Ⅲ変わりやしない日常(10)
作者が昔、20代の頃、小説を書いて投稿していたようなときは、もっと自由というか、批判というか批評とかを恐れずに、文章を書くことができたように思う。それがどうしてなのかというのは分からない。だから、不安な気持ちになる。昔あった自由がなくなっていくというのは、喪失感である。それは、周りの環境という社会的な要因だけではなくて、自分自身がアラフォーになって、個人的に身体的な衰えというものを覚えるようになったからというのもある。思ったように身体が動かない。昔はもっと元気に歩けたのにとか、肩こりが酷いとか、腰が痛いとかそういうのもなくて……。
喪失……失われた20年。
色んな表象はされても、作者たちを助けるような何かというのは生まれないし、作者自身もどうしようもならないと思っている。
超氷河期時代というのは、全体として可哀そうな世代であり、個人という単位で見れば一概に可哀そうな世代というわけではない。格差のある世代でもあって、成績上位層は学校の他に塾に通い知識をつけて、良い大学に入り、逆に成績下位層は学校の勉強にさえついていくことができず、簡単な計算や読み書きさえできないというのもあったりする。
勉強をしてこなかったから、その報いを受けて当然のような人間もいる。超氷河期世代は、同世代と切磋琢磨という名前の元、同じ世代の人間を地獄に突き落としてきたのだ。競争社会、学歴社会、そういう名前で正当化社会のルールをそのまま受け入れてきた。
そのルールだって、別に平等ではない。1988年に男女雇用機会均等法というのができて、男女が平等という前提のもとに、頭の良い女性は男性と同様に良い仕事に就くことができるようになった。ガラスの天井は感じなくてもいい、そんな理想が語られるようになった。
そこに、出産という話は殆どない。女性に男性になるように強いるような労働社会になっている。資本主義、実力主義に応じた報酬というのも約束された世代で、稼いでいる人は稼いでいる。一見正当に見える。正しい世界に見える。だからこそ、世代全体としての団結力であったり、連帯というものがほとんどない。




