耳にキス
あなたの、好きな声はありますか?
好きな食べ物、オムライス。趣味、読書。興味がある人、篠崎さん——
篠崎さんと初めて顔を合わせた時、今まで何度となく言われ続けてきたことを、会うなり早々に言われた。
神宮寺すみれ。文字だけで見ると、黒髪のロングヘアーにピンヒール、スーツはあえてタイトなスカートを着こなすキャリアウーマン、と言ったようなクールなイメージがあるらしい。それに加え、コンプレックスでもある声の低さが、電話口では余計にそう思われがちだ。分かりやすく言うと、学生の頃の合唱コンクールでは、一度だってソプラノを担当したことがない。私は決まってアルトばかりだった。
「お疲れ様です」
外回りから戻ってきた先輩に声をかける。ちなみに彼女こそ、キャリアウーマンと呼ぶにふさわしい西内先輩だ。
「お疲れ様」
先輩は、自分のデスクの前に座るなり背中を後ろに預けた。
「西内先輩、例の声優の特集の件なんですけど、少し相談させてもらってもよろしいですか?」
「ええ、いいわよ」
目を細めると、柔らかく微笑んで答えてくれた。
私の勤めるシムオ出版では、今話題になっている人物、流行りの物や場所などを取材して載せる、いわゆる情報誌を作っている。
そもそも私の第一志望はファッション誌業界だった。昔から服もメイクも大好きで、気合い十分で面接に臨んだにも関わらず、一緒に面接を受けていた学生たちの熱量に気後れしてしまい、途端にそこで働く自分の姿が想像できなくなった。そんな時、滑り止めで受けていたシムオ出版の内定が決まり、ほとんど勢いでこの会社に決めた。結果、今は仕事が楽しくて仕方ない。
提案から文字になり、取材をしてどんどん形になっていく過程の中に、自分も参加できている事が単純に嬉しい。そしてそれが完成した時の達成感は最高だ。とは言え、毎回うまくいくとは限らないし、怒られることもある。全くアイデアが浮かばない時なんかは焦って空回りすることもあるけれど、それでも、自分の企画書を誉めてもらえた時は、嬉しくてこっそりとガッツポーズをするのがお決まりだ。
「——問題ないんじゃない」
西内先輩の一言で、分かりやすく顔が緩む。
「ありがとうございます!」
「うん、頑張って」
今回の企画は、十代、二十代の女性を中心に人気のアニメを取り上げたものだ。原作は十数年前に発売された「恋におちて」という有名な漫画で、その漫画を読んだことがなくても、作者の名前くらいは知っている人も多いだろう。時代を経て映像化されることが決まり、当時からファンだった人はもちろん、その刺激的な内容に新たなファンが続出し、あっという間に話題になった。業界内では映像化に伴い賛否の声もあったらしいのだけれど、深夜の時間帯での放送にも関わらず、高視聴率に加え、視聴者の声がそう言った大人たちのあれこれを抑えてしまうほど反響がすごかった。
内容はもちろん、アニメのキャラクターも素敵なのだけれど、とりわけ注目を浴びたのは上司役の声優の男性だった。
そのアニメはの内容は、いわゆる禁断の恋。社内恋愛禁止にも関わらず、恋におちてしまった上司と部下。頼りがいのある上司の小野寺陸と、周りが見えなくなるほど一生懸命な新人社員の北河しおりの物語だ。漫画を原作としたアニメだけれど、映画だろうとドラマだろうと、この内容に食い付かない女子は少なくないだろう。そして今回、小野寺陸役の声優、篠崎大和に光を当てた。
「お電話変わりました、篠崎です」
「もしもし、今回お世話になりますシムオ出版の神宮寺と申します」
左手に受話器、右手ではタブレットを操作しながら話を進める。
「はい、お話は伺ってます」
軽やかな声が返ってきた。
「お忙しいところお時間を割いていただいてありがとうございます」
言いながら、見えない相手に頭を下げた。
「いえ、こちらこそ僕らの仕事を取り上げていただいて光栄です」
口角が上がっているのが分かるほど爽やかな口調だ。
「そう言っていただけるとこちらも嬉しいです。それでは時間などの確認ですが、来週の金曜日、十四時に、私とカメラマン二名でそちらに伺わせていただく予定でよろしいでしょうか」
「はい、お待ちしてます、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願い致します」
ゆっくりと受話器を置き、ぼんやりとしてしまった。声だけで人の心を動かせる彼の仕事を、改めてすごいと思ったのはたぶんこの時だろう。
一階のエレベーターの前で上ボタンを押し、ランプが下がってくるのを見ながら大きく一呼吸ついた。今は、篠崎さんの事務所があるビルに来ている。
同行のスチールカメラマンの中谷さんに緊張していることをからかわれたけれど、逆にそのことで多少は気持ちが落ち着いた。
ちなみに中谷さんの名前は、中谷銀之輔。彼のおばあちゃんが名付けたそうなのだけれど、その文字からは古風な響きと誰にも媚びない芯の強さを感じるほど、個人的にはものすごく素敵だと思う。ただ、早くに亡くなったおばあちゃんですら、今の彼の姿を想像はできなかっただろう。現在三十二歳、ぱっちり二重のぽっちゃり体型。その名前と見た目のギャップから、同僚にからかわれているのを何度か見かけたことがあるけれど、人の良い中谷さんはそれをいつも笑いに変えている。
名前と顔が一致しないと言われることに激しく共感し、こっそり「兄さん」と呼んで慕っている。
腕時計を見ると、午後一時五十分。約束の時間より早からず、遅からず、ちょうどいい時間だった。
エレベーターを降りてすぐ、受付の女性に篠崎さんと約束をしていることを伝えると、丁寧な対応でミーティングルームのような部屋に通された。大きな四角いテーブルの端に座り、殺風景な室内をぐるりと見回す。
中谷さんは、早々にカメラの準備を始めている。その時、ノックのすぐあとに扉が開いた。
「お待たせしました、篠崎です」
立ち上がり、数秒の間のあと、思い出したように自分も挨拶をする。
「初めまして、シムオ出版の神宮寺すみれと申します。本日はよろしくお願いいたします」
「中谷です、よろしくお願いします」
顔を上げると、篠崎さんはなんだか驚いたような顔をしている。
「えっと、こちらこそよろしくお願いします」
「どうかされましたか?」
「ああ、いえ。神宮寺さんのこと、名前から想像していた方とは雰囲気が全然違ったので。何て言うかその、想像と違って良かったです——って、すみません! 勝手なことを言って」
慌てる口ぶりに小さく笑ってしまった。
「いえ、お気になさらないで下さい」
「すみません……」
かろうじて聞こえるほどの声でそう言うと、遠慮がちに咳払いをした。
「あの、名刺交換、まだでしたよね」
言いながら名刺を取り出し、すっと背筋を伸ばす彼につられ、同じくらい姿勢を正して自分の名刺を差し出す。そのあとすぐ、手ぶりで椅子を勧められ、タブレットとボイスレコーダーをテーブルの上に出しながら目の端で篠崎さんの姿を盗み見る。
篠崎さんは一体、私のことをどんな人物だと思っていたのだろう。それに、お互いにお互いの人物像を想像していたのかと思うと、少しおかしくなった。
「この方が話しやすくないですか?」
突然何を言うのかと思えば、対面にあった椅子を私の左側の角へと移動させた。
「え、ああ、はい……」
「——嫌でしたか?」
「いえ、篠崎さんが落ち着いてお話ができる方がいいですから」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」
照れたような口調に一瞬でも胸が騒いだ。
つま先が当たりそうな距離に緊張するけれど、了承したあとでは今さらだ。
「それでは、今から始めさせていただいてもよろしいですか?」
「はい、お願います」
「いきなりですが、海にでも行かれたんですか?」
日焼けした腕に思わず目が止まる。
「え? ああ。先週の頭までハワイに行ってたんです。たまたま仕事のスケジュール変更が続いて連休になったので。弾丸ですけど、向こうに友達がいるので勢いで行ってきました」
「そうなんですね。篠崎さんて行動的なんですね」
