美しき音楽の精霊である彼は、感情を持たないはずだった。彼女と出会うまでは。
真っ白な雪が、しんしんと降る街で私たちは出会った。
彼は真っ白なローブを着て、街に唯一ある教会の鐘を鳴らす。
どんなに寒い日も、どんなに激しい雨の日も、極寒の雪の日も、彼がこの街の夜を、朝を告げる。
魔法の発達したこの時代、自分で鳴らさずとも鳴り響かせることのできる鐘を、彼はいつも自身の手で鳴らしていた。
「ねぇ、どうして自分の手で鳴らすの?」
私は彼にそう尋ねた。
「どうして自分の手で鳴らさないの?」
彼はそう答えた。
世界中のあちこちを旅してきた私とは異なり、この街で鐘を鳴らし続ける彼は。
「存在する限りこの手で音を奏でるよ」
彼はこの街の「鐘」そのものだった。
半透明な彼は、この街に住む、「音楽の精霊」だったのだ。
◆ ◆ ◆
人の思いが集まることで、精霊は生まれる。
音楽都市アーネルには、多くの音楽家が集まる。
彼らの強い思いが、この街の音楽を愛する思いが、彼を生み出した。
彼に名前は無い。
鐘の精霊と呼ばれているだけの存在。
私は彼に興味を持った。
人にはない、半透明なまでに透き通った白い肌。きらきらと輝く銀色の髪は、晴れた日に降る雪を思わせた。こちらを見る瞳は限りなく白に近い水色をしている。すらりと細い体は、重力を感じさせない。
彼はとても美しい。容姿も、そしてその声も。
世界中の都市で歌い、生計を立ててきた私が嫉妬するほど、彼は美しい声をしていた。
人々は、彼を精霊として崇拝していたけれど、子どもたちには関わってはいけないと、伝えていた。
「連れ去られてしまうよ」
誰かがそんなことを言っていた。
食事をとることも、寝ることも必要のない彼は、決まった時刻が来るとどこからか現れ、鐘を鳴らす。
私は彼が現れると、少しだけ話をした。
歌を歌って生きてきたけれど、私はその自信を失っていた。
この街に来て、私は自分がちっぽけな存在で、そんな自分に限界を感じていた。
そんな時、彼に出会った。
彼は私に興味を持つ様子はなかった。そもそも、感情があるようにも思えなかった。いつも無表情に、話しかけたことにだけ淡々と答えた。
街の人たちも言っていた。
彼はただ、鐘を鳴らすだけの存在だと。
ずっと昔から、そこに在るだけだと。
街の人たちは、まるで鐘の付属物のように彼のことを語った。
けれど私は不思議と彼のことが気になって、いつも話しかけた。
「食べる必要が無いのはわかっているけれど、食べることはできるの?」
私が彼に思いついた疑問をぶつけるのは、もっぱら鐘を鳴らした後だ。
教会の塔から降りてくる彼に声をかけて、少しだけ話をする。
「食べようとしたことが無いから、わからない」
彼がそう言うので、私は持っていたクッキーを彼に手渡した。
「食べてみて」
彼は無表情のままクッキーを眺めた。
「これは?」
「焼き菓子。クッキーっていうの」
「クッキー」
確認するように呟くと、彼はそれをぱくんと一口で口の中に入れて呑み込んだ。
「あっ」
「何か間違ったか?」
「えっと、噛んで食べた方がおいしいよ?」
呑み込んだこと自体は大丈夫そうだったので、私はそう言った。
「そうか」
「もう一つあるから、良かったらどうぞ」
私はゆっくりと噛んで食べている様子を見せながら言う。
彼はその様子をじっと見て、それからクッキーをゆっくりと口に運んだ。
「おいしい?」
「味覚というものが無いので味はわからないが、君が思う『おいしい』という感覚は、君を通してわかる」
「え?」
「僕は精霊だから、人が感じる感覚がわかるんだ」
私がおいしいと思う、その感覚はわかる。
だから。
「君が今、『おいしい』より、『つらい』気持ちでいることも、わかってる」
彼は無表情のまま、私を見つめた。
「つらいという気持ちは、痛いときの気持ちに似ているんだね」
その淡々とした言葉に、私は思わず口を開いた。
「私には、歌しかないと思って、世界を旅して来たの。だけどここに来て、私は大した歌い手ではないと思った。わかってしまった。そのことが、どうしようもなくつらくて。私には、歌しかないのに」
