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婚約破棄された公爵令嬢は、辺境伯に拾われて剣を取る ~「強すぎる女はいらない」と言われましたが、辺境では大歓迎でした~

掲載日:2026/10/03

「エレオノール・ド・ヴァリエール。今日この場をもって、君との婚約を破棄する」


 王宮の大広間に、若き王太子の声が響き渡った。


 秋の祝宴を彩っていた楽団は演奏を止め、つい先ほどまで談笑していた貴族たちも一斉に口を閉ざす。数百もの視線が広間の中央へ集中する中、エレオノールは手にしていたグラスを静かに傍らの侍従へ預けた。


「……理由を、お伺いしても?」


 自分でも驚くほど、声は震えていなかった。公爵令嬢として生まれて十七年、感情をむき出しにして取り乱すことが己一人の恥では済まされないことくらい、幼い頃から骨身に染みて理解している。


 だからこそエレオノールは背筋を伸ばし、婚約者である王太子アルフォンスを真っ直ぐに見つめた。


 煌びやかな金髪に、澄んだ青い瞳。白を基調とした礼装には金糸が惜しげもなく使われ、その姿だけを見れば物語に描かれる理想の王子そのものだった。しかし今、その整った顔には隠そうともしていない苛立ちが浮かび、こちらを見据える瞳には怒りとも憎しみともつかない感情が滲んでいる。


「理由など、君自身が一番よく分かっているはずだ」


「申し訳ございません。私には心当たりがございませんので、殿下のお口からお聞かせ願います」


「そういうところだ!」


 アルフォンスが声を荒らげた瞬間、広間の空気が張り詰めた。


「いつだって君はそうだ。何でも知っている。何でもできる。私が何か意見を述べれば、当然のようにより正しい答えを返してくる。剣を取れば近衛騎士を負かし、魔法を使えば宮廷魔導師にも引けを取らない。政治も歴史も法も、私より詳しいことさえ珍しくない!」


 そこまで一息に吐き出したアルフォンスは、それでも収まらないとばかりに拳を握った。


「エレオノール、エレオノール、エレオノール……どいつもこいつも、口を開けば君の話ばかりだ! 教師は『エレオノール嬢を見習われませ』と言い、騎士は『妃殿下になられる御方は素晴らしい』と褒め、父上まで私に『彼女に恥じぬ王になれ』と言う! 私は王太子だぞ。それなのに、なぜ私がいつも君と比べられなければならない!」


 大広間がざわめいた。そこまで露骨な感情を王太子が衆目の前で吐露するとは、誰も予想していなかったのだろう。


 しかしエレオノールには、すぐに返す言葉が見つからなかった。アルフォンスが並べたのは、少なくとも彼女にとっては非難されるようなことではなく、むしろ王太子妃となる者として求められた役目を果たすため、懸命に身につけてきたものばかりだったからだ。


「恐れながら殿下。それらはすべて、将来、殿下をお支えするために身につけたものでございます」


「私はそんなものを求めていない!」


 返ってきた言葉は、あまりにも早かった。


 その即答だけが、鋭い刃のようにエレオノールの胸へ深く突き刺さった。


 彼女は幼い頃から王太子の婚約者として育てられてきた。王妃となる者は国民の規範であり、国を知り、民を知り、必要とあらば自ら危地へ立つ覚悟まで持たなければならない。そう教えられ、それが当然なのだと信じて今日まで生きてきた。


 朝は剣を振り、昼は教師について学問を修め、夜になれば魔法理論の書物を開いた。礼儀作法や舞踏はもちろん、領地経営、外交、軍事学まで学び、炎の魔力を初めて剣へ纏わせることに成功した日には、手の皮が剥けるまで何度も失敗を繰り返した。


 辛いと思ったことがなかったわけではない。それでも続けられたのは、自分にはそれだけの責任があると信じていたからだ。王国を守れる人間になり、いつの日か王太子の隣に立ったとき、胸を張って国民に顔向けのできる王妃になる。そのための努力だった。


 なのに今、目の前の男は、それらすべてを自分は求めていなかったと言った。


「では……私は、何のために、これまで……」


 思わず零れた言葉に、アルフォンスは一瞬だけ言葉を詰まらせた。それでも、これまで積もり続けていた感情は、もはや止められないところまで膨れ上がっていたらしい。


「そういうところも嫌なのだ。君は何でも自分でできてしまう。私が手を貸す必要もなければ、私を頼る必要もない。それどころか、私が失敗すれば君が正して、私が知らなければ君が答える。そんな女が隣にいて、私がどう見られていると思う?」


「殿下……?」


「分からないのか? 君が褒められるたびに、私は比べられているんだ! 『エレオノール嬢はあれほど優秀なのに』、『王太子殿下ももっと励まれませんと』と、幼い頃から何度聞かされたと思っている!」


 そこでようやく、エレオノールは理解した。


 アルフォンスが嫌っていたのは、彼女の剣でも魔法でもなかった。自分が努力を続ければ続けるほど、それがアルフォンスにとっては自身の至らなさを突きつけるものになっていたのだ。


 もちろん、だからといってエレオノールには、自分が何を間違えたのか分からない。


「私は……殿下のお立場を奪おうと思ったことなど、一度もございません」


「そのつもりがなくとも同じだ! 誰も君にそこまで強くなれとは言っていない。女の身で剣を振るい、炎を撒き散らし、騎士たちまで打ち負かして何になる。君が強ければ強いほど、周囲の男の立場がなくなるとは考えなかったのか?」


 エレオノールは答えられなかった。彼の言葉を理解できないわけではないのに、それを自分への非難として受け止めることが、どうしてもできなかったのである。


 強くなることが誰かを傷つけるなど、考えたこともなかった。知識を身につけることが婚約者を苦しめるとも、国を守る力を得ることが王太子の立場を脅かすとも思っていなかった。


 アルフォンスは、そんな彼女の沈黙すら気に入らなかったらしい。


「王妃に必要なのは、夫を立て、民に微笑みかけることだ。敵兵を斬ることでもなければ、魔物を焼き殺すことでもない。君は昔から何でもやりすぎるんだ。剣も魔法も学問も、誰より上を目指して、まるで自分の力を周囲へ見せつけなければ気が済まないように!」


「私はそのようなつもりで――」


「ならば、そんなに自分の力を振るいたいのなら!」


 アルフォンスは苛立ち紛れに腕を振り、大広間にいるすべての者へ聞かせるかのように叫んだ。


「辺境にでも行けばいい! あそこなら魔物も敵兵もいくらでもいる。好きなだけ剣を振って、好きなだけ自慢の炎を見せつければいいだろう!」


 その瞬間、大広間が水を打ったように静まり返った。


 誰もが失言だと理解していた。


 王国北部の辺境は、深い森と険しい山脈に囲まれ、国外からの侵攻だけでなく強大な魔物の襲撃にも晒され続けている土地である。王都の貴族たちにとっては、華やかな宮廷から遠く離れた、好んで赴くような場所ではなかった。


 だからアルフォンスも、ただ彼女を侮辱するために口にしたのだろう。


 けれどエレオノールは、その言葉を聞いた瞬間、胸の内に別の考えが生まれていることに気づいた。


 辺境では今も魔物が人々を脅かしている。兵が必要とされ、剣を振るえる者が求められ、魔法を扱える者も不足している。ならばそこは、自分が今日まで身につけてきたものを、少なくとも不要だとは言わない場所なのではないか。


「……そうですわね」


 静かな返答に、今度はアルフォンスの方が怪訝そうに眉を寄せた。


「何?」


「殿下のおっしゃる通りなのかもしれません」


「エレオノール?」


「私の力が、この王都では必要とされていないのでしたら、それを必要としてくださる場所へ参ります」


 胸に手を当てると、確かに痛みはあった。十年以上をかけて積み上げてきた努力を、その努力を向けてきた相手本人から否定されたのだから、何も感じないはずがない。


 けれど、それと同時に不思議なほど頭は冴えていた。


 自分の努力が間違っていたのかどうかは、今ここでアルフォンスの言葉だけを聞いて決める必要はない。王都で不要だと言われたのなら、それを必要としてくれる場所があるのか、自分の目で確かめればいい。


「……は?」


 予想していなかった返答だったのだろう。アルフォンスの口が開いたまま止まる。


 エレオノールはそんな元婚約者へ向けてドレスの裾を摘み、これまで何千回と繰り返してきたものと寸分違わぬ、完璧な礼を取った。


「これまでお世話になりました、アルフォンス殿下」


「待て。私はそういう意味で言ったのでは――」


「婚約を破棄なさったのは、殿下でございます」


 ゆっくりと顔を上げると、ほんの少しだけ胸が軽くなったような気がした。


「でしたら、もう私がどこへ参ろうと、殿下には関係のないことでございましょう?」


 誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。


 アルフォンスは何か言おうとしていた。しかし、エレオノールはそれ以上言葉を交わすことなく身を翻す。大広間の扉へ向かって歩いていく彼女の背中を、先ほどまで声を荒らげていた王太子も、周囲にいた貴族たちも、ついに呼び止めることはできなかった。