「まあ、どちらかと言えばそうかもしれないです。それに、僕らの仕事って部屋にこもりっきりなので、たぶんその反動もあるかもしれません」
「すぐさま切り替えられるその行動力は素晴らしいですね」
「そう言っていただけると嬉しいです。まあ、忙しくさせていただいているのは本当にありがたいんですけど、息抜きしたいなぁと思っていたとこだったので、僕的にはラッキーでした」
冗談ぽく言うと、柔らかく目を細めた。
「リフレッシュできましたか?」
「今が一番調子いいです」
相変わらずの口調に、カメラを構えていた中谷さんも思わず笑っている。
「リフレッシュできたところで、現在は主にアニメの出演が多いですか?」
「そうですね。たまにナレーションの仕事もありますが、アニメが主ですね」
「では今回の作品、恋におちてですが、小野寺陸を演じるにあたって意識されたことなどはありますか?」
「とにかくあの世界観を壊さないように、見てくださる方が違和感を感じないように、そこをかなり意識しました——」
意外、と言うのは失礼だけれど、ものすごく丁寧な受け答えをされる方なのだと思った。誇りを持って仕事をされているのが言葉の端々から伝わってくる。そんな素敵な方と仕事ができ、こちらとしても嬉しくなった。
篠崎さんの人柄のおかげもあってか、取材は終始和やかに進んだ。
「それでは最後に、ファンの方へのメッセージをお願いしてもよろしいですか」
「はい、ええと。いつも応援ありがとうございます。今回の恋におちてという漫画は誰もが知る名作で、そんな素晴らしい作品に参加できて本当に嬉しいです。これからも、皆さまに笑顔を届けられるよう頑張っていきますので、今後も応援よろしくお願いします」
ボイスレコーダーに向かって頭を下げる篠崎さんを見て、くすりと笑いそうになるのをどうにか堪え、目配せをしたあと停止ボタンを押した。
「ありがとうございます。ちなみに私も見させていただきました。小野寺陸の言動に毎回ドキドキしっぱなしで、楽しみがひとつ増えました」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、本当に嬉しいです」
はにかむ笑顔を見て、息が止まりそうになる。
「ええと、それでは、後日事務所にデータを送らせていただきますね」
一瞬の間のあと、思いもしていなかった一言が返ってきた。
「直接渡してもらうのは、難しいですか?」
「え?」
初めてのパターンに言葉が出なかった。
「いや、これで終わりっていうのも、寂しいと言いますかうか、何と言いますか……どうせなら、神宮寺さんと一緒に見れたらと思ったんですけど——」
短く息を吸い込んだ。
「だめですか?」
その口調は、恋におちての小野寺陸そのものだった。
「いえ、だめではないですけど……」
助けを求めて中谷さんに目を向ける。どう返事をすればいいのか迷っていると、中谷さんが一歩前へ出た。
「データは神宮寺に持ってこさせますので、確認お願いします」
中谷さんの助け船のような一言に、篠崎さんも笑顔になった。
事務所の下まで送ると言ってくれた篠崎さんに、ここで大丈夫だと気を遣うと、せめてそこまでと、エレベーターの前まで送ってくれた。
「すみません、ちょっとお手洗いをお借りしてもいいですか?」
後ろにいた中谷さんが篠崎さんにそう言った。手振りを付けて場所を教えてもらうと、私に目配せをしてから、小走りに今来た廊下を戻って行った。
「中谷さんて、楽しい人ですね」
篠崎さんが言った。
「はい、私もそう思います」
「それでその、先ほどの件、本当に迷惑ではなかったですか?」
「いえ、私は全然。でも、中谷さんはああ言っていましたけど、会社に戻ってから上司に相談してみますので、お返事は後日でもよろしいですか? たぶん、大丈夫と思います」
言ってからにっこりと笑った。
「よろしくお願いします。あと、僕のスマホの番号です。何かあったら連絡下さい」
番号の書かれた白いメモ用紙を渡された。
「えっと、それじゃあ私のもお渡ししておきます」
言いながら鞄の中から手帳を取り出し、一番後ろのページをちぎって電話番号を書いた。
「あの、神宮寺さんに個人的に連絡してもいいですか?」
「え——」
顔を合わせたままで固まってしまった。その時、「お待たせお待たせ」と言いながら中谷さんが戻ってきた。篠崎さんはすぐに中谷さんに笑顔を向ける。
「今日は本当にありがとうございました」
私たち二人の顔を交互に見ながら篠崎さんが言った。
「こ、こちらこそ、貴重なお時間ありがとうございます」
そう言って頭を下げると、エレベーターの扉がタイミング良く開いた。篠崎さんは、律儀にも扉が閉まるまで見送ってくれた。彼の顔が見えなくなった途端、先ほどの言葉が頭の中で繰り返される。「個人的に連絡してもいいですか?」、それはつまり、どういうことだろう。何の気なしに口から出ただけなのか、それとも、私に好意を持ってくれたからなのか。後者なら、こんなに嬉しいことはない。
帰り道、ニヤニヤする中谷さんに、他の人には言わないでほしいと、口止め料としてコーヒーをおごった。安上がりで済んだのは、中谷さんの優しさからだ。とは言え、そんなことをしなくても、そういったことを面白がって誰かに言う人ではないことは分かっている。中谷さんには、分厚い信頼がある。
篠崎さんの事務所へ取材に行った日から十日が経った。大げさに聞こえるかもしれないけれど、あれから毎日篠崎さんのことを考えていた。あの日の帰り際に言われた一言が、頭にこびりついて離れなかったからだ。
スマホはできるだけ目の届く位置に置いておき、いつ篠崎大和の文字が画面に現れてもすぐに対応できるよう心の準備をしていた。けれど、この一週間は本当にそれだけで終わった。
——ベランダの窓を開け、姿の見えない蝉の声に嫌でも夏を感じながら、生ぬるい空気にすぐに窓を閉めた。
冷蔵庫から市販のアイスコーヒーを取り出し、グラスに半分ほど注いてその場で一気に飲み干す。体の内側がひんやりとして気持ちいい。もう少し飲もうとグラスに注ぎかけたその時、テーブルに置いていたスマホが鳴った。
画面を見るなり「えっ」と声が出た。
自分を落ち着かせ、スマホを耳に当てる。
「もしもし、神宮寺です」
思わず仕事口調になっていた。
「あ、僕です、篠崎です。今大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
緊張から声がかすれた。
「あの、今さらであれなんですけど、連絡しても良かったですか?」
「え、はい、もちろんです」
ずっと待ってました、そう言いそうになり、寸前言葉をで飲み込んだ。
「神宮寺さん今会社ですか?」
「いえ、今日は休みで、今は自宅にいます」
「あ、そうなんですね。お休みの日にすみません」
「いえ、全然気になさらないで下さい。取材させて頂いた件でしょうか?」
「——あの、完全にプライベートです」
すぐには言葉が出なかった。すると、電話越しに篠崎さんが柔らかく微笑んだ気がした。
「神宮寺さん?」
「あ、はい。あの、篠崎さんもお休みなんですか?」
平然を繕ってありきたりな質問をする。
「僕は仕事なんですけど、今は休憩室で缶コーヒーを飲んでます」
思わずその姿を想像した。
「午後からもお仕事ですか?」
「ええ。まぁ、それで……」
相づちを打つでもなく、続きに耳を傾ける。
「もし良かったら、今晩一緒に食事でもどうですか?」
先程とは比にもならないほど、あからさまに驚いてしまった。
「すみません! 突然こんな事。その、神宮寺さんが良ければと思っただけなので、本当、気にしないで下さい!」
私が答えるよりも先に早口に話し出すものだから、一旦言葉を飲み込んだ。
「あの、ぜひ……」
精一杯の大人の返しをした。
「え、本当ですか? ありがとうございます。それじゃあ、仕事が終わり次第また連絡します」
「はい、分かりました」
自然と声が弾む。
電話を切ったあと、スマホをテーブルに置く手が心なしか震えていた。
