-3-『思いやりの手刀』
とんとん、と革靴をつま先を敷石にぶつけて靴を履きしめる。
玄関扉を開き、朝の陽射しの下に立つ。
深呼吸してから我が家を振り返る――リビングの外壁はきっちり修繕されていて、昨日の破壊の痕跡も見当たらないほど元通りになっていた。
熟練の宮大工が突貫工事したとしてもこうなるわけない。一種の超常現象と言える。恐るべき劇的ビフォーアフターだ。俺はこんな家に住み続けていいのだろうか。心霊現象やらSF世界に迷い込んでしまっているのではないか。
一体全体どういう力が働いたか不明だが、何も考えずに結果よければすべてよしにしておこう。
我が家は修繕されたのだ。
その事実があればよし、だ。
ともあれ、感謝は捧げとこう。
ああ――妖精さん、ありがとうございます。あっ、できれば地下室にホームシアターを作ってください。ダイナミックなアダルトシアターが見たいんです。本当にお願いします。なんでもします。魂を売ります。
「お兄ちゃん。待って。一緒に行こうよ」
朝の支度で出遅れてあたふたと小走り。
柔らかそうな金髪がなびく。日光に反射して輝く繊細な髪の束がふわふわと舞う。通りを歩いていた通行人の中年サラリーマンも一瞬だけ見惚れていた。
何よりもゆっさゆっさとブラウス越しでもわかるほどのおっぱいは圧巻だ。
夏服のせいか花柄ブラジャーの模様がわずかにワイシャツに透過している。
これは男の夢と希望がすべてつまっている。
現実的に考慮すればたかが脂肪にすぎないのに、なんでこんなに脳を焦がすほどに視界に侵入してくるんだろうか。
不思議だ。見えない魔力か何か放っているのか。
通行人であろう中年サラリーマンが俺と同じように視界を奪われ、わき見をしすぎたため、足を踏み外して側溝へ転落した。
おいおい、事故になっちまってるじゃねえか。
クーナはちょいちょいっと胸元の赤いリボンの結び目を指で摘んで直し、チェック柄のスカートや黒いニーソックスが乱れてないと判断してにっこりした。
「お兄ちゃん、私どうかな?」
「お前の魅力の九割はおっぱいだよな」
「むぅー……お兄ちゃん。髪型を整えてあげる」
クーナは化粧ポーチから櫛を取り出したかと思えば、俺の背後に回って髪をガシガシやり始めた。頭皮に冷たい感触、ジェル状の整髪料みたいなものもぶっかけられた。朝方洗面台で整えたはずなのだが、おかしいところがあったようだ。
されるがままになっているが、何か変に頭部の中心に毛髪が集められている気もする。
「できたー。世紀末風のモヒカン!」
「え」
「お兄ちゃん、最高にロックだよ」
「ふざけんなっ! ちょ、硬ぇっ! マジで硬ってぇえ!」
「ははっ、私の胸ばっかり見てるからいけないんだよ。今日は制汗剤を変えたんだからそういうの気にして欲しかったの!」
「俺がなんでお前の汗ケアを気にしなきゃいけねえんだよ」
「女の子はちょっとしたことに気付いて欲しいんだよ? もっと女の子のミステリーを探究してよ」
「そんなミステリーを解いたら単なる変質者じゃねえか」
「うーん。そういえばそうかも」
「うぉおお、戻してる時間なんてないのに!」
八つ当たりをしてきたクーナは人差し指を口許に運び、小首をかしげて納得。
俺の頭頂に伸ばした手先には硬い感触。ガッチガチに固められた髪の毛は恐らく天を衝いている。
念のためスマートフォンで撮影して確認する。
うーん、とんがりコーン?
「行こうっか、お兄ちゃん」
「待て、この頭をなんとかしないと俺に淡い恋心を抱いているクラスメートの女子の心を傷つけるかもしれない! 『あんなにカッコいい緋村君がモヒカンのワイルド・ガイなんてショック。でも、ああいうのもいいかも』みたいな感じで!」
「自己解決してるから問題ないよね」
「む、そうだな」
納得して歩きだそうとすると不意に――視線を感じて顔を上向ける。
二階の窓際でもう一人の妹であるミーナが小さい手を左右に振っていた。お団子頭になっているがパジャマ姿の寝ぼけ眼、見送ってくれるようだ。
我が家の飼い猫であるシャム猫の一郎丸が肩に乗っかっている。
ぺろぺろとミーナのもっちりお餅頬を舐めているが本人は気にした様子はない。
「みぃ……またサボり?」
クーナの眉間にしわが寄った。
ひきこもりを咎めているのだろうが、ミーナは病弱なので仕方ない。
「ちょっと熱があったからな。まだ中学二年だし、もう少し歳を取れば丈夫なるとは思うが」
「お兄ちゃん、みぃに甘すぎ。そんなんだから不登校してるんだよ。それにあの子、お兄ちゃんの前ではぶりっ子だけど、本当は凄いんだよ」
「どう凄いんだ?」
「その内、わかるよ……普通に皮肉いいまくるし、私のこと『淫乱ビッグマック』とか呼んでくるんだよ。信じられない」
フレーズのインパクトに思わず笑いだしそうになったが、見るからに目に険があって不機嫌な口ぶりだったので笑いは噛み殺した。
男ではわからないことが女同士にはあるのだろう。
クーナは社交的な性格で、ミーナは内向的な性格なのでソリが合わないところもあるのかもしれない。
間に入ってやるべきだが、それはあとにしてひとまず登校だ。
並んで歩き始めると薄っすらと額や脇下に汗が出始める。
六月に入ったところだが日ごとに気温は上昇している。熱波にげんなりとして自然と肩が下がってきた。
