ヒマワリの耳
ずっと気になっていることがある。
友だちのМが彼女にもらったというTシャツのことだ。
背中にヒマワリを持った女の子のイラストが描かれているTシャツで、女の子は弾けるような満面の笑みを浮かべていた。
ある日、そのヒマワリの花びらが一枚だけ落ちていた。
前に見た時は、すべての花びらがついていたのに。
Мは大学入学後に初めてできた男友だちだった。同じ学科の彼はやや朴訥な感じで、でも適度におしゃれで、清潔感があって、男女共に好感度が高い。そして、異性との交流に慣れていない私でも話しやすい、つまりはいわゆる好青年だった。
Мと私は、一人暮らしのアパートが近所なので、朝、通学のバスでよく顔を合わせる。
梅雨の最中の蒸し暑い日、私はいつも通りバスに乗った。
「おはよう」
Мはすでに乗車していて、私を見つけるとごく自然に笑顔で話しかけてくれた。
「おはよう、蒸し暑いね」
私も挨拶を返す。車内は学生ですでにやや混んでいる。
「ほんと、暑いね」
МがTシャツをお腹のところをつまみ、パタパタと扇いでみせた。
その隣で小柄な女子学生がにっこりと笑っている。Мの彼女だ。私と目が合うと、屈託のない柔らかな笑顔のまま会釈をした。
「どうも」
私は何となくその会釈に返事をし、彼らから距離を取るようにバスの奥へと向かった。
彼女はサークルで知り合った他学部の女の子らしい。どの角度から見てもかわいくて垢抜けている。好青年のМにお似合いの、完璧な女の子だった。完璧すぎて、田舎臭い私とはとても友だちにはなれなそうにない。
座席の手すりにつかまりつつ、Мの背中を確認する。
ヒマワリのTシャツはお気に入りらしく週に2回は着ている。
私はそのヒマワリから目を離すことができなかった。
その日は花びらが三枚落ちていた。心なしか花自体も全体的に萎れ始めている。
(これは、日に日に花びらが減っていくのではないだろうか)
私はヒヤヒヤしつつ、何故か高揚もしていた。
Tシャツの中で、ヒマワリの花びらが落ち、枯れていく。
「このTシャツ、デザイン違いで何枚か持っているの?」
授業後にМに訊ねたことがある。背中のヒマワリを指で突っつきながら。
「ううん」
Мは目を見開いた。
「どうして?」
「いや、えーっと」
花びらが落ちているからとは言えなかった。
「よく見かけるから」
ごまかしつつも嘘ではない。彼を見かけると、結構な確率でそのTシャツを着ていたから。
「お気に入りだから」
答えるМの笑顔は幸せに満ち満ちていて、腹立たしい。
彼女がプレゼントしてくれたお気に入りのTシャツだから、たくさん着ているという事実が憎たらしい。
花びらは5枚落ちたところまで確認してから、バスで全く彼女を見なくなった。
二人は別れたらしいという噂は聞いた。Мは女子に人気があったから、色めき立って話していたのを小耳に挟んだ。
それなのに、МはまだあのTシャツを着ていた。
女の子は満面の笑み。花びらは5枚落ちたまま。
今日もМはバスにいた。
「おはよう」
私が話しかけると面倒くさそうに手を挙げ、すぐに目を逸らす。
あっち行け。
Мの心の声が耳元で囁いた。
そっと離れ、遠くから背中を見る。
(あっ)
私は声が漏れそうになるのをどうにか抑えた。
さっきまでまだ鮮やかな黄色を保っていたTシャツのヒマワリがすでに黒く枯れ果てた姿でうなだれている。女の子は笑顔は消えていた。
よく見ると、右の耳が赤く染まっている。
(ーー違う)
女の子に耳はなかった。あるはずの耳がない。まるで削がれたように右の耳だけない。そして、その代わりのようにベッタリと赤い血液が張り付いていた。
次の日もМの態度は変わらず冷たかったから、もう挨拶するのはやめた。こちらが傷つくだけだった。
離れたところから背中を見ると、今度は枯れたヒマワリを持つ女の子の左耳が失われていた。
女の子の目が虚ろに私を見ている。
その次の日から、Мはバスを使わなくなってしまった。大学で聞いた話では、バイク通学に変えたらしい。
大学構内でも私は避けられていた。
そして、Мはもう、あのTシャツを着てこない。
だからあのTシャツのヒマワリと女の子がどうなったのか、私にはわからなくなってしまった。
それからしばらくして、夏休みの前こと。
またМをバスで見かけた。
隣にはあの完璧な女の子がいた。別れたはずなのに、以前と同じ笑顔でМの隣に寄り添っている。
(復縁したんだ)
そう気づいたとき、私は自分の体の底から禍々しく、黒い渦がこみ上げるのを感じた。
彼のシャツのヒマワリは枯れ果て、干からびて、見る影もない。女の子は耳だけではなく、髪を切られ、俯いていた。
ふと。
女の子が顔を上げる。
目が合うと、静かに笑みを浮かべた。
見下げるように。
その顔は私そっくりだった。
ぞっとするほど醜い顔だった。
女の子は私を手招きする。
ーーМの背中を独り占めしているけど、あなたもこちらにくる?