これは、いわゆるデートの誘いだと思ってもいいのだろうか。それとも、社交辞令にも似た何かなのだろうか。あるいは、ただの暇潰しなのだろうか。考えが卑屈になるのは昔からの悪い癖だ。分かってはいるけれど、仕方がない。それでも、篠崎さんに会えるのは素直に嬉しかった。
空のグラスにアイスコーヒーを注ぎ、昨日買ったパンを持ってテーブルの前に座る。ちなみに、今日の朝食件昼食は、有名ベーカリーショップの一番人気のクリームパンと、最近お気に入りの塩パンだ。ゆっくりと食べたいところだけれど、なんとなく気持ちが焦り、急ぎ気味で頬張った。さっさと後片付けをし、無心で歯磨きを終えてからクローゼットの前で仁王立ちになる。
仕事以外で最後に男性と二人きりで食事に行ったのは一体いつだろう。思い出そうとして、すぐに浮かばずさっさと頭を切り替える。
手前のスカートを手に取り、鏡の前でトップスを何着か合わせていく。同じように別のコーディネートも試しては、何に納得がいかないのかも分からないままクローゼットに戻していく……
決めきれず、一旦ソファーに寝転んだ。
初デート、スカート、夏、コーデ——スマホで色々調べてはみるけれど、なかなかしっくりこず、ひたすらにスクロールを繰り返す。
——結局、洋服が決まるまでに一時間以上はかかった。フリルの付いたノースリーブのブラウスに、ブルーグレーのタイトなスカート。甘すぎず、背伸びしすぎずを意識したけれど、それが篠原さんに伝わるかは別問題だ。
さっとシャワーを浴び、いつも以上にスキンケアに時間をかけ、濃くなりすぎないよう普段通りを心がけて化粧をした。
久しぶりに引っ張り出したコテで髪の毛を巻き、さらには普段ほとんど付ける事のない香水も、ほんの少しだけ香らせた。
「やばい……」
思わず独り言が出たのは、なんだか自分ではないような気がしたからだ。
浮かれているのと緊張しているのが一緒くたになった表情に、大丈夫だと言い聞かせる。とは言え落ち着けるはずもなく、その後何度も鏡の前に立ち、数分前と変わらない自分を見つめながら大きく深呼吸をした。
夕方を過ぎた頃、テーブルに置いていたスマホが着信し、それのマナーモードに体がビクッとなった。咄嗟に篠崎さんだと思い、急いで手を伸ばす。
画面を見て、あからさまに口元が緩んだ。
「はい、もしもし」
今度は仕事口調にならないように、意識してゆっくりと言葉を並べる。
「あ、篠崎です。さっき仕事が終わったんですけど、神宮寺さん今家ですか?」
「はい」
「何時くらいに出られそうですか?」
「今すぐ出られます!」、とは恥ずかしくて言えないと思いながらも、「着替えたらすぐに出られますよ」、と大して変わらない返事をした。
待ち合わせは、午後七時だ。
待ち合わせに指定された場所は、昔、ドラマの撮影にも使われたことのある、恋人同士が待ち合わせをするには最高にぴったりな場所だった。篠崎さんがなぜここを選んだのかは分からないけれど、全く恥ずかしくないと言えば嘘になる。いや、本当はかなり恥ずかしい。本物の恋人同士ならまだしも、二度目に会うのがこんな素敵な場所では、彼を意識するなと言う方が無理な話だ。
目だけで篠崎さんの姿を探す。時計台に目を向ける。篠崎さんを探す。時計台に目を向ける……
何度となくそれを繰り返し、長針がほとんど真上を向いた時、突然背後から声をかけられた。
「神宮寺さん、お待たせしました」
真夏にぴったりな爽やかな声だ。
「お疲れ様です」
「外は暑いので、さっそくお店に行きましょうか」
「はい」
今から行くお店は篠崎さんが予約をしてくれた。魚介類が好きだと言う彼が選んだお店は、その日に上がった新鮮な魚が食べられるのが魅力なのだそうだ。
「神宮寺さんは何飲まれますか?」
個室の席に通され、向かい合って座るなりメニューをこちらに向けてくれた。
「えっと、とりあえず烏龍茶でもいいですか?」
「はい。神宮寺さんはあまりお酒は飲まない方なんですか?」
「いえ、そんなこともないんですけど、失礼があっても困りますので」
そう言うと、篠崎さんは小さく笑った。
「あの、僕は焼酎を飲んでもいいですか?」
「どうぞどうぞ、私のことは気になさらないで下さい」
料理のメニューも見せてくれたけれど、そこは篠崎さんに任せた。
刺身の盛り合わせにさざえのつぼ焼き、アジの天ぷらにシーフードサラダ。篠崎さんのおすすめは、この時期だとタコの煮物だと言っていた。
先に運ばれてきた飲み物で乾杯をし、仕事の話なんかをしていると、注文した料理が次々とテーブルに並べられた。美味しそうなのはもちろん、どの料理も写真を撮りたくなるほど綺麗に盛り付けされている。
まずは、篠崎さんおすすめのタコの煮物に箸を伸ばした。
「ん、美味しいっ!」
「良かった」
「私、こんなに美味しいタコは初めて食べました」
「そう言ってもらえて良かったです」
お世辞とでも思っているのか、小さく笑うと焼酎の水割りを口にした。
「本当ですって!」
そう言うと、今度は歯を見せて笑った。
「別に、信じてないわけではないですよ。神宮寺さんて、面白い人ですね」
言われて急に恥ずかしくなる。
「えっ、全然そんな……」
顔の前で思い切り両手を振って否定する。
「いや、別に馬鹿にしたわけじゃなくて、何て言うか、可愛いなって、思ったので」
篠原さんは半分ほど残っていた焼酎を一気に飲み干した。その瞬間目が合ったけれど、どちらともなくすっとそらした。
「あの——」
個室に篠崎さんの声が響く。
「込み入ったことを聞いてもいいですか?」
「はい」
思わず顎を引いた。
「その、神宮寺さんは、お付き合いされてる方とかいらっしゃるんですか?」
「え?」
込み入ったことと言うので、何かもっとすごいことを聞かれるのかと構えていたけれど、それに比べると案外普通な質問に聞こえた。
「いえ、そういった人はいないです」
「そう、なんですね——」
瞬間目を見開くと、その目はすぐに細められた。
「良かったです」
独り言のようなそれは、無意識だったのか、言いながらさざえのつぼ焼きに手を伸ばしている。こちらとしては、その一言が気になって仕方ない。
篠崎さんは私に好意を持っているのか、それとも彼氏がいながら自分とご飯を食べているのなら、その彼氏に悪いと思ったのか、もしくは全く別の意味で言ったのか——
そんな事を考えていたからか、醤油に溶いたわさびが思いのほか鼻の奥を刺激した。そんな私を見て、彼は楽しそうに笑っている。
「神宮寺さん何か飲まれますか?」
「えっと、篠崎さんは?」
「僕はまた焼酎で」
「じゃあ私も、同じのでお願いします」
少しくらい酔っている方が、ごちゃごちゃと考えなくてすむと思った。ただ、一口飲んでしまうと、止まらなくなってしまった。
「神宮寺さん大丈夫ですか?」
「ん、大丈夫ですよ」
自分でも分かるほど口調がゆっくりだった。
「それじゃあ篠崎さんは、どの台詞が一番好きなんですか?」
「僕ですか——」
考える素振りを見せてから、私に視線を戻した。
「お前といると、イライラする」
小野寺陸の台詞だとは分かっているけれど、酔いが醒めるほどにドキッとした。
「何て言うか、自分に素直になれないだけなのに、それをしおりのせいにして言った一言なんですけど、プライドが邪魔する気持ちって、なんとなく分かるじゃないですか?」
「はい。私も、分かります。他にもありますか?」
素直にもっと聞きたいと思った。
「お前だけにしか見せないから」
言いながら真っ直ぐに私を捉えるのは、ずるいと思った。
「て言うか、そんなこと言う奴今時いるんですかね」
本気なのか冗談なのか、小さく笑いながら箸を進めている。私はと言うと、聞いておきながら愛想笑いを返すのが精一杯だった。
完全に、篠崎さんを意識してしまっていた。
そのあとは、ほとんど篠崎さんが喋ってくれた。
声優だからとか、そういったことを抜きにしても、話すのがとても上手いと思った。話の内容に合わせた声の緩急がとても耳に心地良くて、お世辞でもなんでもなく、ずっと聞いていられる。
彼が焼酎の水割りから日本酒に変えた頃、私のまぶたは限界に近いほど重たくなっていた。
「これ飲んだら出ましょうか?」
篠崎さんが言った。
「それと、お水もらいますか?」
「はい、お願いしてもいいですか」