 翌朝、公爵家へ戻ったエレオノールは、父親の執務室を訪れていた。


「北部へ行きたい?」


 父であるヴァリエール公爵は、娘の言葉を聞くなり珍しく目を丸くした。


「はい」


「昨日、王太子殿下から婚約を破棄された娘が、翌朝一番に言うことではないと思うが」


「私もそう思います」


「なら少しは休んでもいいのだぞ」


「十分休みました」


「まだ朝だが」


 父に指摘され、エレオノールはわずかに視線を逸らした。十分休んだというのは少々正確さに欠ける。実際にはほとんど一睡もしていなかったのだが、布団の中で泣き続けるより、これから何をするべきなのかを考えている方が彼女の性には合っていた。


 そんな娘の顔をしばらく眺めていた公爵は、やがて椅子の背へ深く身体を預けた。


「お前自身がどう考えているかはさておき、こちらにも少し厄介な事情がある」


「厄介な事情、でございますか?」


「今後のお前の縁談だ」


 思いも寄らない言葉に、エレオノールは瞬きをした。


 公爵は机の上で指を組み、父親というよりも一人の大貴族として娘を見る。


「お前はヴァリエール公爵家の令嬢だ。普通であれば、再び婚約相手を探すこと自体は難しくない。だが今回は相手が悪い。王太子殿下に婚約を破棄された令嬢となれば、話は別だ」


「私に何か問題があったと考えられる、と?」


「それもある。真相を知っている者ばかりではないからな。それ以上に面倒なのは、王家の顔色を窺う者たちだ。王太子が自ら婚約を破棄した女性を、喜んで息子の妻に迎えようとする家は多くない。殿下から恨みを買うのではないか、将来何か不利益を被るのではないかと、余計なことまで考える」


 言われてみれば当然の話だった。


 ましてやエレオノールは公爵令嬢である。家格だけを考えても釣り合う相手は限られており、そこへ元王太子妃候補という扱いづらい肩書きまで加わった。自分自身の能力とはまるで関係のないところで、今後の人生に大きな影響が出ることになる。


「つまり、父上としてもお困りなのですね」


「困っているとも。可愛い娘に良い相手を見つけてやりたい父親としても、公爵家当主としてもな。お前に釣り合う家柄で、未婚で、それなりの年齢で、なおかつ王太子殿下との一件を恐れず婚姻を結べる男となると、探すだけでも相当骨が折れる」


「申し訳ございません」


「お前が謝るな。婚約を破棄したのは殿下だ」


 父はきっぱりと言い切った。その言葉に、昨夜から胸のどこかに残っていた緊張がわずかに緩む。


「それに、だからといって急いで誰かに嫁がせるつもりもない。お前には少し時間が必要だろうし、王都を離れるという選択そのものには私も反対ではない。ただし、北部へ行くとなれば話は別だ」


「危険だから、ですか?」


「それ以外に何がある」


 エレオノールは父の視線を受け止めたまま、昨夜から考えていたことを説明した。


「北方辺境では近年、魔物の活動が活発化しております。春には砦が一つ放棄され、昨月には二つの村が襲撃を受けました。辺境伯レオンハルト・フォン・エーベルハルトは三度にわたり王都へ増援を要請しておりますが、中央も東部国境への対応に追われ、十分な兵力を送れておりません」


「……よく調べているな」


「王太子妃になる予定でしたので、王国各地の情勢については一通り把握しております」


 一瞬だけ父の表情が曇ったものの、エレオノールはあえてそこには触れなかった。


「それで、お前が行くと?」


「はい」


「公爵令嬢一人で軍隊の代わりになるつもりか」


「そこまでの働きができるかは分かりませんが、軍隊一つ分くらいを目標に努力いたします」


 娘が真顔で答えると、公爵は額へ手を当てた。


「そういうところを王太子は嫌ったのだろうな」


「昨日、よく理解いたしました」


「私は好きだが」


 その言葉を聞いて、エレオノールはようやく小さく笑った。


「ありがとうございます、お父様」


「好きだからこそ心配しているのだ。北部は、お前が考えている以上に厳しい土地だぞ。それに、レオンハルト辺境伯も相当な男だ」


「存じております」


「二十三で家督を継ぎ、それから五年間で北方の魔物被害を半減させた。剣の腕だけなら王国最強とも言われている」


「はい。それも存じております」


「ならば、奴の魔法属性は?」


「ございません」


「そうだ。それにもかかわらず、魔力そのものを無理やり圧縮して敵へ叩きつける。魔術師どもが見れば卒倒するような戦い方をするらしい」


 普通ならば、その説明を聞けば多少なりとも不安を覚えるところなのだろう。しかしエレオノールはむしろわずかに身を乗り出した。


「……興味があります」


「そこに興味を持つな」


 公爵は深い溜息をついたものの、娘の決意が変わらないことは十分に理解したらしい。


「分かった。紹介状を書く。ただし、一人で行かせるつもりはない」


「もちろん護衛はお願いするつもりでしたが――」


「もう呼んである。入れ」


 父が扉へ向かって声をかけると、待っていたかのように執務室の扉が開いた。


「お呼びですか、公爵閣下」


 軽い調子で姿を現したのは、騎士服に身を包んだ若い男だった。


 名をクロード・ド・ラヴァルという。


 二十五歳。地方伯爵家の三男に生まれ、家督を継ぐ必要がないことをこれ幸いと若い頃から剣を振り回し、数年前からヴァリエール公爵家に仕えている。明るい栗色の髪に琥珀色の瞳を持つ、黙って立っていれば舞踏会でも令嬢たちの視線を集める程度には整った顔立ちの青年だった。


 問題は、あまり黙っていないことである。


「お嬢様、北部へ行くんですって? いやあ、昨日婚約破棄されて今日には辺境行きを決めるとは、相変わらず行動が早い。普通のご令嬢なら一週間くらい泣いてから決めるところですよ」


「クロード」


「はい、閣下」


「次に余計なことを言ったら給金を減らす」


「今のは励ましだったんですが」


「なら励まし方を学べ」


 父に睨まれても、クロードは悪びれる様子もなく肩をすくめた。


 口は軽い。


 態度も軽い。


 女性を見ればとりあえず褒めるため、公爵家の侍女たちからの評価も両極端である。


 ただし剣を持たせれば話は変わる。


 公爵家の騎士団でも五本の指に入る使い手であり、護衛任務の経験も豊富だった。エレオノール自身も何度か彼と模擬戦をしたことがあり、その腕について疑ったことはない。


「クロードを護衛につける。道中だけではなく、北部でもしばらくお前の側に置け」


「承知いたしました」


「いやあ、光栄ですね。美しいご令嬢との長旅なんて――」


「クロード様」


 今度は、背後から冷ややかな声が飛んだ。


 いつの間にか開いた扉の脇に、一人の侍女が立っている。


 艶のある黒髪を隙なくまとめ、紺色の侍女服を寸分の乱れもなく着こなした少女だった。名はセシル。幼い頃からエレオノール付きとして仕えている侍女で、年齢も彼女とそう離れてはいない。


「お嬢様への軽口は、旅立つ前にお控えになることをおすすめいたします」


「セシルちゃん、相変わらず俺への当たりだけ強くない?」


「公平に評価しております」


「それでその評価?」


「はい」


 間髪入れずに返され、クロードが胸を押さえた。


「傷ついた」


「剣で斬られても平然としている方が、その程度で傷つくとは存じませんでした」


「ほら、お嬢様。こういうところですよ、この子」


 助けを求めるようにこちらを見るクロードに、エレオノールは少しだけ考えた。


「私はセシルが正しいと思います」


「味方がいない」


 公爵が疲れたように眉間を揉んだ。


 けれど、不思議とエレオノールの胸は先ほどより軽くなっていた。


 昨夜までは、自分の人生そのものが突然途切れてしまったように感じていた。王太子妃になる未来を失い、今後の婚姻さえ容易ではないと言われたばかりなのに、それでも自分には帰る家があり、心配してくれる父がいて、共に来てくれる者までいる。


