-10-『水族館の展示物は触れてはいけません』
海王マリンパークの入場口には大王イカをモチーフとした模型がくっついていた。
大王イカはニコニコ顔。
カラフルな文字POPは『ウェルカム』と告げている。
水族館の目玉とすることだけあって、昼間なので点灯はしていないがイカの模型の形をした電飾があちこちに飾られていた。
観光客を出迎える円状のアーチの先には小階段があり、真新しいカマボコ型の海王水族館がそびえている。
休日ということもあってか、広大な駐車場はぎっしりと車で埋めつくされ。
船着き場が併設されていることもあってか人波は凄まじいものがある。
まるで大型駅の接点のように混雑していた。
目的地が水族館一本というわけでもなく、グルメや買い物を楽しむ人もいるようで別棟のショッピングモールへと吸い込まれている。
俺はマップ看板の前に向かったが、先輩が既に到着していた。
涼味のある水色ワンピース姿。飾り気は少ないがスリムな体型によく似合っていて、膝下からは乳白色のシースルー。清純さの中に含まれたほのかな色香を感じさせる。
白い靴のつま先が俺の方に向く。目尻が柔らかく垂れる。
「緋村、おはよう……なぜ、そんなにボロボロなのだ?」
「おはようございます。すいません、俺の目の前で急に電車が発車しちゃって、つい連結部に投げ縄しちゃって」
「急に牛が逃げたみたいな対処の仕方をするな。お前はカウボーイか」
「すいません。遅刻するよりいいかなと思って」
破れたジーンズについた土埃を手でぱっぱと払った。
せっかくのカフスボタンはどこかに吹っ飛んじまっているし、紫水晶は粉々になった。
テーラードジャケットは擦れて変色し、更に片方の袖も破れてなくなってオシャレはずたぼろだ。
投げ縄は丸めて背中に隠してあるが、実際にカウボーイの英才教育を受けたなどとアホな実情は告げたくない。
縄を頼りに走行列車と追走し、レールを駆けあがったので朝から大分と体力を使ってしまった。
「無理はするな。ほこりまみれだぞ」
「ダイナミック乗車しただけです。あ、ありがとうございます」
先輩は手提げバックからハンカチを取り出すと俺の額に押しつけた。
優しいことに頬に沿ってごしごしと泥汚れをぬぐってくれる。
香水でもつけてるのか、甘いに臭いがふわりと鼻腔をかすめた。
身長差はあまりないが、汚れを探して頭をぐらぐらさせているのでポニーテールが揺れている。
照れ臭くなって上体を反らすと先輩は困った顔をした。
しょうがないな、みたいな曖昧な笑み。
「さて緋村。デートということだが、私はその方面にはうとい。だが、年長者として精いっぱいエスコートしよう」
腕組みしての宣言は意気込みが感じられる。
「え、あっ、はい」
「行くぞ。任せておけ。海王マリンパークなら週五で来ている」
「多っ! 学校と同レベルじゃないっすか!」
先輩は意気揚々と前進していく。
アクアリウムが趣味なのは知っていたがまさかホームだとは思わなかった。
これじゃまるで新鮮味はないし、デートのドキドキ感が失われてしまう。
やばいよ。やばいよ。完全に失敗だよ。失着だよ。失着ってのは囲碁で間違った手を打つことだよ。
海王水族館の受付でチケットを渡すとお姉さんが「あら、ツッキー、今日も?」とかいってきた。何これ。常連を飛び越えて既にフレンドじゃん。あだ名で呼んでんじゃん。名前が月香だからツッキーとか俺も呼びたいじゃん。俺はテッチーじゃん?
