実方龍顕
―良い匂いがする。御出汁の様な、御飯の様な。
目を覚ますと佐織は、布団の上に寝かされていた。
ガバッと起き上がって見渡すと、明り取りの障子が開かれていて、其処から窓が見えた。
大きな窓から見える風景は、鬱蒼とした竹林だけだった。
外はもう、庭の様子が他には分からないくらい真っ暗である。
部屋の彼方此方には、古い間接照明が置かれている。
佐織は漠然と、こんな辺鄙な場所でも電気は通っているのか、などと思った。
此処は、造りは似ていても、最初に通された部屋ではなくて、離れの奥の方なのだろう。
ふと気が付くと、御昼に着替えをさせてくれた数人の初老の女性達が、部屋の隅の方で、佐織の様子を窺っていた。
間接照明の明かりのせいか、佐織は其れを、酷く恐ろしく感じた。
「起きられましたか」
「ええと、私…」
「餌切れですわな」
「えぎれ?」
「何か御召し上がりになりませんと」
考えてみると佐織は、随分前から空腹なのだった。
如何やら貧血を起こして気絶してしまったらしい。
―目が霞むと思ったのは、気のせいじゃなかったんだ…。
そして如何やら、何の説明も無かったが、あの後、食事会の予定だったらしい。
佐織は其れより先に、何も食べずに倒れてしまった様である。
佐織は、間接照明の立ち並ぶ部屋で、用意された膳の品を、なるべく掻き込んで食べない様に、上品に見える様に気を付けながら、其れでも、残さずに食べた。
何か妙な物を混入されて食べさせられていたら嫌だな、とは思いながらも、こう空腹では堪らない。
―あーあ。結構図太いのよね、私。背に腹は代えられないとか割り切って、こんな妙な場所の食べ物を、こうして食べちゃえるなんて。だから色気が無いって…。
あの珍奇な衣装は、浴衣の寝巻の様な物に、何時の間にか着替えさせられていたが、胸に巻かれた晒は其の儘だった。
其れでも、先刻よりは締め付けられる部分が少なくて気分が良いし、頭がスッキリしている。
一口食べる毎に、視界がハッキリしてくる様な気がする。
皮肉にも、佐織は、こんなに眠れたのも、食べられたのも、随分久しぶりな気がした。
そして、食べるだけで、随分と幸福感に浸れた。
一通り食べ終えたら、自然に、少しだけ笑顔になっていた。
老婆の一人に、此処で同じ食べ物を食べたら、もう御仲間ですね、という趣旨の事を言われた気がしたが、佐織は意に介さず、食事を続けた。
方言は聞き取り難いのである。
第一、御仲間、と言われても、『もう帰れませんね』と言われたのと、そう変わらない様に思えた。そんな事は今更言われるまでも無い事で、佐織は、また『逃げられない』と実感しただけだった。
―ああ、美味しかった。何か、忘れている気はするけど。
「ああ、起きたの」
佐織が、声の方向を見ると、龍顕が居た。
―まただ。此の人は、気配が無いというか、足音が殆どしないわ。
「あ、あの」
「今日から、宜しく」
佐織は『忘れていた事』の正体を思い出したし、『夫婦の組み合わせ』というのが、誰と誰になったかを瞬時に悟り、思わず黙り込んでしまった。
戸惑う佐織を他所に、龍顕は、穏やかに微笑んだ儘、部屋から出ていき、其の日は結局戻って来なかった。