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SSまとめ

人権売買

作者: 木下真三郎

・・・・・“変ワル日々”



 何もない平凡な日々。

 普段通り学校へ行き、普段通り勉強し、普段通り帰り、少し物足りないもののご飯を笑顔で食べ、世界に一つだけの家族団欒を楽しむ。

 ただ、それだけの日常であるはずだった。あってほしかった。

 だが、後になってからの祈りも、ただ虚しいだけだった。





―その日、日本の憲法はなんてことないように改()された。

“|国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法 が国民に保障する基本的人権は、|侵すことのできない永久の《・・・・・・・・・・・・》権利として、現在及び将来の国民に与へられる”

 言うまでもなく憲法十一条、基本的人権の条項―日本国憲法における枢軸の一つ―が突発的に変更された。それに伴い、ひっそりと“最高法規”たる憲法九十七条も変更が加えられる。そしてその日から、あらゆる法律が覆り、日本におけるあらゆる“常識”がひっくり返った。世界の“地盤”が、まるっきりひっくり返ったかのような衝撃だった。

 …あるものは栄華を手にし、ある者は家庭もその身も滅ぼし、またある者は不幸のどん底に叩き落された。

 突如としてこの国にあらゆる感情の渦が現れ、平穏が飲み込まれていった。






・・・・・“売ル者達”

 奏斗は、なんてことない日常を送っていた。

 確かに家庭でお金に困ることは再三あったが、そのたびになんとか乗り越え、後に引き摺る負債を残すこともなく、家族三人で幸せに暮らしていた。

「奏斗、高校行くんでしょ?だったら勉強頑張りなさいよ?」

「分かってるって。任せろ!」

 奏斗の胸をたたく仕草が幸せの渦(笑い)が起こる。受験生にマイナスな事を言うほど、奏斗の母も馬鹿ではないということをみんな理解しているので、冗談だということはすぐに分かる。

「私立だと色々お金かかるし。実際頑張ってるよ」

 温かい家族に見守られ、奏斗も順調に成績を伸ばしていた。模試でも、このまま行けば志望校へ行けそうだ。

「…それでパパ、そこでちょっと問題があって」

 母が申し訳なさそうに切り出したのは、お金の問題だった。

 奏斗の父母は、生活に苦しまない程度には稼ぐことができていたが、奏斗が受験で物入りということで、少し生活が苦しい。このままだと家賃を払えず、あと一か月の滞納で追い出されてしまう。塾も一回止めてしまえば、後で立て直すのも非常に難しい。何より今は、奏斗の受験も佳境を迎え、デリケートな時期なのだ。…だから、なんとかしてお金は用意するしかない。

「…。」

 奏斗は少し息苦しさを感じる。自分のことで両親が悩んでいるのだ。肩身が狭い、と思うが、今更どうしようもない。ただひたすら勉学に励み、いつか親孝行をしたいと思っている。

 父は黙って頷き、安酒を飲み干すと、書斎へ歩いて行った。

「パパも頑張ってるんだけどね…」

 身内を評価してくれない会社に向かっての愚痴か、或いは不条理な世の中に対する溜息なのか、奏斗には分からなかった。



「えっ、パパ…」

「えっ…?」

 母と奏斗は、同時に息をのみ、同時に目を合わせた。

「そんなお金、どうして…」

 父親は翌日、家に帰るなり小切手を掲げて二人に見せた。

「…へぇ、ボーナスかぁ…ようやく評価してくれるひとが出てきて、よかったね」

「よ、良かったね!」

 心からの満面の笑みを浮かべる母と、未だに小切手に書かれている額に驚いている奏斗の二人を見て、父はひどく嬉しそうだった。

「百万円…これだけあれば、受験までなんとかできそうだね。奏斗、アルバイト抜いても良いんじゃない?」

「…確かに。父さんのお金に甘えるみたいだけど、そうしてもいい?」

 父の勿論だ、と言わんばかりの大きな頷きを見て、奏斗はとても安堵した。―将来への展望が、明るくなってきたように感じたからだ。



 人権売買…?

 父はとある昼休み、ネットニュースを見て目を疑った。

 普段テレビのニュースは見ず、文字で書かれているネットニュースをよく見る。メディアリテラシーはそれなりに身についているので、この種の情報はまず疑ってかかった。

…本当だった。

 議会で憲法改正が賛成多数で可決され、憲法十一条、基本的人権に関する条項が書き換えられたという。

 その改正によって日本では、ある一つの“商売”が認められるようになった。

―“人権(・・)売買”。

 一言で言えば、“生殺与奪の権”を他人に売り渡すということだ。人身売買とは違い、公に見つかっても違法ではない。…犯罪の根源となる“人権”が、その本人にはもう、残っていないのだから。そもそも政府がその商売に介入している時点で、違法性は全て霧散した。

 無論、人権を失った者たちを待ち受ける運命は苛烈だ。

 が、一部の人たちは既にその第一期契約を行っているという。

 “第一期”契約とは、“人権”ではなく“自殺”の権利を自ら放棄する、ということだ。見返りは“大金”。この契約を政府と結ぶことにより、“自殺”を禁じられる。無論保証人が必要だから、この契約を結べば否応なく身元が調べられ、その家族や親類などが極秘の監視対象となる。無論契約主が契約違反を行えば、その保証人の身は危うくなる―というのは言外に匂わされている。

 そして第二契約。第一契約を結ばねば契約できない。契約内容は簡単だ。片や“生殺与奪の権”を一年後に渡すことを約束し、片や目の玉飛び出る額―一千万円―を渡す。それだけの契約だ。

 こんなリスキーな契約に飛び込む人が予想以上に多い、という記事を父は見た。

 なんだこの商売は!人間を冒涜している。いくら百万という大金だとしても、憲法に認められていた人権という聖なるものを売り飛ばす輩も輩だ!

