習わし
次の日は、何事も無かったかの様な、美しい晴天だった。
春の柔らかい光が、大きな窓から差し込んで、明り取りの障子を優しく照らす。
しかし其の、優しく照らしてくれる光とは裏腹に、佐織は考え込んでいた。
遣るべき事も、考えるべき事も、山の様に有ったからである。
令一からの差し入れだという本も沢山渡されたが、頁を捲る気にすらならない。
大体に於いて、半ば誘拐の様にして行き成り引き取られて、一切面識も無い伯父とやらに、競争相手より先に遺産を遣るから子作りをせよ、という謎の命令を受けてしまった状況自体が、尋常とは思えないのである。
―昨日は混乱してばかりで、何も考えられなかったけど、先ずは知る事から始めよう。私は此処の事を何も知らない。昨日は、御相手とやらが戻って来なかったから良かった様なものだけど、よく分からない状況で、赤ちゃんを産むまで此処から出ては駄目だと言われても…。
「此の御衣装は本家の御嬢様達の婚礼の衣装ですからねぇ。御似合いですね」
「え?何て?」
最初に佐織を案内してくれた初老の女性は、瀬原家の分家の出身で、いと屋の紀和という名前らしい。
昨日から、佐織の為に色々と働いていてくれているのは、瀬原の分家の出身の女性達だという話だった。
自分達で世話役を買って出て、一番年嵩の紀和が纏め役をしているという事だった。
『いと屋』というのは屋号で、以前は、此の集落の中で養蚕をして糸を作る係、即ち糸屋だった事に由来しているという。
同じ姓が多過ぎて、ややこしいのでついたそうであるが、屋号を耳慣れない佐織からすると、此方の方が、覚え難くて、ややこしいと思う。
「多分、瀬原本家の、早佐様が御召しだった物ではないでしょうかね」
「はやささま?其れって…」
「ええ。佐織様の御母上ですよ。其の花嫁衣裳です」
佐織は恐らく、今日一番驚いた。
「母の花嫁衣裳ですって?…こんな…高価そうな?」
「御存じなかったですか。治様も罪な事をなさいましたが」
「は、はるさま?…そんな、偉い人みたいな呼び方…。父は…治一ですよ?」
「本家の方を、そんな呼び捨てには出来ないです」
そんな、戸惑う様な事ばかりの佐織にも、幾つか分かった事が有る。
此の集落の人達は、瀬原集落の事を『里』、此の集落以外の場所を『ソト』と呼んでいるらしい。
そして、集落について、佐織が紀和から聞いた事を要約すると、こうだ。
曰く、此処は、瀬原集落と呼ばれている集落で、集落の中心である瀬原家の名前は、此処から来ているそうである。
瀬原は、読んで字の如く、小川の近くに在る場所、瀬の原らしい。
此の集落は、昔から、一つの神様を祀っている。
集落の彼方此方に立っている石像は、其の神様の像なのだという。
集落では、其の石像は『苗の神様』と呼ばれているらしい。
瀬原本家は、代々、里長として中心となって其の祭祀を執り行う役割を担ってきており、其れが其の儘、集落の中で権限を持っている事に繋がっているのだそうだ。
集落では瀬原家の当主、瀬原令一の事を、『長』と呼んでおり、呼び名からして、他の四家とは別格の扱いである事は、佐織も察した。
そして、此の婚礼衣装は、嘗ての苗の神様の祭祀の時に巫女が着る物が基本になっているとの事で、巫女は大正の頃廃れて久しいが、本家の娘さん達の婚礼衣装として形式が残った、との話である。
「…此れが母の婚礼衣装…」
「そうだと思いますよ。各本家の血筋以外の方が身に着ける事は有りません。大事に仕舞われておりました。早佐様の物でしょう。御似合いです」
佐織は、其処まで説明してもらうと、珍妙な衣装だと思っていたのが、急に申し訳ない気持ちになった。
―ママの花嫁衣装だったなんて…。知らなかった。
そして祭祀用の巫女の衣装が基本だというのであれば、建物全体の雰囲気が神社めいているのも、印象としては、そう外れていなかった様である。
「此の袴は純潔の証です。御相手の御手が付いたら、紅い色の袴に着替えて頂きます。緋袴ですね」
「え?」
「習わしですから」
其れは、有無を言わさない様なキッパリした言い方だった。
佐織は、思わず目を瞬かせてしまった。