天国に一番近い村
1
*
嫌いなわけではなかったの、と言われたとき、さすがに訳が分からなくなって、出ていく妻を初めて殴りたくなってしまった。
佐伯隆史は今年四十歳になる。二歳年下の妻の幸子は冒頭の台詞を吐き捨て、八歳の子を連れて出て行ってしまった。新宿から乗り継ぎ二回の加江原町駅から、歩いて十分のマンションは、立地も悪いし日当たりも悪い。そんな中でそんな話を持ち掛けられたら、気分は最悪になることこの上ない。
ここでなんとか幸子に言い返せたのならよかったのだが、そういうわけにはいかなかった。佐伯は子供ができてから培った幸子の恐妻ぶりから、いまだ抜け出せないでいた。そうか、としか言えなかった自分をこれほど嫌いになったことはない。
妻子の出て行った1DKの部屋で、佐伯は怒りと哀しさに震えた。嫌いじゃないならなぜ別れたんだ、なぜ子供まで連れて行ってしまったんだ、なぜ自分は妻の異変に気付かなかったのか。
鉄道会社での勤務を終え、自宅まで来ると、一階玄関口の郵便受けを確認して、狭いロビーを通り抜け、二階の二〇三号室に入る。いつものように聞こえる妻子の声が、今日からは聞こえない。そう思って、佐伯は途端に胸の奥が苦しくなった。うまくいっていない家族ではなかったはずだ。妻は積極的に佐伯や子供の弁当を作ってくれたし、家事は完璧にこなしてくれていた。週末には家族三人で遊園地や買い物に行ったし、夜に関しては、佐伯が誘えば必ず嬉しそうに応じてくれた。
だから「嫌いなわけではなかった」という幸子の言葉は、おそらく嘘ではないだろう。佐伯はいつだって妻子に優しかったし、非があるとは思えない。それに鉄道会社の車掌の収入はそこまでよくはないけれど、幸子がそれを不満だといったことはなかった。
「・・女って何だ」
それから毎日、佐伯は浴びるように酒を飲み、食生活も不安定になった。みるみるうちに食は細り、頬はこけ、上司や同僚にも心配されるようになった。
「佐伯、すこし休んだほうがいいんじゃないか」
九月のはじめ、世にもつまらないお盆休みを切り抜け、新宿にある本社に呼び出され出社した佐伯に、直属の上司が言った。
「・・どうされたんですか、急に。僕は大丈夫ですよ」
「そんなこと言ってもおまえ、最近顔色最悪だぞ」
上司の田中は、人のことを言えないくらい十分に顔色が悪い。それにひどい近眼のおかげで、いつも彼は話すときに顔が近くなる。そのせいでヤニのにおいのする口臭を遠慮もなしにばらまいているから、なんとも迷惑である。
「仕事をしないと、やることがないんですよ」
すると田中は少し考えてから、言った。
「そんな佐伯に提案があるんだが」
「・・なんですか」
「俺もしょっちゅうあることなんだが、たまに都会の喧騒が嫌にならないか」
なんだか会話が変な方向に向いてきた。
「・・どういうことですか」
「いやあ、実はね、東北本線のとある駅の駅長が心筋梗塞で亡くなってねえ。今こっちの車掌の人手が若干余ってるもんで。駅長になってくれる人を探しているんだよ」
なるほど、と思った。どおりでいつもは部下になど目をかけない田中が話しかけてきたわけだ。はなからそれ狙いで話しかけてきたのだろう。
「そこでね、きみはどうかと課長が提案したんだ」
左遷だ、ということに気づいてしまった。最近事務的なミスが多くなっていたのは事実だった。課長の高橋は細かなミスをする人が嫌いだ。佐伯が左遷の標的になることはもっともなのだ。
「・・とある駅、とは」
すこしばかり興味のある顔をしてみると、田中がニタリ、と気味の悪い笑顔を貼り付けて、さらにこちらに顔を近づけてきた。
「祈里駅、という駅だよ。山奥にあるいわゆる秘境の地だ。もしよければ一度有給がてら視察に行ってみるといい。これから三日間の有休をすでにこちらでとってある」
