帝都の洗礼
長く住み慣れた田舎の風景とは異なり、ここ帝都には広大な海原のような草原も、高くそびえる山々も、のんびりと草を食む家畜もいない。
踏みしめれば固くひんやりとしたアスファルトがどこもかしこも敷き詰められ、溢れる喧騒の中を、様々な様式の服を身に纏った人々が足早に通り過ぎてゆく。
見渡せば見慣れない配色の美しい建物が高々とそびえ立ち、空を見上げれば故郷とはまた違う景色に、エミールは思わず感嘆の吐息を漏らした。
「はぇ~……これが帝都か……。すげぇな……」
目の前に広がる煌びやかな光景に息を呑み、しばらくその場に立ち尽くす。
背中には大きなリュック、両手には地図を握り締め、爛々と琥珀色の瞳を輝かせ辺りを見渡す様は誰から見ても新参者。
すれ違いざまにくすくすと笑い声が聞こえ、はっと我に返るも、今日からこの帝都で暮らすのだと思うだけで心躍り、笑われたことなど気にも留まらない。
(っと、いけね。兄貴達との待ち合わせに遅れちまう……って、ここ、どこだ?)
ぱっと地図に目を落とし、先程降り立った駅と現在地を照らし合わせる。
一番大きな駅だから現在地はここで間違いはないとして、印を付けた兄達との集合場所まで目で辿るも、途中で何が何だか分からなくなり断念。
もしかして見ている方向が違うのかと地図を逆さまにしてみるも、ただただ「うーん」と唸る声ばかりが漏れる。
「やべぇ……。ぜんっぜん分かんねぇ……」
自慢ではないが、エミールは兄弟の中で一番の方向音痴である。
そのことで幼馴染であるアルフレートからはよく揶揄われてきたのだけど、それも今日でお終い。
とは言え、このままだと埒が明かないのは確かだ。
「取り敢えず、あそこに立ってる警備兵っぽい人に聞いてみるか」
エミールは独りごちり、真紅色の髪をかき上げると、駅の改札口付近に立つ男性に向かい歩き始めた。
その矢先、背後から不意に肩をぽんと叩かれる。
「ごきげんよう、お嬢さん」
(はぁ?お嬢さんだ?ここに来てまでこれかよ)
エミールは足を止め、不機嫌を露わに振り向くと、そこには目元に笑い皺を浮かべ、穏やかに微笑みかける一人の老紳士が立っていた。
いかにも上質そうな光沢のあるスーツを身に纏い、足元にはよく磨かれた艶やかな革靴。ふわりと香るウッディ系のコロンはどこか心を落ち着かせる。
「もしかして、帝都は初めてかな?」
「あ、はい。えっと……貴方は?」
エミールは先程までの怒りを忘れ、きょとんと問い掛けると、老紳士は可笑しそうに頬を緩めた。
「これは失礼。先程から地図を手に長いこと立ち止まっていらしたので、もしや道に迷われたのかと思い、声を掛けさせていただきました」
「あ、そりゃどうも」
「誰かと待ち合わせですかな?」
「はい。兄貴達と」
「左様ですか。よろしければそちらまでご案内いたしましょうか?ここ帝都は広大です。一歩道を誤れば、すぐ迷子になってしまう」
老紳士は眉を下げ、困り果てた面持ちでかぶりを振り、エミールを見つめた。
(随分と面倒見の良い人だな。帝都は人間の心も広いのか)
エミールは束の間悩むも、地図を見たところで土地勘の無い者からすれば辿りつけるのかも怪しい。
腕時計を見れば待ち合わせの時間まで残り僅かで、これは渡りに船だと、老紳士に道案内を頼むことにした。
「あ、じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「えぇ、えぇ。それでは付いて来てください」
老紳士は喜色満面に頷くと、「さぁ、さぁ」とエミールの背に手を添え、ゆっくりと歩き始める。
「「エミール!!」」
その瞬間、遠くから怒声のような叫び声が喧騒を割いて響き渡る。
(え?この声……)
「兄貴達?」
「「エミール!!」」
再び響き渡る自分の名前に、咄嗟に振り向き、目を凝らす。
するとよく見知った顔ぶれの屈強な男達が、人の流れを避けるようにこちらへ向かい走る様子が目に留まった。
(やっぱり!)