 今見ているPCに唾棄したくなる感情をぐっと抑え、その分の感情をパソコンを乱暴に閉じるのに使った。



―あんなに貶していた契約を自分も結んでしまった、という後悔に打ちひしがれている。だが、気にすることではない。第一契約では“自殺禁止”だけだ。軽い軽い。そんな軽い契約だけで“百万円”が手に入るのなら、これで家族を喜ばせよう。案の定家族は歓喜していたではないか。あれならあれで、本望だ。これで奏斗が良い学校へ行き、良い教育を受け、良い職業に就くことができれば、自分たちは自分たちの仕事をするだけで暮らしていける。奏斗とも楽しくやっていければ、なおいい―。

 そんな希望も、“その時”破壊された。



「はい、これ」

 父は我が目を疑った。上司から言葉少なに出された紙っ切れは、窓から吹き飛んでしまいそうなくらい軽いが、父の人生を大きく揺さぶるものだった。

―解雇通知書。

 はっと見上げる。上司が口元を苦しそうに歪めつつ、“それ”を告げる。

「…もっと穏当な処分は無いか、と上にも聞いたんだけどね。最近この会社の風向きも怪しいし。でも、本当の理由…わかるよね?」

 彼も自分の口では言いたくなかったのかもしれない。父が尊敬するこの上司でも、“これ”には逆らえなかった。

「…“第一契約”結んだ社員がいるとなると…こっちも風当たりが強くて。社員の中にもあからさまに嫌な態度する奴、いるでしょ?…そいつらが言外に訴えてくるから。…ごめんな、俺一人じゃどうにもならん」

 途切れ途切れのその言葉で、全てを理解した。自分の“第一契約”という浅はかな決断が会社を動揺させてしまったこと。それ以上に、自らの人生を自ら転落へと突き落としてしまったということ。そして奈落に落ちていくのは自分一人だけではない、という将来予想―。

 自分の顔から血の気が引いていくのが分かっていても、それは止められなかった。敬愛する上司は、もう一度「ごめんな」と言っただけだった。三人を養う父には、それが限りなくありがたいことに感じられた。―現実は現実、としても。



「おかえりー」

「おかえりなさーい」

 朗らかに二人が父を迎える。何もない平凡な日々。普段通り家を出、普段通りの時間に、普段通り帰って来た。だが、一か月前の父と、今の父は天と地ほど違っていた。

…すまない。

 そう切り出すと、二人の表情が一転強張り、空気が張り詰めた。

「何か、あったの?」

 恐る恐る訊く妻。こんな自分を、今まで温かい家庭に受け入れてくれた。どんなに辛い時も助けてくれた。反対に、彼女が辛い時も、自分は支えてあげたという自負もあった。

「…なんか、あった?」

 強張った言葉を並べる、愛する息子。こんな自分を、父として認めてくれ、敬ってさえくれた。どんなに辛い時でも、そこに居てくれるだけで心の支柱となってくれていた。反対にこの自分が、彼の道しるべになろうと努力してきたつもりだ。

…実は。

 恐る恐る紙に乗せられた文字は震えていた。

…職を、失ったんだ。

 その文字を眩いほど白い紙に乗せた瞬間、二人はこちらを見て、―まっすぐに見つめてきた。

「…ねぇ、どうして?」

 既に涙声の妻が訊いてくれた。―もしも自分に疚しいところが無ければ、彼女に涙枯れるまで泣きつきたい。だが、それは到底許されたことではない。

「え…、それ…」

 二の句が継げていない息子も、父親の目を貫くような視線を向けていた。それを受け止めながら、ゆっくり首を横に振る。

―僕は、身を売ったんだ。

 ごめんな、愛する家族二人。自分が馬鹿だった。だが、今は自分の犯した過ちを後悔することはしていない。もし、もしもこんな自分の屍を踏んで、息子が大成してくれれば自分の意義を見つけることができるだろう…。

 躊躇いつつも、二人の前に黙って小切手を差し出す。傍らに、契約書も添える。

―一千万円。

 こんな事情、知らなければ素直に狂喜乱舞できただろうに。自らの不甲斐なさを呪いながら、頭を下げた。もう一枚、小さな紙を差し出す。

「こんな父親にできることはこれしかない。許してくれ、愛する妻よ。立派になってくれ、愛する息子よ。」










・・・・・“買ウ者達”


 確かにその日、日本に激震が走ったのには違いがない。

 だが同時にその日、彼の家でもクラッカーが破裂したのを忘れてはいけない。

「昇進おめでとう~!」

「おめでとう~!」

 秀太の父がその(・・)日、昇進したのを祝うパーティーである。

「よかったね、良かったね!」

 目に涙を貯めながら喜ぶ母親に流され、秀太も身から喜びが溢れるような感覚になった。心が躍るとはこのことか、と自分でも驚いた。

 今までも、事あるたびにお金に困っていた我が家での、“革命”だった。永年平社員かと思われていた父親が、日本での一つの“制度変更”により一転、“部長”としてほとんど飛び級で重要な役職に就いたのだ。しかもそれは、今アツい事業―それが“人権売買”だとは家族は知らないが―だというのだから、狂喜するのも頷ける話である。