「神宮寺さん、本当に大丈夫ですか?」
「はい。少し酔っ払ってますけど、大丈夫ですよ。篠崎さんはお酒強いんですね」
「いえ、そんなことないですよ。僕も酔ってますから」
そう言って目を細めると、優しい顔をした。
「少しだらしない格好をしてもいいですか?」
彼が言った。
「どうぞ、お構いなく」
「お言葉に甘えて」、言いながらテーブルに頬杖をついた。
「篠崎さんは、彼女とかいないんですか?」
「いないですよ」
「こんなに素敵な方なのに」
語尾の呂律が回らず、自分の言葉に可笑しくなる。
「すみません、上手く喋れなくて」
彼もつられて笑っている。
「神宮寺さんだって、素敵です」
言われて首を横に振る。
「本当にそう思います」
重ねて言われ、苦笑いで返した。
「そう思ってなかったら、食事に誘ったりなんかしませんよ」
声色が急に変わった。低いそれに、胸が騒いだ。
「この前初めて会った時、可愛い人だなって思いました。仕事に対して真面目で、素敵だなって」
可愛いに反応してしまい、重たかったまぶたが嘘のように軽くなっていく。
「それで、神宮寺さんのこと、もっと知りたくなって……」
こんなに素敵なことを言われたのは初めてだった。
「でもこれが、好きなのかって聞かれたらまだよく分からなくて。だって、たった一度しか会ってなくて、しかもそれだって仕事で会っただけだし」
「篠崎さんは、一目惚れとか、しないんですか?」
「学生の頃はあったけど、今はもう一目惚れはしないかな。慎重になったっていうのか、臆病なだけなのか。どっちなんだろ」
きゅっと口角を上げ、日本酒を口にした。
「あの、篠崎さんておいくつでしたっけ?」
なんとなく検討違いな質問とは思いつつも、気付けばそう聞いていた。
「今年で二十九です」
「そう言えばそうでしたね。私ずっと、自分と同い年くらいだと思ってました」
「神宮寺さんは?」
「二十五です。篠崎さんて若く見られません?」
「確かに、だいたいそのくらいに言われることが多いです。それより、僕の話聞いてました?」
「え、と……」
そう言えば今、私のことを可愛いとかなんとか、もっと知りたくなったとかそんなようなことを言われ、篠崎さんは今年で三十歳で、だから一体、何の話をしているのか頭がうまく回らない——
篠崎さんは残りの日本酒を一気に飲み、ふぅと息をついている。
「あの、そろそろ出ますか?」
「え? ああ、はい」
彼が先に立ち上がり、続いて立ち上がると、思った以上に自分が酔っていることに気付かされた。
ヒールの高いサンダルを履いてきたことに、心の中で後悔した。
店の外に出ると、来た時にはなかった涼しい風が頬を撫で、思わず嬉しくなる。
「昼間あんなに暑かったのが嘘みたいですね」
篠崎さんが隣で頷いた。それだけなのに、先ほどまでとはなんだか雰囲気が違う気がした。
「……篠崎さん?」
自分が何か失礼でもしたのではと不安になった。
「いや、今気付いたことがあって——」
そう言うと、私に向き直った。
「俺、神宮寺さんが好きです」
真っ直ぐに見つめられ、目をそらせなかった。
お酒でクラクラする頭には刺激が強すぎる。次の瞬間、よろけた体を篠崎さんの腕に支えられた。
「あ、すみません」
言いながら後ろへ下ろうとすると、背中に腕を回されて抱きしめられた。驚いて動けずにいると、少しして申し訳なさそうに私から離れた。
「すみません、つい、勢いで……」
「そんな、大丈夫です」
そんなわけがない。はっきりと嘘をついたことに後悔はないけれど、間違いなく動揺していた。
「仕事のこともあるのに、急に告白なんかして、迷惑でしたよね」
「そんなことはないです、けど……」
「でもさっき店で、神宮寺さんのこともっと知りたいって話した時、なかったことみたいに流すから、今さらですけど」
「それは、何と言いますか、恥ずかしかったからです」
「え?」
「だって、可愛いとか、そんな、恥ずかしくてうまく返せなかったんです……」
言いながら、思い出して余計に頬が熱くなる。
「それと——」
睨むように篠崎さんを見上げる。
「それと?」
「どうして急に自分のことを俺って言うんですか?」
私が何を言うのだろうかと身構えていたのか、一気に表情が崩れた。
「えっと——」
困った顔に同じことをもう一度聞いた。
「普段、友達とかの前だと俺だから、たぶん、気は張ってるのに、素の自分が出たって言うか、自分の言葉で伝えたかったから、かな。僕って言う時は仕事してる時だから。昔からの癖って言うか、けっこうそれで切り替えがてきてて、今は完全にプライベートで、しかもこんな時に仕事用の自分は出したくないから、です……」
簡単に納得してしまった。
「だから、少しづつでいいので、俺のこと男として見てもらえたら嬉しいです」
「もう完全に意識してます!」、とは言えず、どう返事をするのが一番いいのか、そんなことを考えていたら、どっちつかずな返事をしてしまった。
「今ならまだ電車ありますけど、タクシーで帰りますか?」
淡々とそんなことを言われ、まだ帰りたくないと思ってしまった。そんな私の気持ちとは裏腹に、とりあえず大通りに出ようと言われて仕方なく足を進めるけれど、無意識に篠崎さんのシャツの裾をぎゅっとつかんでいた。自分でそうしておきながら、彼が急に立ち止まるから、おぼつかない足では転びそうになった。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
言いながらも、右手はシャツをつかんだままだ。見上げると、篠崎さんが眉を寄せたように見えた。
「こういうの、勘違いします」
言ってから、私の右手に視線を落とした。
「あの、もう少し、篠崎さんと一緒にいたいです」
語尾が消えそうになる。
沈黙が、心臓に悪い。
「——俺の部屋でもいいですか?」
聞き間違いかと思い、顔だけで聞き返す。
「神宮寺さん、これからもう一軒行ける余裕なんてないですよね?」
「それは、まぁ……」
「さっきから足元フラフラしすぎです」
「でも、急にお部屋におじゃまするのは……」
「嫌ですか?」
私の言葉を遮って聞いてきた。
せめて素面の時ならまだしも、こんな状態で男の人の部屋に上がるのは、簡単に自分を差し出すようなものだ。私にだって、常識くらいはある。
「嫌ではないです。でも、今日はだめです。お酒飲んでますし、まだ会って二回目ですし、それに夜遅くに男の人の部屋に行くのは、よくないです」
「じゃあこれ、いい加減離して下さい」
話をしている間も、篠崎さんのシャツはつかんだままでいた。
「嫌、ですか?」
今度は私がそう聞くと、彼は困ったように笑った。
「それ、ずるいから」
そんなことを言われても、私だって必死だった。
「それじゃあ、ひとつだけわがままを言ってもいいですか?」
彼の言葉に小さく頷く。
「俺について来て」
聞いたことのある声、聞いたことのある台詞。どの作品だったかは覚えていないけれど、篠崎さんの方こそずるいと思った。
黙って手を差し出すから、彼のシャツをようやく離し、今度はその手をそっとつかんだ。
大通りまで出ると、何も言わずにタクシーを停め、あたりまえのように後部座席に並んで座った。しばらく走ると、タクシーは大きなマンションの前で停まった。
慣れた手つきでオートロックを解除し、彼のあとをついてエレベーターに乗る。
タクシーに乗った時から、篠崎さんの口数がぐっと減った。
彼の部屋に通されて気が付いた。たぶんこれは、たばこの匂い。
「すぐにエアコンつけますね。適当に座って下さい」
大きなソファーの端に静かに腰を下ろし、失礼にならない程度に部屋をぐるりと見回した。
一言で言うなら、大人の部屋だ。そう思うと、余計に緊張した。
「水くらいしかないんですけど、飲まれますか?」
「はい、いただきます」
グラスに入った水を手渡してくれると、「いいですか?」と聞きながら私の隣を指差した。
「どうぞ」
それ以外に答えようがない。
「今日の服、めちゃくちゃ似合ってます」
「え、あの、ありがとうございます」
「会った時からずっと思ってたんですけど、恥ずかしくて、すぐには言えなくて……」
返事に困った。