人には言えなかった心の苦しさを、彼には言うことができた。
私はどこかでほっとしていた。
抱えこんでいた何かを、ようやく少しだけ吐き出すことができたような気がした。
「そうか」
彼は呟くようにそう言った。
何と言っていいかわからないようにも見えた。
「ねぇ、私のために歌ってくれない?」
「歌はつらいんじゃないのか?」
「あなたの歌う歌なら、聴いてみたい」
私が一番好きな歌。
昔、亡くなった祖母が私のために歌ってくれた歌。
もう歌う人のいなくなった、古い曲。
その曲が聴きたくなったのだ。
彼は私が頭の中に浮かべたその曲を、優しい声で歌い始めた。
その声は徐々に変わり、まるであの頃聴いた、祖母の声と重なった。
幼い私を膝に乗せ、一緒に歌ったあの歌、あの声。
私の歌をステキだと言ってくれた、あの頃。
懐かしさのあまり、私の頬には一筋の涙が伝った。
「人は、悲しくても嬉しくても泣くから、よくわからない」
歌い終わった彼はそんなことを言った。
「懐かしいという感情は、そのどちらも混ざっているのだね」
彼はそう言うと、私の隣にそっと座った。
空からは雪が、はらはらと舞い落ち始めた。
私の吐く息だけが白い。
私が彼の方を向くと、彼は空を見上げていた。
私も空を見上げた。
暗い空から、白い雪が舞い落ちるのを、以前の私は厳しい寒さの訪れと思っていた。
だけど寒さも冷たさも変わらないのに、今日は不思議とあたたかく感じられた。
それはきっと、隣に彼がいるからで。
どうしようもない真っ白な雪の中、私は音楽の精霊に恋をしていた。
◆ ◆ ◆
それから時々、私は彼に会いに行った。
私が好きなお茶を持って行った日もあったし、私が好きな本を持って行った日もあった。彼はそれを楽しむ「私の感情」を共有した。
「それはステキな物語だったんだね」
そう言って、彼は無表情のまま私を見た。
私は彼の笑顔を見てみたいと思った。
「笑うことはできるの?」
私は好奇心のまま、そう尋ねた。
「わからない。そういう感情はないから」
「『にっ』て口角を上げてみて」
彼は言われるまま、口角を上げてみてくれたけれど、それは笑顔とは言い難かった。
「君を見ていると、共に笑いたいと思うし、共に泣きたいと思う」
無理をさせてしまっただろうかと思っていた私に、彼はそんなことを言ってくれた。
「いつか、笑えるようになりたい」
彼は独り言のようにそう呟いた。
◆ ◆ ◆
「この街には、長くいられそうにないの」
私は彼にそう告げた。
音楽都市アーネルは、音楽家のレベルが高い。街で私が歌っていても、手に入る路銀はわずかだ。だから長くはいられそうになかった。
彼と離れたくなかった。
歌を辞めて仕事に就けば、この街にいることもできるだろう。
だけどそうすることは、自分を失うことのようにも思えた。
「歌を辞めれば、この街にいられる。だけど、どうしたらいいか、悩んでて。あなたはどう思う?」
隣に座る彼は、前を向いたまま言う。
「君の答えが出るまで、僕は傍にいるよ」
ずっと一緒にいて欲しいとか。
歌を選んだ方が良いとか、そういう「答え」じゃなくて、彼は私がどう思うか、納得がいくまで傍にいてくれる。
そんな彼が、やっぱりどうしようもなく好きだった。
私が好きだと言ったら、彼はどう答えるだろう。
多分彼は、私のこの気持ちもとっくにわかっているに違いない。
「答えを出さなくても良いよ」
彼はふと、そんなことを言った。
答えを出さなければ。
いつまでもこうしていられるから。
いつまでもこうしてはいられないからこそ。
その幸せな瞬間は、一瞬で、でも永遠だった。
◆ ◆ ◆
彼と歌を天秤にかけて、彼を選ぼうと思った。
だけど、親しくなった街の友人に言われた。
「精霊とは、生きている世界も、時間も違うから」
彼とは、何もかも違う。
いつまでも一緒にはいられない。
人ではないのだ。
私だけが老いていく。変わっていく。
何十年も月日が過ぎた時、私は彼を置いていってしまうだろう。
それならいっそ。
今、彼に別れを告げた方が良いのではないか?