「すでに、ですか」
「ああ。喧騒から逃れて、山奥でまったりするのも悪くないぞ」
田中はそう言って軽く佐伯の肩を叩き、ヤニのにおいの染み付いた廊下を颯爽と歩いて行った。
いのりえき、と呟いてみる。その響きが不思議と心に馴染んでいくような感覚がした。
悪くないな、と思った。それに佐伯には断る自由などない。
すでに去った田中の鞄からは、鮎の菓子十二個パックが覗いていたのを、佐伯は見逃さなかった。高橋課長が、盆休み明けに大好物のそれを段ボールで注文していたのを思い出す。
人を左遷するにしては、安い賄賂だな、と思った。
「サカナの眼は、たしか近眼だったな」
呟いた言葉は、昼休みが始まったばかりの廊下の雑踏の中に、むなしく落ちていった。
**
それにしても有休というのは、なんと悠久なものであろうか。
新幹線で東京駅から仙台駅まで一時間三十分、さらに仙台駅から三度の乗り継ぎで二時間。田中から渡された資料には、祈里から歩いて一時間三十分ほど離れた地に、宿泊可能な温泉宿があると記載されていた。祈里駅とは二駅しか離れていないというのに、歩いて一時間三十分とは何事か、と最初佐伯は泣きたくなった。
しかし蓋を開けてみれば、なかなかにいい湯の沸く温泉だった。
「最高とはこのことだ」
会社が予約した旅館は、小高い丘の上の竹林の中にある。そこから中谷温泉街が一望できた。その露天風呂から、佐伯は小さな町を眺めていた。アクセスの悪さからか、観光客はあまり見られないものの、田や畑に囲まれた小さな温泉街は、それなりに繁盛している。温泉饅頭や日本酒の老舗も少なくなく、あたたかな湯気がそこかしこにぽわぽわと浮かんでいた。
「お客さん、お湯かげんどうでした?」
浴場から出てコーヒー牛乳をがぶ飲みしていると、花柄のエプロンをつけた八十歳くらいの腰の曲がった女将が、にこにこと佐伯に聞いてきた。
「いやあ、最高ですよ。ちょうどよかった! 夏にも温泉は温泉ですねえ」
「あら。夏には冷たい水につかるものですよ、お客さん」
くふふ、と笑って女将が言った。
「海やプールですか。どうにもあのようなにぎやかな場所は苦手で」
まあ、と女将が楽しそうに言った。「お客さん、東京にお住まいだというのに」
「そうなんですが・・今度からここのそばの村の駅長を務めることになりそうで」
そういうと、急に女将の顔が暗くなった。どうしたのかと思わず身構える。
「もしかして、祈里ですか」
おずおずと尋ねてくる女将に、佐伯は少々たじろいだ。
「そうです、祈里です。・・なんでも、前の駅長が、」
「あの駅長さん、心筋梗塞なんかじゃなかった、って」
佐伯の言葉を遮り、女将が顔色を悪くしてそう言った。驚いて、佐伯は言葉が出なくなった。
「・・では、なぜ」
聞くと、女将はふるふると頭を横に振った。
「わからないんです。祈里は、ずっと閉ざされた村ですから。私たちは、何も」
閉ざされた村。それを聞いて、佐伯は急に不安を覚えた。心筋梗塞ではなかったとはどういうことか。
布団のひかれた部屋に戻ると、さっそく上司の田中に連絡を入れた。しかし田中に聞いても、こちらは知らない、の一点張りで、なにも収穫がなかった。どうりで資料にはアクセスしか書いていなかったわけだ。
翌日、十時三十二分中谷温泉駅発の鉄道に乗り、二車両構成でワンマン運転の電車に四十分弱揺られた。佐伯のほかに、五十歳前後の男性がうとうとしながら座席に座っていた。見渡す限り新緑の景色を見ながら、佐伯は様々なことを考えた。中谷温泉駅には駅員が一人もいなかった。おそらく祈里は中谷よりも人口は少ないだろう。なぜそんなところによりにもよって自分が。果たして駅長の存在は必要なのだろうか。そして前の駅長の本当の死因は。