「それと、俺のわがままを聞いてくれてありがとうございます」
軽く頭を下げたかと思うと、体ごとこちらに向き直り、私の手からグラスを取った。物言いたげな表情、薄く開いた唇。よく見ると、右目の下に小さなほくろがある。
彼に見つめられ、少しだけ後悔していた。今さらすぎるほど今さらだけれど、簡単に男性の部屋に上がる女をどう思っているのだろうか。やっぱり、体目的に私を誘ったのだろうか。そんなことが分からないほど子供ではないけれど、それでも今ここにいるのは、間違いなく自分の意思だ。
「……俺、やばいくらいドキドキしてます」
次に彼が言ったのは、拍子抜けするような一言だった。しかもその声は、ほとんど彼の素の部分だろう。そっと私の手をにぎり、柔らかく微笑んだ。
「俺、こういうの初めてで、ってそういうことの意味じゃなくて!」
慌てたように否定をするから、とりあえずは何度も頷く。
「何て言うか、独り占めしたくなるほど誰かを好きになったのは、あなたが初めてです。だから、自分でも自分をどうコントロールしていいのか、正直戸惑ってます」
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
「だけど——こんな時間に簡単に男の部屋に上がったりするのは、よくないですよ」
ほっとしたのもつかの間、思わず背筋が伸びる。
「好きな子は大事にしたいけど、好きだから触れたくなる」
表情が一変した。今は、どう見ても男のそれだ。
「だってもう、俺のこと好きでしょ?」
低い声に、あなたは誰ですかと尋ねたくなる。
今目の前にいるのは、私の知っている篠崎さんではない。
頬に手を添えられ、ぐっと顔が近付く。
「俺にこのままキスされるの、嫌?」
その表情、口調、仕草全てが挑発的だった。
「いいの? 嫌なの?」
ゆっくりと息を吸い込む。
「嫌じゃ、ないです……」
彼がにっこりと笑った。
「でも今は、しないですよ」
「え……」
「そんな、物欲しそうな表情で俺を煽らないでよ」
「私は、別に……」
一瞬でも覚悟を決めた自分が恥ずかしくなる。
「神宮寺さんがもう少し一緒にいたいって言ってくれて、俺もそう思ってたから嬉しかったです。だけど、少し調子に乗ってしまいました。ただ、さっきのあれは予想外だったかも」
さっきのあれとは、私が篠崎さんを拒まなかったことだろう。
「神宮寺さんて、素直じゃないんですね」
それは、自分でも分かっているし、最近では西内先輩にも言われたばかりだった。
「……本当は、ずっと待ってたんです」
こんな時くらい、素直になろうと勇気を出した。
「ん?」
「篠崎さんから連絡がくるの、待ってました。だから、電話がかかってきた時、すごく嬉しかったです」
眉を寄せると、困ったように微笑んだ。
「だけど、仕事のこととか考えてたら素直に喜べなくて」
「どういう意味?」
「だって、今後も今回みたいな取材をさせてもらわないとも限らないですし、そうなったら私、上手くできるか分からないです」
「素直じゃない上に、言い訳もするタイプですか?」
敬語が返って厭らしく聞こえる。
「そんなんじゃ……」
本当のことなのに、そう言われるとそういうふうに取れなくもないと思った。
「——すみれ」
突然下の名前で呼ばれ、思い切り反応してしまった。
「素直になれよ」
今のは丸切り、小野寺陸だ。
不思議な感覚だった。
「素直になるのが怖い?」
それには首を横に振った。
「すみれって呼んでもいい?」
頷いて答えた。
「それじゃあ、キスしてもいい?」
それじゃあの意味が分からないからではないけれど、笑ってごまかした。
「素直にならないと、このまま襲っちゃうよ」
この声、題名は忘れたけれど、学園ものの物語で、確かドエスな先輩に翻弄される後輩の女の子がめちゃくちゃ可愛かったアニメだ。もちろん篠崎さんは、そのドエスな先輩役だ。
「——私も、篠崎さんのことが好きです」
告白をするのは一体いつぶりだろう。一番新しい記憶ですらすぐには思い出せなかった。
顔を上げられずにいると、彼が私の頭に手を乗せた。アニメやなんかでは見たことがあるけれど、本物のこれは初めてだった。
そのあとは、お互いのことをたくさん話した。私のことをもっと知りたいと言ってくれた篠崎さんは、私のくだらない話ですら笑って聞いてくれた。もちろん私も彼のことが知りたくて、仕事では聞かないような子供みたいな質問をいくつも投げかけた。
——ソファーの真ん中で体と体が触れ合っていても、笑いすぎておでこがぶつかってしまっても、今はしないと言った言葉通りキスをすることはなかった。それでも手は繋いでいてくれたけれど、正直もどかしいと思ってしまった。
「明日は仕事?」
「あ、はい」
「それじゃあ、そろそろ帰った方がいいですね」
言われて時計を見ると、十二時を回ったところだった。
「タクシー呼ぶので、下まで送ります」
帰りたくない。言いたい、言えない……
ゆっくりと帰り支度をし、サンダルを履いて部屋を出る。
空っぽのエレベーターに乗り、目が合うなり突然抱きしめられた。
「ごめん、やっぱり我慢できない……」
謝っているのに、その声はなんだか嬉しそうに聞こえた。
行き先ボタンを押さないから、エレベーターは止まったままだ。
「俺、たぶん神宮寺さんが思ってる以上にあなたのことが好きです」
呼び方が戻っている。きっと篠崎さんは気付いていないのだろう。
「こんなこと言うのめちゃくちゃ恥ずかしいし、変な奴だって思われるかもしれないけど、事務所で初めて会った時、特別な何かを感じたって言うか。その、言葉ではうまく説明できないけど。そんなふうに感じたの、神宮寺さんが初めてで——」
そう言うと、ゆっくりと体を話した。
「俺と、付き合って下さい」
真剣な眼差しにしっかりと頷く。「はい」と言ったつもりが、声がかすれた。
「ほんとに?」
「私の方こそ、よろしくお願いします」
今度ははっきりと応えると、「こちらこそ」と言って柔らかく微笑んだ。嬉しいのに、恥ずかしくてうまく笑顔が作れない。
「なんか、こんな場所ですみません」
「え?」
「エレベーターで告白したの、初めてです」
「私も、初めてされました」
篠崎さんの照れ笑いに、体がふわふわと浮いてしまいそうな感覚になる。
「——それじゃあ、キスしてもいいですか?」
二回目の「それじゃあ」の意味は、すんなりと理解できた。
篠崎さんの手が、頬に触れる。
「……いい?」
重ねて聞かれ、ねだるような目で彼を見上げると、そっと唇が触れた。
何も考えられなかった。
その時、突然エレベーターが動き出した。
驚いて顔を離し、二人ともが、階数が表示されているランプを見ていた。
どう考えても、このエレベーターは上がっている。
いそいそと正方形の隅に寄り、これから起こるであろう気まずさに二人して身構えた。
二つ上の階で止まり、扉が開くと男性が一人立っていた。スウェットにティーシャツを着て、片手に財布を持っている。きっと、今からコンビニでも行くのだろう。その男性は、私たちが降りるものだとその場で待ってくれていたけれど、篠崎さんが手振りでどうぞと言うと、不思議そうな顔をしつつもエレベーターに乗り込んだ。
一階で男性が先に降り、その背中を見送ったあと、二人して声なく笑い合った。
マンションの外に出るとハザードを出したタクシーが路肩に止まった。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、誘ってもらえて嬉しかったです」
「それじゃあ、おやすみ、すみれ」
「おやすみなさい」
タクシーに乗り、すっと片手を上げて見送ってくれる彼に、反射的に頭を下げそうになり手を振り返す。それが、あまりにもぎこちなくて自分で笑ってしまった。
篠崎さんに告白をされた翌日、会社に出勤するなり西内先輩にさっそく呼び止められた。「彼氏でもできたの?」と、まるで「おはよう」と同じくらいの感覚で言われ、あからさまに動揺してしまった。してやったりな顔の先輩に、ずいっと一歩近寄り顔だけで訴えると、眉をひょいっと上げた。そして最後は、「今度詳しく聞かせてね」と爽やかに立ち去って行った。
