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緑色の空 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
瀬原集落
3/49

父の死

 (そもそも)、佐織は東京で育った。


 東京と言っても、二十三区外、其れも、かなりの郊外だった。


 駅から徒歩十分くらいの場所にでも、畑が在ったり、小川が流れていたりして、比較的自然が多い場所だった。


 中学校に通学している時などは、(たま)に、通学路に、無人販売所から(まろ)び出た葱が落ちていたりしたものである。


 そんな土地で育ったので、自分は東京都出身だと言う時に、多少の後ろめたさがある佐織である。


 都内と聞いて想像される特徴には、あまり当て嵌まらない場所だとさえ思う。


 其れでも、此の、招かれてきた土地程には辺鄙(へんぴ)ではなかったし、何処が故郷かと言われれば、佐織にとっては其処が故郷だった。

 佐織は、今は其処に帰りたくて堪らない。




 佐織が物心ついた時には、母は既に居なかった。

 佐織を産んで暫くしてから、事故で亡くなったのだと聞かされていた。


 家には、母に関する物は、写真一枚無かった。


 ただ、父には、佐織は母に似ていると聞かされて育った。


 髪も、父から、なるべく切ってほしくない、という風な事を言われていた。


 佐織は、父の言葉を、母の髪が長かったからだろうと解釈していた。


 特に逆らうでもなく、髪を伸ばしていたのは、鏡の中の自分に、母の面影を感じ取りたかったせいかもしれない。




 父と母は、上京していた親戚を頼って、東京に駆け落ちしてきたのだという。


 此れは、其の親戚の一人、宇子(たかこ)から聞いた話なので、父本人から聞いた話ではない。


 父は(ほとん)ど過去の事を話さなかった。


 しかし佐織は、自分が駆け落ちした夫婦の家で育ったのだとすると、母の持ち物が家に無いのも納得は出来た。

 今にして思えば、全てが自分の勝手な解釈だったのであるが、其れでも納得は出来ていた。

 だから、幸せに暮らしていた。




 佐織の父は工務店で働いていた。


 住んでいたアパートは社宅で、徒歩十分くらいの場所に職場が在ったので、佐織が小さい時は、(たま)に職場に連れて行ってもらっていた。


 ドリルの音や、木材の臭い、十時と三時に貰えるおやつ、御昼に貰える御握り。


 父の同僚が、遊び道具に、鉋屑(かんなくず)をくれる事も有った。


 今でも、漠然とだが、楽しかった思い出として残っている。


 最近まで、通学路周辺で軽トラを運転しながら、何かの機材を運んでいる父の姿を見掛けた。

 其れに向かって手を振る事は、佐織にとっては自然な事だった。




 宇子は、父より十歳以上年上で、色の白い、スラッとした人である。

 何時(いつ)も、綺麗な黒髪をボブにしていて、キビキビと働く、優しい人だ。


 佐織は、其の黒髪が羨ましかった。

 佐織は自分の色素の薄い髪が、少しコンプレックスだった。学校で染髪の疑いを掛けられる事が有ったので、面倒でもあったのだったのだ。


 佐織は、家事をしてくれている時の宇子の髪を、綺麗だな、と思って眺めるのが好きだった。


 宇子の家の詳しい住所は知らないが、練馬の辺りに住んでいるらしい。


 宇子の御宅に御邪魔した記憶も無いのだが、宇子には、佐織より一つ上の、(かおる)という息子がいて、其の子の事を、佐織は、お兄ちゃんと呼んで、何度か遊んだように思う。


 宇子の自宅からは、電車で二時間近くかかるというのに、時々、佐織の様子を見に、態々(わざわざ)アパートに来てくれていた。


 そんなわけで、父子家庭で育った佐織だったが、其れ程寂しい思いをした事は無かった。


 髪が長い事を揶揄(からか)われる事は有ったが、(いじ)められていたという程でも無く、其れで髪を切る程気にしていたわけでは無い。


 オマケに、炊事を自ら進んで担当していたので、学校で決められている以外の部活や習い事を遣った事は無かったし、連れ立って遊びに行くという(よう)な付き合いの良さも無かったせいで、友達も(ほとん)ど居なかったが、近所に在る図書館の本を読んだり、勉強したりして、佐織としては充実した日々を過ごしていた。