「緋村。まずは入場シアターだ。館内のインフォメーションを自分がどの水棲生物に興味があるか調べるのだ」
「はい」
「私のお薦めは大森林コーナーだ。熱帯の地に生息している淡水の生き物は赴きある豊かな造形をしている」
「はい」
先輩の口調はいつものように落ちついているが、声の抑揚から興奮が見え隠れしていた。
それに精彩を帯びた瞳は喜色できらきらと輝いている。
照明の制御された青い絨毯の敷かれたフロワに足を踏み入れるとそれがいっそう、顕著になった。
踊るように身体を回転させて壁に設置された巨水槽を見回し、立ち止まったかと思えば手を組み合わせてうっとりと目を凝らし、遊泳する魚群を楽しんでいる。
「あそこで回転しているのがイワシの大群泳だ。まるで銀色の竜巻だな。群れで行動するのは生存戦略の一つであるが、あそこまで一つにまとまっている姿は実に壮観だ」
「ええ、どのくらいの数なんでしょうね」
ぐるぐる回っているイワシの群れは恐ろしい数だ。
けれども小さな身体の銀面はちゃんっと光沢があって一匹一匹ごとに生命力を感じさせる。
覗き込むと水槽は高く十メートルはあった。
壁代わりになった巨大水槽はどこかへと繋がっているのか、ほかにもあらゆる種類の海洋魚たちが自由に泳いでいる。
天井からまばゆい照明がきらきらと射しこみ、乱反射して素晴らしい演出だ。
頭上を横切っていたイワシの大群は旋回しながら尻尾を振って去っていく。
青々としながらも透明な世界の向こう側は明瞭だ。
海洋生物の野性味ある姿を観賞するには申し分ない。
「推定五万匹だ。小型だがマグロやカツオなどもいるな。回遊魚が中心とした渦潮大水槽でお出迎えは気持ちいいだろう。もちろん、あっちのコーナーも見応えがあるぞ」
スキップまでしている先輩はるんるん気分を隠さずに曲した水槽を指差した。
曲がり角にある熱帯魚コーナーだ。
四角形、三角形、フラスコ型、球体、目を楽しませる変わった水槽が壁に埋め込まれたり、鎮座していたりする。
色も大小も異なる不思議な熱帯の魚たち。
俺にわかるのは有名なエンジェルフィッシュやベタなどで、見栄えするカラフルで尾びれが大きく派手な魚くらいだ。
水草や岩石の配置をアクアリウムをやってる身上としては参考にしたいのだろうか。
鬼気迫る顔で先輩はスマホでばしゃばしゃと写真を撮り、更にメモ帳アプリでびっしりと文字を打ちこんでいた。
横目で窺うと怖いほど文章の羅列がある。
三十分ほど先輩はそうしていたが、やがてようやく満足したのか、ゆっくり顎を上下させた。
「サンゴと熱帯魚を同じところで飼育するのは難しい。白骨化した飾りサンゴを用いるケースが多いが、ここは本物ばかりだ」
「そうなんですか」
杖のように背筋を伸ばしたまま直立していた俺は疲労感を抑え込んで返答した。
サンゴの真贋など非常にどうでもいい。
どうでもいいが、先輩の好きなものは俺も好きにならなければなるまい。
今度、下調べをしてこよう。
「実に官能的だと思わないか」
「え?」
「さて、すまないなとき間を取らせて、次に行こう」
「え、あ、はい」
おや――俺の聴覚が一瞬だけ狂ったようだ。
清純さの塊である先輩の唇から公共の場ではNGっぽいワードが飛び出したような。
軽やかに身を躍らせる先輩に追従し、コーナーを曲がると通路が屋外へ繋がっていた。
アマゾンの熱帯雨林をモチーフにした密林コーナーだ。
演出として密集した枝葉が頭上を覆いかぶさるように橋の上に茂っている。
通路の下にはさらさらと小川のように流れる池。
泳ぐ川魚が跳ねている姿もあるが、ここは九官鳥やフラミンゴなども飼っているようで鳥類の看板もあった。
先輩は生息する魚の説明版に目を落とし、顎先を二つの指でなでている。
「緋村はアロワナのどこにエロさを感じる?」
「え、あ、ええっと」
き、聞き違いじゃねえ……さて、どうする鉄次?
お前は今、窮地に立っているぞ。
この受け答えのいかんは完全に分岐点だ。絶対に好感度を左右する。
まず、質問について考えてみよう。
アロワナにエロさ、か……なるほど、なるほどな。
さっぱり理解できないな。
うーん。ここは一つ。
魚類にそんなものはねえよぶっ殺すぞこのアマっ! と、胸ぐらをつかんで恫喝したい。
それなら話は簡単だ。
だが、それは断じてできん。
蒼井月香先輩は将来的に俺のスィートハーニィーになるお方。何もかも包み込むようなビック・ナイス・ラブを示さなければならない。
よし。落ちつけ鉄次、まずは深呼吸だ。
大体、真面目に応えるのもどうなんだ。
ボケに対してシリアスはノーじゃないか? そんなのは全然空気読めてないキメエ系男子のすることじゃないのか?