気づくと、私は彼のTシャツの背中を強く掴んでいた。
最初、驚いたМは振り返り、目を丸くして黙って私を見つめるだけだった。
「何?」
戸惑うМに、私は必死でしがみついた。
「背中の女の子が喋った」
そう言うと、Мと隣の彼女が顔を見合わせる。
ーー何いってんの、コイツ。
ーーヤバい人なんじゃない?
二人は目と目で会話をする。
わかってくれない。こんなにもTシャツの中で女の子は病んでいるのに。
「だって、ヒマワリも枯れているでしょ?」
そう言うと、彼女のほうが首を振った。
「何も変わっていないよ?」
バスの乗客はみんな白い目で私を見ている。
おかしいのは私だと、無言で叫んでいる。
私は握りしめたМのTシャツを見つめた。
しわの寄った生地にはヒマワリの鮮やかな黄色がプリントされている。
「違う。さっきまで枯れていたはずなのに」
私の声は震えていた。
確かに、ヒマワリは枯れ、Tシャツの女の子は傷ついていった。少しずつ。
それなのに、今、今目の前にあるのは、最初に見たときの通りのヒマワリと女の子だ。女の子は弾けるような笑顔を見せている。
「何言ってんの?」
Мは私を睨みつける。
「ストーカー」
そう、呟くのを聞いた。
私は急いでバスを降りた。
体の中に渦巻く、コントロールできない感情。
ドス黒くて醜くて、それなのに捨てられずに腹の底に降り積もり、重く沈んでいく。
隠していたかった。
彼の隣の彼女を憎みながら、Tシャツの女の子が傷ついていく想像をしていたのは、私。
バスの中では彼女がホッとした顔をしている。彼氏に絡む異常な女がバスから降りて、安堵したのだろう。その隣でМは優しい視線を送っている。
あれは私に注がれるはずの眼差し。
そんなはずないのに、そうであるべきと渦巻く。
(耳が熱い)
公衆の面前で、狂ったストーカーにされてしまった。
(ああ、もう叶わないなら)
私はカバンの中からハサミを取り出すと、その場で髪を切った。
そして、耳も。
触れてみるとベッタリと生温い感触が指の間に入ってきた。異様な私を遠巻きに見る人々の囁きも、切り裂かれるような胸の痛みも、かき消していく。
Tシャツの中の女の子とおんなじ、虚ろな瞳でバスの中の幸せそうな二人を見つめた。
(せめて、Tシャツの女の子になりたい)
その馬鹿な願いは届いたかどうか。言っても誰も信じない。きっと誰も。
Tシャツの女の子が時々不穏に笑うのをみるのは、Мの彼女だけ。
Мの彼女が一人、Мの背中を見つめる時だけ。
彼の背中を独占する私の勝ち誇った笑顔に気づき、恐怖する表情をみて、私は勝ち誇った気分になるのだ。