そんな思いで、頭がいっぱいになった。
「あなたが人間だったらいいのに」
苦しいけれど。
この苦しさがすべてにならないうちに、この街を離れよう。
そう決めて、私は街を離れることにした。
雪の降る夕方、私は荷物をまとめてこの街を出ようとした。
そろそろ鐘の音が鳴る頃だ。
彼は毎日、決まった時間、決まったタイミングでその鐘を鳴らす。
だけど。
今日はその鐘の音が聞こえない。
彼に何かあったのだろうか。
街中がしんと静まり返っていた。
すべての音が、雪に吸い込まれていったのかと思うほどだった。
私は心配でいてもたってもいられず、街に戻ろうかと思った。
そんな時。
街のはずれに、彼がいた。
いつもなら鳴らすはずの鐘を鳴らすこともなく、彼は私を見つめていた。
「街を出ることにしたの」
「そう」
彼は短く言った。
「あなたに会えて良かった」
私がそう言うと、彼は口角を上げて見せた。笑えてはいなかった。だけど彼の精いっぱいの思いだけは、伝わってきた。
彼は私の瞳をじっと見つめた。
何も言わなくとも、私の思いは、彼にはきっと、通じている。
「君に会えて良かった」
彼はそう言うと、風に溶けるように消えた。
それと同時に、街中に鐘の音が華やかに鳴り響いた。
それはまるで、私の旅立ちを祝福してくれているかのような音色だった。
音楽の精霊の彼が奏でる、美しいその音色は。
どうしようもないほどに彼への気持ちを思い起こした。
行かなければ。
行くんだ。
苦しいほどに、何にも代えがたいほどに。
どうしようもなく、彼が好きだ。
だけど決めたんだ。
私たちは違う世界に生きていて、これからもずっとそうなのだと、知っているから。
◆ ◆ ◆
それからしばらくの月日が過ぎた。
数々の出会いと別れがあった。
私は今でも歌を歌っている。
歌っていると、彼のことをどうしようもなく思い返す時があった。
美しき音楽の精霊の彼。
もしこのコンクールに残ることができれば、アーネルの街で行われる本選に参加することができる。
私は心のどこかで、もう一度あの街に行きたいと思っていた。
彼にもう一度会いたい。
だけど、今更そんなことを思うのは違うのではないかと、自問自答した。
運命が導くなら、またあの街へ行くことができるだろう。
私は難度の高いそのコンクールの舞台に立った。
今まで何度も落ちてきたその舞台で。
その時だけは、不思議なくらい声がのびやかに出た気がした。
自分でも自分の声かと疑うほどに、美しくホール中に響いた。
それはまるで、音楽の精霊である彼が、私に力を貸してくれているのではないかと思うほどだった。
私は激戦を勝ち抜いてコンクールを通過し、アーネルの街へのチケットを得たのだった。
◆ ◆ ◆
アーネルの街は相変わらず雪が降っていて、街中が真っ白だった。
あの鐘のもとに彼がいる。
私は記憶を頼りにあの鐘を探した。
だけど教会のあの鐘は無くなっていて。
自動で鳴る鐘が取り付けられていた。
定刻になると、機械的な鐘の音が鳴り響くだけで、彼の姿はどこにもない。
街の人に聞いても、彼を知る人はいなかった。
ここに来るまでに過ぎた月日は、彼との繋がりを消すのに十分な時間だったのだと思ったら、胸の奥が苦しくなった。
彼と一緒にいたいと思ったあの思いは。
今でも私の心の中で輝いていた。
その重さ分、離れていった自分のエゴを思った。
私が逃げ出さなければ、彼は今もここにいて、あの鐘は鳴り続けていただろうか?