冗談の可能性もある。俺は身を屈ませて詮索するために顔色を窺った。
「……ん?」
返答を待つ――同志を見るような期待感のある目をしている。
くそっ! このアマ、マジで血迷ってる。
マジで俺が魚類に太刀魚っちまうと考えてやがる。
いくらエロに対してはなんにでも食いつくダボハゼの俺だってアロワナは無理だ。
ほんと、無理なんだよ。せめて人魚ならイケるけど、上半身が女体じゃないと厳しいよ。それだって結構ぎりぎりなのに。
どうする。どうすればいい。
人生でこんな難問に直面したのは初めてだ。
待ち時間はもうない。いつまでも黙っていないで答えなければ。
「……骨格ですね」
「ほう、いい着眼点だ」
当たった――俺の脳内イメージのスナイパー俺は完全に的に着弾させていた。
「アロワナが古代魚に分類されるのは化石として見つかったこともある。つまり――」
先輩の講釈は長くまどろっこしく、俺の耳を素通りした。
二人のあいだには感性の違いがある。認めなければならないようだ。俺が乗り越えるべき壁として。
声だけは美麗で音楽を聴いているような気持ちにさせられたのが救いではある。
大森林コーナーの道中はそれなりに楽しい。
透明度が高く、水深が浅いせいかピラニヤやアフリカ産の大ウナギなど泳いでいるのが下を向くだけでわかる。
上からしか実物が見えないが、きっちりと写真の展示などでわかりやすく生態が描かれている。
水棲生物だけでなく水際にはフラミンゴが一本足で集まっていた。
色彩豊かなオウムや枝を走るカメレオンの姿も見える。
通路の近くではマンゴスチンやパイナップルなどの南国果実も生ったままで、実際は香水だろうか差し掛かる度にほのかに甘い芳香がした。
目や鼻を楽しませることに主観を置いているのがわかる。
「緋村。タイガーフィッシュがいるぞ」
「ええ、牙が凄いやつですよね」
「うむ。この牙は見応えがあるな」
ざばっと橋下の貯水池からタイガーフィッシュをすぐいあげる先輩。
怪魚と呼ばれるその魚は一メートルを超え、丸太みたいに幅がある。
黄の体表に濁点のような黒点が混じりその身体はびっくりするほど肉厚だ。
大口から見える尖った牙は人間の指先ほど太く、さすがコンゴの殺人魚と呼び声高い。
先輩は脇に抱えたまま、ぴちぴちと暴れるタイガーフィッシュを抑え込む。
俺は笑顔のまま凍りついていた。
「どうっ、どうっ……うむ、学名でゴリアテと呼ばれるだけはある。淡水魚にしてはなかなかの大魚だ」
「先輩、ワイルドで素敵な面を見せて頂いて嬉しいのですが、展示物にタッチするのはよくないかと」
「大丈夫だ。私は自分の体温を下げることができる。魚が火傷しないようにな」
「いや、そんな特殊能力はともかく、衆目が集まってますから。目立つような行為は避けるべきかと。ていうか一瞬で捕獲しましたね。ほんと凄い早業ですよ」
「むっ、そうか……そうだな。さらばだ友よ」
通行人が瞠目して俺たちを見つめているのに気付いたのか、名残惜しそうに放流した。
束縛から解き放たれたはずのタイガーフィッシュも名残惜しいのか水面から顔を出して先輩を見つめている。
なんだ、このファンシーな光景は。
「先輩?」
「ああ、行こうか。つい、その、癖でな」
一瞬、羞恥で顔を赤らめた先輩は可愛らしかったが、とんでもない癖だ。
照れているのか速足になったが、ついていく。
空調の効きにくかった大森林コーナーが終わり、深海生物コーナーへと移動した。
藍色のLED照明が設置されて、大幅に光度は下げられている。
真夜中で水槽を見るような気分にさせられる狭い通路。
見たこともなく、名前もわからない様々なグロテスクな魚が白砂の上を遊泳している。
「変な女だと思ったか」
「はい、でも、誰でも変わったところが少しくらいあるものですよ」
ぼそりとしてためらいがちな質問に素直に答える。
俺だってグレイ女とテキサスカウボーイが共同でキャラクターメイキングして生まれた存在だ。