「これからも頑張っていくよ!」

 優しくて、威厳のある父。必死に彼の背中を追い続けてきた秀太にとっても、それは嬉しいニュースだったということには間違いない。無論巷で“人権売買”が公的に許可されたという不可解なニュースがあるということは知っていたが、我が家の一大ニュースの前には霞んでしまった。

 帰り道、駅前の“テナント募集”の看板を見ながらスキップで帰った。きっと我が家では、今までとは様変わりした食事が並んでいることだろう。



 それから、秀太の生活は一変した。

 ご飯は多すぎるくらい食べることができ、今までは滞納してしまうこともそう多くなかった家賃も払うことが出来るようになり、家賃の催促という一か月に二回ペースのイベントが起こらなくなった。古臭い家具の悉くが入れ替わり、秀太の家の全ての部屋は真新しい部屋へと変わった。

「流石はお父さんね!お陰で私たちも…秀太もお腹いっぱいにご飯食べられるようになったわ」

「いやぁ、みんなのお陰だよ」

 翌日仕事から帰って来た父親を家族で労った。話題は尽きなかったが、ふと思い立って質問した。学校で散々話題になっているのに、自分があまり知らないことについてだ。

「そういや今、“人権売買”っていうのがニュースになってるけど…あれってどういう仕組みなの?」

 “頼れる父”は眉を一瞬ピクリと動かした。そして、その場の雰囲気にはそぐわない低い声で呟くように答えた。

―あれは、悪魔の制度だよ。―

 そこには暗い感情が籠っているように感じた。が、母がその微妙な雰囲気を取り繕ってくれたお陰で、秀太もまたパーティーを楽しんだ。



 それから一週間が過ぎた。

「お前金持ちになったのか?」

「いや、それほどじゃないけど…」

 新しい文房具を持ってきた秀太に、周りは少し驚いた様子だった。その反応に僅かな満足をしながら、上機嫌で帰り道を歩いていた。

 ふと横を見ると、前々から開いていた駅前のテナント募集という看板が無くなり、中に店が入っている。“人材派遣事務所”という看板が高々と掲げられている。

「労働力、足りていますか?」

「社員とコミュニケーションが取りづらい…なんて悩んでいませんか?」

 そんな宣伝文句が一緒に掲げられている。

「そんな企業様に、良いご提案があります!我々の事務所では、その現場に適切な人材を必要な時に、必要な数だけ提供することが出来ます!」

 へぇ、と秀太は呟いた。世の中、そんな仕組みでお金を稼いでいる人もいるのか。パソコンを弄って何かをしたり、家を造ったり、野菜を作ったり、或いはスポーツや芸能で多くの人に夢と希望を与えるだけが仕事だと思っていた。世の中は、多種多様な仕事によって成り立ち、回っているのだ…。

 そこを通り過ぎようとするときに目に入ったのは、ガラス越しの“父”の姿であった。

「お父さん…?」

 だがその呟きはその敬愛する父には届かない。二人を隔てるガラスは、息子の声を阻み、父の姿を鮮明に映す。

「お父、さん…?」

 もう一度秀太は呟く。そこには、普段の父からは想像もできないような姿があった。

「―!―!」

 愛が溢れるようなあの笑顔はどこへ行ってしまったのだろうか。彼の父の顔は今、怒り、嘲り、軽蔑、そして快楽に染まっていた。言葉は何も聞こえないが、父子の間の不思議さが、父の感情を子に露にした。

 ガンっ!という音は聞こえてこないが、中で人が打擲されている。あれは誰だろうか。父と同じくらいの年代の男性だ。が、打擲される方は抵抗するでもなく、ただひたすらに頭を下げている。

 父親は気が済んだのか、その男性に唾を吐きつけ、その部屋を去った。部屋には一人の惨めな男が残された。

「なに、あれ…」

 周りには誰もいない。秀太と惨めな男、ガラス越しの二人だけがその世界にいるような錯覚にとらわれた。

 気づけば膝から崩れ落ちていた。

(何だったんだ、あれは…?)

 父が無抵抗の男性を打擲していた。あの、威厳のある優しい父が。ついこの前、昇進したばかり、今“アツい”事業の主を任された“父”が…。

 頭の中で、何かがつながった。そして、知りたくもないことを悟ってしまう。

―父は、おぞましい地獄をこの世に現出させる“人権売買”の“買う側”なんだ―。


 失望よりも先に、後悔が襲ってきた。

 そうだ、今まで何で疑問に思っていなかったんだ。新事業、新しいニュース、“人権売買”について訊いた時の父の暗い顔。あの時気付いていれば、まだ間に合っていたのかもしれない。そうすれば今、秀太は後悔も失望もしなくて良かったのかもしれない。



 ふと、打擲されていた男性の人と目が合った。既に死んだような眼をしていて、そのなかに感情が籠っているとはとても思えない。












・・・・・“見守ル者達”



