呪文
何日かそうしていたら、厳つい、黒い背広の人達が、沢山、佐織の家にやってきた。
其の人達は、アパートを引き払うといって、家中の物を持っていこうとした。
佐織の身に覚えは無かったが、借金取りかと思って面喰っていたら、彼等は自身を、佐織の父母の故郷の人間だと言った。
そして宇子と佐織の事を様付けで呼んだ。
其の中に混ざっていた一人の白装束の若い男が、正座し、佐織に礼をした。
「吉野太貴と申します。以後、御見知り置きを」
男は坊主頭で、矮躯で前歯が出ていて、実に酷薄そうな顔をしていた。
「長が佐織様を引き取ると申されております」
其れを聞くや、佐織を庇って、其の男の前に立ちはだかった宇子は、あっという間に黒服の人達に取り押さえられた。
宇子の綺麗な髪は乱れ、細腕は、折れそうなくらいに床に押さえつけられていた。
「何するの!此の子を連れて行かないで!」
「宇子さんに乱暴しないで!そんな、来いと言われて、行き成り納得出来ません。事情も良く知らないのに、知らない場所には行けません」
佐織が、そう言うと、男はニコリともせずに、威圧する様な声音で続けた。
「住む場所も、御父上の御骨を収める場所も提供します。瀬原本家に御越しください。御承諾いただけないのでしたら、宇子様の安全は保証致しかねます」
宇子を盾に取られたら、佐織には拒否権は無いのと同じだった。
佐織は涙が出た。
此の儘では宇子が何をされるか分からない。
大好きな宇子を、危険な目に遭わせたくない、と、佐織は思った。
「やめて!」
宇子が叫んだ。
黒服は、宇子を一瞥した。
宇子は全く怯まず、抑え込まれながらも、絶えず反抗的な目をし続けていた。
「長とやらが何をしたか知っているわよ。其の子にまで手出しはさせない!」
黒服の男達は、揃って嫌な顔をした。
佐織は其の不穏な様子を見て、全身の血の気が引いた。
宇子が危ない、と思った。
其の時、白装束の男は、妙な呪文を唱えた。
「葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、強き子を増やせ。田は米、海は魚得て、禍去る。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。神の田を耕せ」
佐織は、急に、頭がクラッとする様な感覚を覚えた。
そして、何故か急に『逃れられない』と思い込んだ。
―あれ…?何だろう。行きたくないのに…。
佐織の頭の中に、不思議な思考が流れ込んで来た。
自分のものの様な、そうではない様な思考だった。
―私も宇子さんと行きたい。宇子さんと一緒に、其の家族と暮らしたい。でも、此れまでだって随分御世話になってきたのに、義務教育も終わって、未だ御世話になって良いの?多分、パパの病院から葬儀までの一切の御金を出してもらっている。此の上、御墓の事まで頼んで良いの?宇子さんに引き取ってもらって、一緒に住んで、高校に出してもらって。其れは、きっと、夢の様な話だけど。…私には、もう親は居ないのよ。
佐織は急に、涙が出た。
―此の儘だと宇子さんが如何なるか分からない。でも、此の人達についていったら、住む場所が在る。
佐織は急に、強烈に、宇子に此れ以上迷惑を掛けたくない、と思ってしまった。
そう思った矢先、黒服の男の一人に畳み掛けられた。
「御母上の御墓に、御父上の御骨も収められるよう、取り成しましょう」
其の一言は、佐織には衝撃的だった。
―御母上の御墓。御母上の、御墓、御墓。
其の言葉が、佐織の頭の中でグルグル回った。
佐織は、母の事も、父の事も、よく知らない。
―ママの御墓。
佐織は急に、知りたい、と思って、白装束の男に尋ねてしまった。
「貴方は、私の両親の事を御存知なのですか?」
「ええ。其れにしても、佐織様は、御母上に良く似ておられる。長も、さぞや御喜びでしょう」
「やめて!」
宇子が、叫んだ。
白装束の男は、宇子を一瞥して、冷たく言った。
「宇子様。御家族は大切になさるべきですよ」
其の、家族に手を出すぞ、という様な、脅しを含んだ其の一言にも、宇子は全く怯まず、抑え込まれた姿勢の儘抵抗を続け、抑えた声で、しかし気高い程の迫力で続けた。
「其の子を離しなさい」
白装束の男は、一瞬怯んだが、嫌な顔をし、再び、あの呪文を唱えた。
「葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、強き子を増やせ。田は米、海は魚得て、禍去る。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。神の田を耕せ」
只管抵抗を続けていた宇子は、男が先程の様に呪文を唱えると、刀にでも斬られた様な仕草をしてから、急に、バタリと倒れた。
佐織は、宇子が危ない、と直感した。
「分かりました、行きましょう。だから、宇子さんを離して」
佐織は、そう答えるしか無かった。
白装束の男は急に態度を軟化させて、宇子を送っていくように、と黒服達数人に言い、宇子を何処かへ連れて行かせた。
「宇子さんを如何する気ですか?」
「御送りするだけですよ。今回の命令では、貴女を御迎え出来れば其れで良いのですから。宇子様も大事な人材なのです。何しろ、あの最後の巫女、坂元富の孫ですからね」
「さかもとよし?」
佐織が聞いた事の無い名前である。
「其れに、御本人自身、あの坂本自動車の会長、坂本彰二の姪御さんでいらっしゃる。あの人が消えたら、酷く目立ってしまうのですよ。今後、我々も動き難くなる。命じられてもいないのに、独断で、そんなリスクを冒したくはないものです。私は、自分が小物だという自覚は有るので」
「さ、坂本自動車って、あの、大企業の?」
「御存じなかったのですか?宇子様も、御結婚前は御勤めでいらっしゃいましたし、前会長は宇子様の御父様、坂本紘一氏ですよ」
そんな事は何も聞かされていなかった佐織は、酷く驚いた。
思ったより、佐織は何も知らないらしい。
「さ、御準備ください。其れから、御車に。私は此処で失礼致します」
そう言って、白装束の男は、やおら立ち上がると、黒服の男達と同じ方角に消えた。
佐織は、残された黒服の男達に連れ添われ、車に乗った。
兎に角もう、車に乗るより他は無かったのである。
其の先で何が待ち受けているかなど、佐織には想像もつかなかった。