「セシルも同行するのですね?」


「もちろんでございます」


 彼女は当然のことのように答えた。


「お嬢様がお一人で辺境へ行かれるという選択肢は、最初からございません」


「危険かもしれませんよ」


「存じております」


「寒いとも聞いております」


「防寒具はすでに準備を始めております」


「……仕事が早いですね」


「お嬢様ほどではございません」


 淡々とした返答だったが、エレオノールにはそれがセシルなりの冗談だと分かった。


 公爵は三人を見渡したあと、机の引き出しから便箋を取り出した。


「紹介状を書く。ただし、嫌になったらいつでも帰ってこい。婚約がなくなったところで、お前が私の娘であることは何一つ変わらない」


 その言葉には、昨日どんな慰めを受けたときよりも胸が熱くなった。


 エレオノールは今度こそ深く頭を下げた。


 三日後、王都を離れる馬車の窓から、エレオノールは遠ざかっていく城を眺めていた。


 向かいの席ではセシルが旅程表と荷物の目録を確認しており、馬車の外からは護衛騎士たちと軽口を叩くクロードの声が聞こえてくる。


 あの場所で生きるために磨いてきた剣も、あの場所を守るために鍛えてきた魔法も、アルフォンスからは必要ないと言われた。今まで学んできた知識さえも、彼にとっては自分の立場を脅かす邪魔なものだったらしい。


 だからといって、それらすべてに本当に価値がなかったのかどうかまで、彼一人の言葉で決めるつもりはなかった。


 エレオノール自身の膝には、一振りの剣が置かれている。長年使い込まれた白銀の鞘、その内側には彼女が最も得意とする炎の魔力を受け止めるための術式が刻み込まれていた。


 その柄へそっと手を添えながら、エレオノールは窓の外へ視線を向ける。


「辺境、ですか」


「楽しそうですね、お嬢様」


 目録から視線も上げず、セシルが言った。


「そのように見えますか?」


「少なくとも、昨夜よりは」


 短い答えに、エレオノールは小さく笑った。


 胸の奥にはまだ痛みがある。それが消えるまでには、きっともう少し時間が必要なのだろう。


 それでも、自分の積み重ねてきたものが本当に無意味だったのか、その答えだけは自分自身の目で確かめたいと思っていた。


 北の大地には、彼女の剣を必要としている人々がいる。


 そして、その地を守る辺境伯レオンハルト・フォン・エーベルハルトは、エレオノールがこれまで出会った誰よりも強い男だった。


◇


王都を発ってから六日。


 街道の景色は、進むにつれて目に見えて変わっていった。なだらかな丘陵と整備された農地はいつしか姿を消し、代わりに鬱蒼とした針葉樹の森と、遠く雪をいただく山々が馬車の窓を埋めるようになる。道そのものは想像していたより整備されていたが、行き交う人の数は明らかに少なく、時折すれ違う荷馬車にも必ず武装した護衛がついていた。


「ずいぶん空気が変わりましたね」


 窓の外を眺めながらエレオノールが呟くと、向かいに座るセシルが旅程表から顔を上げた。


「この先から正式にエーベルハルト辺境伯領へ入ります。予定どおりであれば、夕刻までには最初の宿場町へ到着するはずです」


「予定どおりであれば、ねえ」


 馬車の外から、クロードの声が聞こえた。


 彼はこの数日ほとんど馬上で過ごしており、今も御者台の横を並走している。出立直後こそ旅を楽しむように軽口を叩いていたものの、北へ進むにつれて周囲へ向ける視線は鋭くなっていた。


「何かありますか?」


「ありますよ。森が静かすぎます」


 返ってきた声には普段の軽さが残っている。だが、その直後にクロードが片手を上げるのを見て、護衛騎士たちがほとんど同時に馬の速度を落とした。


 エレオノールも窓から身を乗り出し、周囲へ視線を向ける。風が枝葉を揺らす音は聞こえているのに、鳥の声がない。小動物が藪を駆ける気配もなく、街道を包む森全体が何かに息を潜めているようだった。


「セシル」


「はい。こちらに」


 セシルは足元に置かれていた白銀の鞘を取り上げ、当然のように差し出した。


「ありがとうございます」


「できれば抜かずに済むことを祈っております」


「私もです」


「そこは本当ですか?」


「もちろんです」


 答えながら剣を腰へ佩いたところで、馬車が止まった。


 ほぼ同時に、先頭を進んでいた護衛騎士の一人が叫ぶ。


「前方、何かいる!」


 森の奥から、低い唸り声が響いた。


 最初に現れたのは巨大な狼だった。ただし、王都周辺で見かける獣とは明らかに違う。馬ほどもある身体には黒い毛が密集し、背中からは骨のような棘が何本も突き出している。開かれた口から漏れる息には薄い紫色の魔力が混じり、鋭い牙の隙間から涎が糸を引いていた。


「魔狼……にしては、大きいですね」


 エレオノールが馬車を降りると、クロードが馬から飛び降りながら剣を抜いた。


「北の魔物は育ちがいいんでしょうねえ。お嬢様、馬車から出なくてもいいですよ」


「クロード」


「はい」


「私を誰だと思っています?」


「そう言うと思ってました」


 諦めたように笑いながらも、クロードはエレオノールの前へ出ようとはしなかった。それが彼なりの信頼なのだと分かっているからこそ、エレオノールも余計な言葉は返さない。


 一頭目の魔狼に続き、森の中から次々と影が姿を現した。五頭、七頭と数を増やし、さらに木々の奥にも複数の気配が蠢いている。


「十……いや、十五はいますね。群れにしても少し多すぎる」


 クロードが周囲を見回す。護衛騎士は六名、加えてクロードとエレオノールがいるため、数だけなら対処できない相手ではない。ただし、馬車とセシルを守りながら戦うとなれば話は別だった。


「私が正面を受け持ちます。クロードは左右から回り込む個体を」


「了解。お嬢様に命令されるの、久しぶりですね」


「不満ですか?」


「まさか。こういうときのお嬢様は頼りになりますから」


 言い終わるより先に、一頭の魔狼が地面を蹴った。


 巨体からは想像できない速度で距離を詰め、エレオノールの喉笛を狙って牙を剥く。彼女は半歩だけ前へ出ると、白銀の剣を抜き放った。


 刀身を赤い光が包み、流し込まれた魔力が炎へと変換される。魔力を剣身へ纏わせる動作は、幼い頃から繰り返してきた鍛錬によって、呼吸をするのと大差ないほど身体に馴染んでいた。


「――はっ!」


 横薙ぎの一閃が魔狼の前脚を捉えた。


 鋼より硬いと言われる骨ごと断ち切り、燃え上がった刃がその胴まで深く食い込む。勢いのまま身体を捻ると、赤い軌跡を描いた剣が魔狼を地面へ叩き落とし、焼け焦げた獣の臭いが周囲へ広がった。


「相変わらず容赦ないですねえ」


「襲ってきた魔物に加減をする理由がありますか?」


「ないですね」


 クロードも笑いながら一頭の喉を斬り裂いた。


 その腕は確かだった。軽薄そうな外見と普段の言動から忘れそうになるが、ヴァリエール公爵家の騎士団でも上位に数えられる男である。襲いかかってきた魔狼の牙を紙一重でかわし、そのまま首筋へ剣を滑り込ませる動きには無駄がない。


 エレオノールも二頭目へ向かった。


 今度は炎をさらに強くする。剣身へ流し込んだ魔力が赤から橙へ変わり、熱気によって周囲の空気が揺らいだ。


「お嬢様、右です!」


 クロードの声よりも早く、気配で分かっていた。


 右から飛び込んできた一頭を回転しながら斬り払い、そのまま正面の個体へ踏み込む。炎を纏った剣が二本の赤い軌跡を描き、二頭の魔狼がほとんど同時に崩れ落ちた。


 護衛騎士たちから小さなどよめきが上がる。


 エレオノールにとっては、それほど特別なことではない。王太子妃となる者として、どのような危機にも対応できるだけの力を持つ。そのために何年も繰り返してきた鍛錬の成果を、必要な場所で使っているだけだった。


 それでも、アルフォンスの言葉が一瞬だけ脳裏をよぎった。


 女の身で剣を振るい、炎を撒き散らして何になる。


 今までなら、その言葉を思い出すだけで胸の奥が痛んだのかもしれない。けれど、目の前では自分の剣によって護衛たちの負担が減り、馬車の中ではセシルが無事に待っている。少なくとも今この瞬間、自分の力は誰かを守るために役立っていた。


「……やはり」


 小さく呟きながら、剣を構え直す。


 自分がしてきたことは、間違いではなかった。


 そう思った直後だった。


「お嬢様!」


 クロードの声が鋭くなる。


 森の奥で木々が大きく揺れ、先ほどまでの魔狼とは比較にならないほど強い魔力が近づいてきた。


「まだいるのですか?」


「いるというか……これはちょっと、聞いてませんね」


 現れたものを見て、さすがのクロードも笑みを消した。


 木々を押し倒しながら街道へ姿を現したのは、魔狼と呼ぶにはあまりにも巨大な獣だった。全長は五メートルを超えているだろう。黒い体毛の間には赤黒い結晶がいくつも突き出し、額には湾曲した二本の角が生えている。吐き出される息だけで周囲の草木が黒く変色していくことから見ても、通常の魔狼とは別種か、あるいは長い年月を生きて変異した個体に違いない。


