顔合わせ
そんな事を思い出しながら、佐織は溜め息をついた。
身支度が済んで、佐織が通された母屋は、将に神社の本殿といった内装だった。
佐織は、近所の祭りで行っていた神社の、御賽銭箱の向こう側に良く似ている、と思った。
尤も、佐織の記憶の中の神社は、こんなに広くは無かったが。
板張りの大広間の彼方此方に几帳が在り、中では人の気配がした。
ヒソヒソと話す声がする。
此方を窺っているらしい、と、佐織は薄気味悪く思った。
大広間の中心には、御簾が掛けられている場所が在り、其の前には円座が四つ並べられていた。
御簾の中は暗く、全く窺い知る事は出来ない。
「坂元佐織様の御着きです」
そう声を掛けられて、佐織は、向かって一番左端の席を進められた。
ヒソヒソ話をする声は、一瞬どよめきに変わった。
佐織は、自分一人、こんな珍妙な格好に、化粧をさせられて、こんな知らない場所に座らせられて、良い見世物だ、と思った。
しかし、と、佐織は推測した。
―他に席が三つ。此れから誰か来るのかも。其れとも此の儘、私一人、こうして、見世物の様に、ずっと座ってなければならないのかしら。
道すがら、運転係の黒服の男から佐織に教えられた、父母の実家についての情報は、大体、以下の様なものだった。
先ず、佐織を引き取ってくれる長、瀬原本家の当主というのは、佐織の伯父である、という事であった。
佐織の母の腹違いの兄だそうで、瀬原令一という名だそうである。
次に、此れから佐織が赴く瀬原集落は、五つしか名字が無い場所で、同じ名字の者同士は、屋号で呼び合うのが習わしである、という事であった。
五つというのは、瀬原、実方、吉野、清水、坂元の五つで、父は、其の中の一つ、坂元家の長男であったそうである。
『元』の字が違う、という佐織の主張は聞き入れられなかった。
高校入学手続きの際に見た戸籍では確かに『坂本』だったのに、妙な話だ、と、佐織は思った。
黒服の男は運転しながら、探索除けでしょうか、と言った。
「此の辺りは『元気』の『元』で『元』の字の人の方が多いですからね。岩元さん、福元さん、山元さん、松元さん、ですとか、他所の土地では『本』と書く名字であろう人達は、殆どが『元』の字を名字に使用しています。明治九年まで此の辺りで信仰が禁止されていた一向宗との関係から、其の宗教との関係を疑われないように、本願寺の『本』を避けたのだろうか、という話は有りますが」
以降は、意外にも歴史好きなのだという黒服の男が、一向一揆と本願寺の関わりを教えてくれたのだが、佐織は、はぁ、と言う事しか出来なかった。
佐織の戸惑いに気付いてか、男は、出過ぎた真似をしました、と、申し訳なさそうに言った。
「そういうわけで、実際の戸籍では、どの様に書かれているのかまでは存じ上げませんが。通常使っている名字の方が正しいにしろ、戸籍の名前が正しいにしろ、探索除けに、里で使っている名字と、普段使っている名字の字を変えている、という事は充分有り得るでしょう。実際、『坂元治一』という名前だと思い込んでいたから、今の今まで見付けられなかったのです。少なくとも私は、『坂本自動車』との関係も知りませんでした。全く別の名字だと思っておりましたから」
確かに、『坂本』と『坂元』では、別人の様であるが、戸籍の名前まで変えて故郷を出ているとは余程の事では無かろうか、と、佐織は何だか怖くなった。
そして、宇子は、二代前に、一家で集落を出て、東京に住んでいた坂元本家の人間、という話だった。
父と宇子は、又従姉弟にあたるらしい。
佐織は、瀬原令一というのは、自分と、もっと遠縁なのかと勝手に考えていたのだが、母方の伯父だと聞かされると、意外にも、宇子と自分よりも近い血縁だったようである。
また、父と母は元々婚約者同士であったという事である。
駆け落ちしたと聞いた時、周囲も、何故駆け落ちをしたのか、理由は分からなかったのだという。
最後に、令一という人が佐織を引き取るには条件が有る、という事であった。
其れを最初に伝えるべきではなかろうか、と、佐織は腹が立った。
契約書に判を押してから契約内容を通達されるようなものだと思う、と文句を言うと、黒服の男に、笑って、いなされた。
しかし、其の条件の内容自体は、後程、御本家本人から佐織に伝えられる、と、黒服の運転手は続けた。
佐織は、何と無く、身の危険を覚え、此処に来た事を、ずっと後悔していた。
しかし、今更、何処に逃げ出し様も無い。
飛行機に乗って此処まで来てしまったのである。
土地勘も無い。
もう、乗りかかった船である。
一先ずは、令一という人物に会うしか、佐織には道が残されていないのだろう。
オマケに、父の御骨は、黒服の男達が預かってくれているらしい。
返してもらいたければ、当然逃げられはしない。
佐織は再び、逃げられない、と、強く思った。
―ああ、逃げられない。逃げられない…。
佐織が、そんな事を思い出しながら暫く一人で円座に座っていると、几帳の裏から、どよめきが起こった。