「お客さーん、祈里です」
気づくと、「祈里」と錆びた看板のかかった駅についていた。停車中の車両の運転席から、穏やかな男性の声が聞こえた。慌てて飛び降りる。
「ここが、祈里か」
電車が過ぎ去ると、線路に挟まれた島型のプラットフォームには、不気味な静寂が訪れた。木々のざわめきだけが聞こえるなか、佐伯は改めて駅を見渡した。看板やトタン屋根にはツタが巻き付き、駅員窓口の横の改札口には、ぼろい回転式の板木がひっついている。窓口を覗けば、黄ばんだワイシャツを着、わが社の制帽をかぶったまま寝ている中年の男の姿があった。
「あの・・山口さんですか」
祈里に来る前に、田中から山口という男の存在を聞かされていた。カツカツの人手状況である東北本線の支部社員から、当面の間務めてもらっているそうだ。彼は佐伯がここに派遣されれば、すぐに支部へと帰ってしまうという。
「んう・・あれ、どなたですか」
ふと山口が起きて、こちらを半開きの目で見た。目の窪んだ、疲れていそうな男だ。
「私、東京本社から視察に来ました、佐伯と申します。上司から、あなたに仕事を引き継いでもらうようにと・・」
「ああ、佐伯さん! よくこんなところまで。冷たいお茶、飲みますか?」
山口は佐伯の言葉を遮って、そう言った。途端に光が差したように彼の顔が明るくなった。
「じゃあ、遠慮なく。これ、東京のお土産です」
鳩型のクッキーのお土産を彼に手渡すと、彼は悪いですねえ、と困ったように笑い、クッキーを出してもぐもぐとほおばり始めた。
「いやあ、この駅、村から三十分は離れているみたいでねえ。村の人よりも、この近くの渓流に釣りに来る人のほうが多いんです。しかも村の人でここに来るのは、村長さんくらいしかおらんのですよ。一日に一回ふっと現れては、電車が運んできた荷物をリアカーに積んで、僕に千円を渡して、去っていきます」
のんびりと話し始めた山口の言葉に、佐伯はさすがに返す言葉を失った。村人までも使わない駅。よほど電車が嫌いなのか、それともまるで存在価値のない駅なのか。
「この駅、相当に乗降者数が少ないけれど、駅長がいなければいけない理由があるんですよ。それが村長への荷物の受け渡し。荷物は主に村人たちの生活用品です。祈里村周辺は隘路しかないので、車の使い道がないそうです。だから村長は毎日リアカーを引いて隘路を歩いてきます。それに、なんでも祈里は、」
すでに鳩型クッキーは、残り三つになっていた。しかしそんなことよりも、次に山口の口から出た言葉に、気を取られた。思わず、夏なのに強烈な寒気を覚えた。やはり来なければよかったと、佐伯は激しく後悔していた。
「一度入ったら二度と帰れなくなる村、だといわれています。どういう意味かは、分かりませんがね」
***
それから日が沈むまで、山口とひたすら酒を酌み交わした。駅の明かりだけが昏々とともり、湿った森の中で、二人の笑い声と虫の鳴き声だけが響いていた。
山口は祈里村に入ったことはないという。村長は村のことを必要最低限しか教えてくれないそうだ。彼は一般の中年男性と同じ背格好をしているが、どうにもこの世界の住民ではないような感じがする、とそんな風に山口は言った。祈里という村も、実はこの世界には存在しないのではないか、と。
外を見てみると、駅の周りの森を、月明かりと駅の明かりだけがほのかに照らしている。慌てて、タクシー呼びますか、と聞こうとすると、すでに山口は眠りに落ちていた。よく見てみると、狭い窓口内には、酒だけではなくカップ麺やらやかんやらマグカップやらが常備されていて、しょっちゅうここで一夜を過ごしていることがうかがえた。思わず佐伯は山口に拍手を送りたくなった。佐伯なら、死んでもこんな薄気味悪いところで、一人で一夜を明かすことはできないだろう。
