しばたん。
犬は嫌いだ。飼い主に媚びる目が気に食わない。そのくせ、家人以外には無闇やたらと威嚇を仕掛ける。そうかと思えば誰にでも尻尾を振る。忙しなく駆け回る様には品がない。獣の体臭には鼻が曲がる。けたたましい吠え声には我慢がならない。
噛みつかれたり追いかけられたりといったトラウマがあるわけではないが、俺は犬が嫌いだった。もっぱら孤独を好む性格が、そういった嗜好に影響しているということもあるだろう。媚びることを嫌い、群れに属することを疎い、日陰と静寂を好んだ。社会不適合者と謗られても仕方のない性質ではあったが、だからと言って、一匹狼に喩えられることは甚だ心外であった。俺は山奥の清流にひっそりと生きる山椒魚のようでありたいのだ。
春は四月も末、桜もほとんど花を散らし、我が安アパートの近所で連日連夜行われていた花見の狂乱にも一段落がついた頃のことであった。俺は右手に提げたビニール袋をがさがさと揺らしながら、アパートまでの道のりを辿っていた。袋の中にはさっきコンビニで買ってきた夕飯と、それから酒が入っていた。散り残った桜を遅ればせながら愛でようと思い至ったわけではなく、これは花見の季節の終焉を祝うためのものである。近所の公園が桜の名所だったのが運の尽き、その騒々しさに耐えるのはまさに苦行だった。そんなことを考えながら歩いているとアパートに着いた。
「……ん」
アパートは二階建てで、外付けの階段がある。俺の部屋は一階にあるので、階段は部屋の下見の時くらいにしか使ったことがない。長年の風雨に晒されたせいで色褪せており、歩くと所々で軋んだ。俺の足を止めさせたのは、その階段の下にあるものだった。段ボール箱。愛媛みかん。新聞紙。
そして、子犬。
俺と子犬は一瞬見つめ合った。動物を捨てる行為は、その動物が犬であろうとなかろうと卑怯極まりないものである。この世の全ての事象には責任が付いて回る。飼い主の責任とは、自分の飼育する動物を適切に維持管理することだ。だがその責任が卑怯にも果たされないことがある。その場合、捨て犬の発見者が取り得る選択肢は三つある。すなわち、引き取って飼うか、しかるべき機関に連絡してしかるべき処置をしてもらうか。そして俺は第三の選択肢を選ぶことにした。ポケットから鍵を出し、自宅のドアを開けた。階段下の子犬は、段ボール箱に収まったまま、その黒い瞳で俺を見ていた。
「悪いな、犬は嫌いなんだ」
そもそも、アパートで犬は飼えない。
次の日の朝、子犬は昨日と同じ場所に居た。唯一違ったのは、そいつが真新しい水色のタオルにぬくぬくと包まっていたことだった。良心が痛んだ誰かが置いていったのだろうか。よく観察してみると、子犬の鼻面にはパンの食べ滓のようなものがこびり付いていた。このアパートの住人には犬好きが多いと見える。
俺が近付いていくと、子犬は段ボール箱の中で立ち上がり、尻尾を振った。犬がよく行う、例の仕草である。子犬はどうやら柴犬のようだった。体毛は薄茶色で、顔の下半分と腹は白かった。三角形の耳はピンと立っていた。さっきから振り回している尻尾は、かたつむりのようにくるりと渦を巻いていた。典型的な柴犬といった姿形だ。
さらに近付けば尻尾の回転速度はいよいよ増していったが、俺は子犬の前を素通りした。餌になるような食べ物は持っていなかったし、持っていたとしても与えてやる気はさらさらなかった。
自転車置き場まで行き、自転車の鍵を外していると、背後から何か音がした。軽いものが連続してアスファルトに当たるような音だ。振り返ると、子犬がいた。さっきの音は爪の音だったらしい。それはいいとして、まさかこいつは俺を追って来たのだろうか。子犬は頼りない足取りで歩いてくると、俺の足元にちょこんと座った。濡れたような眼でじっと見上げてくる。……何を要求されているのだろう。皆目見当がつかなかった。だがこの不可思議な生き物の行動原理を解明するには時間が足りなかった。あと十分程で講義が始まってしまうのだ。