「上位種ですか」


「たぶん。俺、あれとやったことないですよ」


「私もありません」


「その顔、ちょっと嬉しそうじゃないです?」


「気のせいです」


「絶対そうだ」


 軽口を交わしている間にも、巨大な魔狼は地面を抉りながら前進してくる。護衛騎士たちは馬車を囲み直し、クロードも剣を構えてエレオノールの横へ並んだ。


「二人で行きますか」


「ええ。私が注意を引きます。その間に脚を――」


 最後まで言い終えることはできなかった。


 空気そのものが震えたからだ。


 次の瞬間、森のさらに奥から何かが飛来した。


 魔法の矢でも、炎でも、雷でもない。目に見えるほど高密度に圧縮された、純粋な魔力の塊だった。


 それが巨大な魔狼の横腹へ直撃する。


 轟音とともに巨体が地面から浮き上がり、五メートルを超える魔物が子供に蹴られた毬のように吹き飛んだ。一本、二本と木をへし折り、数十メートル先でようやく地面へ叩きつけられる。


「……え?」


 エレオノールだけでなく、その場にいた全員が動きを止めていた。


「今の……魔法ですか?」


「いやあ、俺に聞かれても分かんないですね」


 クロードが引きつった笑いを浮かべる。


 森の中から馬の蹄の音が聞こえてきた。


 やがて木々の隙間から黒い馬が姿を現し、その背に跨った男を見た瞬間、エレオノールはすぐに誰なのか理解した。


 黒髪に青灰色の瞳。黒を基調とした軍装の上には、灰色の毛皮がついた外套を羽織っている。かなりの長身で、馬上にいるため正確には分からないものの、王都で見慣れた貴族の青年たちより明らかに体格が大きかった。華美な装飾はほとんどなく、腰には実戦用としか思えない大剣が吊られている。


 整った顔立ちをしているのに、第一印象として浮かんだのは、美しいという言葉ではなかった。


 強い。


 それが何より先に、エレオノールの頭へ浮かんだ。


 男は彼女たちへ目を向けるより先に馬から降りた。


 吹き飛ばされた巨大な魔狼は、まだ生きている。怒り狂ったように立ち上がると、唸り声を上げながら男へ向かって突進した。


「危ない!」


 護衛の誰かが叫んだ。


 しかし男は剣すら抜かなかった。


 右手を前へ出すと、周囲の魔力がその掌へ吸い寄せられていく。属性への変換は行われず、炎にも水にも風にもならないまま、純粋な魔力そのものが強引に圧縮されていった。


 エレオノールは思わず目を見開く。


「そんな……」


 理論上、不可能ではない。


 だが、あまりにも非効率だった。魔力は属性へ変換することで制御しやすくなり、術式を通すことで安定した形を持たせる。それを何の属性にも変えず、まともな術式すら介さず、ただ膨大な魔力と制御力だけで押し固めて敵へぶつけるなど、魔術師であれば真っ先に避ける方法だった。


 男は、それを当然のように行っている。


「伏せろ」


 低い声が響いた。


 次の瞬間、圧縮された魔力が放たれる。


 一度目とは比べ物にならない衝撃だった。


 巨大な魔狼の頭部が魔力塊に呑み込まれ、そのまま地面へ叩きつけられる。爆発したわけでも、燃えたわけでもない。ただ途方もない力を正面から叩きつけられ、巨大な身体が大地へ深く沈み込んだ。


 今度こそ、魔狼は動かなかった。


 森に静寂が戻る。


 エレオノールは自分の手にある剣を見下ろした。


 炎を纏わせた刃には自信がある。近衛騎士とも渡り合え、宮廷魔導師たちからも魔法制御について高い評価を受けてきた。その自負が失われたわけではない。


 ただ、目の前の男がやってみせたことは、それとはまったく別の次元にあった。


「……すごい」


 気づけば、そんな言葉が口から零れていた。


 男がようやくこちらを見る。


 鋭い青灰色の瞳がエレオノールを捉え、その視線が彼女の顔から手にした剣へ移る。まだ刀身には炎が残り、周囲にはエレオノールたちが仕留めた魔狼が倒れていた。


「それを斬ったのは、お前か?」


「……はい」


「そうか」


 男は周囲に転がる魔狼の死骸を見回したあと、もう一度エレオノールへ視線を戻した。


「強いな」


 それだけだった。


 嘲りもなければ、驚きもない。ましてや、女なのに、という前置きすらない。


 強いから、強いと言った。


 エレオノールは一瞬、返事を忘れてしまった。


「……ありがとうございます」


 ようやくそれだけを返すと、男は小さく頷いた。


「レオンハルト・フォン・エーベルハルトだ。この一帯を預かっている」


 やはり、とエレオノールは思った。


 彼女は剣を納めると、乱れた衣服を簡単に整えて姿勢を正した。


「エレオノール・ド・ヴァリエールと申します。父、ヴァリエール公爵より、閣下への紹介状を預かっております」


「ヴァリエール……?」


 レオンハルトがわずかに眉を寄せた。


 何かを思い出そうとするようにエレオノールの顔を見つめ、数秒後、ようやく記憶が繋がったらしい。


「王太子殿下の婚約者ではなかったか」


「先日までは」


 エレオノールがそう答えると、レオンハルトの表情が初めて明確に変化した。


「……先日までは?」


「婚約を破棄されました」


 予想していなかったらしく、レオンハルトは少しだけ目を見開いた。


「そうだったのか」


 それから一拍遅れて、わずかに気まずそうに視線を逸らす。


「すまない。知らなかった」


 あまりにも素直な反応だったので、エレオノールの方が少し拍子抜けした。


「お気になさらないでください。父からこちらへ便りを送ったはずなのですが」


「ああ、それならなおさら俺は見ていないだろうな」


「届いていないのでしょうか?」


「おそらく城には届いている」


 レオンハルトは周囲の森へ視線を向けた。


「ここしばらく魔獣の動きが活発でな。巡回と討伐が続いていて、俺自身が城へ帰っていない。今から戻るところだった」


 そう言われて改めて見れば、確かに彼の格好は貴族令嬢を迎える辺境伯のものには見えなかった。外套の裾には泥がつき、革製の手袋にも新しい傷がある。黒い軍装には乾いた土埃が残り、長時間馬上にいた者特有の疲労も、ごくわずかではあるが表情に滲んでいた。


 それでも先ほどの魔獣を、ほとんど一方的に打ち倒したのである。


「閣下ご自身が、これほど長く討伐へ?」


「人手が足りないからな」


 レオンハルトは当然のことを説明するように答えた。


「大きな群れや上位種が出れば、俺が出た方が早い。ここ数日は特に数がおかしい」


 その言葉を聞いて、エレオノールは街道に転がる魔狼たちを見回した。


 自分たちが到着した日にたまたま遭遇したというわけではないらしい。王都にまで届いていた報告より、辺境の状況は悪化している可能性がある。


「では、増援を求めておられたというのも」


「三度送った」


「やはり」


 エレオノールが頷くと、今度はレオンハルトが彼女を見た。


「知っているのか?」


「王国各地の情勢については、一通り学んでおりましたので」


「そうか」


 それだけ言うと、彼の視線が再びエレオノールの剣へ落ちる。


「剣は使える様だな」


「はい」


「魔法は……炎属性か、剣に纏わせる……器用だな」


「得意としております」


「馬には?」


「乗れます」


「魔獣を斬ることに抵抗は?」


「ご覧の通りです」


 レオンハルトはそこで初めて、ほんのわずかに口元を緩めた。


「なら、歓迎する」


「……え?」


「今の北部には、戦える者はいくらいても足りない」


 あまりにも簡潔な答えだった。


 公爵令嬢だからでもなければ、元王太子妃候補だからでもない。


 剣を使えるから。


 魔獣と戦えるから。


 だから必要だと言われた。


 胸の奥で、王宮を出た日から燻り続けていた何かが、ほんの少しだけほどけた気がした。


 その横で、クロードが小声で呟く。


「お嬢様」


「何です?」


「俺、あの人とは喧嘩しないことにします」


 エレオノールは思わず少しだけ笑った。


「賢明ですね」


「でしょう?」


 そんな二人を見ていたレオンハルトが、怪訝そうに眉を寄せる。


「何か問題があるのか」


「いいえ。何もございません、辺境伯閣下」


 そう答えながら、エレオノールは改めて目の前の男を見上げた。


 どうやら辺境という場所は、自分が想像していた以上に興味深い場所らしい。


◇


魔狼の死骸については、後から回収部隊を寄越すことになった。


 レオンハルトが同行していた騎士の一人へ場所と数を伝えると、その騎士は慣れた様子で頷き、一足先に城へ向かって馬を走らせていく。どうやらこの辺境では、街道で魔獣と遭遇し、その処理について指示を出す程度のことは珍しくもないらしい。