山口につられ、佐伯もまどろみの中に落ちていきそうだった。真っ暗闇の中、自分を呼ぶ誰かの声がする。眠りに落ちていきそうな瞬間、誰かにぐっと腕を掴まれた。細くて小さな手が、つめたく佐伯の腕を握る。
「おとうさん、こっち」
月明かりが照らす森の獣道。顔の見えない少女が、自分の手を引いてずんずんと奥へ入っていく。まぎれもなく自分の子供の声だった。そのなつかしさに、目を見張った。
「富美・・富美なのか・・!」
『祈里駅』と書かれた駅の明かりが、左手にどんどん遠ざかっていく。木の枝に腕や足を激しく傷つけられながら隘路を進むと、しばらくして、畑に囲まれた小さな集落が見えた。
「ここが、祈里の『入口』」
嬉しそうに、少女が言ったのが分かった。明治、大正期あたりに作られたとみられる古ぼけた家屋が、さみしそうに三軒並んでいた。
「満月の夜にここにきて。三つのおうちの影の、重なったところに祈里への道がある」
空に月は見えない。スポットライトのように三つの家が浮かび上がっていて、現実感がまるでない。もう一人の自分が、これは夢だ、と訴えかけてくる。少女の顔は見えない。
「おとうさんだけに、みせてあげる」
はっとして、慌ててあたりを見回した。
背に腹に顔に頭に、大量の汗をかいていた。隣では、山口がいびきをかきながら寝ている。
「夢か・・」
妙にくっきりとした感触の残る夢だった。腕は傷こそ見えないものの、じんじんと痛む。そして、あの集落までの道のりを、はっきりと記憶していた。
「満月の夜・・」
外を見れば、大福もちの断面図のような半月が、ぽっかりと浮かんでいる。満月になるのはおそらく五日後あたりであろう。ちょうど佐伯の派遣初日になる。
行ってみよう、と思った。祈里に行けば、何かが変わるかもしれない。
あの少女は本当に富美だったのだろうか。今もはっきりとよみがえる声に、胸の奥が締め付けられる思いがした。アルコールが分解されきれていないからか、勝手に涙が出た。悲しい、哀しい、むなしい、会いたい。
静かな森であふれる感情。それを無視するように虫が鳴きだした。
****
三日目を、のんびりと中谷で過ごし、東京へ帰った。正式に佐伯の異動が決まり、佐伯は祈里駅の駅長となった。
祈里に初めて行った時から四日が経ち、部長の田中と課長を含めた同僚たちに送別会を開いてもらった。皆一様に「田舎に行けば癒されるよ」と言っていた。
佐伯に用意された家は、中谷駅から歩いてすぐそばのマンションの一部屋だった。七時四十五分発の始発に乗り、祈里駅に向かうのが日課だという。
山口は佐伯に簡単に引継ぎをしたあと、「祈里村には入らないほうがいいですよ」といって、意気揚々と本社へと帰っていった。仙台には妻子が待っているらしい。
初日、ちょうど太陽が真上に昇った頃合いに、静かな森の中で、ガラ、ガラという音が近づいてくる気配がした。佐伯は驚いて、体を硬直させた。
「こんにちは」
しかし木々の中からひょっこり顔を出したのは、水色のワンピースを着た十歳前後の少女だった。聞いた話の「村長」の容姿とは、百八十度異なっている。おかしいな、と佐伯は思った。
「こんにちは。どうかしたのかい」
「おとうさんの代わりに、荷物をもらいにきたの」
少女は、自分の体の三倍ほど大きいリアカーを引いていた。おとうさんというのは、おそらく祈里の村長だろう。こんな子に荷物を持たせていいのだろうか。
「きみ、こんな荷物一人でもてるのかい」
「楽勝、楽勝。お母さんも風邪をひいてしまったから、今日は私が来たの。ふたりとも私が行くのをいやそうにしていたけれど」
