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蝉の声

作者: 小川たま

 電車を待っていた。

 町に向かう各駅停車は、20分に1本しか来ない。それなのに、次の電車に乗るからと言って、仁志は三本も見送った。本当ならば俺は今頃家に帰って参考書を開きながら、仁志はどの辺まで行ったのかななんて考えていたはずなのに、当の仁志が未だに俺の隣にいる。

――こいつ、帰る気あるのかな。

 俺はちらりと仁志の横顔を盗み見た。ガキの頃から見慣れた顔だ。三月やそこら離れていたからといって、驚くほど人相が変わるはずもない。

「なあ、お前さ、彼女できた?」

 顔は正面を向いたまま、視線だけを仁志の横顔に固定して、何でもない風を装った。こういう話をするときだけは、必死だと思われたくない。

「いない」

 仁志は大して気のない様子で答えた。

「ふうん。でも、可愛い子いるんだろう?」

「よくわかんねえ。まだ正直そんな余裕ねえし」

「本当かあ?」

「お前こそ、そんなこと考えてる余裕あんのかよ」

「そりゃあまあ、そんな場合じゃないけどさあ、でも東京だぜ?可愛い子、いっぱいいるんじゃねえの?」

「だから、俺はそれどころじゃないんだってば……畜生、暑いな」

 仁志はTシャツの裾を掴んで、思い切りよく顔を拭った。シャツの青い色を、汗が斑に濃く染める。それでも一向に汗は引かない。耳鳴りのような蝉の鳴き声が、体感温度を一層上げる。仁志の額から滲み出した汗が、日に焼けた頬を伝って顎からぽとりと滴り落ちた。

「仁志」

 友人を呼ぶ俺の声に、蝉の大合唱が重なった。人気のないホームを満たす、凶器のような蝉の鳴き声。たった7日しか生きられないからって、そんなに大きな声を出さなくてもいいじゃないか。圧迫感すら感じさせるそれは、物理的な圧力を持った音の壁だ。

「電車、来ないな」

 仁志がぽつんと呟いた。

「お前がさっさと乗らないからだろう」

「こんなに本数が少ないなんて、忘れていたんだよ」

「悪かったな、田舎で」

 仁志は答えず、椅子代わりにしているスポーツバッグのポケットを弄った。何かを探しているようには見えなかったから、単に言葉に詰まっただけなのかもしれない。仁志はもともと口下手な男だ。都会での3ヶ月は、彼の性格を変えるには短すぎたようだ。友人が変わっていなかったことに、俺は何故だか安堵した。

「暑いな」

「暑い。何か飲むもん買ってくるか?」

「良いよ、余計汗かきそうだ」

「それもそうだな」

 それきり、仁志は口をつぐむ。静寂を意識したとたん、蝉の声が耳に飛び込んできた。

 虫の声というのは不思議なもので、気にしなければ一向に耳に入らない。いや、耳には入っているのだろうけれど、俺たちの脳はその音に慣れすぎているせいで、ノイズの存在を認識できなくなっているのだ。

「先生が……」

「え?」

「いや、なんでもない」

「何だよ、中途半端でやめるなよ。気になるじゃないか」

 俺は仁志の背中を軽く蹴った。痛えよ。大して痛くもなさそうに、仁志が口先だけの文句を言う。

「なあ、気になるから続き話せよ」

「構わないけど、つまらないからって怒るなよ?」

「何言ってんだよ。つまらなかったら怒るに決まってるじゃないか」

「……じゃあやめておく」

「嘘だって。おまえ、すぐ俺の言うこと信じるのな。相変わらず」

 笑う俺に、仁志は眉を顰めて立ち上がった。

 怒らせてしまったのだろうか。少し言い過ぎたかもしれない。だけど、怒ったのかと尋ねるのも、機嫌を取っているようで癪に障る。結局俺は気づかない振りをしてそのまま座りつづけた。遠ざかる足音が、背中に突き刺さるようだった。

 すぐに足音は戻ってきた。離れていた時間はほんの1分か2分だ。時計の針が動いたかどうかもわからない程度の時間だったのに、俺は背中に酷い汗をかいていた。

「うわあ!」

 汗ですっかり濡れた首筋に、突然冷たいものが張り付いた。

「何すんだよ!」

「麦茶。お前、コーヒー飲めなかっただろう」

 仁志は俺の肩越しに、薄らと汗をかいた茶色い缶を差し出した。受け取るのを躊躇っていると、有無を言わさず肩の上にそれを置き去りにする。不安定な場所に置かれた缶は当然の如く傾いて、冷たい縁が、俺の頬に当った。

