独り相撲
佐織は、何と無く心細い気持ちで、自分の部屋に戻った。
庭は、竹林の影は有っても、春の日差しで、少し暑いくらいで、充分良い天気だったというのに、佐織は、惑う様な、寒々しい様な、落ち着かない気分で散策を終えてしまった。
「あの、紀和さん」
「何かありましたか」
佐織の問い掛けに答える言葉の、独特なアクセントにも慣れてきた。
最初よりも大分聞き取れる。
「およしさん、って、誰ですか?…何か、前にも他の場所で聞いた様な…」
―そうだ、最後の巫女が如何とか言って、…うーん?あの時の記憶が曖昧ね…。
紀和は佐織の問い掛けに対し、サッと顔色を変えた。周囲も、急に静まり返ってしまった。
「な、誰から、そんな」
「那花様、です」
紀和は、真っ赤になって怒った。
「清水の!まぁ、駄目です。二度と其の方と御話しにならないでください」
「え?何故ですか?」
「口に出せない程、御無礼様です」
「紀和さん」
佐織は少し分かってきた。
紀和が、こういうキッパリした言い方をする時は、もう此れ以上何か言っても無駄な時なのだ。
佐織が困惑していると、龍顕が部屋に入ってきた。
―まただわ、此の人。音も無く。
「如何したの?」
龍顕の言葉に、佐織は何も言えず、思わず真っ赤になって、俯いてしまった。
紀和は、其れ以上話したくなかったと見えて、サッサと退散してしまった。
此の、昨日、佐織の『夫』となったらしい人は、神出鬼没なのである。
昨夜は、床が二つ並べられた。
佐織は、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキして、恥ずかしくて、直ぐに布団を頭から被ってしまった。
―何故、知らない、今日会ったばかりの人と夫婦になるの?そんなの、聞いてない。
気を失ってしまったから、悩む時間も、拒否する準備も無かったのである。
別に、其れだけのせいでは無いが、佐織は何も心構えが出来ていない。
―酷い。連れて来られて、服を剥ぎ取られて。こんなの…。
住む場所を与えてもらえると聞いたし、父の御骨も納骨してくれるとは聞いていたが、骨壺は取り上げられてしまったし、約束が守られたのかを確認する術を佐織は持たなかった。
此れでは騙されたのと変わらない。
―何も聞いてない。御骨は何処?パパ、助けて。如何して私なの。こんな目に遭うのが、如何して私なの?
子を成すまでは、屋敷を出てはいけないとは、殆ど軟禁だ。
―騙して連れて来られた上に軟禁。そうよね、何の負担も無く、衣食住が与えられる様な、自分に都合の好い話なんて無いのよ。何の条件も無しに、会った事も無い伯父とかいう人が、私に、住む場所や食べ物を与えてくれるわけが無かった。そうだ、自分で、引き取ってもらえる条件を聞いたわけじゃなかった。宇子さんの言う事を聞けば良かった。でも、あの儘だったら、宇子さんが…。…妙ね、本当に、あの時何故、此処に来る事を決めてしまったのかしら…。でも、宇子さんだって、あれから如何なったか。馬鹿だ、私。肝心の、宇子さんの無事も確かめられないのに、何の条件も自分から尋ねないで、ノコノコこんな所に来て…。
佐織は惨めで、悲しくて、恥ずかしくて、泣いてしまいそうだった。
しかし再び、何故か急に、佐織は『逃げ出せない』と、強く思った。
―でも逃げられない。東京で住んでたアパートも黒服の人達が引き払ってしまった。第一、社宅だったから、パパが死んじゃったなら、何時かは出ないといけなかったし。…私の荷物も、如何なってしまったか分からない。
そう、宇子に迷惑を掛けたくないのなら、もう何処にも、佐織の帰る場所は無いのだ。
大好きな、しかし其の身の安否さえ不確かな、遠縁の親戚を思い出し、佐織の目には涙が滲んだ。
―こうしていたって、帰る場所は無い…其れに、気になる事も沢山有る。知りたい事も。此の、夫になるという人とも、少し話をしてみよう。怖い人には思えなかったし、何か教えてくれるかもしれない。
佐織は、意を決し、布団から這い出た。
しかし、顔を上げて見ると、隣に居る筈の人物は、忽然と姿を消していた。
佐織は暫く呆然としてしまった。
そして其の後に、何だか腹が立ってきた。
―居ない、って、如何いう事?こんなに緊張したのって、私一人?
そして佐織は、全身の緊張が解けるのが分かった。
―意識しちゃって馬鹿みたい。こういうの、独り相撲って言うのよね。相手も、別に、私と夫婦になりたくないのかも。相手も、こうなるとは知らずに来たのかもしれないし。…そうだ、そう言えば、あの場に居た人達、皆驚いてた気がする。もしかして…皆にも想定外の事だった…?
