするか予想がつかないから。
だが、ここまできて引き返すというのも、耐えられそうにない。
だから、僕ははっきりと告げた。
「あの人は先日亡くなった」
交通事故だった。
ここでは、彼の死について詳しくは語らない。
重要なことは、彼がすでにこの世にいないということだ。
いくら待っていても、帰ってくることはない。
その事実を突きつけられて、彼女は――
「……」
冷静だった。
静かに僕の瞳を見つめている。そして、ゆっくりと口が開かれた。
――そんなことは知っている、と。
やっと話し始めた彼女の言葉は、少しばかり意外なものだった。
待ち人がすでに死んでいることは、とっくに知っていた。
知って上で待っているのだ、と。
大好きな人の死に気づけないほど、愚かではない。
けれど、自分にできることは、こうして待ち続けることだけ……。
だから、このままでいいのだ、と。
――私は待ち続ける。
そういう主張だった。
「……」
言い切ると、彼女は駅に視線を戻す。
もう話すことはないと言うように、じっと待ち続けている。
「それが、君の幸せになると……?」
これには、無言が返された。
すでに応えた、ということかもしれない。
「なるほど。君がそう信じるなら、もう何も言わないよ。君の意思を尊重しよう」
対話は終わりだ。切り上げ時だろう。
僕はそっと腰を上げる。
別れの挨拶として、一言だけ声をかけていくことにした。
「もう会えないだろうけど、君が幸せになることを願っているよ」
返事は期待していなかった。
けれど、彼女は駅を見つめたままわずかに微笑み、こくりと頷く。
――自分の事だから、この後どうなるかは、よくわかっている。
そんなようなことを言って。
そうして彼女の口から出たのは、感謝の言葉だった。
――気にかけてくれてありがとう。
この言葉だけで、僕はだいぶ救われた気がした。
翌朝、東京は大雪になった。
氷の結晶が降りしきる中、上野駅、駅前の広場で作業をしている男性たちがいる。
雪かきではない。
一匹の黒猫の死骸を、袋に入れていた。
その様子を、僕は歩道橋の上から眺めていた。
早朝だからか、それとも大雪のせいか、周囲に人はいない。
唯一僕の隣には、器用に手すりの上に座った一匹の白猫がいる。その猫が、わずかに口を開いた。
「この結末が不満かのう?」
綺麗な女性の声が尋ねてくる。
「どうしてそう思うのかな?」
「お主が不満そうな顔をしているからに決まっておろう?」
全てを見透かしているとでも言いたげに目を細める白猫に、僕は肩をすくめる。
「そんなことはないよ」
ちょっと驚いているだけだ。
「君たち猫は、飼い主が死んでもまったく気に留めないと思っていたんだよ」
「猫にだって忠誠心はあるからのう。儂も、お主が死ねば悲しむ」
「……それは、嬉しい限りだね」
微笑で会話を打ち切る。
けれど、意地の悪い白猫は、それで良しとはしてくれなかった。
「やはり、悲しんでいるように見えるがのう? これは本人が望んだ結末じゃ。お主が気に病むことではなかろう?」
この白猫に隠し事はできないらしい。
さすが、僕が産まれる前から生きているだけのことはある。
「これでよかったのか、わからないんだよ」
「わからない、とは?」
「もっと上手く説得していれば――いや、無理矢理にでも保護していれば、彼女はもっと長生きできたかもしれない。生きてさえいれば、幸せになれたかもしれない」
それらの可能性を投げ捨てて、僕は彼女の意思を尊重した。
「本当にこれで、彼女は幸せになれたのかな?」
不安を漏らす僕に、白猫は呆れるように嘆息する。
「何をぬかすかと思えば……幸せに決まっておろう?」
当然のように言って、猫は頭上に視線を送る。
「見てみろ。望み通り、ご主人様に会えたであろう?」
「――?」
つられて、空を見上げる。
舞い降りる雪は、まるで迎えにきた天使のようだった。