あなたと今でも、一緒にいられただろうか?
私が「それ以上」を望まなければ。
そうしたら彼は、今でも一緒にいてくれただろうか?
暗い空から雪がはらはらと舞い降りてくる。
冷たい。
だけどもう、そんなこともどうでもいいぐらい、悲しかった。
空に、雪に、溶けてしまいたかった。
どうしようもないほどに、この胸が、苦しくてならなかった。
◆ ◆ ◆
もうこの街に来ることもないだろう。
それでも決勝のステージには向かった。
足取りは重かったけれど。
だけどせめて遠くどこかに行った彼に向けて、歌を歌いたかった。
あなたへの思い、感謝を。
どうか届けと願った。
ずっとつらい日々を過ごしてきた。
生きているのに耐えられないほどだった。
だけど彼と出会って思った。
こんな私でも、生きていていいのだと。
心の中があたたかくなる不思議な感覚が、彼といるといつもあった。
愛していた。
傍にいてくれて、ありがとう。
今でも、ずっと、その思いだけは変わらない。
思いを歌に乗せる。
あなたに。あなたに届けと願って。
どんな風に歌ったかわからなかった。けれど、気づけば観客が立ち上がって、盛大な拍手をこちらに送ってくれていた。
◆ ◆ ◆
コンクールで銀賞をもらっても、私の心はここにあらずで、辺りにいる人の中に彼の姿を探してしまう。
ここにいるはずなんてないのに。
彼はきっと、もうここにはいないのだ。
けれど。
精霊は、人の思いが集まることで生まれる。
私の思いが、この強い思いが、彼をもう一度呼び出して欲しいと願った。
だけどそれは届かず、私は花束を抱いて宿へと向かった。
どうしようもない真っ白な雪の中、私は叫びたかった。
過去の自分への叱責、普通を望んで彼から離れた愚かしさを。
だけどそうすることすらも、私はできなかった。
そんな、そんなちっぽけで体裁ばかり気にする自分が、嫌いだった。
かつて吐き出せていた何かが、心に積もっていく。
降りしきる雪のようにしんしんと、それは心に積もって、もう自分ではどうにもできないほどになっていた。
ああいっそ、すべてを忘れ去れたらいいのに。
そう思ったら、涙がこぼれた。
一度こぼれた涙は留まるところを知らず、私は雪の上に赤い花束をまき散らして、うずくまって泣いた。
街には人の姿はなく。
私の小さな泣き声は、雪に吸い込まれて消えた。
降り積もる雪が、頭に、肩に積もっていく。
ああ、立ち上がらなければ。
でも、どうやって?
どこに行っても、何をしても中途半端な自分で、どうやってこの先、生きていこう?
もう、嫌だ。
立ち上がれないよ。
その時。
「君がつらいと、僕もつらい」
ふと、そんな声がした。
彼がいた。
彼は私の髪についた雪を優しく払った。
その手は不思議とあたたかくて。
そして、今までのように透き通ってはいなかった。
「もしかして」
彼は小さく頷いた。
彼はその手で私の手を握り締めた。
血の通うあたたかさが、確かにそこにあった。
「ずっとこうする方法を探して、ようやく見つけたんだ。遅くなってごめん」
彼はずっと。
人になる方法を、私と共に生きる道を、探してくれていた。
「私こそ、ごめんなさい。あなたにずっと、会いたかった」
その言葉を聞いた彼は、優しく微笑んだ。
自然でやわらかな笑みには、彼の嬉しいという感情が含まれていた。
そこにいる彼は、幻でも、精霊でもなかった。
確かに彼がそこにいた。
そうして私たちの時間は、またともに動き始めたのだった。
◆ ◆ ◆
彼は言った。
一緒にいられなかった時間だけ、人間でいられると。
だからそう長い間ではないと。
だけど、そんなことはどうでも良かった。
彼がいる。
それだけでいい。
いつか来る未来が、どんな未来か考えて、逃げ出すのはもうやめよう。
私も、あなたも、今、ここにいる。
それだけで。
それだけで、美しく、素晴らしい。
<終わり>
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