そう、どの大人も驚いていた。
しかし、中学を卒業したばかりの娘二人が、出産まで軟禁される、という事を止めてくれる大人もまた、其の場には居てくれなかったのであるが。
こういうの、虐待とか、何かの犯罪にならないのかしら、と思いつつ、佐織は、フーッと、長い溜息をついた。
不安な事は多いが、少なくとも今夜は、貞操の心配などする必要は無かったらしい。
―一人で恥ずかしがって、一人で嫌がって、全部、空回り。…でも、ちょっと安心した。そりゃ、嫌よね、普通。今日会った人間と子供を作れ、だなんて。まともな人なら。良かった、あの人は、普通の人なのかも?ちょっと変わった感じはするけど。
しかし佐織は急に何故か、泣きたくなった。
楽の態度を思い出したのである。
―…私と夫婦になるのは、嫌よね。私は、背ばっかり伸びて、子供っぽくて。那花様みたいじゃなくて。誰だって、あんな綺麗な人と一緒になれるなら、嫌な筈無いよね。楽とかいう人は喜んでいた様に見えたし。龍顕とかいう人にも…あっちが良かったって思われてたら?だって、組み合わせは勝手に決められただけだから。あっちが良かった、って、那花様の方が良かった、って思われていたら?そしたら、如何しよう…。
考えれば考える程、拭っても、後から後から涙が出てきたので、佐織は堪らずに、横になった。
涙で、頬に髪が貼りつく。
首を振ると、耳の辺りにまで涙が伝って来た。
…ううん、馬鹿ね、私、張り合おうとして、あんな綺麗な人と。こんな事考えても、如何にもなるものでもないでしょう?もっと私が、大人っぽくて綺麗だったら。…いや、未成年じゃなくて。誰にも迷惑かけない年で。一人で暮らしていけるくらい御金を稼げて、騙されないくらい賢かったら。こんな所に来たり、あんな美人と自分を比べたりしなくても良かったのに。
そうしているうちに、佐織は泣き疲れて眠ってしまったらしかった。
「おはよう」
佐織が、穏やかな、男の人の声で目を覚ますと、隣には龍顕が居た。
頭が覚醒したら、恥ずかしいやら、頭にきたやらで、佐織は顔が真っ赤になった。
「…おはようございます」
成程、要は、龍顕は、何処に居たのやら、佐織が寝入ってから帰って来て、佐織が目覚める前に起きていたのだ。
佐織は慌てて、浴衣の前を合わせたが、確認した結果、大して肌蹴てはいなかった。
しっかり帯をしているし、痩せっぽちで、出ているところなど殆ど無い体だから、寝相での着崩れも殆ど無いのだろう。
―あ、そうだ、きっと、泣いたから、目が腫れてる筈だわ。
佐織は、もっと恥ずかしくなって俯いてしまった。
しかし、稍あって、ふと隣を見ると、何時の間にか龍顕は居なくなっていた。
其れが、今朝の事である。
そして、朝の、あの時から、今の今まで、龍顕には会っていなかった。
如何したのかと問われても、佐織は、咄嗟に、何も言葉が出なかった。
―…何を話せば良いの?如何して、昨日は居なくなったの?私の事、そんなに嫌?…なんて、聞けないし。…嫌だ、私。相手が私を如何思っているか気になるなんて…。
「あの…、那花様が、およしさんって、言っていて、其れで、紀和さんに意味を聞いたら、答えられないって」
「ああ!早速やられたね」
あいつ、と言って、龍顕はケラケラ笑った。
こうして聞くと、龍顕の言葉には、此の土地の人間特有のアクセントの強さが全く無い。
昨日話してくれた時の那花と同じだ、と佐織は思った。
「あの、如何いう事ですか?」
戸惑う佐織の問い掛けに、龍顕は、一瞬、真顔になって言った。
「知りたい?」
「知り…、たいです」
「紀和さんが、そう言うなら、良い話では無い事は、想像はつくよね。聞いたら傷付くかもしれないよ。態々知る必要有る?こんな場所の事。見たところ、望んで来たわけじゃないだろ?」
「其れでも知りたいです。あの、私、知らない事だらけで。沢山、知りたい事が有るんです」
紀和が気でも利かせたのか、周囲に人は居ない。
佐織は、龍顕と二人の今がチャンス、と思い、色々と教えてもらう事にした。
今日の龍顕は、藍色の着流しと、同じ生地の羽織を着ている。何時何処で着替えているのか、佐織には見当もつかない。
―此の人は昨日から、よく姿を消すわよね。私と一緒に居るのが嫌、という程、嫌われている感じもしないけど…。
そう、龍顕は、食事の膳が運ばれてくるタイミングで、一回は必ず居なくなる。
だから佐織は未だ龍顕と一緒に食事を摂った事も無いし、普段何処に居るのかも全く分からない。