「このまま城まで案内する。日が落ちる前には着くはずだ」


「ありがとうございます」


 エレオノールたちの馬車を先導するように、レオンハルトが黒馬を進ませる。


 そこから一時間ほど進むと、鬱蒼としていた森が途切れ、視界が一気に開けた。


 眼下に広がったのは、エレオノールが想像していた辺境とは少し違う光景だった。山裾から流れる大きな川に沿って石造りの街並みが広がり、その中心を太い街道が貫いている。王都ほど華美ではないものの建物はどれも堅牢で、人々が行き交う市場には野菜や干し肉だけでなく、魔獣から採取したらしい素材まで並べられていた。


 さらにその奥、小高い丘の上には巨大な城が建っている。高い城壁と複数の見張り塔を備えたその姿は、貴族の優雅な居城というよりも、外敵を迎え撃つために築かれた要塞に近かった。


「もっと寂しい土地を想像していました」


 思わず零したエレオノールの言葉を、隣を進むクロードが拾った。


「俺もですよ。辺境っていうから、酒場と鍛冶屋が一軒ずつあって、あとは雪と熊くらいかと思ってました」


「クロード様」


 馬車の窓から、セシルの冷たい声が飛ぶ。


「辺境の皆様に大変失礼です」


「まだ誰にも聞かれてないでしょ?」


「私が聞いております」


「それは失礼しました」


 そんな軽いやり取りを交わしているうちに、一行は城下へと入った。


 すると、その直後から奇妙なことが起こり始めた。


「あれ?」


 露店の主人がレオンハルトに気づき、目を丸くする。次の瞬間には満面の笑みを浮かべ、通りへ身を乗り出した。


「辺境伯様じゃねえか!」


 その声をきっかけに、周囲の人々が一斉にこちらを見る。


「閣下だ!」


「帰ってきたぞ!」


「おかえりなさい、辺境伯様!」


 市場のあちこちから声が上がった。野菜を並べていた老婆が手を振り、荷運びをしていた若者たちも作業の手を止める。店先から子供たちが飛び出してきたかと思えば、その後ろから慌てた母親が追いかけてきた。


「閣下、五日ぶりじゃないですか!」


「ああ」


「また森に入りっぱなしだったんでしょう? ちゃんと飯食ってます?」


「食っている」


「どうせ干し肉でしょう!」


「干し肉も飯だ」


「そういうところですよ!」


 周囲から笑いが起こった。


 レオンハルト本人は、ことさら愛想を振り撒いているわけではない。それでも呼びかけられれば必ず答え、怪我をしたという男には状態を尋ね、家畜が魔獣に襲われたという農夫には担当者を寄越すと約束している。人々もまた、領主に対する畏怖より、長く顔を見なかった知人がようやく帰ってきたことを喜んでいるように見えた。


 やがて幼い子供が一人、母親の手を振り切ってレオンハルトの馬へ駆け寄った。


「伯爵さま!」


「危ないぞ」


 レオンハルトはすぐに馬を止め、その子供が勢い余って転ぶより先に片腕を伸ばした。


「お父ちゃんがね、この前、伯爵さまに助けてもらったって!」


「そうか」


「ありがとう!」


「ああ」


 それだけ答えると、レオンハルトは子供の頭を大きな手で一度撫で、追いついてきた母親へ返した。


 馬車の中からその様子を見ていたエレオノールは、しばらく言葉を発することができなかった。


 王都にいた頃、辺境伯レオンハルトについて耳にした噂はいくつかある。北方の野蛮人、魔獣を素手でも殺しかねない豪傑、酒樽を抱えて飲み、気に入らない相手は決闘で黙らせるような男。最後の二つについては、今となっては誰が言い始めたのかも思い出せない。


「……噂というものは、あまり当てになりませんね」


 エレオノールが呟くと、セシルも窓の外へ目を向けた。


「野蛮で豪胆な方、と伺っておりましたが」


「豪胆という部分については、間違っていないかもしれません」


 先ほど魔力の塊で巨大な魔獣を地面へ叩きつけた光景を思い出せば、そこだけは否定しづらい。ただし、少なくとも野蛮という評価については、今ここで訂正する必要がありそうだった。


「私も同感です」


 少なくとも、領民たちは彼を恐れてはいない。


 むしろ逆だった。


 五日ぶりに領主が帰ってきたというだけで、城下町全体が少し賑やかになっている。家々の窓から顔を出す者までおり、レオンハルトがこの土地でどのように見られているのかは、言葉で説明されるよりはるかに分かりやすかった。


 やがて一行は城門へ到着した。


 近くで見るエーベルハルト城は、さらに要塞らしい造りをしている。城壁は王都の貴族邸とは比較にならないほど厚く、門の上には大型の弩を設置するための台座まで設けられていた。


 門兵はレオンハルトを見るなり背筋を伸ばした。


「閣下、お帰りなさいませ!」


「ああ。変わりは?」


「大きなものはありません。ただ、ユリウス様が相当お待ちです」


「……そうか」


 それまで魔獣を相手にしてもほとんど動かなかったレオンハルトの表情が、ほんのわずかに曇った。その変化を見逃さなかったエレオノールが首を傾げる。


「何か問題でも?」


「いや。たぶん、俺が怒られるだけだ」


「辺境伯閣下が?」


「ああ」


 その理由は、城の中庭へ入るとすぐに判明した。


「レオンハルト様」


 静かな声が響いた。


 城の正面玄関前に、一人の青年が立っている。


 年齢はレオンハルトと同じくらいだろうか。灰色がかった銀髪をきっちりと後ろへ流し、細身の眼鏡を掛けている。濃紺の上着には文官用の徽章がついており、手には何枚もの書類が挟まれた革製の書類板を持っていた。


 顔立ちは整っている。文句のつけようがないほどの美青年なのだが、エレオノールが気になったのはそこではなかった。


「……文官、ですよね?」


 思わず小声で尋ねると、馬から降りていたクロードも青年を観察する。


「たぶん。でも、あの人めちゃくちゃ戦えそうじゃないです?」


 エレオノールも同じ感想だった。


 書類板を抱えているにもかかわらず立ち姿に一切の隙がなく、重心の置き方も明らかに戦闘経験者のものだった。細身に見える身体にも必要な筋肉がついており、腰に剣を提げていても何の違和感もない。


「五日ぶりですね、レオンハルト様」


「ああ」


「帰城予定は一昨日だったはずですが」


「魔獣が出た」


「存じております」


「なら話は早い」


「早くありません。あなたが不在の間に決裁を待っている書類が四十七件、王都からの書状が十一通、近隣領主からの問い合わせが六件、そしてヴァリエール公爵家から――」


 そこまで口にして、青年が止まった。


 眼鏡越しの視線が、レオンハルトの後ろへ向く。


 エレオノール、その隣に立つセシル、さらに護衛騎士たちとクロードを順に確認した青年は、数秒ほど黙り込んだあと、長く深い溜息を吐いた。


「……ヴァリエール公爵家より、公爵令嬢エレオノール様が護衛と侍女を伴い、本日こちらへ到着されるという書状が届いております」


「ああ」


「『ああ』ではございません」


 青年は眼鏡を押し上げた。


「どうやら私がご説明申し上げる必要すらなくなったようですが」


 レオンハルトが後ろを振り返る。


「本人だ」


「見れば分かります」


 もう一度、溜息が落ちた。


 そこで青年はレオンハルトへの呆れた表情を消し、エレオノールへ向き直ると、非の打ちどころのない礼を取った。


「大変失礼いたしました。エーベルハルト辺境伯家にて政務を預かっております、ユリウス・フォン・クラウゼと申します。本来であれば城門までお迎えに上がるべきところを、主が予定より早く皆様を拾ってきてしまいまして」


「拾ったわけではない」


「似たようなものです」


「街道で会っただけだ」


「その説明は後ほど伺います」


 レオンハルトが黙った。


 どうやらこの城において、少なくとも事務仕事に関してはユリウスの方が強いらしい。エレオノールはその関係性が少し可笑しくなり、思わず口元を緩めた。


「お気遣いなく。道中で魔獣に襲われましたところ、レオンハルト様に助けていただきました」


「……魔獣に?」


 ユリウスの目が細くなる。


「詳しい報告も後ほどお願いいたします、レオンハルト様」


「ああ」


「必ずです」


「分かった」


 その返事を聞いてようやく満足したのか、ユリウスは再びエレオノールへ向き直った。


「長旅でお疲れでしょう。まずは皆様をお部屋へご案内いたします。湯と軽食も用意させますので――」


「ユリウス」


「何でしょう」


「その前に少しいいか」


 嫌な予感でもしたのか、ユリウスの眉間に薄く皺が寄る。


「内容によります」


 レオンハルトはエレオノールを見る。


「早速で悪いが、軽く剣を交えてもらえないか」


 一瞬、空気が止まった。


 ユリウスは目を閉じ、いかにも予想していたと言わんばかりにこめかみを押さえる。


「レオンハルト様」


「必要だ」


「到着したばかりの公爵令嬢に対して、最初にお尋ねになることがそれですか」


「彼女はここで戦うつもりで来たらしい。なら、どこへ配置できるか確認しておきたい」


「……なるほど」


 理屈そのものは通っている。ただし、六日間の旅を終えたばかりの客人を迎え、最初に模擬戦を申し込むのが正しいかどうかは、まったく別の問題なのだろう。


 エレオノールは思わず笑ってしまった。


「構いません」


「エレオノール様まで」


「私も、レオンハルト様がどれほどお強いのか興味がございました」


「……そうですか」


 ユリウスは二人を交互に見たあと、諦めたように眼鏡を押し上げた。


「では訓練場を使用してください。ただし、本気で城を壊すようなことはなさらないようお願いいたします」


「壊さない」


「以前もそうおっしゃいました」


 エレオノールは、その発言について詳しく尋ねるのをやめた。


 城の裏手に設けられた訓練場は広く、常時数十人の騎士が鍛錬できるようになっていた。レオンハルトが戻ったという知らせはすでに城内へ広まっていたらしく、彼が訓練場へ姿を現すと騎士たちが次々に手を止め、その視線がやがて隣を歩くエレオノールへ集まった。