振り返ると、物凄い美人が立っていた。
ただし、佐織の着ている様な珍奇な服ではなく、豪華な薄桃色の振袖を着ていた。
佐織と同じ年くらいだろうか、大きな瞳の美しい少女は、自信に満ち溢れた表情をしていた。
其れだけで、佐織には、此の人物は美しいと称賛され慣れているに違いないと思わせられた。
垂髪の長さは佐織と同じくらいで、膝丈まで有る様に見えるが、佐織の赤っぽい髪とは違い、黒々としていて、まるで絹糸の様に艶めいていた。
其れを見た佐織は、忽ち目の前の少女に羨望を覚えた。
「清水那花様の御着きです」
那花と呼ばれた人は、何も言わずに、右から二番目の円座に座り、佐織の方に微笑み掛けてくれた。
不意を突かれて真っ赤になってしまった佐織は、何とか軽く会釈した。
会釈した方向から、うふっ、という、甘い声が聞こえた。
未だ此方に微笑み掛けてくれているのだろう。
何だか照れ臭くて、佐織は顔が上げられなかった。
―…微笑み返せたら良かったな。こんな場所だけど、折角同い年くらいの女の子と会えて、笑い掛けてくれたのに。其れにしても綺麗な子。
佐織が、すっかり恥じ入っていると、また、どよめきが起きて、山伏の様な白装束の男性が入ってきた。
「吉野楽様の御着きです」
此れまた綺麗な男の人だな、と佐織は思った。
同じ衣装だが、あの太貴と名乗った男とは、まるで様子が違った。
艶の有る黒髪に、凛々しい眼差し。
整った鼻筋で、随分背が高い。
佐織より少し年上だろうか。
妙な色気が有る人、と言うべきか、気後れする様な迫力が有る。
楽と紹介された其の人は、佐織にニッコリと微笑み掛けた。
胸の中に一瞬、春風が吹き込んだ様な、何とも言えない気分になった佐織だったが、其の人は那花を見るなり、驚いた様な、ウットリとした表情を浮かべた。
そして、何も言わずに、一番右端の那花の隣に座った。
二人は見詰め合っている。
其の状況に、佐織は少し傷付いた。
相手の自分に対する態度と違い過ぎたからである。
―もうちょっと美人に生まれたかった、とまでは思わないけれど。せめて、私も、振袖だったらな、こんな変わった衣装じゃなくて。いや、此れだって、絹地なのかもしれないし、物は良いのかもしれないけど。
そして佐織は、生まれて初めて、美人に張り合う様な気持ちを覚えた自分に、また恥じ入って下を向いた。
―私は、子供っぽいし、…色っぽくないし。背ばっかり伸びて。振袖だって、あんな風には似合わないかも。
考える程に佐織は恥ずかしくて、俯いてしまった。
「実方龍顕様の御着きです」
しかし、次に聞こえた案内の声に、佐織はハッとした。
最後の一人が来たのだ。
気が付くと、若竹色の着流しを着た男の人が、音も無く、佐織の隣に立っていた。
佐織より、二、三歳年上だろうか。
佐織よりも少し明るい鳶色の髪に、吸い込まれそうな榛色の瞳をしていて、佐織は何だか、其の人物の色素の薄さに親近感を覚えた。
とても綺麗な人だ、と佐織は思った。
背格好は楽という人と近い様だったが、雰囲気が全く違った。
何処か、硬い、感情を閉ざしている様な表情をしていた。
其の人物は、佐織を見ると、少し寂しそうに笑った。
笑うと、目尻に薄っすらと、ほんの僅かに笑い皺が出来、其処に佐織は、急に人間味を感じた。
そして其の人物は、ゆっくりと佐織の隣に座った。
佐織は何故か、泣きそうな気分になっていた。
胸に、引っ掻かれた様な苦しさを覚えた。
珍奇な衣装に焚き染められた白梅の香りが、ふと気になった。
―隣の人に、嫌な香りだと思われないといいけど。
其の時、目の前に在った御簾が半分だけ開いた。
白装束を着ているのが見えるが、男性だろうか、と、佐織は思わず目を細めて凝視した。
御簾の中だけ薄暗くて、姿が判然としない。
宛ら、何かの御本尊である。
何だか、佐織の目も霞んできた様な気がする。
「ようこそ」
張りの有る声がした。
長だ、令一様、という声が、其処此処で聞こえた。
そして、佐織以外の全員が平伏した。
佐織は咄嗟の事で、そんな土下座の様な真似は出来ず、御簾の方を見詰めた。
声は、此の土地のアクセントを全く感じさせない言葉で、続けた。
「此度御集まり頂いたのには仔細が御座居ます。御存じの通り、私には、家族も無く、子も有りません。其処で此の二組に、夫婦になって頂き、本日より一年、屋敷に住まって、子を成して頂きます。以降、其れを唯一の仕事と御思いください。子を成すまでは、女性は屋敷の外に出る事、罷りなりません。先に生まれた子を、瀬原家の養子とし、私の全ての財産と、此の集落に於ける、私が持っている権利の全てを譲り渡します。尚、子が成人するまでは、両親に其の権限が有るものと致します」
大広間は、どよめきに包まれた。
「夫婦の組み合わせは、今隣り合わせに座っている者同士とします。以上」
其の言葉を最後に、御簾が下りた。
佐織は、目の前が真っ白になった。