彼自身、お金に困ったことは今までの人生で、一度たりとも無かった。

 父親が凄く働き者で、家族が食うに困らず、遊ぶに困らず、貯金もできるほどに稼いでいたからだ。拓海は、せめてそんな親への孝行という意味も込めて勉強に励んでいる。

「拓海ー、ご飯よー!」

 はーい、と声を張って勉強を切り上げる。

 二階から一回に降りる際中、一戸建ての拓海の家では庭を見ることが出来る。色とりどりの花が植えており、拓海はその花それぞれの名前を諳んじていた。

「今日お父さんは出張だって」

「…分かった」

 父親は仕事熱心すぎるのか、家に帰らずに遠い場所へ泊まり込みで仕事をするのも珍しいことではない。

「じゃ、僕は今日予定あるから」

「何をするの?」

「ほら、昨日言ってたじゃん?今日、友達と東京行くんだ」

「あぁ、そうだったわね。じゃ、いってらっしゃい」

 うん、と頷きながらニュースを見る。つい先日、唐突な法律改正が行われ、それが“人権売却”と“人権購入”を認めるものだったのにはすごく驚いたものだ。既に取引が行われることも再三ある、という内容のニュースが流れていた。

「全く、政府もどうにかしてるわね。人権なんて、ついちょっと前まで“永遠の権利”とか言われてたのに…それを今更売却を認めるだなんて、言語道断よ。立場の弱い人たちは大金に目が眩んで人権を売るのかしら…その先に何があるのかも知らずに」

 母が一丁前に政治に対する意見を述べる。まぁ、それも一理あるだろうと拓海は頷いた。拓海に異論は、全くない。



「よっ、拓海」

「久しぶりー」

 十分ほど早く着たつもりだが、待ち合わせをしていた友達は既に来ていた。

「ごめん、ちょっと遅れた?」

「いや、俺が早かっただけ」

「わぁ、俺が人を待たせるなんて…しかもお前を」

 ふふっ、と友達も笑い、拓海も笑った。打ち合わせていたかのように散歩を始める。二人で遊ぶといっても、こいつと遊ぶときはお金は殆ど食事にしか使わない。

「…なんかあった?」

 何か様子がいつもと違う友の雰囲気に違和感を覚えた。―久しぶりに会えて、自分はすごく嬉しいのに。

「いや、別に…」

 明らかな嘘だと分かった。が、そこは言わないでおいて、しばらく二人の間の無言に耐えながら歩き続ける。別に目的地なんてない。どこを歩こうなどと示し合わせているわけではない。マリーゴールドが綺麗な道を歩いている。

「何かあったなら、言ってくれてもいいよ?…力になれるかは分からないけど、同情はしないし、勿論笑い話にもしない。口外もしない」

 必死になって説いた。彼に自分の誠意を理解してもらいたい一心と、彼が元気になる手助けをしたい、という願望。

「…拓海になら、言える」

 久しぶりに聞く、“彼”の声だった。

―…それで、お父さんがもうすぐいなくなっちゃうんだ。

 彼の整った口から出てきた言葉の一つ一つに、深い悲しみと負の感情が染みついていた。

「…許せない」

 口からこぼれてきた自分の言葉に驚いた。これは同情になってしまうかな、と思ったが、違ったようだ。

「ありがとう」

 彼は初めて笑みを見せた。顔こそ笑っているが、心の中で煮えたぎっているであろう負の感情は色濃く出ていた。

「…でも、僕は僕の人生。…お父さんだって、僕はお父さんのことを気にしない方が報われると思う」

 詭弁だ!と言いたくなった自分を必死に宥める。お父さんだって不幸な生き方を家族のために選んだんだ、決して彼の息子が幸せならその父親も幸せ、ということになりうるはずがない…!

「お父さんが、身を張って僕らに希望を与えてくれたんだ。それは黙って受け取らないと、お父さんだって報われない。僕はその“希望”を使って、お父さんに報いてやりたい」

「…。」

 絶句した。それもまた、一面の真実だろう。だが、それを法律が、世界が認めて良いものなのか…。

 拓海には、分からなかった。

 それから二人はなんてことない会話をして、数時間後別れた。



「人材派遣事務所」

 という建物がある。駅前の一等地に建てられた、かなり大きな建物だ。準大口の取引が行われる場所にしては、人の出入りが多い。

「へぇ、新しくできたんだ…」

 結構長い間開いていたテナントに新しい店が入ると、見慣れた世界に新しい風が吹き込んできたような感じで好きだ。聊か澱んだ心情を晴らすように、フラフラっと店に近づく。

 が、いきなりぐいと後ろを掴まれた。

 咄嗟に振り返ると、同年代かちょっと下くらいの男子が凄い形相で睨みつけていた。

「お前も“地獄”を手助けするのか…!」

「は!?」

 物凄い力で引き寄せられ前へ後ろへと揺さぶられる。

「お前たち一人一人が“他人事(ひとごと)だと思って、地獄を見て見ぬふりをしているから!犠牲者(ドレイ)は一人、また一人と増えていくんだ!人権売買(この地獄)支持(・・)する輩も輩!何も知らずに身を売る奴らも“罪”!そして傍観に徹する輩も輩だ!最も罪深い!」

「何のことだっ…」と反射で聞き返したが、彼の背後に見える物で事情が知れた。

 家畜以下の環境の檻の中に閉じ込められた人間が、数人。それぞれ別の部屋に入っていて、決して人間扱いされているとは思えない。「分かっただろう」と彼は呟いて、拓海の服から手を離した。