「編成についてだが」


 レオンハルトは歩きながら説明する。


「護衛のクロードは、今まで通りお前と同じところで構わない。腕も街道で見た。十分だ」


「そりゃどうも」


 突然名を呼ばれたクロードが軽く手を上げる。


「セシルは非戦闘員ですので、当然お嬢様付きでお願いいたします」


 本人が淡々と付け加えると、レオンハルトも頷いた。


「分かった。二人を引き離す理由もない。問題はエレオノール、お前自身をどこまで前へ出せるかだ」


「ですから、実際に剣を交えて確かめたい、と」


「ああ」


 実に単純な理由だった。


 しかしエレオノールには、その単純さが嫌ではない。令嬢だから前線へ出すべきではないとも、女性だから騎士より後ろに置くべきだとも言わず、彼が見ているのはただ、自分がどこまで戦えるのかという一点だけだった。


「では、お願いいたします」


 エレオノールは訓練用の剣を受け取った。


 炎を纏わせることを考慮し、刃を潰した魔導金属製の剣である。対するレオンハルトも、壁際の武器掛けから一本の訓練剣を取り、軽く振って重さを確かめた。


「魔法は?」


「使っても?」


「構わない。ただし俺も使う」


「望むところです」


 周囲にいた騎士たちが距離を取る。


 クロードとセシルも訓練場の端へ移動し、ユリウスが二人の間に視線を走らせた。


「始め!」


 合図と同時に、エレオノールが踏み込んだ。


 最初から様子を見るつもりはなかった。斜め下から切り上げ、受けられた瞬間には手首を返して横薙ぎへ繋ぐ。レオンハルトはそれを最小限の動きで受け流し、そのまま一歩前へ入り込んできた。


 剣と剣が触れただけで、その重さが分かる。


 力任せに押しているわけではない。それでも一撃ごとに、戦場で実際に人や魔獣と斬り結んできた者特有の圧力が乗っていた。


 エレオノールは正面から受け続けることをやめ、一歩引くと同時に身体を捻った。その動きに合わせて剣へ炎を纏わせると、刀身を赤い光が走り、レオンハルトの目がわずかに細くなった。


「綺麗だな」


「戦いの最中に褒めてくださるのですか?」


「思ったことを言っただけだ」


 次の瞬間、彼の剣が迫った。


 エレオノールは正面から受け止めるのではなく、その力を横へ流す。回転するように身体を入れ替え、そのまま炎の刃をレオンハルトの脇へ滑り込ませたが、狙った先にはすでに彼の剣が待っていた。


 高い金属音が立て続けに響く。


 一度、二度、三度と刃が交差するたび、互いの動きは自然と速くなっていった。


 エレオノールは、その中で不思議な感覚を覚えていた。


 こんなことは初めてだった。王都で剣を交えた相手の多くは、彼女が公爵令嬢だと知っている。手加減する者もいれば、逆に女には負けられないと必要以上に力む者もいた。


 レオンハルトには、それがない。


 こちらが速くなれば、それに合わせて速度を上げる。踏み込めば、それ以上の圧力で踏み返し、技巧を使えば見切ったうえで同じだけの技量を返してくる。


 だからエレオノールも、余計なことを考える必要がなかった。


 ただ剣を振り、自分が今日まで身につけてきたものを、目の前の男へ惜しみなくぶつければいい。


「まるで踊っているような剣だな」


 激しく刃を交えながら、レオンハルトが言った。


 エレオノールの剣は炎の軌跡を残しながら絶えず角度を変えている。一撃の重さで押し切るよりも、相手の動きに合わせて流れを変え、舞踏のように攻撃と回避を繋いでいくのが彼女の剣だった。


「ありがとうございます」


 エレオノールは一撃を受け流し、その勢いを利用してレオンハルトの背後へ回る。


「レオンハルト様の剣は――」


 振り返った彼の一撃を紙一重で避けてから、エレオノールは口元に笑みを浮かべた。


「戦場のようです」


「褒められているのか?」


「もちろんです。一歩でも間違えれば死ぬと、身体が教えてくださっていますから」


 レオンハルトも、ほんのわずかではあるが確かに笑った。


「そうか。なら、もう少し上げるぞ」


「ぜひ」


 その言葉と同時に、彼の周囲で魔力が膨れ上がった。


 周囲にいた騎士たちがざわめき、ユリウスが何か言いかける。しかし二人はすでに次の一歩を踏み出していた。


 エレオノールの炎が大きく広がり、レオンハルトの無属性魔力が剣身を包む。赤い炎と色を持たない魔力が激突すると、轟音とともに風圧が訓練場を駆け抜け、乾いた砂埃が大きく舞い上がった。


 少し離れた場所で見ていたクロードが、その光景に顔を引きつらせる。


「うわ、なんか強い人同士だけの世界に入っちゃってる……」


 直後、足の甲に鋭い痛みが走った。


「痛っ!」


 見れば、セシルの靴がしっかりと彼の足を踏んでいる。


「何するんですか、セシルちゃん」


「静かにしてください」


「いや今の感想、かなり的確だったでしょ?」


「お嬢様が楽しそうですので、邪魔をしないでください」


 クロードは抗議しようとして、もう一度訓練場へ視線を戻した。


 そこではエレオノールが笑っていた。


 少なくとも彼が知る限り、剣を振るいながらあれほど楽しそうな顔をしている彼女を見るのは初めてだった。その事実に気づくと、先ほどまでの軽口も自然と引っ込んでいく。


「……まあ、そうですね」


 今度は素直に答える。


 セシルも、それ以上は何も言わなかった。


 訓練場の中央では、もう何度目かも分からない剣戟が響いている。


 エレオノールはレオンハルトの剣を受け流し、その懐へ一気に踏み込んだ。炎を纏った刃が彼の肩へ迫り、今度こそ届くと思った瞬間、レオンハルトの剣が下から鋭く跳ね上がる。


 強烈な衝撃によってエレオノールの剣が弾かれ、次の瞬間にはレオンハルトの切っ先が彼女の首筋へ突きつけられていた。


 しばらくの間、二人ともその姿勢のまま動かなかった。


「……参りました」


 エレオノールが乱れた呼吸を整えながら告げると、レオンハルトはすぐに剣を下ろした。


「いや、強かった」


 彼自身もわずかに呼吸を乱している。


 その一言を聞いた瞬間、エレオノールの胸に熱が広がった。


 王都でも、強い、優秀だ、素晴らしいと何度も評価されてきた。それなのに、こんなにも嬉しいと思ったのは初めてだった。


 おそらくレオンハルトの言葉には、それ以上の意味などない。ただ実際に剣を交え、自分の力を受け止めたうえで、強いと思ったからそう言っただけなのだろう。


 だからこそ、その言葉が嬉しかった。


「レオンハルト様」


「何だ?」


「もう一度、お願いしてもよろしいですか?」


 レオンハルトは一瞬だけ黙ったあと、今度ははっきりと笑った。


「ああ」


「レオンハルト様」


 しかし再戦が始まるより早く、ユリウスの声が訓練場へ飛んだ。


「お二人とも、その前に城へお入りください」


 二人が同時に振り返ると、ユリウスは腕を組み、先ほどより一段深い溜息を吐いていた。


「エレオノール様は六日間の旅を終えて到着されたばかりです。そしてレオンハルト様は五日ぶりに帰城されたばかりです。剣で親交を深めるのは結構ですが、まず食事と入浴と政務を済ませてください」


 言われてみれば、あまりにも正論だった。エレオノールはようやく長旅を終えたばかりだったことを思い出し、レオンハルトもまた、先ほど四十七件もの決裁が待っていると告げられていたばかりである。