 孤立しがちでも、髪を切ったり、友達付き合いを良くしたりする事で迎合(げいごう)する事は無かったので、他人からは大人しいと言われるが、割合我が強いのかもしれない、と、自分では思っている。


 佐織は、特に成績も悪くなかったし、進学して、()()くは医療関係の仕事に就く心算(つもり)でいた。


 佐織は、自分なりに頑張って勉強して、家から電車で一時間くらいの場所に在る高校の看護科にも合格した。


 だから幸せな春だった。

 幸せに暮らしていた。


 そう、幸せだったのだ。


 あの日までは本当に、佐織にとっては、ごく普通の、当たり前の生活で、其れは幸せな暮らしだった。


 其れを幸福だったと断言する事には、佐織は何時(いつ)も迷いが無い。

 こんな状況であろうと、だ。




 あの日。

 二〇一四年の三月七日。


 春先だというのに、突然、雪が降った日の翌朝。


 佐織の父の職場から、現場の河川敷方面に向かう道は、大きくカーブした下り坂だった。


 カーブしている道の下は崖で、盛り土をして、カーブした道沿いに、家が何軒か立っていた。


 前々から、危険だとは言われていた道だった。

 雪は止んでいたが、解けた雪が夜のうちに凍って、所謂(いわゆる)ブラックアイスバーン状態になっていた。


 車通りの(ほとん)ど無い時間帯で、チェーンを巻いていた状態だというのに、父の運転していた車両は、カーブで、ハンドルを取られた。


 父が発見されたのは、崖下だった。


 車両から投げ出されて、(くさ)(むら)の中に落ちたのだ。

 奇跡的に、顔だけは、綺麗な状態だった。


 佐織は、卒業式は数日前に終わっていて春休みだったので、其の時は自宅に居たが、別に携帯電話は持っていない。自宅の固定電話で、宇子からの知らせを受けて、共住地と同じ市内に在る医療センターに駆けつけたのだった。


 其れから、葬儀が終わるまでの記憶が今も曖昧である。

 よく思い出そうとすると、視界に靄がかかるのだった。


 居暗室で見た父の顔には、体にも顔にも、布が掛けられていた。

 体は見ない方が良いと言われたので、顔だけ見た。


 父は()だ三十五歳だった。


 健康だったし、年の割には見た目も若い人だったから、死、という現実が全く似合わない死に顔だった。


 遺体を搬送する車の手配、通夜の支度、葬儀。


 密葬の形とは言え、随分御金もかかったであろうと佐織は思うのだが、宇子が手続きから何から、支払いまでも、全て行ってくれた。


 そして佐織は、宇子と二人で父を見送った。


 随分泣いた気がするが、よく思い出せない。


 宇子が、ずっと、凍えた(よう)な、真っ青な顔をして、佐織を抱き締めてくれていた気がする。




 しかし佐織は、火葬場で御骨になった父を見たら、もう、そんなに悲しくは無かった。

 悲しいというよりも、酷い脱力感に襲われていた。

 背骨が無くなってしまったのではないかと思うくらい、体の力が抜けた。


 父は若くて、()だ骨が丈夫で綺麗だったので、骨壺に御骨が収まりきらなかったらしい。


 残った御骨は、何処か、市の慰霊碑に納める(よう)な事を、職員の誰かが言っていた。


 骨壺の入った桐箱は、白い布が無機質で、重くて、佐織は、其れを膝に乗せて座っていると、(かど)太腿(ふともも)と膝の関節辺りに食い込んで痛かった。


 其れから佐織は、持ち帰った桐箱を、食卓の上に置いたり、また膝に乗せたりという動作を、漫然と繰り返していた気がする。


 ()(かく)、他の事は、よく思い出せない。




 高校は合格していたが、進学するのは辞めよう、と、佐織は思った。


 宇子が、色々説得してくれたのだが、佐織は、其の内容も(ほとん)ど覚えていない。


 進学したら、此の社宅兼アパートの家賃が、という(よう)な、何か、噛み合わない(よう)な、取り留めの無い事を、宇子に言った(よう)な気がする。




 其の日から、佐織は(ほとん)ど眠れなかった。


 眠っても、三時間くらいすると、怖い夢を見て起きた。


 ずっと宇子が一緒に居ていてくれたが、何を食べたのかも、あまり覚えていない。服喪の意識が有ったせいなのか、日中は適当に、中学の制服を着て過ごしていた。其の時の自分の気持ちも思い出せない。



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