「おい、そこ避けないと、危ないぞ」
何を言われているのか分からないというように、子犬は首を傾げた。実際分かるはずもないのだが。俺は少し焦っていた。時間は無いし、自転車を動かしたら轢きかねないような位置に子犬はいる。それで怪我でもされたら寝覚めが悪い。
俺は初めて子犬に触った。正しい抱き方など知らないので、クレーンゲームのように両側から手を入れて持ち上げた。情けないことに、傍から見ればかなりのへっぴり腰であっただろう。子犬の体は温かく、思いがけず重かった。俺は子犬が暴れださないことをただ祈っていた。そんな思いが伝わったか否か、柴犬の子は景品のぬいぐるみのように大人しくしていた。段ボール箱の中にそっと下ろすと、子犬は水色のタオルを噛み始めた。俺は急いで自転車を走らせ、大学へと向かった。
夕方から雨が降り出した。俺が帰路に就く頃には風も強くなり、わずかに残った桜の花びらも全て吹き飛んでしまうだろうと思われた。アパートが近くなってきたところで、強風に煽られて傘が壊れた。雨の中の傘差し運転は危険である。どのみち、横殴りの雨はとっくに俺の全身を濡らしていた。逆風の中で懸命にペダルを漕ぎ、ようやくアパートに帰還できた。疲れ切って自転車を停めたところで、子犬のことを思い出した。この雨の中、まだあそこにいるのだろうか。そう思いながら階段の下を覗き込んだ。
「……いない」
子犬の住処は酷い有様になっていた。幅の狭い階段はまともな雨よけにならず、雨粒に叩かれた段ボール箱は黒く変色して形を崩していた。水色のタオルも水を吸ってずっしりと重そうだ。そして、肝心の子犬の姿がない。良心ある誰かが部屋に入れてやったのだろうか。そう納得しかけた時、視界の端で何かが動いた。俺は階段下の奥の方に目を凝らす。暗闇に慣れると、その正体が分かった。三角定規でいう先端部分にあたる隙間に、子犬が縮こまっていた。辛うじて、雨が直接当たっていない所だった。少しでも乾いた場所を探した末、そこに行き着いたのだろう。だが子犬の毛は、既にぐっしょりと濡れているようだった。毛の先からぽたぽたと水の粒が滴る。震えているのだ。
思わず手を差し伸べていた。犬が嫌いとか、そういうことを考える前に体が動いた、半ば反射的な行動だった。子犬は俺の手をじっと見つめた。俺は水の溜まった地面に膝を付き、改めてゆっくりと指を伸ばした。子犬が一歩、前足を出した。微かな鼻息が指先にかかった。だがすぐに前足を引っ込めてしまう。駄目かと思った時、子犬は動いた。見るからにおぼつかない歩みで、そろそろと俺の方にやってきた。おっかなびっくり抱き上げると、そいつは、くぅんと鳴いた。
犬もくしゃみをするのだと初めて知った。慌ただしく着替えを済ませた後、子犬の濡れた体をバスタオルで拭く作業に取り掛かった。子犬は概ね大人しかったが、不慣れなことをしたせいで、せっかく着替えた服も少し濡れてしまった。まだ湿ったままの子犬はくしゃみをして俺をビビらせた後、床に置いていた座布団に頭を寄せて、「伏せ」の姿勢になった。時折、思い出したかのように尻尾を左右に振った。
俺はドライヤーで髪を乾かしながら、その様子を眺めていた。犬嫌いのはずの自分が、何故、犬を家に入れてしまっているのだろうと考えたが、それよりも子犬がまだ震えていることの方が気になった。震えはさっきより収まっていたが、まだ幾分寒そうだった。ちゃんと乾かしてやったほうがいいのだろうが――。
「……おお」
茶色い毛玉が部屋の中を探検していた。ドライヤーの力で完全に乾いた子犬は、洗いたてのぬいぐるみのようだった。腹を空かせているだろうと思ったので、食パンと牛乳を床に置いてみる。すると部屋の隅にいた子犬は彗星のような勢いで戻ってきて、それらをあっという間に平らげてしまった。面白がってもう一枚パンをやると、それも一瞬で食べてしまう。余程飢えていたのだろう。