「お前たちにとっては他人事かもしれない。が、この“生き地獄”を実際に味わう者も、味わわせる者もいるということを知っておけよ」

 深いため息をついて、彼は拓海に背を向けた。そして最後に、一つ繰り返した。

「…傍観に徹する奴が、“一番”罪深いんだよ」

 或いはそれは、彼の言葉が拓海の心の中で響いただけなのかもしれない。

 空はもう赤く染まっている。彼の姿はもう見えない。隣の店―地獄、と言われた場所―のシャッターが下ろされる音が耳朶を震わせた。ふと背中に手をやった。無様なほどに撚れたTシャツがそこにはあった。

「…でも、…俺に何が出来るっていうんだよ…」

 振り返ることなく、拓海はその場を後にした。







・・・・・“認メタ者達”



「頼む!俺の“人権”を買ってくれ!」

 一人の男の嘆願から、その渦は巻き起こった。

「いや、そう言われましても…」

 困惑するばかりのその男は、一般市民ではない。民主主義の枢軸を担う国会議員である。

「頼むよ!」

 抱きつかんばかりに前のめりになるその男に、議員である彼は困惑するしかない。

政次(まさつぐ)さん、大丈夫ですか…?」

 政次と呼ばれた議員を心配するのはその秘書。政次はその知り合いのツテを使い、直訴をしに来た男を対応しているところだ。が、あまりにその様子が変なので秘書もどう声をかけたらいいのか困っている様子だ。

「俺は大丈夫だ。だけど変なのは…」

「俺は変なんかじゃない!至極もっともなことを言ってるんだ!だが無理なことだとは知っている!だからあんたに声を上げてもらいたいんだ!そのために使いたくもないツテを使ってここまで来た!」

「…だそうだ。秘書のみんな、ここは一対一でやるから、他の雑務終わらせといてくれ」

「他の雑務、全て完了していますが」

「そうか。じゃ、別室で休んでていいぞ」

「分かりました。では政次さんにおいても、くれぐれも軽挙はしないようにしてくださいね」

 釘を刺すような言い方をした秘書を見送り、直訴人と政次は一対一、机を間に挟んで対峙した。

「本当にお願いします!」

「えぇと、まずは経緯をお話し願います」

 そう言い、お茶をすっと差し出す。

「…分かったよ」

 まだ興奮した様子だが、一応お茶を飲む。一口飲んだ後、

「じゃ、話すよ」

 と、話を再開した。

「まず、俺は金がない」

「その理由をお聞きしてもよろしいですか?」

「関係ないだろ!」

「あぁ、申し訳ございません。では続きどうぞ」

「…だから、身を売りたいわけだが、売り渡す先が物騒なところだと困る。だから議員っていうちゃんとした御身分の人に身を売りたいっていうわけだ」

 うーん、大事なところが抜けてるな、というのは口に出さずに、

「そうですか。ですがなぜ、身を売ることに執着なされるのですか?」

「…お前には分らないかもな」

 怒りを込めたような言葉に、政次は少し気おくれを覚える。

「…申し訳ございません。ですが、話していただければ、私のような者にもあなたの心、事情が少しでも理解できるかもしれません。そうすれば私も、全身全霊を以てその解決に動きます」

「そうか。じゃあ、話してみよう」

 男はようやく冷静になり、最初から語り始めた。

―今まで、俺みたいな腕っぷしが強い奴らはどうしてもそれを生かせる職に就いてきた。そのために働き、働く中でさらに力を伸ばした。そのための知識も、技量も身に着けた。俺は、今までの人生の全てをそれに捧げてきたんだ。

 饒舌ですらあるその言葉に、政次は少し意外さを感じた。腕っぷしを生かす職、というのは土木作業員か何かなのだろうか。最近、機械化やAIの進化によって活躍の場を急速に失っている職業の一つだ。

「勿論、俺だって力だけじゃねぇ!建設にかかわる知識技能にも自信あるんだ!なのにAIだとかなんとかが俺らの仕事を奪いやがる!しかもその仕事が俺らより上手いってんで余計腹が立つ!」

 政次は頷きつつ、まぁまぁ落ち着いてと宥める。一理あるどころか、今の急速な技術革新の影を如実に映し出した厳しい“事実”だ。

「そのせいで俺は職を完全に失った。能力はあるが、それは俺の今までの仕事でしか生かせねぇ能力だけさ。えいごもソインスウ分塊も分からん。そんな俺に、食っていくことが出来ると思うか?」

 …ない。というのが、厳しい事実だ。が、だとしても他にやりようはあるだろう。

「…まぁ、ここまで聞いたお前でも、『他にやりようがある』だとか思ってるんだろ?」

 はぁ、まぁ、と頷く。図星だった。それを見ると、直訴人は声を低めて言った。

「俺は、物騒な集団から金を借りてる」

 ちらり、と直訴人の目を見る。が、すぐに背けた。思案に暮れるようなふりをして、上を見る。

「…確かに、それは問題ですね」

 周りの議員がグレーゾーンを綱渡りしている中で、政次はできるだけ白いラインを超えないよう努力してきた。そのせいで、この種の話になると自らの無力さを知る。挙句、

―“影”を照らそうとしても、“明るい場所”からではそれは解決できません。“闇”を知り、“闇”に足を踏み入れることができる人にしか、“影”を照らすことはおろか、直視することすら敵わないんです。―という自らの内なる声にはぐぅの音も出ない。

「問題どころじゃねぇ。俺の一家六人の死活問題だ。今子供の二人が丁度金がかかる時期なんだ。俺はそいつらを食わせるために、必死にあの手この手を尽くしてきた。が、今となってはあの子らを巻き込んで“生死の狭間”に飛び込んじまった。呑気なこと言ってられねぇんだ…!」