彼女は手慣れた感じで段ボールを乗せながら、祈里駅ってこんな感じだったのね、と呟いた。
「もしかして、来たことがないのかい」
「・・祈里村の住人は、一生外へでられません」
規則を淡々と言わされる小学生のように、彼女は言った。
「だけど、村長家族だけは、駅まで行くことができる。特権中の特権です」
ふふん、と鼻を鳴らして、得意げに続ける。そうして、顔を太陽のほうへ向けた。眩しそうに目を細めたその表情が、富美にどこか似ていた。
「今日は満月ね」
思わず、はっとした。見上げれば、雲一つない、からりとした青空がただ広がっていた。慌てて彼女のいたほうへ目を向けると、すっかりその姿はなくなっていた。
2
*
橙色の太陽が、隣の山の奥へと沈んでいく。待ち構えていた蒼色の暗闇が、途端に空を彩った。夜空にぽわりと浮かぶ満月のなかで、兎がのんきに餅をついているのが見えた。
十九時五十分発の終電を見送り、佐伯はひそかに駅のブレーカーを落とした。懐中電灯と非常食、その他遭難時に役に立つものをこれでもかとバックパックに詰め込んで、佐伯はあの夢で確かに進んだ隘路を辿り始めた。太陽の照らさなくなった真っ暗な森はかなり不気味だ。
腕や足を何度も木々に傷つけられながら、二十分ほど記憶を頼りに獣道を歩く。左手に線路をうっすらと眺めていたはずだ。
孤独と、恐怖におびえながら、進む。それでも引き返したくないと望んだのは、夢で聞いた富美の声のせいだった。今もどこかで、「おとうさん」と呼んでいる声が聞こえる。
「あった・・」
ふと、視界が開けて、あの小さな集落が見えた。三つ並んだ木造の家屋。その地面に、佐伯は世にも不思議なものを見た。思わず、息をのむ。
「影が、重なっている・・」
月明かりが照らす三つの家屋の影が、中心の家屋の目の前に、交差するように重なっていたのだ。
「満月の夜にここにきて。三つのおうちの影の、重なったところに祈里への道がある」
五日目のあの夜、富美に似た少女に言われた言葉を思い出す。佐伯は恐る恐る、その重なった場所へ足を踏み出した。一歩、二歩。小さなステージのようなその場所で、佐伯はめまいのような感覚を覚えた。
(足が、吸い込まれていく・・)
だんだんと歪んでいく家屋と真っ暗な森の景色。渦を巻きながら地中に吸い込まれていく感覚に耐えられなくなって、佐伯はゆっくりと意識を失っていった。
**
ひどい頭痛がする。鳥のさえずりが遠い場所で聞こえている。ぽかぽかとあたたかい布団のようなものにくるまれている感覚がして、佐伯はもう一度目を閉じそうになった。なったけれど、慌てて上体を起こした。地面がいやにふかふかしている。
「ここはどこだ?」
絵に描いたような野原だった。芝生が活き活きと太陽に向かって伸び、野花が色とりどりに芝生を飾っている。蝶々がひらひらと舞い、兎がそれを追っかけて駆けていった。
「おじさん、やっぱり来たのね」
気づくと、目の前に水色のワンピースの少女が顔を覗かせていた。佐伯は幻想を見ているのか、と自分を疑った。にこやかに笑うその少女は、自分の子供に瓜二つだったのだ。
「富美・・お前、どうしてこんなところに」
尋ねると、少女がくすりと笑った。
「おじさんがそう呼ぶなら、私は富美という名前なのね」
不思議なことを言う、少女はどこか哀しそうだ。佐伯は目の前の少女を思い切り抱きしめた。おじさん苦しいよ、と困ったように笑う少女の肩に、情けなく涙がこぼれた。
「・・おとうさん、元気だった?」
ふと少女の後ろから、幸子の声がして、佐伯ははっとした。どうして、幸子が。目を細めて笑うかつての妻の姿に、佐伯は一瞬息の仕方を忘れた。聞きたいことが多すぎて、逆に何もしゃべれなくなる。
