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歩くうわさ

作者: 藍沢 理

 春眠暁を覚えず、とは申しますが、高校二年の教室は眠気よりも溜息を誘発する空間でございます。変わり映えのしない顔ぶれ、退屈な授業、そして時折紛れ込む、どうでもいいゴシップ。私はごく平凡な……少しばかり達観した女子高生でございます。座右の銘は「太平の世、五日の風、十日の雨、風は枝を鳴らさず、雨はつちくれを破らず」簡単に言うと、平和が一番。波風立たぬ日常こそ、至上の幸福だと信じておりますの。


 そんな私の静謐なる学園生活に、突如として嵐が吹き荒れたのは、ほんの数日前のこと。彼の名を、ルマ・アルクと申します。どこかの国の王子様のような名前ですが、その実態は、歩く情報災害、生ける都市伝説発生装置とでも呼ぶべき存在。見た目は儚げな美少年、されどその口を開けば、根も葉もない、いや、根も葉も、なんなら幹すらないような奇妙な噂が飛び出すのです。転校初日の挨拶が「このクラスには、夜な夜な校舎を徘徊するパンダの霊がいるらしいですね」でしたから、もうお察しです。


 そして今日、その歩く噂製造機の矛先は、ついにこの私に向けられました。昼休み、教室で静かに文庫本を読んでおりましたら、ルマ君が目を輝かせて私の席にやってきたのです。背後には、好奇心と若干の怯えを浮かべたクラスメイトたちの視線。嫌な予感しかいたしませんわ。


「田中さん」


 顔を伏せてシカトします。


「田中英麻さん! 大変です! あなたに関する重大な噂を聞きました!」


 彼は世紀の大発見でもしたかのように声を張ります。やめていただきたい。目立つのは本意ではないのですから。


「……何かしら、ルマ君。くだらない噂なら聞く耳を持ちませんわよ」

「くだらなくなんかないです! 田中さんは、その……赤いもの、特に血を見ると、人格が変わって獰猛になり、血を求めて襲い掛かってくる……吸血鬼の一族の末裔だ、と!」


 ……は?


 教室が一瞬、水を打ったように静まり返り、次の瞬間ひそひそとした囁き声に変わりました。「え、マジで?」「だから田中さんって、なんか冷たい感じするんだ」「昨日、トマトジュースこぼした時、目がギラってしたような」などと聞こえてきます。気のせいです! 断じて気のせい! あと、冷たいんじゃなくてクールビューティと呼びなさい!


 こめかみの血管が浮き出たのを隠しながら、極めて冷静に返しました。


「どこの誰が言い出したデマですの? それともあなたの妄想ですの?」

「昨日、美術室の前で聞きました! だから真実です! でも、大丈夫ですよ、田中さん! もし暴走しそうになったら、僕がこのニンニクと十字架で!」


 彼が鞄から取り出したのは、立派な青森県産ニンニクひと房と、どこぞのお土産物屋で買ったような安っぽい十字架のキーホルダー。本気なの? この人、本気で言ってるの?


「結構ですわ! いいですか、私は正真正銘ただの人間です! 吸血鬼でもなければ、血を見て喜ぶ趣味もございません!」

「でも、噂では……」

「その『噂』とやらは、一体どこの誰の与太話ですの!?」


 その時、悲劇は起こりました。クラスのお調子者、鈴木君が、面白がってケチャップの小袋を私の目の前で破裂させたのです!


「ひゃっほう! 田中の覚醒ターイム!」

「やめなさ……っ!」


 赤い液体が、私の白いブラウスに飛び散りました。視界の端に、鮮やかな赤色が映えます。刹那、ルマ君の顔が恐怖に引きつり、大声で叫びました。


「あああっ! 田中さんの目が赤く……! 皆さん伏せてー!」


 彼は敏捷な動きで教卓の下に隠れ、ニンニクと十字架を卓上に出しております。教室はパニック。阿鼻叫喚。……あのね、目が赤く見えるのは、多分、怒りで充血しているだけですから! そもそも覚醒なんてしません!


「鈴木君っ! あなた、後で体育館裏にいらっしゃい!!」


 ……あら。私としたことが、つい柄にもないことを。これでは本当に噂を肯定しているようなものではなくて? ああ、もう! 私の平穏な高校生活、一体どうなってしまうのかしら!?