 声を詰まらせながら、むさくるしいおじさんが切々と語るのは政次の心にも刺さった。

―そうだ、誰しもが必死に世の中を生きてるって…知ったはずじゃないか。―

 政次に、この直訴人を無下にすることは出来なかった。



「…どうでしたか、先生」

「まぁ、難しい問題だよ」

 座り心地の良い椅子に座り、思案する。

「先生が、あの方を買われるので…?」

「いやぁ」

 政次は苦笑した。まさか、議員である自分がそんなことをするわけにはいかない。とはいえ、雇ってやるにも、仕事がない。ただ養うというのもあの男自身の為にもならないだろう。

「放っておけば、物騒な集団に消されるか、家族を巻き込んだいざこざになるか、或いはあの男自身、汚れ仕事の使いッ走りになる」

「…何の話です?」

「仕事も得られない、だが能力はある」

「…それなら、資本を与えて自立させてあげればいいのでは?」

 政次はうーんと考え、一つ答えた。

「そいつにはその種の力はない。自立して、その先どうこうする力が、な。上に言われるがままに働き、忠実に遂行することがその長所で、自分で考えて行動するのは得意じゃないんだろう…人の上に立つ器じゃない」

「随分と辛辣ですね、その辛辣な視点でご自身を見直したらどうですか?」

「あーあー、ちょっと黙って。結構刺さるんだよ、君の言葉は」

「そりゃ、刺そうとしてますので」

 再び思案に暮れる。政次も発想力に欠ける器じゃないが、あの男が言った“人権を売却”という言葉が考えれば考えるほど妙案に思えてきて、思考が縛られてきてしまった。

「“人権売買”、か…」

 呟くと、秘書は訝しげに政次を見返した。

「本気ですか…?」

 信じられない、という目を向けた。当然だ、政次も本気でそれを考えるには覚悟がいまいち足りなかった。

「…今までの“道徳”を踏みにじることになる。人権は侵すことができない永久の権利…。これを売り買いするんだ、今までの法律の数々もこの“道徳”に基づいて考えられているわけだから、“人権”を売り渡せば、そいつは全ての法律から守られなくなる」

「…随分と深く考えていますね」

「まぁね。そりゃ、“人権を売る”ってことを聞いた時からずっと考えてたからな。…簡単に言えば、“奴隷”を認めることになる」

「そうですね…私たちの常識では、決して許すことのできないことですが」

「でもまぁ、目の前に救えるかもしれない人間が目に涙溜めて助けを求めている。それを助けるか否か、という道徳も存在する」

 秘書は黙った。二つの同一の道徳観念。だが、それが今相反する形で立ち塞がっている。

「…仮に、人権を買った奴がいるとしよう。そいつはその“奴隷”に何をさせる?」

「…労働?」

「過酷な労働、そんなものは機械がやった方が百倍効率がいい。奴隷といえども人間、食費はかかるし休憩させないと効率(パフォーマンス)が落ちる。メリットは無い」

玩具(オモチャ)?」

「好きに弄繰り回せる人間がいるというのは、確かに人間の奥底に眠る残虐性を満たすには一番だろうな。“生殺与奪の権”を渡すわけだから、それは当然の権利になってしまう。だがまぁ…」

 政次は突如降って来た閃きを口にした。無論、その実行性を信じて。

「民間に売らなきゃいいんだ、それを。“()”が生活困難者の人権を買う。それも、民間が軽く出せないような金額で。国に絶対服従する人間たちは、どんな命令も聞くだろう」

 秘書が思わず後退りするような笑みを浮かべ、政次は次の言葉を発した。

「“国の銃弾”となって、働かせればいい。技術なんてのは、大人になってからも死ぬ気でやれば身につくもんだ」





 政次の出した法案は、その思想の危険さゆえか、その革命的発想ゆえなのか、委員会で審査されることなく、内密に直接内閣へと送られた。

 そこで様々な変更が加えられ、一つの法律として内閣が提出した。

―生活困窮者を救済するために、生活困窮者の中から志願する者たちは自衛隊に加入するときに優先的に合格させる―

 革命的だったが、さして危険ではない法案と変化して。

 世間に大きなどよめきを生んだが、自衛隊を志す者が年々減ってきている状況からも、表面上これは概ね歓迎される形で可決されることになった。





―翌年。

 その年、国内各地は大きく動揺していた。

 自衛隊を志願した“元”生活困窮者達が、自衛隊における重要な役職を独占する勢いで成長していたことがメディアに取り上げられたからである。

 事実、それは数字から見ても紛れもない事実だった。しかも、“元”生活困窮者達が自衛隊において占める割合はそう大きいものではないという事実も、とある一つの真実を映し出していた。