「冷てえ」

「気持ち良いだろう?」

「おお」

「冷やすだけなら汗も出ないとーー何だよ、もう開けたのか」

「え、これ、冷やすためだったのか?」

「まあ、好きにすれば良いんじゃないの?」

――プシュッ

 ガスの抜ける音がした。見ると、仁志の手にはコーラの缶が握られている。仁志は俺の視線に気づき、これ見よがしの大げさな動きで、美味そうにコーラを呷った。

「ずるいぞ!何でお前だけそんなもん飲んでんだよ」

「奢りで飲んでるくせに文句言うなよな」

「俺にもそっちを寄越せ」

「嫌だ」

「ずるいぞ!」

ーーカンカンカンカンカン

 不意に、遮断機の警報が鳴った。振り向くと、青く伸びた草むらの向こうから、特急電車の赤い車体が近づいている。バッタのような顔をした電車。こいつに乗れば、町までは1時間とかからない。だけど俺たちのいるこの駅にはそんな便利なものは停まってはくれないから、地図上では僅か10cmの距離を、何時間もかけて旅しなければならないのだ。

「家族連ればっかりだ」

 車窓の内側には、旅を終えた家族の楽しそうな顔が詰まっていた。誰にとってもここは旅の通過点に過ぎず、この小さな駅で電車を待つ俺たちのような人間がいることに気づく奴なんて殆どいない。

「見えたのかよ」

「まあな」

 仁志が飲みかけのコーラを差し出した。受け取って、礼も言わずに一息に呷る。コーラは仁志の体温でほんの少し温まっていた。

「本当か?」

 仁志が尋ねる。

「本当さ。元野球部の動体視力を舐めるなよ」

「左打ちのスラッガー?」

「違う。左打ちの天才スラッガーだ」

 ふん、と鼻を鳴らし、左腕に力瘤をつくって見せた。野球部を引退したのは1年も前のことだが、今でも毎晩の素振りを続けている。

「お前さ、大学入ったらやっぱり野球やるんだろう?」

「当たり前だ。俺はそのために、推薦も蹴ったんだからな。待ってろよ、来年は俺がお前を打ち崩してやる」

「自分のチームのピッチャー打ち崩してどうするんだよ」

「うるせえ。まずはお前なんだよ。お前をつぶしてから、六大学野球に殴り込むんだ」

 わけわかんねえよ。仁志は笑いながら、俺の足元の茶色い缶を拾い上げた。

「こっちもらうぞ」

「おお」

「ーー先生がさ、お前が、志望校変えたがってるって言ってた」

 ごくり。麦茶を飲み下す喉も、しっかりと日に焼けていた。帰省する前からの日焼け。大学の野球場で、毎日仁志は走り回っていたのだ。そのことに思い当たり、喉の奥がちりりと痛む。

「本当なんだろう、それ」

 鼓膜が、絶叫し続ける蝉の声に震えていた。脳のずっと奥の方まで蝉の声に犯されていくような錯覚。

 蝉の声。野球部のグラウンドで、毎年夏が来るたびに聞き続けたその音。それだけではない。俺たちにとっては何よりも特別だったあの場所でも、蝉は鳴いていた。

「俺は嫌だよ」

「仁志……」

「俺は待っているからな。お前がうちの野球部に来るのを、俺は待っているからな」

「簡単に言うなよ。お前んとこ、偏差値いくつだと思ってんだよ」

「知らないよ、そんなの。俺は、またお前と一緒に野球をやれればそれで良いんだ」

「俺はーー」

ーーカンカンカンカンカン

 遮断機の警報と共に、ホームに20分ぶりのアナウンスが響いた。電車が来る。仁志はすぐに立ち上がり、自分の重みですっかり潰れてしまったバッグを背負った。

「気をつけて帰れよ」

「ああ。お前もな」

 電車の扉が音を立てて開く。降りる者は一人もいない。乗り込む人間だって、仁志一人だ。

「じゃあな」

 手を振って、友人を見送る。照りつける日差しが眩しくて、顔を上げているのが辛い。

「友則、俺は――」

 仁志の声は、閉じていく扉と、蝉の鳴き声に遮られた。待っているからな。仁志は大きく口を開けて、口の動きだけでなんとか言葉を伝えようとした。そうして仁志は、じっと俺の返事を待つ。

 嫌な奴だ。俺はしたうちでもしてやりたい気分だった。こんな状況では、俺に許された返事は一通りしかないじゃないか。

『電車が発車します。危険ですから、電車から離れてホームの内側までお下がり下さい』

 駅員の、決まりきったアナウンス。ホームには俺一人しかいないのに、わざわざそんなことを放送する必要が、どこにあるのだろうか。

 それでも俺は素直に従った。仁志に返事をするのに、電車に近づいている必要はなかったからだ。

 仁志はガラス越しに、じっと俺を見詰めていた。そうして俺の返事を確認すると、鹿爪らしい顔をして、握った拳から親指だけを真っ直ぐに立てた。俺はそれには答えず、さっさと踵を返して改札に向かった。

 こんな所で浪費する時間は残されちゃいない。俺は、なんとしても大学に受からなければならないのだ。

 改札の外では、一層大きな声で蝉が鳴いていた。

 遠くから、金属バットの澄んだ快音が届いたような気がした。 

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