 翌日「吸血鬼騒動」と呼ばれることになった珍事を経て、私、田中英麻の学園内における評価は、残念ながら「ちょっと近寄りがたいクールビューティー」から「何かヤバい秘密を抱えた要注意人物」へと下方修正されたようでございます。これも全て、あの歩く噂製造機、ルマ・アルク君のせい。彼は自分が火種となったことなどケロリと忘れ、今日も今日とて新たな噂の種を探して校内を嬉々として徘徊しております。ああ、胃が痛い。


「田中さん、見ましたか!? 今日の購買部の新作パン! 『幸運を呼ぶ七色のオーラパン』ですって!」


 昼休み、購買部から興奮気味に戻ってきたルマ君が、手に持った奇妙な物体を私の前に突きつけました。それは、赤、青、黄色、緑……ご丁寧に七色の毒々しい縞模様が描かれたメロンパンのようなもの。お世辞にも美味しそうとは言えませんわ。むしろ、衛生的に大丈夫なのかしら、これ。


「……七色のオーラパン? 馬鹿馬鹿しい。着色料の塊でしょう」

「違います! 購買部のおばちゃんが『これを食べると午後の小テストで満点が取れる』って言ってたんです! 限定五個ですよ! 奇跡的に買えました!」


 購買部のおばちゃん。新製品が出ると、大体いつもそういうことをおっしゃるのよ。経験則から断言できますわ。あれは販促トーク。噂でもなんでもなくてよ。


「そう、それは良かったわね。どうぞお一人で召し上がって、小テスト満点を目指してくださいまし」

「えっ? 田中さんは食べないんですか? 一緒に幸運を掴みましょうよ!」

「購買部の新作パンは遠慮しておきますわ。私、お腹を壊しやすい体質ですので」


 断固拒否すると、ルマ君は心底残念そうな顔をしましたが、すぐに気を取り直して件のパンにかじりつきました。「おお……口の中に虹が!」などと意味不明な感動を呟いております。その数分後、保健室へ直行したのは言うまでもありません。原因? もちろん腹痛です。


 彼の奇行は止まりません。放課後には「屋上から願い事を書いた紙飛行機を飛ばして、それが校舎を一周して戻ってきたら、どんな願いも叶うらしい」という、これまたどこで仕入れてきたのか怪しげな噂を信じ込み、大量の紙飛行機を手に屋上へ向かおうとする始末。


「待ちなさい、ルマ君! 校舎一周なんて、絶対に不可能ですわよ!」

「でも、叶えたい願いがあるんです! 『世界中の人が噂を信じますように』って!」


 これ以上、被害を拡大させるのは忍びない。


「それに、噂では『伝説の生徒会長』が成功させたって!」

「その伝説、十中八九、捏造ですわ!」


 彼の決意は固く、私や居合わせた風紀委員の制止も聞かず、屋上へ駆け上がって紙飛行機を飛ばし始めました。当然、ほとんどはあらぬ方向へ飛んでいき、いくつかは隣の小学校のグラウンドへ不時着。そして、最後の一機が、よりにもよって窓拭きをしていた教頭先生の、その、大変デリケートな部分、頭頂部にダイレクトヒットいたしました。


 現場は凍りつきました。教頭先生の驚愕と怒りに満ちた形相。ルマ君の「あ……」という間の抜けた声。そして、私の深いため息。


「言わんこっちゃないのですわ……」


 幸運のパンのはずが腹痛を招き、願いの紙飛行機は教頭先生の逆鱗に触れる凶器と化す。ルマ君が関わると、どうしてこうも物事がマイナス方向へ転がり落ちるのか。噂というのは、時に現実を捻じ曲げる力を持つのかもしれませんけれど、彼の場合、捻じ曲げ方が致命的に下手すぎやしませんこと? ああ、明日はどんな噂で振り回されるのかしら。もういっそ、学校に巨大隕石でも衝突しないかしら。



 最近、どうも様子がおかしいのです。ルマ・アルク君が拡散する噂は相変わらず奇天烈なのですが、その内容が妙に私に偏っている気がいたします。「田中さんは夜な夜な黒猫に変身して街を徘徊しているらしい」だの、「田中さんのロッカーには異世界への扉が隠されているらしい」だの。笑い飛ばすのも馬鹿馬鹿しいレベルですが、これが続くと流石に気味が悪い。