「あなたに、謝らなくてはいけないことがたくさんあります」
遠くで鳥が楽しそうにさえずっている。妻は被っていた麦わら帽を脱ぎ、小さく頭を下げた。
「この子は、あなたの娘ではありません。私が頼んで、あなたを迎えに行ってもらいました」
頭髪に、白い髪が混じっている。見た目が年をとっても、彼女はいつまでも美しかった。年を取ることを恐れず、いつまでも佐伯の妻であることを誇りに思ってくれていた。
「あなたを置いて出て行ったこと、謝ります。だけどこれだけは間違わないで。私はあなたのことをいつも想っていた」
「じゃあ、なぜ」
尋ねると、妻は眉を下げて俯いた。返事は帰ってこない。なあ幸子、とおずおずと言うと、幸子は覚悟を決めたようにこちらを見据えた。
「乳がんが、再発したの」
世界の、音が消えた。体中の温かみが消えうせ、何も考えられなくなる。嘘だ、これ以上言うな、と心が必死に叫んでいた。
「・・富美には、言うつもりなんてなかった。だけど偶然、知ってしまって…。もう短くないことを知って、彼女は私についていくことを選んだの」
「うそだ、」
「・・七年前、私が乳がんを発病して、抗がん剤治療を施そうとなったとき、あなたは私の意志を尊重して抗がん剤治療をするなと強く先生に言ってくれた」
「・・言うな、幸子」
「あなたは優しすぎる人だから、きっと再発を自分のせいにするはずだと思ったの。だったら、私のことなんて忘れて、日の当たる場所で生きていってほしかった」
「やめろ」
「・・祈里村は、死にゆくものと生きるものを会わせてくれる場所なの。いわばあの世とこの世が混在する村。村長さんやこの子は、仲介人の役割をしてくれているの。思い出の人たちに化けて、両者を会わせてくれる。リアカーの荷物は、大事な仕事用具よ」
幸子に紹介されて、少女が照れたように笑った。もう聞きたくなくて、佐伯は手のひらで耳を覆った。やめてくれ、もう嘘はつかないでくれ。お願いだから、これからも俺のそばに。
「・・私は、もうむこうへ行きます」
耐えきれなくなって、またぼろぼろと涙が出た。神様、どうして。どうして、幸子を選んだのですか。世界でたくさんあるはずの命の中から、なぜ彼女を。
「行くな、行くなよ、幸子」
必死に妻にしがみつく。いくら情けない姿でも、自分を置いて行ってほしくはなかった。
「…富美のこと、頼みます。あなたにそれを言うため、祈里にわざわざ来てもらったの。知ってた? 神様は人間一人の異動くらい、余裕でできちゃうのよ」
無邪気に笑う妻の横顔を、美しく太陽が照らしていた。彼女のスカートの裾をさやかに巻き上げて、風が鳴く。ふと妻の被っていた麦わら帽をすくいあげて、どこかへ飛んで行ってしまった。
「俺も連れて行ってくれ」
情けなく縋る佐伯の肩に、幸子は困ったように笑って手を置いた。
「そんなわけにはいかないのよ。あなたの前の駅長さんは、昔の恋人に連れ去られて冥土へ行ってしまったから」
「いいじゃないか、俺はそれでいいよ」
すると妻が突然、バカ、と怒鳴った。驚いて、そちらを見遣ると、目を吊り上げた妻の横で、少女も驚いたように身をすくめていた。
「富美はどうするんですか。八歳の子供には、まだ愛情が必要なんです。それだけじゃない、これから先も、ずっと死ぬまで人は愛情が必要なんです。愛情で、富美の悲しみを満たしてあげるのが、あなたの役目でしょう」
口をぽかんと開けたまま、佐伯は妻の説教を聞いていた。思わずはっとした。佐伯が悲しいとき、落ち込んでいるとき、幸子はいつだってそばにいてくれた。先輩と後輩の関係であった高校時代から、幸子はいつも佐伯の悲しみを愛情で満たしてくれた。
「・・ありがとう、幸子」