さらにパンと牛乳を皿に足して、俺はベッドの上に寝転がった。生き物の世話をするのは久しぶりだった。とは言っても、金魚を飼育した経験くらいしか無いのだが。夏祭りで掬った指先ほどの大きさの金魚は、たまに餌やりを忘れられたりしながらもしぶとく生き延び、小さな鯉ほどの大きさにまで成長した。現在も実家の水槽で悠々と泳いでいる。
この子犬も成長したら可愛げのないくらい大きくなってしまうのだろうかと考えたところで、俺は我に返った。成長した姿など見られるわけもない。捨て犬の発見者が取り得る選択肢は三つ。一つは、飼うこと。このアパートに住む限り、それはできない相談だ。もしくは見て見ぬふり。これを俺は放棄してしまった。
「……あとは」
しかるべき機関に連絡する。俺は子犬を見下ろした。腹がいっぱいになった子犬は、いつの間にか座布団の上で丸くなって眠っていた。詳しい仕組みは知らないが、もし里親が見つからなければ、捨てられた動物は殺処分されるのだろう。そのことについて俺は否定も非難もしない。そうしなければいけない理由があるのなら、安易な批判は愚かでしかない。
ただ、手のひらに、ぬくもりが残っていた。
生きている温度だった。
雨が上がり、俺が近所のスーパーに行っている間に、子犬はいなくなっていた。空っぽの部屋を前にして、俺は立ちすくんだ。カーテンが風にそよいでいた。部屋のじめじめした空気を追い出そうとガラス戸を開け放しにしていた、そのせいだった。防犯の観点からしても迂闊この上ないが、なんとなく、子犬はどこにも行かないと思い込んでいたのだ。テーブルにビニール袋を置くと、犬用の缶詰が硬い音を立てた。テーブルの脇にどかりと座り込む。缶詰をぼんやりと眺めながら、俺は、自分が少しばかり浮かれていたことを認めざるを得なかった。
思い出していたのは、部屋を出た時の子犬の姿だ。子犬は日の当たる窓際にいた。魚肉ソーセージとパンと牛乳を平らげた後、どうやら気に入ったらしい座布団の上で丸くなっていた。茶色い背中がゆるやかに上下していたのを覚えている。
そういえば、昔は犬が好きだった。覚えている限りでは小学校高学年くらいまではそうだった。それがどうして嫌いになったかというと、犬の方が俺のことを好きになってくれないからだった。兄弟や友人らには懐く犬が、俺にはどうしても懐いてくれなかった。触ろうとすると唸られた。酷い時には、近付いただけで吠えられた。あからさまな拒否反応は、少年の繊細な心を折るには十分過ぎるほどであった。
それでも俺は、最後まで犬を好きでいたかった。けれどある日、気付いてしまった。
彼らに好いてもらえないのには何か理由があるのではないか?
犬を題材にしたテレビ番組で司会者が言うには「犬は相手の人柄を見る」のだそうだ。その意味を考えるのが怖かった。お前には何の価値も無いのだと突き放されているような気がした。だから、嫌いになることにした。嫌われていると分かっている奴を好きになる者などいない。俺が犬に嫌われているのは、俺が犬を嫌いだからだ。犬なんてこっちから願い下げだ、そう思っていた。
だから。
あいつが逃げないでいてくれた時、本当に嬉しかったのに。
聞き覚えのある、軽やかな音が耳に届いた。アスファルトの上を駆ける足音。ガラス戸を振り向くのと同時に、子犬が勢い良く部屋の中に飛び込んできた。カーペットに点々と黒い足跡が付く。雨上がりに外を歩けば泥だらけになるのも当然だろう。ジーパンの膝やシャツの前面にも肉球の模様が付いたが、まったく気にならなかった。真っ黒い瞳の中に、情けない顔をした俺が映った。子犬の巻き尻尾には、桜の花びらが付いていた。
「散歩してきたのか?」
言葉が分かったわけでもあるまいが、わん、と元気な返事があった。