「……分かった」


「申し訳ございません」


 二人が素直に剣を下ろすのを見て、クロードが小さく笑った。


「なんかもう、似た者同士じゃないです?」


 そこまで言ってから、クロードは先ほど踏まれた足を思い出したらしい。セシルが動くより先に、自分から彼女の足が届かない位置まで一歩離れた。


 その動きを横目で見たセシルは何も言わなかったが、ほんのわずかに呆れたような顔をしていた。


◇


入浴を済ませ、旅装から着替えた頃には、すっかり日が暮れていた。


 エレオノールに用意された客室は、要塞のような城の外観から想像していたよりもずっと居心地がよかった。王都の公爵邸ほど華美ではないものの、厚い絨毯と暖炉のおかげで室内は暖かく、寝台には新しいシーツが整えられている。窓辺には小さな花瓶まで置かれており、実用一辺倒に見えた城にも客人を迎えるだけの心遣いがあるらしい。


「想像していた辺境と、ずいぶん違いますね」


 セシルに髪を整えてもらいながらエレオノールが呟くと、鏡越しに彼女と目が合った。


「酒と熊しかいない土地ではなかったようですね」


「それはクロードの想像です」


「訂正いたします。クロード様の失礼な想像と、ずいぶん違いますね」


「本人がいないところでも厳しいのですね」


「公平な評価です」


 相変わらずの無表情で言い切るセシルに、エレオノールは小さく笑った。


 婚約を破棄されてから、まだ十日も経っていない。それなのに王都を離れ、魔獣と戦い、噂に聞いていた辺境伯本人と剣まで交え、今ではその居城で夕食に招かれている。


 人生とは、ほんの数日でここまで変わるものなのだろうか。


「お嬢様」


「何でしょう?」


「楽しそうですね」


 髪留めを整えながら、セシルが淡々と言う。


「……そう見えますか?」


「はい。少なくとも王都にいらした頃よりは」


 否定しようとして、エレオノールはやめた。


 何より自分自身が、一番よく分かっていたからだ。


 食堂へ案内されると、すでにレオンハルトとユリウスが席についていた。


 クロードも少し遅れて姿を現したが、訓練場での一件があったせいか、レオンハルトを見るなり妙に礼儀正しく頭を下げた。


「本日はお招きいただきありがとうございます、辺境伯閣下」


「急にどうした」


「俺は元々礼儀正しい男なんですよ」


「そうだったか?」


「初対面で見抜かれるの早くないです?」


 ユリウスが無言で席を指し示し、クロードは大人しく座った。


 エレオノールも案内された席へ向かう。


 王都の晩餐会とは、席の作りからして少し違っていた。


 長大な食卓の端と端に主人と客を離して座らせるのではなく、人数に合わせた比較的小さな卓を囲む。上座にはレオンハルトがいるものの、エレオノールとの距離も近く、声を張らなければ会話できないような配置ではない。


「北部では、このような形でお食事を?」


「大人数の宴なら別だが、普段はこれだ」


 答えたのはレオンハルトだった。


 ユリウスが補足する。


「こちらでは長い冬を屋内で過ごしますので、食卓は交流の場でもあります。王都の晩餐ほど格式を重んじず、同じ料理を囲みながら話をする方が好まれるのです」


「なるほど」


「もっとも、レオンハルト様の場合は格式以前に、長い食卓の端まで声を掛けるのが面倒だという理由もございますが」


「それで困ったことはない」


「そうでしょうね」


 給仕たちが料理を運び始めた。


 最初に置かれたのは、まだ温かい黒褐色のパンだった。


 薄く切ると香ばしい穀物の匂いが立ち、添えられた白いバターは表面がわずかに溶けている。王都では白く柔らかな小麦パンが上等とされているため、ここまで色の濃いパンを正式な食卓で出されることは珍しい。


「ライ麦ですか?」


「ライ麦とスペルト麦です。北部では小麦だけでは育ちにくい土地も多いため、こちらの方が一般的でございます」


 ユリウスの説明を聞きながら、エレオノールは小さくちぎって口へ運ぶ。


 少し酸味のある香りのあとから、噛むほどに穀物の甘みが広がった。見た目から想像していたよりもずっと味が濃く、塩気のあるバターとの相性もいい。


「美味しいです」


 思わず素直な感想が出た。


「だろう」


 なぜかレオンハルトが少し誇らしげだった。


「城下のパン屋が毎朝焼いている」


「閣下がお作りになったわけではないでしょう」


「領民のパンが美味いなら、領主が誇ってもいいだろう」


「それはそうですが」


 エレオノールはまた笑ってしまった。


 続いて、湯気を立てるスープが運ばれてくる。


 澄んだ肉の出汁に根菜と香草を浮かべ、小さな肉団子を加えたもので、長旅で疲れた身体に染み込むような優しい味だった。


「こちらでは、主人が最初に『良い食事を』と声を掛けるまで手をつけないのが習慣でございます」


 ユリウスが説明すると、レオンハルトはすでにパンへ伸ばしかけていた手を止めた。


「先に言え」


「あなたはこの土地の主人でしょう」


「五日ぶりだから忘れていた」


「五日で忘れる作法ではございません」


 クロードが堪えきれず吹き出した。


「なんか安心しましたよ。辺境伯閣下にも弱点あるんですね」


「何の話だ?」


「お気になさらず」


 エレオノールも笑いを堪えながら、レオンハルトが改めて杯を上げるのを待った。


「では――よい食事を」


「よい食事を」


 全員で言葉を返してから、食事が始まった。


 次に運ばれてきた大皿を見て、クロードが思わず声を上げる。


「おお……」


 厚く切られた肉が濃褐色のソースをまとい、見るからに柔らかそうな断面から肉汁を滲ませていた。その横には、細長く不揃いな卵麺と、赤紫色になるまで煮込まれたキャベツが添えられている。


「これは?」


「鹿肉のザウアーブラーテンです」


 ユリウスが答える。


「酢と葡萄酒、香草に数日漬け込んでから焼き、煮込みます。こちらはシュペッツレ、赤キャベツは林檎と一緒に煮たものです」


 レオンハルトが肉を一切れ口へ運ぶ。


「それが今日一番美味い」


「レオンハルト様は毎回同じことをおっしゃいます」


「美味いものは何度食っても美味い」


「それもそうですね」


 エレオノールもナイフを入れてみた。


 驚くほど簡単に切れる。


 一口食べると、最初に感じたのは芳醇な肉の旨味だった。鹿肉特有の強い風味を酸味のあるソースが和らげ、そこへ香草と葡萄酒の香りが重なる。付け合わせのシュペッツレはソースをたっぷり吸い込み、柔らかな赤キャベツには林檎の甘酸っぱさが残っている。


「……これは」


「どうだ?」


 レオンハルトがこちらを見ている。


「とても美味しいです」


「そうか」


 また少し嬉しそうだった。


 どうやらこの男は、自分自身を褒められるより領地のものを褒められる方が喜ぶらしい。


 それに気づいた途端、エレオノールの中で、レオンハルトという人物の輪郭がまた少し変わった。


「王都のお料理とは、かなり違いますね」


「口に合わないかと思っていた」


「まさか。王都ではこれほど酸味を効かせた肉料理は珍しいので、新鮮です。それに、このキャベツが肉の脂をさっぱりさせてくれます」


「分かるか」


「はい。シュペッツレもソースを食べるための料理としてよくできていますね」


 レオンハルトの目がわずかに輝く。


「そうなんだ」


「レオンハルト様」


 ユリウスが静かに声を挟む。


「エレオノール様は食事をされているのであって、料理人の品評会に参加されているわけではございません」


「別にいいだろう」


「食べる手が止まっています」


「……すまない」


「いえ、楽しいですから」


 エレオノールが答えると、レオンハルトは少しだけ目を見開いた。


 次の皿には、焼いた数種類の腸詰めと温かな酢漬けキャベツが盛られていた。粗挽きの肉を詰めたもの、香草を強く効かせたもの、燻製香のあるものと少しずつ味が違い、それぞれに辛味のある黄色いソースを添えて食べる。


「これは酒が欲しくなりますねえ」


 クロードが呟いた。


「ございますよ」


 ユリウスが答えると、クロードの顔が明るくなる。


「本当です?」


「ただし、明朝から訓練に参加されるのでしたら二杯までです」


「まだ何も言ってないのに俺、もう辺境の騎士扱いされてません?」


「レオンハルト様が十分と評価されましたので」


「仕事が早い」


「文官ですから」


 セシルが横から淡々と付け加える。


「クロード様は飲みすぎますので、一杯でよろしいかと」


「セシルちゃん、なんで俺の酒量まで管理しようとしてるの?」


「公爵家の恥を辺境まで持ち込まれないためです」


「俺への信用が低すぎる」


 そんな会話を聞きながら食事を続けていると、不思議な感覚があった。


 王都での晩餐では、誰が誰と話しているのか、どの料理をどれほど口にするのか、杯を何度傾けたのかまで周囲に見られている。王太子妃候補だったエレオノールならなおさらで、一度の食事でさえ公的な役目の一部だった。