先輩の良い所は、根掘り葉掘り聞かない所だ。ついでに言うなら聞き上手で、仕事以外の相談なんかも今までどれだけしてきたか分からない。だから今度、篠崎さんのこともこっそり話を聞いてもらおう。
当の篠崎さんとは、あれから順調に連絡を取り合ったり、仕事終わりに何度か食事へ行ったりした。彼の部屋には、あの日以来行っていない。だからではないけれど、二回目のキスは、まだない。正直なところ、帰り際に切なくなる瞬間はある。けれど、わがままを言うよりも笑顔で「またね」と言う方が彼も安心するはずだ。特に今は、毎日忙しくしていると言っていただけに、わざわざ時間を作ってくれるだけで十分だ。
例のアニメの人気は衰えることなく、各方面からの取材や打ち合わせがスケジュールの大半を占めているようで、色々と話を聞く中で、正直驚いたと言うか、そういった物がこの世の中にあることを初めて知ったのだけれど、主に女性をターゲットとした、男性声優の方が延々と話しているだけのCDがあるそうで、それの制作にも取りかかっているようなのだ。
「俺、CDデビューします」、などとふざけた口調で言っていたけれど、それがどういったものなのかを詳しくネットで調べてみると、なんだか少し複雑な気持ちになった。篠崎さんは、そんな私の気持ちとは裏腹に、CDが出来上がり次第サイン入りで一番に渡すからと張り切っていた。私はと言うと、もっともっと彼のことが知りたくて、篠崎さんが声優を務めているアニメやなんかを調べ、人生初の定額制動画配信サービスに加入し、彼には内緒で夜な夜な鑑賞会を行なっている。
そこには、私の知らない声優・篠崎大和がたくさんいた。
男子高校生に社長、異世界で戦うヒーローにドエムな後輩、そして今回のようなドエスな上司など、明るいキャラクターからクールでミステリアスだったり、どこから声が出ているのか分からないほどの低音のキャラクターもいた。
普段からアニメを見ることはほとんどなかったけれど、世間の女性の方々が言っていたあれこれが、見れば見るほど理解できる気がした。もちろんそこに篠崎さんがいるのは大きいな要因ではあるけれど、フィクションだから夢があって、現実の人ではないからこその良さもあるのかもしれない。
「会いたいな……」
無意識に出た独り言に自分で驚き、咄嗟に口元に手を当てた。目だけでゆっくりと周りの様子を伺う。私以にも数人いるけれど、それぞれの時間に夢中で私の独り言など届いていなさそうだ。
昼休み、今はひとりでラウンジの隅にいる。紙パックのカフェオレを飲みながら、スマホ片手に現実と妄想の行き来を繰り返していた。
篠崎さんと恋人になったあの日から、彼の仕事の合間だったり、寝る前の数分だったり、ほんの少しの時間でもほとんど毎日電話で話をしている。電話越しの篠崎さんの声もやっぱり素敵で、もちろん気持ちがあるから余計にそう聞こえるのかもしれないけれど、耳に届いた瞬間に、胸の奥が心地良く締め付けられる。
思い出してまた、うっとりとしてしまう。
——会社を出た途端、むわっとした空気に思わず顔をしかめた。日傘を広げ、駅に向かって歩いていると、かばんに入れているスマホが鳴った。
画面を見るなり、分かりやすく笑顔になる。
「もしもし」
電話の相手は篠崎さんだ。
「あ、もしもし、今大丈夫?」
「はい、仕事が終わって今会社を出たところです」
「そうなんだ、お疲れさま。この後ってもう予定入ってる?」
「いえ、特には何も」
答えながら、次に続く言葉を期待した。
「もしよかったら、今から会えないかな」
「はい、私も会いたいです」
「いい返事だね」
声が笑っている。
「それじゃあ、俺んち来る?」
二つ返事で行くと答えたはいいけれど、「俺んち来る?」の一言に、完全に厭らしいことを想像してしまった。今日の下着を思い出していると——
「そっちまで迎えに行くから、しばらくどこかで待っててもらってもいいかな」
スモーキーピンクにレースがひらりとしていたような……
「すみれ?」
「は、はい。分かりました」
「大丈夫?」
「全然問題ないです」
とりあえず、パンツの心配はなさそうだ。
会社から歩いて数分の場所にあるカフェに入り、アイスのカフェラテを注文した。通りが見渡せるカウンター席から、見るともなく外の景色を眺めながら想像を巡らせる。始めこそ、口元が緩んでどうしようもなかったけれど、想像が膨らむにつれ、本当にそうなってしまうかもしれないリアルに緊張で笑えなくなってきた。
ほんの数分で、カフェラテの味がよく分からなくなった。この緊張感は、想定外かもしれない。
人並みに恋愛経験はあるけれど、その経験はもはや青春時代の甘い思い出にすぎない。ただただ甘いだけのそれからは、この緊張をうまく受け流す術は学んでいない。
味のしないカフェラテを一口。それらしく一呼吸し、あきらめではないけれど、こういうことはなるようにしかならないと言い聞かすことにした。
何をするでもなく、目の前を行き交う人たちをこっそり目で追いかけていると、篠崎さんから連絡が入った。カフェを出ると、路肩に停まっている篠崎さんの車を見つけて駆け寄っていく。
「お疲れ様です」
助手席のドアを開け、顔をのぞかせると爽やかな笑顔が返ってきた。
「お疲れ様、いつも急でごめんね」
「全然そんな。会えると思ってなかったので、連絡もらって嬉しかったです」
「実はさ、どうしても渡したい物があって」
「何ですか?」
物言いたげな表情でわざとらしく口角を上げた。
「帰ってからのお楽しみ」
楽しそうな声に心が弾む。待てと言われて待てる大人ではあるけれど、我慢できずに運転する彼の横顔に聞いてみた。すると、自分で焦らしておきながらも言いたくて仕方ないのか、変な唸り声をあげている。それでも、結局教えてはくれず、「帰ってから!」と口調を強めるけれど、なんだか子供が言い訳をしているみたいで可愛く見えた。私にだけ分かる理由でニヤニヤしそうになる。
部屋に通されローテーブルの下に荷物を置いていると、忘れていた緊張感がひょっこりと顔を覗かせる。
「お腹減ってる?」
「えっと、はい」
「簡単なものしか作れないけど、パスタで良かったら食べる?」
「えっ、私やりますよ!」
「いいって、俺がやるから、って言っても、レトルトだけどね」
台所の棚を開けると、何かを探しているようだった。
「ミートソースとボンゴレ、どっちがいい?」
「じゃあ、ミートソースで」
「了解。ちょっと待ってて」
背中を向けて調理を始めるその姿を、ソファーに座りながらこっそりと盗み見る。意識的に後ろ姿だけを見ることもないので、大きな肩幅や、首筋あたり見ているだけで吐息が漏れた。
次第にいい香りが部屋に広がり、素直な私のお腹は遠慮なく鳴り始めた。
「すみれ」
突然名前を呼ばれてドキッとした。
「は、はい」
「頂き物の赤ワインがあるんだけど、飲んでもいい?」
「はい、どうぞ」
「すみれは?」
「そじゃあ私も、少し頂いてもいいですか?」
彼はもちろんといった顔をし、ダイニングテーブルとソファーの前のローテーブルを交互に指差した。私は迷うことなくローテーブルを選んだ。
「こっちじゃなくていいの?」
ダイニングテーブルを指して言った。
「はい、こっちの方が落ち着きます」
わざわざコースターを敷いてその上にワイングラスを置き、ワインを注いでくれた。続けて綺麗に盛られたパスタを「どうぞ」と言って目の前に置いてくれた。
「すごく美味しそうです!」
「大げさだから」
「でも、嬉しいです」
ふっと笑うと、ワイングラスを手に取った。
「乾杯しとく?」
「はい」
控え目にグラスを鳴らした。
「冷めないうちにどうぞ」
手を合わせ、「いただきます」と言ってからフォークでくるくるとパスタを巻き、気持ち程度に吹き冷ましてから口に運んだ。
「美味しいです」
「口に合ってよかった」
正直、このレトルトのパスタソースは何度か食べたことのあるものだった。なので味は分かっていたけれど、篠崎さんが作ってくれたというだけで、まるでお店の味だ。それから、先程は言わなかったけれど、私がミートソースを選んだのは特別それが好きだからというわけではなくて、篠崎さんが魚介類が好きなことを知っているから、あえてミートソースを選んだ。