 極めつけが「田中英麻は、学園七不思議の最後のひとつ『開かずの金庫』の中身を狙っている大怪盗らしい」というもの。ちょっと待ちなさい。開かずの金庫? この学校にそんなものありました? 聞いたこともございませんわ。

 ところがこの噂、どういうわけか妙な信憑性をもって広まってしまったのです。きっかけは、先日図書室で借りた『アルセーヌ・ルパン』シリーズを、ルマ君が見ていたことらしいのですけれど。


「だって田中さん、あの時『完全犯罪……ふふ、完璧な計画ね』って呟いてました!」

「それはルパンのトリックに感心していただけですわ! 自分がやろうなんて微塵も思っておりません!」


 弁解虚しく、一部の教師、果ては用務員さんまでもが、私を見る目が明らかに変わりました。廊下ですれ違う際に、やけに貴重品を気にしたり、意味ありげに咳払いをしたり。担任なんて「田中さん、最近、夜更かししてないかね? クマができているようだが……」なんて、遠回しに探りを入れてくる始末。大きなお世話ですわ! 単なる寝不足です! ルマ君のせいで!


 こうなっては、噂の出所を突き止め、この濡れ衣を晴らすしかありません。もしかしたら、誰かが意図的に私を陥れようとしている可能性も? そこまで考えて、ふと、ある考えがよぎりました。


 いっそ、本当に金庫破りの濡れ衣でも着せられれば、少しはこの目まぐるしい日常から解放されるのかしら。


 いけません。ダメです。毒されすぎておりますわ。そんな不毛なことを考えている場合では――


「田中さん! もし金庫を狙うなら、僕がお手伝いしますよ!」


 背後から、満面の笑みで声をかけてきたのは、もちろんルマ君。もう驚きませんわ。彼はその純粋さゆえに、私が本当に怪盗だと信じ込んでいるご様子。そのうえ、なぜか私に協力する気満々。


「あの、ルマ君。私は怪盗では……」

「大丈夫です! 協力者がいた方が成功率は上がります! 噂によれば、金庫の暗証番号は、初代校長の誕生日四桁と、その飼い犬の名前を組み合わせたものらしいです!」


 待って。情報が具体的すぎやしませんこと? しかも、そんなローカルすぎる暗証番号をどうやって……?


「今夜がその計画実行の夜だと、もっぱらの噂です!」

「誰がそんなことを!」


 そうこうしているうちに、話はどんどんおかしな方向へ。なぜかクラスの一部、主に面白がりが「田中怪盗団」なるものを結成し、ルマ君を参謀に据え、放課後、件の「開かずの金庫」とやらを本当に開けようと画策し始めたのです。実際には、資料室の奥に埃をかぶって置かれていた古い耐火金庫でしたが。


 とはいえ金庫は金庫。私は全力で止めようとしました。しかし、一度走り出した噂と、それを信じる純粋、という名の愚かな集団の勢いは止められません。結局、彼らは保健室からパクってきた聴診器などを使い、大真面目に金庫破りに挑戦。当然、開くはずもなく、最後は駆けつけた教頭先生に全員こっぴどく叱られて、ようやく騒動は収束したのでした。


 疲労困憊で帰路につく私の隣を、しょんぼりと歩くルマ君。


「すみません、田中さん。僕のせいで……」

「……別に、あなたのせいだけではありませんわ。噂なんて、信じる方もどうかしているのですから」


 少しだけ、本当に少しだけ、彼への怒りが和らいだ気がしました。とはいえ、根本的な体質が変わらない限り、明日もまた、新たな珍妙な噂に振り回されるのでしょうけれど。


「まあ、退屈しないだけマシ、かしらね?」


 夕焼け空に向かって、誰に言うでもなく呟きました。ええ、きっとマシなのですわ。


「田中さん」

「なあに?」

「実は新たな噂が……」

「うん?」

「ルマ、というやつが、田中さんを好きだという、そんな噂が……」

「……知ってたわよ」


 ルマ君の顔は夕日のせいで赤く染まっておりました。




(おしまい)

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― 新着の感想 ―
ルマ君結構な害悪だと最終的に思った。てか田中さんがどんどん神聖化されてくんが面白い笑。本人からしてみれば、大の大迷惑やけど
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