 ここにも作法はある。


 ナイフを右手、フォークを左手に持ち、食事中には卓上へ不用意に手を伸ばさず、大皿は近い者が取り分けて隣へ回す。主人が食事の始まりを告げ、客人より先に席を立つこともしない。


 だが、その作法は人を値踏みするためのものではなかった。


 同じ食卓を気持ちよく囲むための決まりなのだと、エレオノールには感じられた。


 やがて最後に焼き菓子が運ばれてくる。


 薄い生地を何層にも巻き、その中へ林檎と干し葡萄、香辛料を詰めて焼いたものだった。


 切り分けられた瞬間、温かな林檎と甘い香辛料の匂いが広がる。


「アプフェルシュトゥルーデルです」


「これは……危険ですね」


 エレオノールが思わず呟く。


「危険?」


「食べすぎてしまいそうです」


 一瞬の沈黙のあと、クロードが笑い、ユリウスも僅かに口元を緩めた。


 レオンハルトだけは真剣な表情で頷く。


「分かる」


「レオンハルト様まで」


「美味いからな」


「ええ」


 エレオノールは一口食べた。


 薄く焼けた生地がさくりと崩れ、その中から温かな林檎の甘酸っぱさが広がる。干し葡萄の濃い甘みと香辛料の香りが加わり、肉料理をたっぷり食べたあとにもかかわらず、不思議ともう一口欲しくなった。


「王都へ戻ったら、恋しくなりそうです」


 何気なく口にした言葉だった。


 だが、その瞬間だけレオンハルトの手が止まった。


「……戻るのか?」


 低い声に、エレオノールは顔を上げる。


「いずれは、という意味です。まだこちらへ着いたばかりですもの」


「そうか」


 それだけ言って、レオンハルトはまた菓子へ手を伸ばした。


 ただ、その返事がほんの少しだけ安堵したように聞こえたのは、エレオノールの気のせいだったのかもしれない。


 食後の茶が終わる頃には、外は完全に夜になっていた。


 楽しい食事はそこで終わった。


 ユリウスが一冊の革張りの帳面を閉じると、それまで柔らかかった空気がわずかに変わる。


「エレオノール様。お疲れでなければ、少しだけお時間をいただけますでしょうか」


「もちろんです」


「軍議に同席していただきたいのです」


 クロードが杯を置いた。


 レオンハルトも先ほどまでの穏やかな表情を消している。


 場所を食堂から隣接する会議室へ移すと、そこにはすでに大きな地図が広げられていた。


 赤、黒、青の駒が、辺境伯領の各地に置かれている。


「赤が直近十日間の魔獣出現地点、黒が人的被害の確認された場所、青が現在配置している騎士隊です」


 ユリウスの説明を聞きながら、エレオノールは地図へ目を落とした。


 食事の余韻が一瞬で消えた。


「……多いですね」


「多い」


 レオンハルトが答える。


「例年、この時期なら魔獣は山へ戻り始める。それが今年は逆だ。森から街道側へ出てくる数が増えている」


「原因は?」


「分からん」


 ユリウスが別の資料を差し出した。


「少なくとも餌不足だけでは説明できません。小型種だけではなく、通常なら縄張りから滅多に離れない上位種まで移動しております。本日皆様が遭遇された個体も、その一例でしょう」


 エレオノールは資料に目を通しながら、地図と照らし合わせた。


 三日前。


 北西。


 五日前。


 北。


 七日前には北東。


 一見すると無秩序に見える。


 しかし、出現地点そのものではなく、魔獣がどこから来たのかを考えると、妙な共通点があった。


「……こちら側から押し出されている?」


 指を置いたのは、地図のさらに北。


 山岳地帯だった。


 ユリウスが顔を上げる。


「そう考えられますか?」


「断定はできません。ただ、街道へ向かっているのではなく、結果的に街道まで下りてきているように見えます。出現した場所だけを追えば散発的ですが、元の生息域を考えると、すべて南へ移動しています」


 レオンハルトが地図を覗き込む。


「北に何かいる、と?」


「可能性の一つです。少なくとも、魔獣が人里を求めていると考えるよりは、何かから離れようとしていると考えた方が、この動きには一貫性があります」


 ユリウスが地図上の駒をいくつか動かした。


 しばらく考え込んだあと、その目が僅かに鋭くなる。


「……確かに。これまで被害地点を中心に見ていましたが、生息域から逆算すると南下していますね」


「調査隊は?」


 エレオノールが尋ねる。


「出したいところだが、人が足りない」


 レオンハルトが腕を組んだ。


「今いる騎士を北へ回せば、街道か集落の守りが薄くなる。原因不明のまま主力を動かすには危険が大きい」


 その言葉で、エレオノールは辺境が置かれている状況を理解した。


 戦える者がまったくいないのではない。


 守る場所が多すぎるのだ。


 砦。


 村。


 街道。


 城下町。


 そのすべてに兵を置けば、未知の異変を調査するための余剰戦力がなくなる。


「そこで、先ほどの話に戻る」


 レオンハルトがエレオノールを見る。


「お前を遊撃に置きたい」


「遊撃、ですか?」


「ああ。既存の騎士隊にはそれぞれ守る区域がある。お前をそこへ入れるより、俺の直属として空けておいた方が使いやすい」


 ユリウスも頷く。


「私も賛成です。エレオノール様は単純な剣士ではありません。魔法戦闘に加えて騎乗ができ、軍事学と領地運営についても知識をお持ちです。それだけの人材を一つの砦へ固定するのは、あまり効率的とは申せません」


「ずいぶん高く評価してくださるのですね」


「本日、レオンハルト様とあれだけ斬り結んでおいて、今さら謙遜なさらないでください」


「……それもそうですね」


 エレオノールは少しだけ笑った。


 レオンハルトが地図の中央へ一つ、新しい駒を置いた。


「辺境伯直属遊撃隊。平時は城を基点に待機し、魔獣出現時には最も必要な場所へ向かう。必要なら砦の増援にも入り、調査や護衛もやる」


「かなり自由に動くのですね」


「だから判断できる人間にしか任せられない」


 その言葉に、エレオノールはレオンハルトを見る。


 剣を評価されたときとは少し違う。


 今度は、自分の判断そのものを預けようとしている。


「私が指揮を?」


「嫌か?」


「まさか」


 エレオノールは即答した。


「むしろ、望むところです」


 レオンハルトの口元が僅かに上がった。


「そう言うと思った」


「ただし、一つお願いがございます」


「言え」


「クロードを副官として同行させてください。口は軽いですが、戦闘経験は豊富です。私が前へ出た際、後方を任せられます」


「口が軽いは余計ですよ、お嬢様」


「事実です」


「否定できないのが辛い」


 ユリウスがクロードへ視線を向けた。


「街道での戦闘についてはレオンハルト様から聞きました。腕に問題がないのであれば、こちらにも異論はありません」


「それとセシルも」


 エレオノールが続けると、セシルが静かに顔を上げた。


「戦闘員ではありませんが、記録、物資管理、連絡について私が最も信頼している者です。遊撃隊は単独行動が増えるのであれば、むしろ必要になると思います」


「妥当ですね」


 ユリウスは即答した。


「補給、行程、討伐記録を現場でまとめられる者は貴重です。セシル殿には従軍補佐として入っていただきましょう」


「承知いたしました」


「セシルちゃんまで馴染むの早くない?」


「働いているだけです」


「俺も働いてますけど?」


「存じ上げませんでした」


「今日一番傷ついた」


 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 しかし地図の上には、依然として多数の赤い駒が並んでいる。


 エレオノールはその向こうにある北部山岳地帯を見つめた。


「では、最初の任務は?」


 レオンハルトが同じ場所を見る。


「明朝、北へ向かう」


「調査ですね」


「ああ。魔獣が何から逃げているのか確かめる」


 そこで彼は一度言葉を切り、エレオノールへ視線を戻した。


「来られるか?」


 エレオノールは迷わなかった。


「もちろんです」


 王都では、自分の力は必要ないと言われた。


 それからまだ十日も経っていない。


 今、目の前には自分の判断を必要とする地図があり、自分の剣を必要としている土地があり、その力を惜しむことなく使えと言ってくれる男がいる。


 エレオノールは地図の上に置かれた新しい駒へ目を落とした。


 辺境伯直属遊撃隊。


 思っていたよりずっと早く、彼女はこの北の地に自分の居場所を与えられようとしていた。

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― 新着の感想 ―
続きが読みたい作品だな!
面白かった、エレオノールに対する王子の劣等感もわかるんだけど、言葉にしては駄目でしょ。余計に惨めになるだけだよ王子 お供のセシルとクロードの掛け合いも良かった。 残念だった所はキーワードにあったざま…
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