「おーーい!兄貴ーー!」
ぱっと顔を輝かせ、全身で喜びを体現するように飛び跳ね、両手を思い切り振ると、ものの数秒でエミールの華奢な体は大きな体躯にがしりと抱き締められた。
「エミィ!よく迷わずにここまで来れたな!偉いぞ!」
「疲れただろ?腹は減ってねぇか?今日は兄ちゃん達がうんと美味い物食わしてやるからな!」
「あぁ、エミィ……。お兄ちゃん、お前が一人で帝都に来ると聞いてから、心配で夜も眠れなかったんだよ……」
「ぐ……ぐるじい……にい……ちゃ……」
やいやいと矢継ぎ早に話しかけられるや否や、肋骨が折れるのではと思うほど強く抱き締められ、髪をぐちゃぐちゃに撫でられ、最後には頬擦りによる熱烈な歓迎。
しかし、エミールにとっては日常茶飯事の光景でも、案内を買って出た老紳士にとっては強烈な光景だったのだろう。口をあんぐりと開けて、呆然と立ち尽くし、こちらを見つめている。
「ちょ、兄貴!……すみません、折角声を掛けて頂いたのに」
エミールは熱烈な頬擦りを受けながら、どうにか老紳士に向かい頭を下げた。
「もしかして……お嬢さんの、お兄さん達?」
「はい」
この際、女性に間違われたことなどどうでもいい。とにかく今はこの痛い視線の中心から遠ざかりたい。
そう、これだけの騒ぎを駅前で繰り広げているのだ。老紳士だけならまだしも、エミール達の周囲には何事かと足を止めた人が人を呼び、いつの間にやら群衆が出来上がっていたのだ。
エミールは慌てて先程から微塵も離れようとしない兄達を押し返しながら、出来るだけ笑顔を浮かべると「ありがとうございました」と再度頭を下げた。
「そうですか。いやはや、それは良かった。それでは私はこれにて失礼するよ」
老紳士はにこやかに会釈をするも、何処か焦燥に駆られたように背を向けると、足早にその場から立ち去ろうとした。
(良い人だったな。後で兄貴達にも話してやろーー)
「おい、エミール。先のご老人は知人か?」
背後からエミールを抱き込む様に腕を回していた長兄アルベルトが、低く腹に響くような声で尋ねる。
「え?いや、違うけど……」
「そうか。おい、イザーク」
「あぁ」
その言葉を聞くや否や、エミールの頭をこれでもかと撫で回していた次兄イザークが、瞬時にその場を離れ、背を向け足早に去ろうとする老紳士の腕をぐっと掴んだ。
「は?え?」
「失礼。先程は我が愛しい弟が大変世話になったようで。兄としても少しばかりお話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか」
「お、弟?あの見た目でか?……いやいや、なに、大したことはしておりません。申し訳ございませんが、この後急用が入りましてね。先を急ぐので失礼いたしますよ」
そこでイザークはズボンのポケットから帝国騎士団の紋章が刻まれた徽章を取り出すと、老紳士の目の前に掲げた。
「では、騎士団として、話をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「は?……はぁぁ!?お前、騎士団の……くそっ!」
「え?なに……」
驚きで目を見張るエミールを他所に、先程まで優雅で洗練された振る舞いをしていたはずの老紳士は、次兄イザークの記章を見るや否や、見たこともない形相で悪態を吐き、その場にがくっと項垂れてしまった。
その突然の豹変ぶりに得体の知れない恐怖を感じ、無意識に長兄アルベルトの腕をぎゅっと掴む。
すると最後まで頬擦りをしていた三兄ウィリアムは、ゆっくりと頬を離すと、柔らかな声でエミールの耳元に囁いた。
「あの男、最近この帝国で多発している人攫いの組織の一味だよ。エミィのこと、女の子だと思って近付いたんだろうね」
「え?人攫い?でも、あの人とても親切で、優しくて……」
「うん。悪人ほど善人の振りがうまいからね。ほんと間に合って良かったよ……」
「だな。はぁ……エミィ。お前はいい子過ぎる。兄ちゃんは心配だ」
アルベルトはエミールを抱き締めたまま、震える華奢な両手をぎゅっと握ると、大きな溜め息を吐いた。
「ア、アル兄!大丈夫だって!だって俺、騎士になるために此処に来たんだぜ?」
「この震える手でか?」
「う……」
「ははは。可愛い騎士さんだなぁ」
「ウィル兄も!」
「お待たせ……っと。なんだ、随分と楽しそうじゃねぇか」
老紳士、もとい人攫いの男を近くにいた見回りの騎士へ引き渡してきたイザークは、緊張をはらんだ雰囲気を一転させ、温和な声色でエミールに向かい微笑みかけた。
「イザク兄、聞いてよ!二人が俺のこと馬鹿にするんだ!」
「ん~?それは酷ぇなぁ」
そこでイザークは可笑しそうに頬を緩め、突然その場で腰を屈めると、ひょいとエミールを抱き上げた。
その瞬間、またもや周囲がざわつき、どういうわけか所々から黄色い声が飛び交い始める。
「ちょ、イザク兄!恥ずかしいって!」
「駄目だ。またお前が人攫いの目に留まったりでもしたら、兄ちゃん気が気でない」
「こんなの余計に目立つじゃん!」
「いや、これでいい」
エミールの背から大きなリュックを取り外し、肩にかけたアルベルトが冷静に頷く。
すると続けざまにウィリアムがエミールの手から地図を取り、丁寧に折りたたむと、エミールのピンク色の染まった頬をぷにっと摘まんだ。
「ほら、これでエミィには騎士団がついてるって周知できたでしょ?」
「う……」
(本当は俺にくっつきたいだけなんじゃ……)
喜色満面に自分を見つめる兄達をじっとりと睨み付けるも、久しぶりに触れた兄達の温かさにエミールはほっと胸を撫で下ろすと、ふわりと笑みを浮かべた。