いいえ、と笑って彼女が言った。満天の青空の向こう側に、うっすらと満月が顔を出しているのが見える。つむじ風のような風が吹き始めて、野原がざわざわとささやき始めた。
「あなたに会えてよかった。どうか自分を責めないで。あなたがやるべきは、富美を幸せにすること、それだけよ」
ふわり、とスカートが舞って、幸子がほほ笑んだ。ふと、少女に手のひらで目を覆われて、佐伯はそれをのけようとした。しかし、思った以上に力が強い。もがいているうちに、風の鳴く音がどんどん耳元で大きくなっていた。びゅう、びゅう、ごう、ごう。
「幸子・・!」
「さようなら」
透き通った、声がはっきりと聞こえた。それを最後に、佐伯は暗闇の中で、眠りに落ちていくように再び意識を失った。
***
気が付けば、古ぼけた小さな家屋の中で、畳の上に横になって眠っていたようだった。四畳ほどの汚れた畳の真ん中に、蜘蛛の糸の張る囲炉裏があった。中央に、錆びたやかんが吊るされている。
「おじさん、起きた?」
ふとすぐ隣から聞こえた声に、佐伯は驚いてうわっ、と声を出してしまった。横を見ると、扇子を手にしたワンピースの少女が、こちらを心配そうに覗いていた。やはり顔は富美そっくりだ。
「無事、帰ってこられたんだよ、おじさん。ほら、あそこから」
少女がやかんを指さした。蓋が開いていて、中からうっすらと蜘蛛の糸が張っているのが見えた。どうやらここは、祈里への入り口である集落の、三つの家屋のうちの一つらしかった。
「・・いまは、朝か」
聞くと、こくりと彼女が頷いた。「おじさんあのね、昨日の夜、祈里駅が燃えてしまったらしいの」
そうか、と言おうとして、佐伯は驚きで言葉を失った。駅が燃えたとは、どういうことだ。
「おい、どういうことだ、それは」
「出火の原因はわからないんだって。昨日の深夜、近くを飛んでいたヘリが見つけたらしいよ」
だから今はここでじっとしていて、と彼女が続けていった。今行けば、きっと警察やらなんやらに話を聞かれるだろうと。
「・・燃えたというのは、全部か」
うん、と彼女が頷く。「消防車も通れないような場所だから、結局何もできなかったらしい」
静かな森の中で、轟々と猛る火の渦を想像してみる。手が付けられず、燃やし尽くすまで暴れる火の猛りを。
「・・これって、偶然かな、おじさん」
呟いた彼女のほうを見る。悲しそうにつぶやいた彼女の横顔は、やはり富美に似ている。
「祈里駅は、もう廃駅になるって、おとうさんが」
え、と思わず口にした。緑が鮮やかな森の、ざわめきが聞こえる。
「最近、仕事がだんだんと減っていたの。だから鉄道会社の人が、この機会に駅をなくしてもいいかって聞いてきたから、いいって答えたんだって」
ケイエイフシン、と彼女が呟いた。この子の家族はどうするんだろうか。そもそも彼女らは人間なのか。
「『しかるべきところに、かえろう』って、お父さん言ってた。ねえこれって、どういう意味?」
しかるべきところ。その場所はどこだろう。佐伯には全く分からない。だけど、真っ当な、普通の人間たちが暮らすところではないことだけは分かった。
「君たちは、やっと楽になれるんじゃないかな」
ほほ笑んでそう言うと、彼女は目を見開いて、こちらを見た。そして、顔をくしゃくしゃにして笑い、頷いた。
思い出の中で、永遠に人々の胸の中でくすぶり続ける村。忘れない、忘れることのできない思い出を、くれた村。
東京に帰ったら、大切なわが子を、思い切り抱きしめよう。そして笑顔で幸子を見送ろう。
少女に見送られながら、祈里の『入口』をあとにする。緑葉が散らばる狭い獣道の途中で、一本の高い木の枝の先に、つばの大きい麦わら帽が引っ掛かっているのが見えた。