「“生活困窮者”達は、素晴らしい“労働力”となりうる!」

 この言葉が日本中において歓迎されるようになり、認められるようになっていった。そして歯車は、さらに傾いていく。

「“憲法”を改正し、“生活困窮者”の活躍の場を広げよう!」

 その風潮が、全国に広まったのである。無論、何者かが火付け役となっていたのは公然の秘密だった。

「“人権”を売買することができるようになれば、さらなる飛躍が予想できる!」

 という、突飛な意見も「確かにそうだ!」と認められる風潮が広がっていた。その勢いは、人権擁護団体さえ追いつくことのできないほどのものだった。始めの内こそ、

「人権を売買など、言語道断!」

 と厳しく弾劾していた彼らでさえ、いつしか沈黙するようになっていた。

 歯車はますます激しく回転していって、あっという間に憲法(国の基礎)が改正されることになってしまった。

 当時は歓迎されて。








「あの時は、僕も迂闊だった」

 一人の男が、片田舎のバーで呟く。話し上手なオーナーは、上手にその話題に乗っかる。

「お客さんは昔何をなさっていたんで?」

「議員だよ、国会の」

「へぇ、そりゃ凄い。儲かるでしょう?」

「まぁね」

「…で、迂闊だったっていうのは?」

「…守秘義務だけど、言っちゃうよ」

「そりゃ不味くないですか?」

「いいよ、いずれ僕は消される」

 店で一番高い酒を飲みながら、それ(真実)を語り始めた。

―僕は、“国”ってもんに幻想を抱いていた。まわりの議員が白と黒を行き来しているのを見ていても、僕はまだ甘い幻想を捨てられなかった。完璧な組織なんて世界には存在しないとは言うけれど、僕も自分の国がこんなに暗い国だっただなんて思っていなかったよ。

 国の言いなりに鍛えられ、言いなりに育ち、いいなりに命を擲つ人材が手に入ることが分かった国は、欲が出た。少し強引な手を使ってでも、この制度を強化しようってことになった。そういう陰謀は、民間でも限りなく国に近い企業なんかはすぐに聞きつける。国だけに独占させるもんかって、金を積んでやり方を変えさせた。その結果が“これ”さ。人権を失った者は、国か大企業のお抱えの“使い捨ての弾丸(いいなり)”になる。絶対的な信用を置ける人間は、あらゆる権力者の垂涎の的さ。…僕は、そこまで読むことが出来なかった。今じゃ、この国では“使い捨ての銃弾”が飛び交っ(暗躍し)てる。


 彼は月明りが差し込む窓を見た。一瞬黒い影が見えた気がしたが、気のせいだろう。

店長(マスター)、この店さっさと出た方がいいぜ」

 その言葉の意味を悟ったオーナーはグラスをその場に置き、厨房に入っていった。暫くの後、一つの犯罪者に向かって一つの“銃弾”が放たれた。











・・・・・“救ウ者”


 ここに、一人の哀れな貧民がいた。

「…!」

 一度人権を売ったのに、浅はかにも逃げ出そうとした愚か者だ。今、四肢を拘束され、まるで鉄の板に磔にされているようだ。かなり大きな部屋で厳つい男数人に囲まれ、彼の新たな“人権の持ち主”と対面した。

「ふふ、一度人権売却を確約したんだ、逃げ出さないように、いつでも“調理”できるように厳重に管理しているのは当然じゃないか。それは僕じゃなくてもみんな同じさ」

 不敵な笑みを浮かべながら、男が語りかけた。

 憎しみを露にして、大の大人の表情にしては大人げないような表情を作っている。哀れなほどの虚勢を張る、小さな生き物。本音では小心翼々としているだろうに。彼と自分たちが同じ人間だとは、その場にいる関係者達の内、一人を除いて誰も思っていなかった。

「…みんな、ちょっとこの場を離れてもらえる?僕、やってみたいことがあるんだよね」

「はい、お坊ちゃま」

 どこぞの大会社の子息なのか、まだ子供の面影が残る彼を除いた全員がその部屋を退出した。


 未だにその男の激烈な表情は変わっていない。

「威勢がいいね」

 ふふ、と彼は未だ気味が悪い笑みを浮かべている。

 その部屋に誰もいないことを確認し、四肢にかけられている鉄の拘束を鍵で開けた。

 きょとんとした表情で今までの剣呑な表情を氷塊させ、男は若い彼を見つめる。

 その反応に対しても彼は笑顔を崩さずに答える。

「何って…“解放”だよ」

「?」

 意味が分からない、というような男の反応に、彼は意外そうな表情をした。「解放だよ。…殆どの人はこのときすぐに意味理解するんだけど…あんたは心の底から希望を捨ててたんだな、尊敬するよ」