お店の味をもう一口。確認するように味わうけれど、やっぱり何倍も美味しい。
「あの、ここに来る前に言ってた渡したい物って、何なんですか?」
「え、ああ、それなんだけど——」
ワインを一口飲んでから、立ち上がりかばんの中から何かを取り出した。
「これ、この前言ってたCD。ジャケットとかまだだけど、中身は一応できてるから」
手渡されたのは前に話をしていた例のCDだ。
「すみれに一番に渡したくて、完成前にもらってきた」
「ありがとうございます!」
「裏見て」
言われてひっくり返すと、そこには篠崎さんのサインが書いてあった。
「一応——」
驚いて彼を凝視する。
「本当に嬉しいです。これって、今聞けますか?」
「えっ、今?」
「はい、一緒に聞きたいです!」
篠崎さんは少し困った顔を見せたけれど、どうにか笑顔を貼り付け、何とも言えない表情をした。
「あの、私何か失礼なことを……」
「ううん。それじゃあ、聞いてみよっか」
「お願いします」
篠崎さんにCDを渡すと、手際よくパソコンにセットしてくれた。カチカチとクリックしてから、グラスにワインを並々と注いでいる。
「飲む?」
「いえ、私はまだ大丈夫です」
ワインボトルをテーブルに置くと、注いだワインを一気に飲み干した。それに驚いていると、さっと口元を拭った。
「何て言うか、まさか一緒に聞くことになるとは思ってなかったから、その……」
「あの、篠崎さんが嫌ならやめておきましょうか?」
「いや、大丈夫」
口ではそうは言うけれど、少なからず動揺してる様子だった。単純に恥ずかしいだけなのだろうと、彼が再生ボタンを押すまではそう思っていた。けれど、音声が流れ始め、その声に恥ずかしくなってしまったのは私の方だった。
音もなく始まり、「どうしたの?」、第一声のたったそれだけで、私は簡単に落ちてしまった。
全身に鳥肌が立つ——
彼は、篠崎大和は、延々に私を誉めてくれる。たまに意地悪なことも言うけれど、やっぱり私を誉めてくれた。私を、と言ってしまうほど、自分だけに言ってくれているとしか思えない口調だった。途中、隣で一緒に聞いている彼を見ると、何とも言えない顔をしていた。
目を閉じ、続きに耳を傾ける。クッションを抱きながら、ついつい顔がにやけてしまう。
一番耳に残った台詞は、「俺のこと、好きになればいい」、だった。意外と普通に思えるかもしれない台詞だけれど、素直になれずそういう言い方になってしまったのか、そもそもが俺様気質なのか、どちらとも捉えられるような絶妙な表現に、いい意味で苛立ちを覚えた。
そして、エンディングだと分かるような音楽がしばらく流れ、心地良くフェードアウトした。
思わず余韻に浸る。
それからゆっくりとまぶたを開けた。
「あの——」
言いながらも、篠崎さんの方を向けなかった。
「すごいです」
語彙力のなさに申し訳なく思うけれど、すぐにはほかに言葉が見つからなかった。
「ありがとう」
「私、こういうものを聞いたのは初めてで、何と言えばいいのか分からないんですけど、その、恥ずかしいって言うか」
口にしてから、ものすごく失礼なことを言ったと思い、全力で否定する。
「あの、篠崎さんの仕事がとか、そんな意味じゃなくて、私が恥ずかしいって言うか、その……」
篠崎さんは、静かに相づちを打った。
「聞いているうちにどんどん引き込まれて、本当に私に言ってくれているみたいな気持ちになって。だから勝手に照れたって言うか、すごくドキドキしたって言う意味です」
「良かった?」
「それは、もう、はい」
すると、私の頬に手を添えた。
「どうしたの?」
CDと同じ声色だ。だけど、全然違う。
私をからかっているのだとすぐに気付いた。それでも、こんな贅沢なことはないと思った。今や大人気の篠崎大和の声を、独り占めしているという優越感にも似た感情は、ある意味私を興奮をさせた。
「みんなが篠崎さんのことを好きな理由、分かった気がします」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。
「みんなって?」
「世間の、女性の方たちです。だって、こんなに素敵な声を聞かされたら、誰だって好きになります」
「もしかして、嫉妬してる?」
嫉妬と言う言葉に思い切り反応した。
たぶん、と言うか、間違いない——
「ねぇ、知ってる?」
顔を半分だけ彼の方に向ける。
「赤ワインってさ、飲むとエッチな気分になるんだって」
言われてすぐ、何かの雑誌で読んだことを思い出した。
「らしい、ですね……」
「だから、キスしてもいいですか?」
たまに出る敬語が、私のツボを刺激する。
「ずっとキスしたかった」
そう言った彼の目尻が下がっているのは、赤ワインのせいだけだろうか。
「……いい?」
重ねて聞いてくる彼に、頷いて答えた。
大きな手が私の後頭部を覆い、触れるだけのキスをした。
見つめ合う。ただそれだけの時間。
「言って……」
突然のそれに意味が分からず、目だけで問いかける。すると、なんだか彼の雰囲気が変わった気がした。
「言わないの?」
「あの、何をですか?」
「もっとしてって、言わないの?」
言葉が出なかった。
そんな私を見て、わずかに首をかしげた。
「もう、からかってるんですか……」
聞くけれど、首を横に振るだげだった。
色っぽい表情で見つめられると、恥ずかしいのに欲張りになる。
「……もっと、してほしいです」
「何を?」
落ち着いた口調に、ずるいと思うよりも先に口を開いていた。
「——キス、して」
優しいキスを、何度も何度も繰り返す。
次第についばむようなキスに変わり、もっとしてほしいと彼の体に手を伸ばす。けれど、そこで唇が離れた。
目が合うなり、ふっと笑った。
「分かりやすい人ですね」
彼の言わんとすることが分かりすぎて、言い訳すら見つからずに下唇をきゅっと噛む。
「明日、俺も休みだから」
わざわざ耳元で囁かれ、思わず肩に力が入る。
すると今度は、意地悪に笑った。
「もしかして、耳弱いの?」
否定も肯定もできずにいると、親指で頬を優しく撫でた。
「ごめん——」
言うなり私を引き寄せ、首元に顔を埋めた。
「俺、今日はもう無理だから」
「あの……」
そこまで言ったものの、続きは考えていなかった。
彼の手が、背中で動く。
「今日、泊まってけば?」
その声は、彼の作品で一番最初に見たアニメの社長のそれだった。素直になれない俺様な社長が、好きになった女性にようやく本音を言った場面だ。
いちいちそんなことが頭に浮かぶものだから、篠崎さんの言葉を素直に聞けないでいた。
「すみれ?」
「はい……」
「ごめん、嫌ならちゃんとそう言って。単純に、まだ一緒にいたいだけとは違うから」
この気遣いはある意味反則だ。私にも、それくらいの意味は分かる。それをわざわざ言葉にして言ってくれたのは、彼が初めてだ。
「篠崎さん——」
「ん?」
「今日、泊まってもいいですか?」
「もちろん」
そう言うと、急に体が離れた。
「一緒にお風呂入ろう!」
数秒前までの大人な彼はどこへ行ったのか、今目の前にいるのは、子供のように目を輝かせている男の子だった。
「あの、どうしてそうなるんですか?」
「だって、すみれと一緒にお風呂入りたいんだもん」
「……だもん」て。とは思ったけれど、そこは突っ込まず、丁重にお断りした。とは言えそれを素直に受け入れてはくれず、駄々っ子のように拗ねるから、危うく許してしまいそうになる。好きな人の可愛いは、時に危険だ。
「あの、私コンビニで化粧水とか買いたいので、良かったらその間にお風呂でも入っていてください」
手振りを付けてそう言うと、渋々と言った感じで「分かった」と言ってくれた。
「ひとりで大丈夫?」
「すぐそこですし、大丈夫ですよ」
コンビニまでは目と鼻の先だ。マンションの前の通りを挟んだ向かいにある。
外に出ると、一気に湿度が上がる。
化粧水や歯ブラシと合わせて、ペットボトルの水も買った。
部屋に戻ると篠崎さんの姿はなく、部屋の奥からシャワーの音が聞こえた。
——本当に入ってるんですけど!?