「お兄ちゃん。地球外生命体のことだけどさ」
「クーナ。その話題はなしだ。お前も危ないことに関わるのは止めなさい。わかったか?」
言葉を切って、語気を強めた。
ぷくっと頬をふくらませたクーナは唇を尖らせながら反論してくる。
「でも、私もJGGの一員だから地球を危機から護らないといけないの。お兄ちゃんが知らないだけで世の中には敵がうようよいるんだよ」
「危ない生物がいたとしても警察や自衛隊に任せなさい。っていうか、なんだその怪しい組織は。略称じゃなくて正式名はなんだ?」
「日本ゲテモノグルメ協会」
「退会しろ」
※ ※
私立銀聖高等学校の学舎はHの字型で外壁は真新しい。
三年ごとにペンキの塗り替えする神経質な理事長が経営しているせいか、あるいはOBや保護者が多額の寄付金をしているせいか、無駄に設備が整っていたりもする。
四階建てで部活用の別練があり、テニスコートとプール、学生食堂も存在する。
おかげで生徒たちの人気は上々だ。特に男子生徒はエアロビクス教室を高評価している。男子生徒の大部分は直接使用しないはずではあるが。
住宅街を十五分ほど歩き、アーチを描く校門を抜けると見知った人影を見つけ、胸が高鳴った。
桜の並木を歩く赤いタイをちょこんと胸元につけた女子。
大きめのリボンで結んだ髪を馬の尾のように垂らしたポニーテールが振り向きざま、跳ねた。
凛々しい顔立ちの吊り目。夏風に似合う涼やかな雰囲気を漂わせている。
どこか柳の木のようなしなやかさを感じさせるフラットな肉体は儚げで可憐。
蒼井月香――俺を恋という落とし穴に突き落とした美人だ。
ごくっと喉が鳴る。尻込みせずに声をかけた。
「おはようございます。先輩」
「誰だ貴様は」
想い人からの第一声がこれはひどい。
あんまりだ。振った相手のことなんて忘れるタイプだったんだろうか。しかし俺はこれしきのことで引き下がるほどヤワではない。
「お、俺ですよ。ナイスガイの緋村ですよ。常に自分をアゲアゲにする陽気な男です」
「むぅ……緋村か。おはよう。しかしついにヤンキーデビューか。凄い頭だな。ホウキみたいだぞ」
得心した先輩は腕組しながら俺の髪型をまじまじと見上げる。細部のディティールを気にしているのか俺の周りをぐるぐると回り始めた。
ああ、そうだった。モヒカンになってるんだった。
「先輩。俺はヤンキーじゃないですよ。どの角度から見ても真面目な好青年です」
「そうだな。葬儀屋の回し者だったな。私としたことがすまない」
「うがっ」
言葉の暴力にのけ反って倒れそうになる。
やっぱり誤解されてた。なんだよ葬儀屋って。
「お兄ちゃん。行こうよ」
「緋村の妹だったな。おはよう」
「あう、おはようございます」
ぐいぐいと俺の袖を引っ張って場から逃れようとしたものの、先輩のにこやかな笑みにどぎまぎしながらクーナは頭を軽く下げて会釈し、挨拶を返した。
人見知りの気はないのだが、好感情は持っていないようで居心地の悪そうに俺を影にして先輩と微妙に距離を取っている。
「昨日は『カストリ』に行ったんだが、休みだったのか?」
「え、ええ……」
まさか振られたと思ってふて寝していたなどといない。
『カストリ』とは俺がバイト先の店名だ。粕取り焼酎みたいな名前ではあるが、決して密造酒を作っているわけではなくホームセンターである。
先輩は常連であって、お得意様だ。
アクアリウムが趣味であって関連する水槽や水草、水棲生物のエサなどを買いに来る。
そこで知り合ったわけであるのだが……やはり、まだ俺は振られたわけではなさそうだ。
ならばもう一度勇気を出そう。勝負はまだ終わったわけではないようだし。
そうだ、まずは女心をつかむんだ!
「先輩、制汗剤を変えました? 何となく今日は違うっていうか……素敵っていうかいい匂いがするっていうか」
「変えてない。と言うより、その質問は完全に変質者の言だぞ」
「ですよねー。俺もそう思ってたんですよー」
初手から外した。チクショウ。次だ。次に違うポイントを探すんだ。どんな相手にも必ず弱点がある! 先輩の女心の弱点を探るんだ。
そうだ、今こそ心の目を使え。
かような窮地こそ我が瞳術が目覚めるとき! 心眼を開くのだ鉄次よ!
「お兄ちゃん。血眼になって異様な迫力が出てるよ。それじゃ、普通は引くよ」
後ろからボソボソと助言が来た。心なしか哀れむようなトーンだった。
俺がバーローの生霊を憑依合体させて必死に推理力を働かせているとキーンコーンカーンコーンと予鈴が鳴りやがった。
だが俺のゴングはまだ鳴っちゃいない。まだいけるはずだ。凝視しているとなんだか服の下の皮膚がぼんやりとだが見えてきた気もする。
よっしゃあっ! 開眼したぞ! 俺の見切りは伊達じゃねえ!
「今日の先輩は大胆な黒い下着ですね」
「せいっ!」
突然、後頭部にずしんと重い衝撃がきた。
まるで何者かに肘鉄が落とされたような感覚だった。
意識が遠のく。黄土色の地面が近くなり、砂利が俺の唇にぶつかった。口内に砂の苦い味が広がる。
「すいません、兄はちょっと朝から熱があって」
「いや……気にするな」
先輩は目の前で起こった家庭内暴力に戦慄しているようだったが、朦朧とした意識の俺は襟首をつかまれてズタ袋のように雑な扱いでずるずると引きずられ、昇降口に向かっていた。