 そこで初めて言葉の意味を理解した男は、磔のようにされていた鉄板から体を動かし、胡坐を掻いて若い男に対する。そして、土下座して頭を地面に擦り付けるようにした。

「ふふ、そうやって感謝してもらえるとありがたいよ」

 そういってもまだ頭を地面に叩きつけるように頭を下げ続ける男に呆れたように、秀太は付け加えた。

「土下座やめて、堅苦しくなるから…礼儀は所詮社交辞令。その用を足した後に礼儀を、或いは丁寧語を使おうとすると人は無意識のうちに“それ”に束縛される」

「?」

「ま、僕の話だよ。礼儀を重んじるように僕を教育した人への当てつけ…その為の詭弁だよ」

 何を言っているのか…という表情をするその男に気付き、秀太は慌てて追加の説明をする。

「あぁ、ごめん。言ってなかったね、自己紹介しよう」

 私の名前は、と名乗ろうとする男を手で止め、

「いいよ、そっちの自己紹介は。僕の名前は秀太。苗字は捨てた」

「?」」

「あるけどね。名乗るのが烏滸がましいだけ」

 何が何やら、全く理解できていない様子の男に、秀太は苦笑した。

「ごめんね、僕の話はどうやら分かり辛いらしいんだ。今までの“解放者”たちも、みんなそういう反応をしてた」

 ごそごそと、秀太はタンスの中を漁り、紙の束を見つけるとそれを床にぶちまけ、男に見せた。同時にメモ用紙とペンも手渡す。

「これは、僕が今まで“救済”した人たち。“地獄”に堕ちる運命にあった人を、僕はお小遣い使って解放している」

 未だに首をかしげている男に、もっと分かりやすい表現で秀太は説明してあげた。

「僕の父は、今“人権仲買”業界の最大手を占めている会社の社長。父は中々子煩悩でね、人権を一人買えるくらいの小遣いはくれるんだ」

「…?」

「でも、それだけじゃ足りない。だから、表“裏”様々な手蔓を使ってお金を集めて、ここまで辿り着いた。人権を買って、当人に返すためにね」

 それをやる意味があんたにあるのかい、と男が訊いた。その質問をするのは当たり前だろう、と苦笑しながら、

「僕を裏切った親と国への復讐、そしてあまりに不憫な人を救済するためさ」

 それでも分からない、と言う男に対して、秀太は屈んで同じ高さで話した。

「傲慢かもしれないけどね」

 秀太がそう言った瞬間、部屋の扉が開いた。



はっと秀太は飛び退き、机に置いてあるナイフを手に取った。扉が完全に開き、外から入って来たのは数人の男に囲まれた、一人の会社の重役。そして、秀太の実の父親だった。

「秀太、お前は何をやっているんだ…?」

 青筋を浮かべさえして、ずかずかと部屋に踏み入る。追随して、数人の屈強な男たちも部屋に入ってくる。と、突然窓が白く光り、雷鳴が耳朶を打った。続いて驟雨が窓を叩く。

「入ってくるな!」

 と言っても、社長とその子息、どちらの命令を優先させるかという問いは、彼らの頭の中に存在しない。言うまでもなく、躊躇うまでもなく前者だ。

「お前は今まで障害者ばかり“買い上げ”てきた。流石に金の無駄遣いは止めさせるために来てみたが…」

 大会社の社長は、秀太にさらに近づいた。厳つい男の一人が社長にさらに追随する。二発目の雷鳴が響く。

「…こんな“腑抜け”に育てた覚えはないぞ」

「腑抜け?」

 秀太は父親を睨みつけながら聞き返す。聞き捨てならないその言葉は、秀太のプライドを遠慮なしに傷つけた。

「どういうことだよ」

 激昂寸前の秀太を憐れむような笑みを浮かべるのは、つい数ヶ月前までは敬愛していた、一人の愚人だった。

「…自らの卑小さに気付かずに、児戯に等しい真似を馬鹿真面目に続ける…そこに何の意味があるのか?それをお前は考えたことがあるか?息子が馬鹿な事をしているのを止めるのは“父”の義務だよ」

 秀太はいよいよ激昂し、オロオロする“解放者”を一瞬一瞥し、白光が部屋を照らすのも構わずに怒鳴りつけた。

「“父”の義務?今更手前ぇ如きが俺に父親面すんじゃねぇよ!人として“当然だった”権利を売りさばく仕事が社会のどこに利益するんだ?少なくとも売りさばかれる当人からは幸せを奪い、それを“使い捨て”して利益を生む輩は当然幸せになる!それを日本国民全員が」

 目から零れ落ちたのはなんだっただろうか。憤怒の水溶液か、はたまた行き場を失った感情の塊か。

「それを見て見ぬふりしてこの“地獄”は成り立ってる!なら、“閻魔”の子である俺が責任もって“救世”の先鞭をつけるのが筋だろ!」

 秀太自身、言葉を羅列してはいるが、今まで深く考えたことはなかった。自分が今、何のために何をしているのか。大企業の息子として求められるのは、父親に従順に、社会に従順に、勉学に熱心になることだけだった。その決められたレールを走ることさえ出来れば、この地獄の中で唯一利益を得ることが出来る“勝ち組”に仲間入りすることもできた。自分から地獄に飛び降り、足掻く必要もなかった…。

「例えそれが“無駄”でも!ここに“救うべき”人が―!」

 秀太の膝に、強く掴まれる感触があった。足元をはっと見ると、“解放者”が涙を溜め、必死の様子で秀太の足を抱きしめるように掴んでいた。

「―!―!」

 何かを言っている。声帯に障害があり、まともに話すことのできない彼でも、秀太は一握りの“救うべき人”の中に入れた。

―私は幸せでした。身を売る前に家族に未来を渡すことが出来たし、私自身幸せなひと時を過ごすことが出来たんです!ならばその代償として、命尽きるまで私が働けばいいのでしょう?“人権売買”は、私に最後の幸せを与えてくれたんです!これがなければ、私は一体、何を縁にして生きていれば良かったのでしょう―

 秀太の激烈な表情が引いていく。

「…聞いたか?愛する息子(・・)よ」

 笑うでもなく、ただ、その視線がまっすぐに秀太の目を射貫いている。

「この世は、一筋縄じゃいかねぇんだ」

 ぽつり、と呟いた“閻魔”は、すでに部屋からいなくなっていた。“救済者”、“解放者”の二人だけが部屋に取り残されていた。先程まで家を鳴らしていた白雨は弱まり、ポツポツ、という雨の音が聞き取れるようになっていた。


結構書きました。

他の短編がまぁ五千ちょい?位なのに対して、今回は二倍を優に凌ぎますね。

ですが短編集という形に似てるので、書くのは楽でした。

憲法を読んでいたある日、思いついたテーマだと思います。

どこか抜けている部分があったら、教えてください。

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