薄々感じてはいたけれど、篠崎さんは隠し事ができないタイプなのだろう。彼には言わないけれど、素直すぎる行動が可愛くてたまらない。
シャワーの音が続き、不意にそれを意識した途端、ただの生活音でしかないはずなのに、ものすごく生々しく感じてしまった。
どうしたものかと、買ってきペットボトルの水で喉を潤す。
しばらくして、お風呂場の扉が開く音がした。
「欲しいもあった?」
振り返り、答えようと口を開いたまま一瞬時が止まる。
「……はい、ありました」
ハーフパンツに上半身裸は、彼にとっては当たり前の日常なのだろうけれど、私にはそうではない。海に行けば当たり前の光景にすぎないけれど、ここは浜辺ではなく篠崎さんの部屋だ。
思い切り目をそらすと、後ろから腕を回された。
シャンプーの香りが鼻を抜け、濡れた髪の毛は色気しかない。火照った体が火傷しそうなほど熱く、このご褒美は、心臓に悪い。
「ねえ、早くシャワー浴びてきて」
楽しそうに言うものだから、思わず笑ってしまった。
「分かりました。あの、できればティーシャツか何か借してもらってもいいですか?」
「そっか、ちょっと待ってて」
言い終わらないうちに足早に寝室へ消えていくと、ものの数秒で戻ってくるなり、ティーシャツとスウェットのズボンを渡してくれた。
「ありがとうございます」
シャワーを浴びながら、彼が使っているボディーソープをちゃっかりチェックする。今度こっそりと、ドラッグストアにでも見に行ってみることにしよう。
浴室を出て、見慣れない脱衣場に改めて彼氏の部屋にいるんだと実感した。
サイズの合っていないティーシャツに袖を通し、鏡の前で遠慮なくニヤつく。清潔感のある柔軟剤の香りに、どんどん顔がだらしなくなってしまうのは、もはや止めようがない。
もう少しだけ鏡の中の自分と楽しんでいたいところだけれど、スキンケアを済ませ、何事もなかったような表情をしてリビングに戻った。
私に気付くと、頭から足先までをじっくりと見ている。
「——篠崎さん?」
「おいで」
伸ばされた手に、自分のそれを重ねた。
「あ、あの、あまり見ないで下さい」
「どうして?」
「だって、素っぴんだから……」
「可愛いよ」
色気を含んだ言い方だ。
「それとさ、前から言おうと思ってたんだけど、そろそろ苗字で呼ぶのやめない?」
「それは、そうですよね」
とは答えてみたものの、急に呼び方を変えるのも、なかなかに勇気がいる。
「無理にとは言わないけど、すみれのタイミングでいいから、下の名前で呼んでくれると嬉しいかな」
「分かりました」
答えると、私の手を取り勢いよく立ち上がった。
分かりやすく、目尻が垂れている。
「あのさ、恥ずかしいから下は見ないでもらっていいですか」
今日だけで何人目だろう。篠崎さんではない言い方をした。ただ、今のは完全にからかっている口調だった。
声ばかりに気を取られ、遅れて言葉の意味を理解すると、あからさまな反応をしてしまった。
「……いい?」
すっと顔を寄せ、彼の声で聞かれて頷いて答える。
大きなベッドに座らされ、溶けるようなキスに思考回路が停止する。
次第に、彼の唇を体の至るところで感じ、体全部で彼を受け入れる。
行為の最中、息が上がった声で何度も私の名前を呼んでくれた。それだけなのに、嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいだった。
——そして、彼の悲痛にも似た表情が目の端に写り、頭が真っ白になる寸前、「大和」、名前を呼んだ。
彼が倒れこむように私に覆い被さる。
お互いに大きく胸を膨らませ、肩で息をしている。
気持ち良くて、心地良くて、とにかく絶妙で——初めてだった。形容しがたいほど、よかったとしか言いようがない。
「すみれ」
声がかすれている。
「大好きだよ。それと、もう一回呼んで」
「え?」
「名前」
「大和、さん」
「さっきと全然違うんだけど」
片手で頭を支えながら、冗談なのか本気なのか、冷たい視線をこちらに向けた。
「さっきのは、その、なんて言うか……」
言っている間に表情を緩めた。
「気持ち良かったの?」
私の顔を覗き込むようにして、声を潜めながら言った。
いっぱいいっぱいの最上級の言い方があるのなら、今の心境はまさにそれだ。
「素直に言えよ」
口調は優しいのに、言葉が乱暴なのは、小野寺陸のそれだった。
「それは、篠崎さんの言葉ですか?」
つい口から出てしまい、すぐに後悔した。
「どういう意味?」
眉根を寄せ、驚いている。
「その、目の前にいるのは篠崎さんなのに、たまに違う人の声に聞こえて——」
彼は、そのままの表情で首を傾げた。
「さっきのは、恋におちての小野寺陸でした」
そこまで言うと、ようやく理解したのか、「ああ」と声を上げた。
「実は私、篠崎さんが演じているアニメを色々見させて頂きました。だからたまに、篠崎さんが話してるのに、違う人が話してるように聞こえてしまって——」
言い訳をしている、そんな気分だ。
「ごめんなさい! せっかくの雰囲気を台無しにしてしまうようなことを言って、私……」
「ううん。素直に話してくれて嬉しいよ」
「え?」
「そんなことで冷めないし、それよりも、俺の仕事を見てくれてありがとう。そういうの、すごい嬉しいから」
「篠崎さん……」
何かの台詞のようだった。けれど、今のは他の誰でもなく篠崎さん本人だ。
「で、結局どの俺が一番好きなの?」
今度は私が驚いた。
意地悪な視線が私を見つめる。咄嗟に答えを探し、何を勘違いしたのか、たぶんこれだと思うそれを控え目に口にした。
「……あの、気持ち良かった、です」
答えた途端、急に彼が笑い出した。
「な、なんで笑うんですか?」
「いや、気持ち良かったなら、良かった」
言いながらも、まだ笑っている。
「俺が聞きたかったのは、どのキャラクターが一番好きなのかってこと」
一周回って冷静になる。今から穴を掘り、静かにそこに埋まりたい。そして、私の存在をなかったことにしてほしい。
二十五年間生きてきた中で、間違いなく今が一番恥ずかしい。言うまでもなく、そのあとも篠崎さんに何度もからかわれた。そうなるともう、一緒に笑うしかなかった。
少し落ち着いてきたところで、布団ごとがっしりと抱きしめられた。
「すみれ、大好き」
「知ってます」
少し強気な口調で返した。すると、目を細め、片方の唇の端を上げる。それから私の耳に顔を寄せた。
「すみれはまだ知らないよ」
潜めた声と、柔らかい吐息。
顔を合わせると、私の頬に手を添え親指で唇をなぞった。
「すみれ——」
今のはめちゃくちゃ格好つけている篠崎さんの声だ。
「もう一回、しよ?」
何を言い出すのかと思いきや、そんなことかと笑ってしまった。嫌だと言って彼から逃げるけれど、呆気なく捕まり、本当はそうしてほしいと言わんばかりに彼の腕にしがみつく。
篠崎さんにはきっとこれからもドキドキさせられっぱなしだろう。
色んな表情の声を、ずっとずっと隣で聞いていたい。
完
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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あなたのひと押しをお願いします!
声には本当に色んな顔があり、それが自分の好みの声だと簡単に恋に落ちることができます(笑
声を聞いただけで、はち切れんばかりに想像力が膨らむのは私だけでしょうか?