世間一般から見ればほんの少しだけだが、逸脱しているのは間違いない。
「クラスでもあまり適応できていなくてな……その、風土に馴染めないんだ」
「先輩は外国から転校してきたんでしたっけ」
「ああ、去年な」
どこから――いいかけて、口をつぐんだ。
――蒼井先輩は宇宙人だよ。
クーナの言葉が脳裏にリフレインする。
いいや、宇宙人だからどうしたっていうんだ。俺の愛読しているトラブルを起こしまくる漫画だってヒロインは宇宙人だ。
俺は別に先輩が西洋妖怪だったとしても受け入れる準備がある。
大和男である戦国武将の女体化が流行るこのご時世だ。
正直な話、可愛ければなんでも許される。
「緋村、やはりあとから来た者とはコミニティに属せないものなのだろうか。もちろんそれはテリトリーの侵害であることは承知しているのだが、生きるためによりよい環境を求めることは許されないのだろうか」
「えっと……なんだかわからないですけど、クラスメートと仲良くなれないなら他のクラスの人間と、あるいは俺みたいな下級生と仲良くなるのはどうでしょうか」
「……ああ。他の選択肢を探す、というのもあるな」
ふいっ、と先輩は俺に背中を向けて水槽に手をあてがった。
ほんのりとガラス面に触れながら、目の前の提灯アンコウを鑑賞する。
光る疑似餌で小魚を捕食する怪魚のぎょろ目は暗闇よりも真っ黒だ。
「私個人として、どんな生き物にも生きる権利があると思う。他の生態系を侵略することは悲しいことだが……生を勝ち取ることが罪なのか、と考えると迷いが生まれる。だから、元の場所に還したいんだ」
「先輩……」
――と、切ない声で呼びかけてみたものの何を言ってるのかさっぱりわかんねぇ。
どうしろっていうんだ。やはり、ここは後ろから抱きしめるパターンなのか。
無言で抱擁することで優しさをアピールすべきなのか。
先輩は無防備にも背中を俺に見せている。これはチャンスと捉えていいのではないか。戦場なら完全に殺れる位置に俺は立っている。
やっちまうか? あ? やっちまっていいのか?
落ちつ鉄次! ビィークールだ。冷静に考えろ。
俺と先輩の関係はまだ育ってきてない。いきなり背後からのハグは危険だ。
同意なしのタッチは平手打ちを食らう危険がある。それはそれで気持ちいいかもしれないし、俺は先輩がS女でも対応できる自信があるが、そうやって快感を求めるのはただの自己満足だ。まったくよくない。
ここはひとつ、愛の告白をしながら抱きしめるというのはどうだろうか?
好きだとか、愛しているとか、とりあえず言っておけば許される風潮を活用するのだ。
水族館の薄暗い空間は見ようによってはロマンチックな雰囲気がある。
周囲にグロテスクな深海魚が徘徊しているというマイナスポイントがあるが、幸いにして人気は少ない。
どさくさに紛れてナニをしたってバレることはない。
よぉし、気力がみなぎってきた。男ならやってやれだ。
呼吸を整えた。慎重に狙いを定める。
レッツゴー、テツジ!
「せ、せっせせせ先輩! おお、お、俺! 一目見たときからあなたのことが!」
「おや、新しいブースだ」
するりっ、と身をかわされた。
俺の両手は空振りして腕の中には誰もいない。
先輩は人だかりの方に足を向けていた。
ちっきっしょう! 思考に時間をかけすぎたようだ。なんたる失態だ。
「はぁーい。珍しい深海魚の寿司もありますよー。一皿百円ですー。どうぞご賞味ください」
行先ではハッピを着た金髪少女が簡易屋台で寿司を売っていた。
荒波の絵が描かれた半袖に唐草色の腰帯。
金髪をポニーテールにして髪をまとめ、意気込みを示すように鉢巻をして素早く寿司を握っている。
輝く笑顔を絶やさない素晴らしい店員だ。
しかし見覚えがある人物――あれはうちの妹さんだ。
俺の姿を見つけるとにやりとクーナの口角がにやりと歪んだ。




